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Tanzania

タンザニア-ルワンダ国境情報

タンザニアのMwanzaから、陸路でルワンダのキガリへ抜けるルートです。

1.Mwanzaのバスターミナルから、Benako行きのバス。
5:00発 – 14:00着 TSH 20,000-.
(※現在タンザニアでは、安全面から、夜行バスが禁止されているようです)

2.Benakoから国境の街Rusumoへ乗合タクシー
所要30分 TSH 3,000-.

3.タンザニア側にて、置いてある出国カードとパスポートを提出。無料。
(※特に荷物検査はありませんでした。)

4.徒歩にて、200m程先のルワンダ側国境へ。写真不要。
(※途中、橋から滝が見えます。)

5.ルワンダ側にて、置いてある入国カード及びパスポートを提出。
ビザ代US$30.00の支払い。
(※ビザは国境では取得できないようです。事前に取得するか、オンラインで申請し、国境でビザ代のみの支払いをするか、どちらかになります。)
(※オンラインで申請した場合、TRACKING番号が発行されるので、メモをとっておいてください。3日以内に結果がメールで返ってきます。
メールの返事を待たなくても、TRACKING番号を元に国境で係官がインターネットでビザが受付されているか、確認してくれます。)

6.イミグレから50m程の所に、キガリ行きのバス乗り場がある。
所要4時間 RWF3,000- Nyabugogoバスターミナルが終点。

◎両替
 ルワンダ側に両替所があります。
 TSH1.00=RWF0.38

ボンジュールと茨城とpower of god。 – Mwanza / Benako, Tanzania

早朝5時半ムワンザ発、ルワンダとの国境に近いBenako行きバスに乗り込む。ターミナルの前の宿に泊まっていたので、歩いてすぐである。

昨日の悪路で、首が痛い。

車内には、ビニール袋に包まれた鞄が荷物置き場の下に紐でくくりつけられている。

発車後30分ほどしたところで、添乗員がフェリーチケットを売り回る。気づけば、バスは既にフェリーに乗っていた。

ムワンザからBenakoまでは道が一度途切れるため、ケニア、ウガンダ、タンザニアに囲まれた巨大な淡水湖ビクトリア湖をフェリーで渡るのである。

湖には、木のボートを手でこぐ地元の人々もいる。

フェリーに乗った時にはまだ暗闇の中にぽつりぽつりと明かりをつけていた湖も、45分ほどかけて渡り終えるころには、空は明るくなっていた。

今日も悪路が続く。バスはぷぷぷとクラクションをたてる。

くわをもった女性が畑を歩き、家の前では穀物がビニールシートの上に広げられ、市場は人で溢れている。人々は、水の入ったペットボトルやら、バナナのかたまりやらをバケツに入れて頭にのせて持ち運ぶ。誰も、頭の上から落とさないし、首が太いわけでもない。

バスには長い銃を持った男性が乗り込んできたり、手錠をかけた男性が乗り込んできたりする。

バスの外から売られるものはだいたい変わりばえはないものの、地域によってほんの少し特徴が出てくる。オレンジばかりを持ってくる地域もあれば、にんにくばかり、ということもある。

ふんわりとしたパンや、もっちりとして旨いキトゥンボア、ぼんやりとした味のマジヤ、それに段ボールのような湿った味がして食べきれなかったマンダジを、窓の外から買う。売っているのは、たいてい10代か、それより若いと思われる男の子たちだ。

13時には赤茶けた土が広がり、砂埃の舞う、ルワンダとの国境近くの町Benakoに到着する。歩いていると「ボンジュール」と声がかかる。フランス語が公用語のひとつであるルワンダがいよいよ近くなってきているのだった。

そんな小さな町に「茨城」と水色で大きく書かれたトラックが走っていく。その文字の下には「power of god」とうたわれている。

ここから、国境まで、乗り合いタクシーに乗っていくことにする。乗り合いタクシーのトランクには、わたしたちの鞄のほかに、靴をぎっしりと詰め込んだ見事に大きなビニール袋が二袋搭載され、トランクは閉まるはずもなく、ひもでくくりつけて出発となる。

30分ほどタクシーが走れば国境に到着する。タンザニアのイミグレーション・オフィスは、水色に塗られたトタンでできた建物だ。

オフィスの係員から、職業と、どの街から来て、どこに行くのかを尋ねられるので、それにお答えをする。

ぴょんぴょんと跳ねるバス - Moshi / Mwanza, Tanzania

タンザニアには夜行バスが走っていないため、必然的にバスの出発が5時半や6時といった朝早い時刻ばかりになる。今日は、6時発のムワンザ行きバスに乗る。まだ暗いモシの道を通り、バスターミナルへと向かう。

左が二席、右に三席ある、派手に塗られたバスに乗り込む。薄いクッションがはられているものの、硬いことに変わりはない座席である。

モシから目的地のムワンザまでは、バス会社の予定では12時間ほどの道のり、それでも特に今の雨期の時期は悪路で3日かかることもあると聞くから、覚悟がいる。

発車直後から大雨に降られ、キリマンジャロ山は厚い雲に覆われたままだ。

1時間半ほどすると、ケニアから物が入ってくるため比較的豊かな町だと言われるアルーシャの町に到着する。大勢の乗客が乗ってきて、通路に立つ人もいる。

窓の外からはカップケーキやサングラス、眼鏡ケースにドリンク、帽子に文房具セット、カミソリにイヤホン、腕時計、香水などをわんさかと持って男性たちが押し寄せてくる。カップケーキを買って朝ごはんにいただくことにする。

アルーシャの街はモシよりも都会である分、殺伐とした雰囲気が感じ取れる。まだ店のシャッターはぴしゃりと閉じたままだ。

一番後部座席に座ったこともあり、バスは大きく揺れ、ぴょんぴょんと文字通りおしりが宙に浮いて、跳ねる。首にも腰にも応える。隣に座った地元の女の子も慣れないようで、ぽんとなるたびに、小さく歓声があがる。そんなぴょんぴょんを互いに繰り返すうちに、女の子は、ピーナッツをどうぞ、と手渡してくれる。

悪路と言われていた道は、確かに舗装がなされていない。それでも、現在鋭意舗装中、バスの隣には、まさに今建設中の舗装道路が、箒ではかれたり、トレーラーでならされたり、している。こうして、建設中の舗装道路を横目に見ながら、泥の道を進む。いつか舗装された道ができるのだろう。

コーヒー農園やパイナップル、とうもろこし畑や田んぼが広がり、ところどころにひまわりが植わり、バオバブの木が見られる。

マサイ族が牛をひいていく。山羊も犬も歩いていく。

10時ころには法律上の首都だというドドマに到着する。経済的な中心都市は、ダル・エス・サラームにあるというだけあって、こじんまりとした町である。

しばらく行くと煉瓦に藁ぶきの屋根をのせた家々が点在する。電線は通っていない。人々は家の外に出て、何をするでもなく、ぼんやりと座っている。

ある母親は、穀物を臼に入れて、杵でつつき、それを子どもたちが囲って見ている。町ではろばが荷物をひき、道ばたに穀物を広げている人もいる。赤い泥山をただひたすらに滑っては上がることを繰り返して遊ぶ子どもたちがいる。

バスの車掌と話をする。彼はシニャンガに家があり、そこに奥さんも住んでいる。7日間仕事の後、2日間休む。朝食はチャイにチャパティ、揚げパンであるマンダジを食べ、昼食と夕食で、ご飯やトウモロコシなどの粉を使ったウガリを食べているという。ときどきコーヒーを飲むこともある。

そして言い加える。
イスラム教徒はアルコールを飲まない。だから、タンザニアは平和なんだ。金曜は仕事をせずに、モスクへ行くよ。

仕事をしている間は、悪路といわれるモシとムワンザ間を毎日往復しているというのだから、感心してしまう。

バスが停車すれば、やはり物売りが頭の上やらに商品をのせて、わんさかと集まってくる。地域によって特徴があることも多々あり、にんにくが多い地域もあれば、オレンジばかりの地域もあるといった具合である。

窓の外からサモサを買い求め、また停車した際にピーナツやオレンジを買ってほおばる。

田畑の広がる中、真っ赤な色に姿を変化させた太陽が沈んでいく。

こうして3日かかる可能性のあったバスは、15時間で無事にムワンザの町へと近づいていく。ムワンザのNyegeziバススタンドを過ぎ、もう少しで街の中心に到着、というところでバスは力尽きて故障をした。よく、ここまでがんばったものだ。

こうして、乗客はみな粛々とバスを降り、散っていく。

ちょうど1週間の旅行に来ているというンゴロゴロのロッジのマネージャーだという男性と奥さんに声をかけてもらい、一緒に車に乗り、宿をとりに行く。

夕食は宿の隣にあるABISパブでとる。サファリ・ラガーは、苦味があって、旨い。それに山羊の炭火焼とフライドポテトを合わせる。皿にはライムが添えてあり、フライドポテトには、塩とトマトソースがついている。加えてハバネロがちょこんと置いてあり、少しかじれば、口がいたい。

酔っ払った男性が、抜けた歯で笑いながら、大声で話しかけてくる。ある男性は「ビールをおごって」とビール瓶を片手に話しかけてくる。そして、帰り際にきちんとした身なりの男性がつかつかと寄ってきて「500シリング貸してください」と言ってくる。

明日もまた、ムワンザから5時半発、ルワンダ国境近いBenako行きのバスに乗る。
バスターミナルの前に宿をとったので、あとは蚊帳にくるまり、休めば良いだけだ。

キリマンジャロ山のふもとで。 – Moshi, Tanzania

朝は宿の屋上で、トーストにバターやフルーツジャムをぬり、チャパティやスイカにコーヒー、パイナップルとパッションフルーツのジュースをいただく。

雨期の今の時期、キリマンジャロ山は雲に覆われている。

マサイ族の男性が赤いマサイ布を身体に巻きつけて門番をする宿を出発し、街を歩く。モシの街はさほど大きくなく、のんびりとしている。店の外では女性がミシンで服を縫い、その女性を囲んで幾人かの女性たちがおしゃべりに夢中になっている。

道ばたでは果物、野菜、サンダルや籠、サッカーのユニフォームなどが売られている。大きな火のかけられた料理中のフライパンは、ほったらかしにして放置されている。「ドイツ」とパッケージに大きく書かれた、ドイツ市場向け中国製熱湯機も売られていて、思わず買い求める。

この街には、HIV患者支援NGOであるKiwakkukiという団体がある。1990年設立、NGOとして正式登録されたのが1995年の組織で、ノルウェーやドイツ、米国、オランダ、アイルランドやモシ市などにより寄付を得ている。ボランティアは500人を数える大きな団体である。

この国もエイズ感染率、国平均5.7%、エイズが人々の生活を脅かしている。この辺り、Arusha地区は1.6%だが、ダル・エス・サラームでは9.3%、南のIringa地区は15.7%の感染率だという。

先日ダル・エス・サラームで話をしたイタリア人も、南部はまだ経済的に遅れもあり、HIV感染率が高く、ボランティアで南部に滞在しているのだと言っていた。

受付のテーブルには”From the People of Japan”と日の丸のシールが貼られたHIV検査キットが置かれている。

モスクや学校、Kiwakkuki団体オフィスなどで、地元の人たちによるエイズ教育が行われているものの、教育の行きとどかないタンザニアの南部などは感染率が高い。この団体の活動もあって、モシ周辺地域のHIV感染率は低下しているという。

団体では無料のHIV検査を提供していて、この日も幾人かが待合室でその検査結果を待っている。待っている間に観れるよう、ドラマも流れている。

かつて離婚を経験した男性が、新たな女性に求婚をした。それでも男性の家族が精神的障害をもっていることから、女性は求婚を受けられないと言って、男性は困り果ててしまう。女性にも別れきれない昔の恋人がいる、といったふうのゴタゴタドラマである。

直接にHIVとは関係のないように見えるドラマだが「家族問題を表現しているのです」と事務所のスタッフは言う。教育が、ここから始まっている。

この街の中心もクロックタワーだ。その時計盤にもコカコーラのロゴ。タワーの前にもコカコーラのボトルとともに「安全な運転を」とうたっている。バスターミナルもその広告で赤く包まれ、ホテルも商店も看板にコカコーラのマークがあり、郵便局の位置もコカコーラが指し示している。

ルワンダまでの経由地点となるムワンザに向かうチケットを買うため、バス会社A.M. Coach社に向かう。オフィスには、リビアのカダフィ大佐の写真がでかでかと載った2012年のカレンダーが貼られている。

そこには「A Great Son of Africa」と書かれ、その下に「軍人でもあり、ヒーローでもある」「42年間の統率 1969-2011」とある。カダフィー大佐は、カレンダーの中で、こぶしを振り上げ、または手をぴしりと揃えて額に斜めにあてている。

オフィスの職員は言った。「カダフィー大佐は、アメリカやフランス、イギリスに殺されたんだ。ひどい話だ。」

同時にそばにいた別の職員は「タンザニアのイスラム教徒の間ではカダフィー大佐を支持している人は多い。考え方は人によるけれど。」と肩をすくめた。

イスラム教のモスクやヒンズー教寺院、シーク教の寺院が、この街にはある。

コーヒーを飲みにThe Coffee Shopに入る。ここでは地元のタンザニア・コーヒーや紅茶が可愛らしい布のパッケージに包まれ、売られている。地域の修道女が手作りをした石鹸も売られ、孤児院の子どもたちを救うために役立ちますと、書かれている。

1996年に開業したこの「The Coffee Shop」は、利益のためではなく、雇用創出も目指している。利益はキリマンジャロ山の教会、教区にも使われます、としている。

落ち着いた木目調の店内や明るいテラスには人々が午後のひとときを過ごしている。それでも、白い看板の隣には、街にあふれるコカコーラ社の赤い看板にThe Coffee Shopと書かせている。

この街を歩いていると、あちらこちらからキリマンジャロ山のガイドや宿の客引き、一般の人々から声がかかる。そして、時に挨拶がわりにこぶしをぶつけ合う。力強いので、痛いことも少なくない。

一日中雲に覆われていたキリマンジャロ山が、18時ころ、ほんの少しの間だけ雲からその姿を現した。先ほど話をしたキリマンジャロ山のガイドの言った通りだ。

まずは、マウエンジ峰、そしてキボ峰。クロックタワーのほうまで行って、その姿を眺める。青い山の頂上が白い雪で覆われている。

すると、そばにいたガイドがまた声をかけてきて言う。「キリマンジャロ山に登るのは、すごく値段が高い。でもアメリカ人は値段が高いほど良いもんだと思っているんだ。」

夕焼けの見えるころ、高台にのぼり、キリマンジャロ山のほうを眺めてみる。やはり、山はその姿をまた雲の向こうに隠してしまった。「もうお休みの時間なんだ」とガイドたちは説明をする。

黒と白の鳥がたくさん飛び、がーがーと鳴いている。
錆びついたトタン屋根ばかりが見える景色を夕焼けが包み、ほっそりとした月が空に浮かぶ。

夜は、レストランBig Biteに立ち寄る。ここもイスラム教のレストランでアルコールはない。

卵と牛肉と野菜を生地で包んだザンジバルピザののったプレートに、きゅうりやトマトのサラダが添えられ、それに牛肉の串を合わせる。

ビールが売っている店には食べものが軽食ふうになり、食べものをしっかり提供する店には、ビールが売られていないというふうな日々である。

キリマンジャロ山ふもとの街へバスで行く – Dar es Salaam / Moshi, Tanzania

冷房ががんがんと効いた船内は、最初快適だったものの、やがて寒さで目が覚めるようになっていく。時折波にのって大きく揺れる。

ダル・エス・サラームに「5時に必ず到着する」と聞いていたフェリーは、6時ころに港へと戻ってきた。そんなわけで、6時15分発モシ行きのバスチケットを予約していたものだから、タクシーをつかまえてターミナルへと向かう。

タクシー運転手のおじさんは、かつて東アフリカを中心に各国をトラックで走っていた。夜にトラックを走らせていれば、ワゴン車に乗った若者の男性が、銃でタイヤをパンクさせ、テレビなど積んであった貨物を半分ほど盗んでいったという。だから、おじさんは夜は極力走らないようにした。一番きれいな国は、ザンビアだった、と言う。ダル・エス・サラームに自分のタクシー会社を持って17年、おじさんは幸せそうだ。

バスの予約はMtei Express社で取ったものの、ターミナルに停車していたのはキリマンジャロ・エクスプレス社であった。Mtei社の職員が、「このバスでウブンゴ・バスターミナルに行っていただき、そこでバスを乗り換えていただければ良いので問題ありません」と言う。

朝の街は既に活気が出てきていた。「園児募集」と大きく日本語で赤くうたうバス、「米パラダイス」と書かれた車も走る。イスラム帽をかぶった人々や子どもたちがバスを待っている。

ターミナルまで約20分、到着すればMtei社の職員がまた言う。「弊社のバスは、今朝故障してしまったので、メトロ・エクスプレス社のバスに乗ってください。」

結局Mtei社で予約をしながら、一度もそのバスに乗ることはなかった。

メトロ社のバスは、しっかりとした座席にややクッションもあり、リクライニングもできる、中国製宇通客車のバスである。バスターミナルに停車しているバスもたいていこうした大型のバスだ。

窓を開けていれば、パイナップルや焼とうもろこし、クッキー、ナッツ、ペットボトル飲料、果ては木の櫛やしゃもじ、籠バック、椅子まで、手いっぱいに抱えた人々が窓の外からわいわいと寄せてくる。

田んぼや畑が広がり、人々が鍬でそれを耕している。頭に物を乗せて運んでいる人もいる。

警察がこちらのバスを撮影してくる。

オレンジを入れて長細くした網を、お決まりかのように男性たちが運んでくる。一面に、ぴんぴんとした葉を上に向けたパイナップル畑が広がり、やしの木がはえている。

窓の外から買った、牛肉に玉ねぎのつまったサモサや揚げパンをほおばりながら、進む。車内には、マイケル・ジャクソンはじめ、ノリノリ欧米音楽がかけられている。

木の棒をはりめぐらせ、土で固めてトタンか藁ぶきの屋根をかぶせた家々が点在している。
牛がのそのそと歩いている。炭が袋に詰められて、道ばたに置かれている。

コカコーラ社のラックに入った瓶を添乗員が運んでくる。好きなものを選んでください、無料です。ラックには、コカコーラやペプシ、Spar-lettaなどが入っている。Spar-lettaを選ぶ。コカコーラ社の看板はこの国でもあちらこちらに見られる。

途中停車したターミナルも真新しい。ガラスケースに入れられたハンバーガーと卵揚げを買い求める。ハンバーガーには、ひき肉にトマトやピーマン、玉ねぎがふんわりとしたパンにはさまれ、ケチャップのような優しい味のトマトソースとマヨネーズをかけている。卵揚げは、卵のまわりに肉を巻き、揚げられたものだ。

線路を越えながら、進んでいく。大雨期にあたる今、先ほどまで晴れていた空が急に曇り、雨が降りはじめたかと思えば、また雨が止む。

「小川の湯」のバンが通り過ぎる。青い制服の子どもたちがこちらに手をふる。傘をさしている人は、いない。

大きな木の下で、火を焚いて料理をしている女性たちがいる。

16時半ころ、キリマンジャロ山のふもとにある街、モシに到着する。バスターミナルにいた警察の制服を着た女性が、困ったことがあったら連絡をください、付近で声をかけてくる人には注意してください、鞄を渡してはいけません、と言って、電話番号とメールアドレスのメモをくれる。

この街からキリマンジャロに登る人も多く、街を歩けば、あちらこちらから声がかかる。

キリマンジャロ登山のツアー会社の経営者とそこに勤めるガイドが、ぴたりとついてくる。話をしながら、宿を探しに歩く。

キリマンジャロ登山は、政府が環境保護のために登山者の数を減らそうとして、3年ほど前に値上げをしたんだ。それで、登山料金パックが700ドルくらいから900ドルくらいまで値上がったんだよ。

長年ツアー会社をやってきて、亡くなったのはイタリア人一人、石が当たって転がり落ちて亡くなったという。高山病で亡くなった人は今まで一人もいないよ。登頂率は80%、無理だとガイドが判断した人は下山をしてもらうんだ。

ローシーズンだから、こうやって一緒に街を歩くことができるんだよ、と言いながら、わたしたちの宿探しを手伝ってくれる。

ここから、宿には必ず蚊帳がつくようになる。サイズがあっていなかったり、蚊帳に穴があいていることも少なくないので、蚊取り線香を同時に焚いたりする。

モシの街はとっぷりと日が暮れると、道を歩く人があまりない。宿の近くで勧められたThe Taj Mahalで夕食をいただくことにする。

ココナッツライスにエチオピアほうれん草の炒めもの、牛肉のトマト煮、にんじんとグリーンピースの煮込み、それに豆のマハラグウェが一つの皿にのっている。イスラム教の影響が強く、ここでもやはりアルコール飲料はないので、代わりにStoney Tangawizaをオーダーする。風合いのあるガラス瓶に入ったジンジャー飲料は、きりりとして良い。