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2012年04月

混沌首都、カンパラ – Border with Rwanda / Kampala / Jinja, Uganda

イミグレーションのわきに両替店が3軒並んでいて、その内の1軒で両替を済ませ、5分ほど離れたウガンダ側のイミグレーション・オフィスへと歩いていく。山に囲まれ、茶色い小川が流れている。

備えつけてある入国カードを埋め、提出をする。窓口にはカメラと指紋認証機が置かれ、機械の上に指をのせるよう、指示がある。

そして、何日間の滞在予定か、という質問に答え、ビザ代を支払えば、良い。待ち受けているバスに急かされながら、再びバスに乗り込み、首都カンパラまで向かう。

この道も舗装されていない泥道の悪路で時折おしりが宙に浮く。窓の外には緑があふれ、ゆるやかな丘が続く。

途中、ロレックスという名の、チャパティを卵で巻いて小さなトマトをのせたものを買い求める。国が変わると、突然に見たことのない食事が現れたりする。

隣の若い女性の乗客は、着飾った様子で、早口の英語を話す。

8時過ぎに国境を越えてから7時間半ほど、15時半くらいにウガンダの首都、カンパラのバスターミナルに到着する。

今日はここから1時間半ほどいったジンジャという町まで行くことにする。ジンジャ行きのミニバス乗り場は、少し離れているので、タクシーに乗って向かう。タクシーの運転手は、流暢な英語を話す。

カンパラは混沌とした街だった。古びたビルにはカラフルな新しい服が売られ、市場には靴が無造作に山積みになって床の上で売られている。手をつなぎ合う、ほっそりとした男性二人も歩いていく。

「ニュー・バス・パーク」から「オールド・タクシー・パーク」まで歩く。「オールド・タクシー・パーク」には、地面の上に野菜、果物、干し魚などが所狭しと売られ、そのすぐ脇を埃をあげるミニバスが立ち往生している。

ミニバスに乗り込めば、窓の外からSIMカードや書籍、アクセサリー、菓子、飴、ペットボトル飲料などを売る人が絶たない。揚げ菓子のつまった袋を買い求める。

バスは賑やかな街を通り、そのうちに銀行やショッピングモールといった新しいビルの立ち並ぶエリアを走る。歩く人も減り、落ち着いた雰囲気だ。

やがて赤茶けた土が砂埃をたてるエリアへ入っていく。線路には、多くの人々が歩いていく。池では車をじゃぶりと入れてそれを洗う人々がいる。

道沿いには、服屋や穀物屋、金属屋やインターネットカフェが並び、それが田んぼや畑、丘に変わっていく。太陽の沈む景色を眺めながら、出発して2時間、ミニバスはすっかり日の暮れたジンジャの街に到着する。

バスを降りると、ほんの少しのライトが灯った広場で、ソーセージや魚、肉などが炭で焼かれている。小さな街の中心をぬけて、目的地にしていた宿へと歩いていく。徐々に暗くなり、歩く人が減っていく。途中に道を尋ねにMBHAVIゲスト・ハウスに立ち寄ると、そこに泊まっていた男性客が、「その宿まで僕の車で送っていきますよ。」と言う。

機械工として働く彼は、普段はカンパラに住んでいるが、今はジンジャに数日間仕事をしに来ているのだという。

ジンジャは安全な町だけど、暗い道を外国人が歩いていると、良いように利用されてしまう。だから送ることにしたんだよ。

仕事を終え、宿でのんびりしていたところにわたしたちが現れ、そのわたしたちを車で宿まで送ってくれたのである。ありがたいこと、このうえない。

夜は、宿のダイニングで、フライドポテトにトマトとチーズのパニーニをオーダーし、飲み物は、NILE Specialビールを飲む。アルコールの味がつんとするビールだ。

ルワンダ-ウガンダ国境情報

ルワンダのキガリから、バスでウガンダのカンパラへ抜ける国境情報です。

1.キガリのNyabugogoバスターミナルから、Jaguar Executive Coach社の直行バスがある。
キガリ 5:30発―カンパラ 15:00着 RWF8,000
(※事前に予約する場合、料金は当日30分前の支払いでOKです。)

2.約3時間で、ルワンダ側国境Gatunaに到着、バス内で配られた出国カードとパスポートを提出。無料。
徒歩で200m程先の、ウガンダ側国境へ。置いてある入国カードとパスポートを提出。
ビザ代US$50.00を支払う。写真不要。

3.バスが待っていてくれるので、乗車。
カンパラでは、Jaguar Executive Coach社のターミナルに着くので、中心までタクシー UGX5,000

◎両替
 国境で両替所があります。RWF1.00=UGX4.00

大雨の中の爆音コーランと、じっとりと濡れた座席 – Kigali / Gatuna, Rwanda

タンザニアに続き、ルワンダも、バスの時間が早い。今日はキガリからウガンダのカンパラに向かうが、バスは5時半発である。

ターミナルに向かうまだ暗いタクシーの車内で、コーランが爆音で流れている。音質は悪く、じりじりとした音が混ざっている。

起きた時から降っていた雨がいよいよ激しくなる。

タクシーおじさんは、雨の中、ターミナル内をくるくると回ってくれ、親切丁寧なサービスを提供した後、「モスクに行きます。では、また。」と言って、去っていった。

Jaguar Executive社のカンパラ行き、これもまたタンザニアに引き続き、右に3席、左に2席、ささやかなクッションで覆われた座席の並ぶバスである。

雨は、車内の荷物置き場をじっとりと濡らし、天井からぽつりぽつりと雨が窓側の席を濡らしていく。おかげで座席はぐしょりとしている。それを気にかける地元の乗客もいれば、気にせずどかりと座る地元の乗客もいる。

濡れた車内はひんやりとしている。

1時間半もすれば、ウガンダとの国境、Gatunaに到着する。みな一様にぞろぞろとバスを降りていく。バスの中で渡されていた出国カードを記入し、「次はどこの国にいくのか。」という質問に答えれば、ルワンダ出国となる。

亡くなった子どもと産まれてくる子ども – Kigali / Nyamata, Rwanda

朝は、みこうちゃんが、わかめの入った味噌汁と炊いたタンザニア米、それにソーセージにほうれん草の炒め物をつくってくれる。ご飯には、日本の梅ごましおをふりかける。ルワンダにはパキスタン米も入ってきていて、タンザニア米よりも安価だという。

久しぶりのおいしい日本食にお腹を満たされて、外出をする。

今日はまずバスに乗ってNyabugogoバスターミナルまで行き、Kigari Safaris Express社のバスに乗り換えて1時間ほどいったニャマタに向かう。大雨が降っていて前方が見えないものの、バスのワイパーは壊れて、運転手は開けた窓から顔を出して前を見ながら運転をしている。

その大雨も、ニャマタに着くころには止んだ。

ニャタマのバスターミナルの前にある商店で、並べられた容器から、卵入りサモサやグリーンピースを詰めて揚げたもの、それに、ゆで卵が入っていた揚げものを頼む。

ルワンダでは、環境を意識して、包装に紙袋が使われている。この商店も、茶色い紙袋に包んでそれらを持たせてくれる。紙袋から一つずつ取り出してつまみながら、歩いていく。バイクタクシーも自転車タクシーもいる。二人乗り自転車をした人々も、ちゃりちゃりと自転車をこいでいく。なんとも静かで穏やかな光景だ。

それでも、ここ来た理由は、ニャマタ虐殺メモリアル教会であった。人が殺された現場である。当時ツチ族が逃げ込んでいた教会が、虐殺現場となった。

町にはあちらこちらに紫色の垂れ幕がかかり、「ツチ族虐殺追悼:輝かしい未来をつくるために、歴史から学びましょう」と白字でうたわれている。

昨日訪ねたキガリ・メモリアルセンターには大勢の見学者がいたが、この教会にはわたしたち以外にいない。受付にいた女性も、「ガイドをする上司は今不在なんですが」と言いながら、門を開けてくれた。

教会内には、ぼろぼろに汚れた犠牲者の衣服や靴、ブランケットが積み重なっておかれていた。壁には当時の血痕が残っている。

それでも、教会にはやわらかな日差しが差し込み、鳥がさえずっている。教会の外から、赤ん坊の泣く声や、コーラスの歌声がかすかに聞こえてくる。

机の上には、当時身につけられていたアクセサリーや、財布、人種を記したIDが置かれている。

まず手を切り、その手を持ってバイバイと犠牲者に向け、そして切り殺された人もいるという。

お墓の下に、頭蓋骨と骨がぎっしりと並べられている。ある頭蓋骨には斧でざっくりと切られた跡があり、ある頭蓋骨の側部には大きな穴が開けられ、ある頭蓋骨の目の部分はくり抜かれている。

脚や手を切られ、頭をたたき割られた様子を、受付の女性が、表情で訴えてくる。美しかった妊婦も殺された。殺された赤ちゃんは柩に入れられて、紫と白の十字、白いレースのついた布でくるまれている。

その受付女性は、身重だった。帰り際にそっと、そのお腹に手を触れさせてもらう。

教会を出て、ニャマタのバスターミナルへと歩いていく途中、自転車に乗った男の子がふいに声をかけてきた。「こわがらないでください、心配はいらないです」とつぶやいた。教会の中に眠るお母さんにこうしてときどき会いに来るのだという。

今、15歳だというその男の子には、他の家族から引き取った子どもも合わせて5人の兄弟がいるといった。英語を上手に話すその男の子と最後に握手を交わす。手は細くて優しかった。ルワンダには虐殺孤児も少なくないと聞く。

やはり、今は、のどかな小さな町だ。

ニャマタのターミナルから乗り合いタクシーに乗ってキガリへ戻ることにする。乗り合いタクシーは満席にならないと出発しない。エンジンをかけて今にも出発するといったふうにやや車を前に出して、客を慌てて乗車させる。そしてまた元の位置に戻って、しばらくすると、また出発するふりをして、と繰り返して集客していく。

ターミナルに一度戻り、ルワンダと日本の夫婦が1996年に立ちあげたNGO、ONE LOVEを訪ねる。このNGOは、虐殺や地雷、ポリオなどで脚を失った人々に無料で義足を提供している。宿泊施設やレストランなどを経営し、その利益を活動のために使っているという。

今日は日曜で閉まっている義足製作所を通り過ぎ、隣のショップに立ち寄る。そこには、松葉杖やプラスチックの椅子を改造してつくった車椅子の他、脚を失った人々が作ったラジオやひょうたん、置きものなどの商品も並んでいる。

案内をしてくれた女性は、高校卒業後、ホテル運営を1年間勉強し、最近ここに採用されたという。ホテル業を勉強しておけば、失業することはないからです、と微笑みながら言う。

そしてまたバスに乗り、町の中心地にある「ホテル・ルワンダ」の映画のもととなったDes Mille Collinesホテルを訪ねる。

そのホテルは、今でも高級なホテルとして営業を続けている。スタッフの男性は、ルワンダは安全な国なんです、人々は自由に町を歩くことができます、他の国ではこうはいきません、と笑顔で話す。警察の強いこの国は、比較的安全なのだ。そして政府は虐殺のイメージを払しょくしようと努力をしている。

ホテルにはプールもあり、街を見渡せるそのテラスでは、ゆったりと食事を楽しむ人々がいる。

街を歩けば、牛乳屋の並ぶ道を行き交う人々に次々と挨拶をされる。そこにも、また紫に白字で「輝かしい未来をつくるために、歴史から学びましょう」と書かれた看板がふいに現れる。ぎゅうぎゅう詰めのバンに乗り、みこうちゃんの家へ帰る。

夜は、タンザニア米から、中に入っている小さな石を取り除いて、圧力鍋で炊く。テラスからは、キガリの夜景が見える。それに、肉団子入りピリ辛スープやオリーブ、トマトとたまねぎのサラダ、キャベツ、さらには塩辛までいただく。近くの商店で買ってきたPRIMUSもMutzigもSKOLビールもあっという間にあいてしまう。

虐殺と、今。 – Kigali, Rwanda

今日土曜日の午前中は、国中が町内会で掃除などをする「コミュニティ・ワークの日」だということで、タクシーもバスも走っていない。街を見ても、なにやら人通りも少なく、のんびりとした雰囲気だ。

宿のSlyvioさんは、前回「コミュニティー・ワーク」をしたので、今日はお休みなんだ、と言った。現在はタクシー運転手、1975年1月1日生まれの37歳、22歳の恋人がいる。この国にはベルギー、フランス、ノルウェーなどからビジネスで訪れる人も多いという。

ツチ族であった彼は、1992年から2009年まで兵士として、議事堂などにおいて大統領を守っていた。ダルフール紛争では国連のダルフール派遣団として1年に赴いたといい、それぞれの写真を誇らしげに見せてくれる。

そして、現大統領のカガメ大統領は軍人であり、ツチ族なのだと、付け加えた。 

最後に「僕は機械について勉強をしたい。日本は自動車製造大国だ。日本で勉強をしたいので、なんとか援助をしてくれないでしょうか。」と遠慮がちに言う。

この国では、1994年に多数のツチと穏健派フツが虐殺されたという過去を持つ。ツチだけでなく、お金持ちのフツなども殺されている。Slyvioさんは続けて言う。「ぼくたちは一つなんだ。過去に起きたことは忘れ、発展を続けることが大切だと思う。」

昨年亡くなったお父さまには5人の妻がいて、合計20人の子どもがいる。Slyvioさんのお母さんとの間には3人の子どもがいる。広大な農地や5つの山を持っていたが、お父さまが亡くなり、今は土地を分けたという。

「コミュニティー・ワーク」が終わり、13時ころになると、また街の店などが開き始める。宿の近くにある看板のない食堂で昼食をいただくことにする。

メニューの紙はなく、今日の献立を尋ねる。ご飯にじゃがいもの煮込み、パスタに豆、キャベツとにんじんの煮込み、バナナ煮、それに牛肉のトマト煮という、ボリュームいっぱいのランチメニューである。こうして、客は全員男性となる。

わたしたちがテーブルにつき、食事をしていると、その間にあった椅子に身なりの良い男性が一人、どかりと座って腕組みをし始めた。そっぽを向いたままだ。

他のテーブルはがらりと空いているので、なにやら不可思議だと思ったものの、どうやらこれはルワンダ人の「話しかけたいけれど、恥ずかしい」という気持ちの表れらしい。

男性と言葉を交わした後、ほど近いキガリ・メモリアルセンターに向かう。

道には点々と軍人やら警察が銃を手に立っている。木の陰にふいに立っていたりするので、なにやら驚いてしまう。

このキガリ・メモリアルセンターでは、虐殺が起きる背景となった植民地時代の歴史、虐殺、身近な人を亡くした人々へのインタビュー映像などがある。

1932年ベルギーの統治下で人種IDカードの導入が決まった。フツ族とツチ族は、所有している牛の数によって分けられたと書かれている。それが後の虐殺の際に出身民族を確認するカードとなっていく。

センターには、反ツチ族のプロパガンダ紙Kanguraに掲載された「フツ族の10のおきて」も貼られている。

ツチ族が一人残らずいなくなるよう、女性や子どもは直接のターゲットとなった。多くの女性がHIV感染者により性的虐待を受けた。虐待被害者は50万人にものぼる。

人々は、なたで切られ、殴られた。トイレに投げ込まれ、死ぬまで岩を一つずつ落とされていった。虐殺の犠牲者は、仲間を殺すことも求められた。

家族を亡くしてインタービューを受けた男性は言う。「銃を撃ち込まれ、大けがをして苦しんだ。数日後少しだけ回復をしたところで再び戻ってきて殺されたんだ。すぐに殺してくれたほうがまだ良かった。」

生き埋めにする際に使用されたチェーン、犠牲者の写真、殺された子どもたちの写真とそれぞれ好きだったスポーツ、食べもの、それに死亡した理由が置かれている。

最後にこう書かれていた。
「過去を忘れることはできません。そして、思い出すこともまたとても辛いものです。でも、同じ惨事を繰り返さないように、過去を心に刻んでおきましょう。」

お墓の上には、花束が置かれ、紫と白のリボンがかけられ、ろうそくが灯されている。

メモリアルセンターのショップには、Tシャツも売られている。「虐殺を繰り返さない」と書いたものから、「ルワンダで起きたことから学ばなかった者が、ダルフールで同じことを繰り返している」と書いたものもある。

ずらりと並んだバイクタクシーのわきを通り、宿へと戻ってからお友だちの家へとお邪魔する。

ここルワンダに来た目的は、JICAの青年海外協力隊員としてキガリに滞在している、みこうちゃんに会いにくるためである。

タクシーに乗って、みこうちゃんの住むニャミランボ地区へと向かう。塀のある家、に住むことが求められているそうで、厚い門を開けてお邪魔する。

近くのレストランに一緒に夕食を食べに行く。

ルワンダのレストランでは注文から一時間待つことも少なくないらしく、さすが待つ間につまむポテトチップスを持ってきている。

キンヤルワンダ語を使って、オーダーをしてもらう。フランス語をみな話しているのかと思ったら、日常会話はキンヤルワンダ語らしい。

山羊の肉とティラピア魚の揚げものの串、それに、フライドポテトにたまねぎをいただく。
ビールはPRIMUSにSKOL。

みこうちゃんは、役所でビジネス支援をしていて、協同組合で石鹸などを作って販売をしている。バスが通っていないというその場所まで、片道1時間ほどかけて徒歩で通勤している。

周りに海がないルワンダでは、モノを輸入するとなるとなかなかに費用がかかるうえ、新しいものを受け入れるのに抵抗がある人も少なくない。

例えば、チョコレートを売ろうと思っても、その新しい味はすんなりとは受け入れられない。そこで石鹸が良い、ということになる。特に青い石鹸は、売れるらしい。

日本のJICAの方法はモノを買って差し出すのではなく、現地の人々が自立できるような形をとるのだといい、韓国国際協力団、KOICAなどの支援方法はまた異なっているという。

お家に帰り、ルワンダのお茶を淹れていただき、それにシャワーのための熱湯をつくっていただく。

シャワーからは冷たい水が出るので、それを別に沸騰させたお湯と混ぜて使う。昨晩泊まった宿もそうだった。世界最貧国の一つだというルワンダには、水や電気がない家がまだまだあるのだそう。

既に学校ではフランス語ではなく、英語に切り替わっているそうで、街の看板も以前と比べて英語表記が多くなったという。

ここでは牛の数によって裕福さを図られる。そういえばTazara鉄道で話をしたザンビアの女性が、結婚するときには相手の家に牛を貢いでもらうといっていた。

恥ずかしがりやのルワンダ人気質は、ところどころでみこうちゃんを驚かせるという。髪がくるくるで長く伸ばせないという黒人女性にとって、みこうちゃんの髪はうらやましいようで、ふいに後ろからばっと触られたりすることもあるという。そして、すれ違った後、後ろから声をかけられることもまたある。

仕事の中で一番うれしいことは、地元の人たちが自発的にアイディアを出し、自分たちだけで仕事が回ってるのを見るとき、大変なことはお金を求められることだという。

シンプルな生活で大丈夫だというみこうちゃんは、このルワンダという国で、とても明るく前向きに、仕事をしている。