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コロンビアのカルタヘナに向けて、パナマのポルトベーロを出航する。 – Portobelo, Panama

中米では乾季と雨季が分かれていて、ここパナマでは今月からが乾季だが、ポルトベーロに着いてからも時折思い出したかのように強い雨がパタパタと降り、そしてまたすぐにそれが止んでいる。

今朝はシトシトと優しい雨が降っていて、その中に鳥や虫の声が聞こえている。

15時にコロンビアに向かうボートが桟橋から出ることになっているので、それまでは宿でコーヒーやパンとともにゆっくりと過ごす。

キャプテンジャックは今日もバーの片隅で無線を使って船長たちとやりとりをしている。

宿をとっているCaptain Jack’s Hostel Portobeloというところは、ポルトベーロ港とコロンビアを結ぶヨットを目あてに滞在している人々がほとんどで、ある人はコロンビアからヨットでここにたどり着き、ある人はこれからコロンビアに向かうヨットを待つ、といった具合で、なんとなく同じ目的を共有していて、客同士が親密なのである。

15時に待ち合わせ場所である桟橋に行く途中、ビールを買っていこうと商店に立ち寄るも、祝日は法律でアルコールの販売を禁止しているから、隣の家に行きなさいと誘われる。言われるがままに隣の一般人の家に入ると、そこではビールが売られている。

15時、フランク船長がゴムボートに乗って迎えに来た。沖には、わたしたちをコロンビアまで運ぶボート、Cleo’s Angelが既に泊まっている。

ゴムボートに荷物を詰め込み、数回往復してCleo’s Angelに向かう。
航海中に不要なものはあらかじめ鞄につめておき、それをボートの天井の上に載せてカバーをかける。必要な物は、キャビンに入れる。

今の時期は海が荒れていて、パナマ発の多くのボートは国境付近のコロンビアSapzurroまでしか行かないものが多い。

でもCleo’s Angelはカタマランという双胴艇で、安定感がある。縦15mx横8mx高さ21m、40トンというもので、荒れた波にも耐えられるので、カルタヘナまで行くことが可能なのだった。

フランク船長は「危険はゼロだ。僕は30年間航海をしていて、人生が楽しくってしょうがないんだ。まったく問題ないよ。」と言う。

ボート前方の床にはトランポリンのような網目が張られて、寝そべることができ、後部には右手に操縦席、左手にテーブルと椅子にクッションが並べられている。

キャビンは右手にフランク船長や奥さんのクラウディアさん、それぞれの子どもの写真がたてられたテーブルとソファ、左手に冷蔵庫、ミキサー、コンロ、レンジなどが完備されたキッチンを挟むかたちで、左側に2部屋、右手に2部屋ある。

船の後部に位置しているテーブルと座席に座り、コロンビアのビール、Aguilaで乾杯をしてから、船長の一連の説明を聞く。

乗船者はドイツ人であるフランク船長と奥さんであるクラウディア、
ドイツからハネムーンで世界を旅しているマイケルとレベッカ、
医者のレベッカの同僚であった看護師のアンナ、
米国海軍で沖縄にもいたスティーブン、
イギリスの大手法律事務所での就職が決まっていてそれまでの休暇で中南米を回っているティムと
わたしたちの合計9人である。

船内で触ってもよい場所といけない場所、
触ってよいロープといけないロープ、
ボートの脇を通るときは倒れる時もボート側に倒れられるようボートの取っ手をつかむこと、

海に落ちた人が万が一いた場合はその人を指さし続けること、
落ちた人は落ち着いて救助を待つこと、
不用意に外部に救助を求めた場合には巨額の請求が来ること、

航海中は全ての船内の窓を閉めること、
シャワーはボートの後ろについていること、
日焼けどめのオイルやスプレーは船内を滑りやすくするので、クリームを使うこと、

船内のポンプ式トイレでは、水を出す方にレバーを倒して30回ポンプを押し、
水を入れる方にレバーを倒してまた30回ポンプを押すこと、
ボートの周りに泳いでいる仲間がいる場合にはBomb Alarmと注意を促すこと。

ドイツ人であるフランク船長は以前スペインなどヨーロッパ圏でレストランを何店舗か経営した後、夢であったボートを買って、こうしてカリブ海を中心にボートをのりまわしているのだという。「僕にとって世界で一番素敵な女性」であるクラウディアと一緒に。

説明の後にはドイツ風肉とじゃがいもの煮込みとパンをいただく。レストランを経営していたフランク船長の料理は、とてもおいしい。

身体がぽかぽかと温まり、お腹も満たされた18時、パナマ・ポルトベーロ港を出航する。
船長とクラウディアは横に並び操縦席に座る。

だんだんと波が高くなっていき、最初は船の前方にあるトランポリンでゆっくりとくつろいでいた一人一人が、徐々に後部の座席のほうへと移っていく。

マイケルも既に船酔いをしているはずなのに、大量に買ったビール瓶を豪快にあけていく。

いつカルタヘナに着くのか船長に尋ねた。
「いつ着くのかは分からない。飛行機が待っているわけじゃないだろう?」

常に船長は最高の仕事がしたいと言った。パナマからコロンビアまで客を連れて3日で渡る人たちがいる。それじゃ、何も見ることができない。僕は、良い場所を見せたいんだ。

右手にはリントン島の灯りが点々と見える。
海面近くに今日は満月だという赤く光る月が浮かび、そのうちにそれは色を黄色く変化させながら、より高い空へと上がっていく。

波は高まり、どこかにつかまらないと歩けないほどになって、21時にはベッドにたどり着いて眠ることにする。

ポルトベーロという誰もが入れる世界遺産のある町 - Portobelo, Panama

ポルトベーロは、スペインと新大陸を結ぶ重要な港として発展を遂げた町である。多くの奴隷もアフリカ大陸から連れて来られたため、この町に住む多くの人々の肌の色は、パナマシティの人々より相対的に濃い色をしている。

明日にはボートに乗り込んでコロンビアに向けて発つので、今日はこの港町を歩くことにする。朝から宿のオーナー、キャプテンジャックは、バーの片隅で無線を使って船の船長たちとやりとりをしている。

Cristo Negro(黒いキリスト)という名のレストランで、ローストチキンとバナナフライを食べる。町には野良犬がのそのそと歩いており、テラスで食事をしていると、物欲しげな犬たちが次々と集まり、4匹程に囲まれる。

店の向かいには、サンフェリペ教会があり、黒いキリスト像が血を流しながらその左肩に大きな十字架を担いでいる。

この町は海賊の攻撃に備えた要塞があり、サンティアゴ要塞とサン・ヘロニモ要塞は世界遺産にも登録されている。

サン・ヘロニモ要塞の城壁には大砲が並び、階段を下がった場所には天井に小さな穴の開いた、かつての監獄跡も残されている。

要塞前に広がるポルトベーロ湾は遠浅で、沖のほうで子どもたちはばしゃばしゃと水遊びをし、傾いたボートが浮かんでいる。

誰もが入れるその世界遺産のすぐそばには家々が並び、ここにもClaro社のまんまるテレビアンテナが屋根にぽつりぽつりと赤い円を描いている。ボートが並べられた川には小さな魚とごみが淀んでいるが、子どもたちは気にせずに川に入っていく。

17,18世紀に建てられた税関跡をのぞいた後、コカコーラ社のKistという炭酸オレンジジュースを飲みながら、サンティアゴ要塞まで海沿いの道を歩く。

サンティアゴ要塞もまた誰しもが入ることのできる世界遺産であり、多くの人々がのんびりとしている。近くには大音量を放つ車が停まり、人々は岸に腰かけてそれを聞いている。

Santiago de la Gloria城の跡地は既に緑が生えて丘のようになっている。階段を上がり、要塞やポルトベーロの町とポルトベーロ湾を見渡す。奴隷売買や財宝運搬場所の跡地近くではソフトボールの試合を終えた人々がビール瓶を片手に集まっている。

宿に戻って明日から生活を共にするフランク船長とシェフのクラウディアさん、船乗員5人と挨拶をする。船長とシェフはドイツ人であり、身体の大きな海の似合う船長からは、明日の朝から4時間おきに酔い止めを飲むよう指示を受ける。

ぼくも船に乗ってから最初の3,4日は酔い止めを飲むんだ、クラウディアは飲んだことないんだけどね、と真面目な顔をして言う。

宿に泊まっているパナマシティ在住の女性に話しかけられる。明日の祝日殉教者の日と合わせてポルトベーロに休暇に来たのだという。1989年の米国によるパナマ侵攻の際には彼女は大学生だったが、多くの人々の生活が困窮したという。そんな彼女も今はテレコミュニケーション企業で働いている。キューバやベネズエラのチャベス大統領に対する批判を口にした。

夜の9時頃に食事をしに外に出ると、町の数軒のレストランはほとんど閉まっていたので、昼と同じレストランで、牛肉のステーキとキャッサバという芋、チーズ、肉、レタスとトマトをはさんだハンバーガーをオーダーする。ビールは近くの商店で買ってきたSoberanaビールを飲む。軽いビールだ。

町の商店のほとんどは中華系の人々が商いをしている。
こうして中米での日々が終わりに近づこうとしている。

太平洋側からカリブ海側へ。 - Panama City / Potobelo , Panama

パナマのカリブ海側にある小さな港ポルトベーロから、9日にコロンビアのカルタヘナへのボートが出る。今日は、太平洋側のパナマシティから、そのポルトベーロまでバスで向かうことにする。

太平洋側からカリブ海側へ。
とはいえ二つの町の間は約100km程。2、3時間もあれば着くので、朝はパナマシティの旧市街、カスコ・ビエホをのんびり散歩することにする。

1749年に建てられた後1781年の大火災で損なわれたAntiguo Convento de la Compania de Jesus遺跡や1678年に建てられたAntiguo Convento de Santo Domingo遺跡を通りながら、フランス広場へ向かう。

建物のあちらこちらに、CC3という黒文字に赤い斜線が引かれた旗がかけられている。「NO A LA CINTA COSTERA 3」と書かれ、パナマ市中心部の海岸沿い幹線道路であるシンタ・コステラの延伸計画に異議を申し立てている。

フランス広場は、パナマ湾に突き出していて、前方には新市街の高層ビル群、後方にはパナマ運河の河口にかかるラス・アメリカス橋や南に点在する3つの島を結ぶ防波堤、コースウェイを望む。

パナマ運河を最初に手掛けたフランス人レセップス像の頭上を飛行機が飛んでいく。
海には何隻もの船が浮かんでいる。
新市街は高いビルが立ち並び、 ぐねりと螺旋を描くビルがその姿を見せている。
海は薄い水色と土色が混じり合っている。

1905年から07年に建設された、薄い桃色と黄色の国立劇場、その正面にあるサン・フランシスコ教会の間を通り抜け、人々が外で食事をしているボリーバル広場へと出る。
子どもたちは細い路地で、プラスチックの棒をもちながら、野球をして駆け回っている。

この辺りは観光客も多く、Kyoto Sushi and Martini Barと名付けられたバーや、モヒートも置くVieja Havana、小さくも洗練されたカフェなどが点在している。

Super Gourmetと名付けられたカフェでバルボアビールを飲む。店内は冷房が効いており、Wi-Fiがとんでいる。黒板に書かれたメニューにはスペイン語はなく、英語で表記されている。ビール瓶にそえられて出てきたグラスは、適切に冷やされている。

一度宿に戻り荷物を背負った後、5月5日広場まで歩き、ターミナル行きバスに乗ることにする。広場までのセントラル大通りは相変わらず多くの人で賑わい、鳩は地面に散らばったポテトフライをつついている。鮮やかな衣装を着たクナ族の女性たちは、一般的な洋服を着た男性や子どもたちを連れて歩いている。

パナマシティからポルトベーロまでは途中のサバニータスで乗り換えをして向かう。パナマシティからサバニータスまでは急行バスで約1時間。満席だったので、通路に簡易の椅子を置いてもらって、そこに座る。曲がると、椅子があちらこちらへと傾くも、冷房が備え付けられ、テレビではアクションドラマが流れている。

サバニータスにあるスーパーReyの前に、ポルトベーロ行きのバスがやってくる。地元の人たちで溢れるバスは、他のパナマバスに違わず車体は派手に彩られ、入口も蛍光ピンクのキルティング加工に、白い羽がふわふわとついている。そのファンキーっぷりに反して、運転手はうっすらと髭のはえた、ごついおじさんである。

車内は満席で最初は立っていたものの、人々は子どもを連れた母親や、荷物の多い人に席を譲り合っている。わたしたちも、どうぞ座りなさいと指をさされる。

窓の外には深く生い茂る木々の間に家が点々としている。家々の屋根の上には、まるでお決まりかのようにClaro社の、丸く赤いテレビアンテナがつけられていて、町中に赤い丸を描いている。

こうして約1時間程でポルトベーロに到着し、ボートの手配もお願いしているCaptain Jackの宿へと向かう。オーナーであるキャプテン・ジャックは、ニュージャージーの出身で、以前は化学製品の貿易に携わり、日本の日商岩井などとよく取引をしていたのだという。シンガポール駐在などを経た数年前の定年退職後、ボートを購入して世界を廻り、気に入ったこの地で宿を開くことにしたのだという。

パナマ、コロンビアに宿を持ち、そして今、パナマとコロンビアの国境近くに新たな宿を建設中なのだという。パナマとコロンビアの国境沿いといえば、地元の人でも危険だという地域だが、キャプテン・ジャックは、その地域は今はもう危ない場所ではなく、かえって未開の、野生の動物などがいる素晴らしい場所だと言った。

そして、コロンビアは世界で一番好きな国だと付け加えた。

夜ご飯を食べに、小さなポルトベーロの町を歩く。公園では人々が太鼓をたたきながら、踊り、停車している車のスピーカーからはこちらの身体が痺れるほどの大音量で音楽が流れている。

近くにFonda Idaと、隣にもう1店舗レストランがある。この2店舗が、やる気があるのかないのか、互いのレストランを積極的に紹介し合う。結局Fonda Idaで、牛肉の煮込みと、ライス、サラダにレンズ豆と甘いバナナフライのセットを注文し、バルボアビールと合わせる。

店の外で食べていると、目の前に大きな花火が打ちあがった。

巨大船が上下する。 – Panama City, Panama

宿でトーストとバナナとコーヒーを食べてから、パナマ運河の水門の一つ、ミラフローレス水門に向かう。

パナマ運河は長さ80kmに及ぶ閘門式の運河で、その間に存在する海抜26mのガトゥン湖など標高差のある湖を利用するために、運河は高さの異なる水路を設けている。3つある、水位を調整するための開閉式水門を通り、船は進んでいくのである。

宿からは5月5日広場に行ってバスに乗り、ターミナルでCOOP SACA行きのバスへ乗り換えをする。

コンテナの並ぶバルボア港を見ながらバスに揺られていると、隣に座った男性がプレゼントだといって、ターラ・ブランカ像の描かれた紙をわたしたちに差し出した。裏には「ターラ・ブランカ、長寿の仏」と書かれている。そしてまた周りの若いカップルに、ミラフローレスに到着したら、わたしたちに知らせるように告げてくれる。

到着したミラフローレス水門近くの駐車場には、ワニが出没するかもしれないので気をつけるようにという看板がたてられている。

ボーイスカウトの子どもたちが乗った船や、「NO SMOKING DANGEROUS CARGO」とうたうMEKONG STARと名の船、HOEGH KOBEと書かれたシンガポール籍の大型船、WALLENIUS WILHELMSENの船、コンテナ船などが次々と水門を通っていく。

船の上からは乗船者がこちらに向って手を振り、時折こちらから拍手が沸き起こる。

水路幅ぎりぎりのとてつもなく巨大な鉄の塊である船が、両端を走る車両にロープでつながれながら、徐々に水位の下がる水面とともにその姿を下げていき、水路の高さが同じになった後に水門が開かれ、次へと進んでいくのである。

この一連の作業が約1時間ほどかかる。船の中の人々は飲み物を飲んだり、話をしたり、それぞれにそのゆっくりとした時間を過ごしている。

時折大雨がざっと降り、そしてまたすぐに晴れる。鳥はかまわず、辺りを飛んでいる。

帰り際に、こちらが日本人だと知ったミラフローレス水門の従業員は、日本の野球は強い、と親指をたてた。

豚の皮を揚げたチチャロンやチョコレートアイスクリームをつまみながら、宿に向かう。

バスで宿へと戻ってくる最中に、国旗のかけられた棺が、オレンジ色の消防車に乗せられて運ばれていくのを見る。赤い花でつくられた大きな十字架がたてかけられ、多くの人々が後を追って歩いている。

3度パナマの大統領を務めたArnulfo Arias Madrid氏の国葬を行うため、棺が旧市街のカテドラルへと運ばれていた。警察官がカテドラルを取り囲み、一般市民も数多く参列している。町のあちらこちらに赤白青の旗が掲げられている。

こうして宿に戻る。

コロンビアへのボート手配をお願いしようとしていたRaffaさんが、Ingrid夫妻が自分に無断で他の客の予約を受け付けてしまったため、席を確保できなくなったと語気を強めて言った。

ボートを所有するというのは豊かな人の成せることだと言い、船のオーナーはドイツ、フランス、スペイン、オーストラリアなどの人々が多いのだという。自分も大したことのないボートを持っているが、いつかもっと良いボートを買いたい、と言った。

今は、チュバスコという波が荒い時期であり、カタルヘナまでは行く船は少ないが、他のボートを紹介すると続ける。

わたしたちは9日に出港予定のボートをもつCaptain Jackに手配をお願いすることにした。

夜ご飯を食べに、再びレストラン・コカコーラを訪れる。先日と同じように近くの店でアトラス・ビールを買って飲む。このビールもまた、味の軽いビールである。

注文をしたAlbondigasは、トマトソースのかかったミートボールであり、セットであるナポリタンふうのパスタはぷよぷよとしている。それにお決まりのポテトフライがついている。

店の付近で警官に呼び止められ、パスポートの提示を求められ、そしてまたこの辺りは危険だから気をつけるよう忠告を受ける。世界遺産にも登録されている旧市街で、何人にも危ないから気をつけるよう言われる。この街には、拳銃をもった警察があちらこちらに大勢いる。

国葬が行われ、警察が行き交い、大音量のディスコテカもある、パナマシティの一日である。

ごちゃまぜパナマシティ – Panama City

黄金の祭壇をもつサン・ホセ教会で、かつてイギリスの海賊ヘンリー・モーガンが古都パナマを破壊した際に、しっくいを塗ってその祭壇が守られたという話を聞く。

パナマ・シティのメイン通りであるセントラル大通りを旧市街であるカスコ・ビエホから新市街へと歩くことにする。

エレーラ広場では、男性たちがボードゲームにいそしんでいる。
道には、多くの靴屋や品揃え豊富なスーパー、インド、中国、パナマのテイストがごちゃまぜになって売られているSol de la India、「痛い」「楽しみ」「気楽」「復讐」「葬儀屋」といった日本語をほる刺青屋、金色の招き猫などが街を賑やかにしている。

小さな噴水には鳩が集まり、時折、オレンジや黄色、紺色といった鮮やかな民族衣装を着たクナ族の人々が行き交う。

5月5日広場を過ぎ、ガンジー広場を見た後辺りから、切り花や野菜、果物が売られている市場が立ち並ぶ。周辺には「上海市場」という名の市場もある通り、中華系の人々が営む店も多い。

5月5日広場からまっすぐに歩いていけば、新市街の中心と言われる、エル・パナマホテルやクラウン・プラザ付近に出るはずだったが、ところどころで道をはずしていて、どうにも治安の悪い雰囲気に包まれる。

幾度か方向修正をしながら、3時間程歩いてクラウン・プラザとそのそばのカルメン教会にたどり着く。

パナマ・シティの新市街といえば、旧市街からその高層ビルが見えるエリアであるが、その中心にいたっても、人よりも車が多い場所であって、車のヘッドライトが光る以外、ひっそりとしている。

それでも更に進んでいくと、ようやく店やレストランが並ぶ一角にたどり着き、ニコス・カフェで夕ご飯を食べることにする。

お勧めをしてもらったこのカフェは、カウンターに並んでいる食べものを選んでいくという形式をとっている。

骨付きの雌鶏肉や芋の入ったパナマのスープ、サンコーチョに、チーズパスタ、ガーリックトーストとライスをオーダーする。このレストランにもビールは置かれていなかった。

この付近は治安が良いが、旧市街であり世界遺産にも登録されているカスコ・ビエホには地元の人も夜には行かないよと言われる。

そこで帰りはタクシーをつかまえて帰ることにする。運転手は、朝は水道関係の仕事をし、夜はタクシーの運転手をしていて、朝の5時から夜の11時まで毎日働いているのだという。

道すがら、現在建設中だという地下鉄を指さした。パナマでは、たくさん働かないと、収入が少ないんだ、と運転手は言った。