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Jordan

ヨルダン-レバノン国境情報

飛行機でヨルダンのアンマンから、レバノンのベイルートへ行くルートです。

<ヨルダン側>
1.旧市街から、ムジャンマ・シャマーリーのバスステーションまでタクシー(JOD 2.00)
2.ムジャンマ・シャマーリーから、空港までのバスが1時間に1本、毎正時に出ている。(JOD 3.00)
3.空港は、ターミナル1・2に分かれているので、確認して入る。
4.パスポートを提出して、出国手続。

<レバノン側>
5.機内で配られた入国カードをパスポートと一緒に提出。特に質問は無し。※
6.空港から、直接出るバスはないらしい。
  空港を出てまっすぐ行くと駐車場に出る。右に行くと駐車場の出口があり、
  駐車場出口から道路を左に進むと、大きな道路とぶつかるので、その辺りで
  チャールズ・ヘロウ方面へ行くミニバスに乗れる。
  (LBP 2,000-)

※イスラエルの入国・出国スタンプがパスポートに押されていると、レバノンに入国できないらしいですが、さらにパスポートにイスラエルの入国時に貼られたシールが貼ってあるor貼った跡があると、入国できないそうです。(イスラエル入国時に荷物を預ける際、シールがパスポートに貼られます。パスポートカバーをしているとカバーに貼られるので問題はないようです。)
私たちは、パスポートにシールが貼られていたので、
①シールをはがし、②シールの跡を湿らせたティッシュで拭き、③乾いたティッシュでも拭き、なんとかシールの跡を消しました。

◎両替
 空港に両替所があります。
 JOD 1.00 = LBP 2,000 で両替できます。(ベイルート市内でも同じでした。)

ヨルダンからレバノンへ。 – Amman, Jordan

シリアの人は良い人だ、と何度も聞いてきて、行きたい気持ちはいっぱいだけれど、どうにも最近のようすでは入ることが叶わない。そこで、ここヨルダンのアンマンから、レバノンのベイルート経由でトルコのイスタンブールに飛行機で飛ぶことにする。ちょうどベイルートで一泊できるチケットを見つけたので、レバノンに一晩おじゃますることにする。

フライトは夜の7時なので、朝はのんびりと起きて、今日も宿で紅茶にゆで卵、それにチーズとパンと苺ジャムのセットをいただく。

宿から、ローマ劇場まで歩いていく。色のついた砂を瓶に入れて器用に模様をつける店、カフィーヤや女性の民族衣装、硬貨の骨董品、水たばこなどがぎっしりと並べられて売られている。

大きくも訪ねる人のほとんどないローマ劇場から、191年に建てられたという噴水ニンファエウム、そのそばの食料品市場を抜ける。道沿いに数多くの両替商が並んでいる。メッカの絵を入口に貼る店もある。

宿の近くのもう1軒のイラク料理のレストラン、Al Azaiemに入る。ここはヨルダンに来て10年というイラク人男性が営んでいる。トマトとピーマン、茄子のトマト煮込みと豆の煮込み、それに香ばしいご飯3種類、レモンの添えられたサラダにどっさりと置かれたパン。どうにもトマト煮込みがとても旨みがあるのだ。

支度ができたので、クイーン・アリア国際空港に向かう。タクシーをつかまえて、ムジャンマ・シャマーリー・ターミナルへ、そこからバスに乗り換えて1時間ほどのところに空港はある。

空港にも、すっぽりと身体を布でおおったイスラム教の女性は多い。標識に、カフェや銀行などと並んで、モスクの方向まで矢印で書かれている。

ターミナルに入ると、まずは大きな荷物と手荷物のチェックがある。女性は別通路があり、ひっそりと座る担当女性に軽く身体を触られて確認をする。その後、イミグレーションに進む。名前と行き先を確認されただけで、無事に出国スタンプが押される。

ターミナル自体がそれほど大きな建物ではなく、すいすいと移動すればあっという間にゲートまでたどり着く。ピザ・ハットやKFCもあり、ライトもきちんとついていて明るい感じはするものの、高級ブランドが勢ぞろいというわけではない。

搭乗ゲート前にもう一度手荷物確認のゲートがある。ここでも女性専用通路がある。顔を黒い布で覆っている女性も、ここではそれをそろりとはがし、担当女性に顔を見せてパスポートと照合される。

アンマンの夕暮れ – Amman, Jordan

今日はパソコンの調子が良くないので、宿で朝食をいただきながら、ちょこちょこと作業をする。紅茶を飲みながら、ゆで卵、チーズ、それにパンとアプリコットジャムを塗ってほおばる。

夕方に街をぶらりと歩いて、ジャバル・アル・カラアの山頂にあるアンマン城を見に行く。エジプト人だという男性に道を教えてもらいながら、歩く。あちらこちらから「Welcome to Jordan」と声をかけられる。

そして今日も「6-0」。警察も同様だ。そう言って、にこりと笑う。この街で、物乞いを見かけることは、ほとんどない。

城は、古くから要塞とされてきた地に建てられたヘラクレス神殿の門と柱が、取り残されて、すっと空を向いている。門の前で、警察官も含めて男性が布を敷いて祈りを始める。そのそばで、水たばこを吸う少年たちがいる。

徐々に日が暮れて行き、モスクが緑色のライトをつけて、丘に点々と灯されていく。月が浮かび、飛行機が飛んでいく。人々はダウンタウンの夜景を眺めながら、夕暮れ時を過ごしている。反対側には、縦30m、横60mという巨大なヨルダン国旗が他を圧倒する高さで掲げられている。

眼下にはびっしりとつまった建物の合間に小規模なビルがところどころに建っている。ヨルダン最大のローマ劇場やローマ時代にコンサート会場などとして使われてたオデオンも近い。

640年にフィラデルフィア大聖堂を改築してできて、その後オスマン建築様式で修復されたアル・フセイン・モスクでは人々が祈りを捧げ、あるいは寝そべったりしている。

夕食は、お勧めをされた食堂、アンワール・アルコッズに行き、揚げたカリフラワーやジャガイモを鶏肉とご飯をスープで炊いたマグルーバ、それにコフタ・タッヒニーヤをオーダーする。ミンチ肉の練り物を焼いたコフタが隠れるほど、ゴマのペーストとポテトがシルバーの器にたっぷりと盛られている。それに、パンとピクルスがついてくる。

アラビア菓子の名店ハビーバには夜の10時を過ぎても人々が行列を成して、カナーフェを持ち帰り、もしくは店の外でほおばっている。

路上には、アドルフ・ヒトラーやチェ・ゲバラ、サダム・フセイン、カダフィ大佐を表紙にした書籍がずらりと並べて売られている。

夜に宿の外から、テレビでサッカーを観る人々の歓声が聞こえてくる。

パレスチナ難民キャンプの今 – Border with Israel & the Palestinian Territories / Amman, Jordan

ヨルダン側のイミグレーション・オフィスの天井には燕が巣を作っていた。ヨルダン国王の写真がでかでかと描かれた壁紙の横で荷物確認をして、窓口に並べば、入国となる。イスラエルに入った痕跡は、イスラエル入国時にパスポートに貼られた荷物確認用のシールだけだ。

そこからタクシーをチャーターして、首都アンマンの宿、マンスールホテルまで向かう。所要時間約50分、なんとも近い。イスラエル、パレスチナ自治区であまり見かけることのなかった全身を黒いアバヤで覆う女性も再び見られるようになった。

アンマンにはパレスチナ難民のみならず、1980年代にはレバノン内戦からの避難民、1990年、2000年代の湾岸戦争、イラク戦争からの数十万人ともいわれるイラク避難民も住んでいる。その他ロシアやアルメニア、シリアからの人々も少なくないという。

宿の近くにも2軒並んでイラク食堂屋がある。そのうちの一軒、ビファレストランで、茄子の炒め物と、オクラの入ったピリ辛のトマトスープ、それにチキンののったご飯のセットをオーダーする。合わせてマンゴージュースを飲む。メニューは日本語でも書かれて店頭に貼られ、テープを切り貼りした装飾は、日本のカフェふうだ。

ヨルダンには、パレスチナ難民が多く住んでいる。かつての難民キャンプ、ワヒダット・キャンプの市場が今日土曜日には特に賑わっているというので、バスに乗って訪ねてみることにする。ヨルダン内に住む170万人近い難民のうち16%ほどがこのような公認キャンプに住み、そのうち5万人がワヒダット・キャンプに登録している。

市内中心にあるアル・フセイン・モスク辺りからバスに乗ってワヒダット・キャンプに行きたいと言うと、降りるときに教えてあげるから前のほうに座りなさい、と言う。街角にはヨルダン国旗が大きくはためき、パレスチナ難民のための国連施設がある。

ワヒダット・キャンプに到着してバスを降りると、今度は大人から子どもまで次々と写真を撮って、とポーズを構え、一人を撮り終えると、次はこっちとリレーが始まる。わたしたちがイスラエルに行く前の日本との「6-0」のワールドカップ予選を、今でも笑いながら責められる。

道ばたの看板には、国連のロゴに「平和はここから始まる」と書かれ、アラビア語で説明が書かれている。壁にはヨルダン国王や王妃のポスターも貼られている。街中ではベドウィンの赤と白のカフィーヤをかぶっている男性もちらりほらりと見かける。

パレスチナ難民キャンプと「キャンプ」の名前がついているものの、そこに見えるのは建物だ。1948年と1967年に多くのパレスチナ人がヨルダンにやって来た。人々は既に親の世代からこの辺りに住んでいるようで、家族の歴史がここに刻まれつつある。

数多くあるこの辺りのドレス店の一軒でもまた写真を撮ってのリレーが始まった。写真を撮っていると、コーヒーをどうぞとスパイスの効いたコーヒーを出してくれた。そして小声で言う。この辺りの75%はパレスチナ人で、残りの25%がヨルダン人。僕の両親がパレスチナからヨルダンにやって来たから、僕はヨルダン生まれのヨルダン育ちなんだよ、と言う。ここから5キロほどいったところに家を買って、今はそこに住んでいる。これが僕の息子たちだよ、と隣の男の子を指す。

大きなナスからキャベツ、それにトマトやいんげんなどの野菜、平べったい桃に葡萄やさくらんぼやスイカ、パイナップルといったフルーツ、ぶら提げられた肉のかたまり、それにきらびやかなドレスが所狭しと並んでいる。

イスラエル側パレスチナ自治区ヘブロンの市場を歩いていて上を見上げると、そこには落とされたごみの引っかかった金網があった。

ここヨルダン側パレスチナ難民キャンプの市場を歩いていて上を見上げると、そこに少年があげた凧が鮮やかに舞っている。

ヘブロンのパレスチナ人も明るくフレンドリーだった。それでも、「手元の箱を動かしてもイスラエル軍はそれに気づく」くらい、監視された世界に住んでいる。それに比べると、ここ難民キャンプの人々は、パレスチナ人としての歴史を背負いながらも、今現在は穏やかな日常生活がほんの少し垣間見える。

難民のなかでも、パレスチナに戻りたいと思っている人と、ヨルダンを気に入っている人がいると言う。ビジネスに長けたパレスチナ人を妬むヨルダン人も少なくないと聞く。

パレスチナ人がヨルダンのパスポートを持っていることは珍しくない。そしてイスラエル人がイスラエルの他に別のパスポートを持つ二重国籍もまた少なくないという。イスラエルの他に米国やドイツやフランスなどのヨーロッパのパスポート。だから、ヨルダンに来た時はイスラエル国籍であることを隠すのだと言う。だから、警察も、人々も、持っているパスポートの国籍ではなく、ルーツがどこなのかを知りたがるのだと聞いた。

「イスラエルは賢いんだよ」と、アンマンのパレスチナ人は声をひそめて言った。ヨルダンとイスラエルの政府間は仲が良い、でも人の間は仲が良くないのだという。

夕食は、宿の名従業員ルアンさんが差し入れをしてくれた、ドーナツやチョコクッキーにオレンジジュースをいただくことにする。ルアンさんも、ヨルダン生まれのヨルダン育ち、自由なイスラム教徒パレスチナ人である。

イスラエル-ヨルダン国境情報

イスラエルのエルサレムから、ヨルダンのアンマンまで抜けるルートです。

1.エルサレムのダマスカス門近くから、キングフセイン橋行きのバスに乗る。
 (※所要1時間。NIS 38.00)
2.イスラエル側で出国手続。パスポート及び入国時にスタンプが押された別紙を提出。
3.ヨルダン側へ行くバスへ乗る。(※所要10分。JOD 5.30)
4.ヨルダン側にて、入国手続。パスポートを提出。
5.アンマン行きのタクシーに乗る。(※所要1時間。1台 JOD 25.00)

◎両替
 ヨルダン側に銀行があります。
 NIS 1.00 = JOD 0.15