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2012年07月

古都エスファハーン歩き – Esfahan, Iran

朝の5時半ころにはバスがエスファハーンに到着する。タクシーに乗って宿まで向かい、朝食に紅茶や棗、それにナンにクリームチーズやはちみつ、にんじんジャムをつけてほおばる。

近くの商店で、植物の黒い種がぶつぶつと浮かんだ飲み物トフメ・シャルバティーの瓶を買い求めてラマダンらしく遠慮がちにぐびぐびする。

ジャマール・オッディーン通りをてくてくと歩いていくと、左手にエスファハーン名物のギャズの老舗ブランド、Gaz Kermaniの店舗があったので、立ち寄る。ピスタチオやアーモンドの入ったギャズをつまむ。ねっとりと甘い。地元の人々がいくつも箱買いをしていく。

更に通りを歩いていくと、右手にエスファハーンで最も高いメナ―レ・マスジェデ・アリーが高くそびえたっているのが見える。このメナーレは、礼拝の呼びかけだけに使われたのではなく、かつては砂漠を旅する隊商にとって大切な道しるべになっていたという。

バザールに入り、細い道を歩いていく。石造りのアーチに、木製の格子がかかるようすは日本を想わせ、とうとうアジアに入っていることに改めて気づく。カラフルで艶やかなドレス、スーツを着させられたファンキーキャラクター、幾層にも色を重ねたスパイス、真っ黒なチャドルの仕立て屋を眺め、Kashkという名前のしょっぱいミルクでできたボールをつまみながら、マスジェデ・ジャーメにたどり着く。

門の前では初老の男性が、炭をおこしている。このマスジェドの創建は8世紀までさかのぼり、エスファハーンで最も古い。礼拝堂は、いくつものドームが連続して天井をつくりあげ、それをつなげるようにアーチからつらなる柱が林立している。

四方にエイヴァーンが構えられている中庭を歩いていると、現在17歳の高校生で数学専攻だという男の子に話しかけられる。イランが海外のメディアでどう伝えられているのかと尋ねられる。答えを知っていながら、質問をしているふうだ。

イランでは、大学に入らない男性は高校のあとすぐに入隊し、大学に入った人々は卒業後に軍隊に入る。17歳に見えないその風貌で、大学に行くのは当然だというようすだった。断食を実行しているようで、暑さを感じて喉がかわくときは、クーラーの前に立つ、という。

男女分かれて入る聖廟には、多くの人々がコーランを手に腰をかけ、あるいは聖廟に身を寄せている。ある女性に、ようこそ、ようこそ、とペルシア語で言われて、幾度も顔をなでられる。礼拝の時間が近づいてきているようで、中庭のあちらこちらに丸められていた絨毯が、先の尖った金属で一面に広げられる。

もうすぐ日の暮れようとしているバザールは商売どころではないようで、多くの店がそのシャッターを閉めている。そこに相当なスピードのバイクが走り去っていく。バイクのひったくりが多くなっているから気をつけなさい、と声をかけられる。

すっかりしんとしたバザールを30分ほど歩いて、ゲイサリーイェ門をくぐると、縦510m、横163mの巨大なエマーム広場が目の前に突然に広がる。

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラやマスジェデ・エマーム、アーリー・ガープー宮殿が広場を囲い、いくつものアーチがライトアップして照らされている。

家族連れが草むらに座り、あちらこちらに輪をつくって、コンロやグラスのコップにティーポットなどを持ち込んで、夏のラマダンの夜を楽しんでいる。マスジェデ・エマームからは、ちょうど日没をむかえて祈りを捧げ終えた人々が、水を片手に出てくる。

月は白く夜空に浮かび、噴水が暑かった一日の火照りを冷ましていく。

夕食は、エスファハーン名物だというベルヤーニーを食べに、ハーフェズ通りの食堂へ入る。ゴマのナンに、トマトのスライスや生たまねぎ、それに羊肉を敷いて丸めて食べる。レモン汁をぽとりぽとりと垂らせば、まるでハンバーガーのようだ。

アイスクリームも有名だというので、エマーム広場に面した老舗ふうスイーツ屋で、チョコレートとバニラのアイスクリームがコーンカップに入ったものを買い求める。

エスファハーンのラマダンの夜、人々の食欲は衰えない。

そこからヒッチハイクで宿まで戻る。乗せてくれた男性は、ウォッカだってウイスキーだって飲むよ。アルコール禁止だって、ムッラー(ここではアリ・ハメネイのこと)だって、必要ないよと手をはらった。

イスラム教とゾロアスター教の街から聞こえる言葉 – Yazd, Iran

朝食に棗や木苺のドライフルーツ、ゆで卵にコーヒーやパンを宿の中庭でいただていると、ケルマーンシャーという町で医者をしているというイラン人男性に話しかけられた。英語がほとんどできないが、気さくにペルシア語で話しかけてくれる。

今日は地元からヤズドまで訪ねてきているので断食はしなくて良いが、明日地元に帰った後は飲食はしないと口に手をあてて示した。そして、イランのアリ・ハメネイはダメだ。日本は良い、とまた手と表情で伝えてくる。

昼のヤズドは、砂漠都市らしく、からりと暑い。

イランで最も高いメナ―レをもつマスジェデ・ジャーメを昨晩に続いて訪ねる。二本のメナ―レがにょっきりと天に向かって伸びている。礼拝用の敷物の上にコーランと石が置かれているが、人気はない。中庭には地下のガナートに続く階段が伸びている。

ラマダン中は日中に飲み物を飲めないので、そんな中を歩く人はあまりなく、住宅街の迷路のような旧市街にいたっては、まるでひっそりとして物音ひとつしない。ただひたすらに乾いた茶色の家が続き、時折広場に出るくらいだ。ある広場には、ぽつりと山車のような木造のナフルが置かれている。そんな中でもパンを引き延ばして窯にぺとりとくっつけて焼く男性がいて、黒いチャドルを着た女性がふいに現れる。

街の中のところどころにバードギールという風採り塔が立ち、ひんやりと暗い貯水池アーブ・アンバールへと続く階段がある。

旧市街には、土色の住居やアレクサンダーの牢獄や十二エマーム霊廟がある。築200年近い邸宅を改装したというファハダーン・ホテルを訪ねてみる。家族用と来客用の玄関が二つに分かれ、中庭もそれに合わせて分けられている。玄関の扉には、左右で違うノッカーが取り付けられて、これは客が男女どちらであるかを示すためだといい、低音で鳴るほうが男性、高音で鳴るほうが女性の来客であることを示した。

矢を入れる容器やカレンダー、卵入れにミシンなどのアンティークの調度品が部屋や廊下のあちらこちらに置かれている。台所は、女性が他の人の目に触れないようにするため、地下に設けられている。天井にいくつかあるドームに赤や緑、青といったカラフルな色が並ぶのは蚊よけだといい、その色をみた蚊は、くらくらとしてしまうのだそう。

地下にはかつて山の水を流したガナートがある。階段を下っていくと、水路があり、飲み水に使っていた。上に革からできたバケツがちょこりとぶらさがっている。かつてはそのバケツでガナートの水を汲み上げ、地上にもっていき、洗濯などに利用していた。

風採り塔のバードギールもある。かつてはその下に水を溜め、塔から入ってきた風がその下の水にあたり冷たい風として部屋に吹き込んでいたのだそう。

その後、迷路のような旧市街をくねくねと歩き、聖廟に立ち寄ったりしながら、大きな通りに出る。商店でマンゴージュースを買い求めて、ぐびぐびと飲み、そこから、ゾロアスター教寺院であるアーテシュキャデまでヒッチハイクをして行くことにする。

バスを貸切状態でヒッチハイクした後、ベヘシュティー広場で降ろしてもらい、別の車をヒッチハイクする。

乗せてくれた男性は、テヘラン大学で公共経営について学んでいるという男性だった。彼は、わたしたちを寺院まで送ってくれた果てに、そのチケットまで買って手に持たせてくれた。
そして言う。

「イランの国民を、政府と切り離してとらえてほしい。世界が、ニュースの中でみるようなイランは、問題だらけの政府のイメージであって、国民は良い人々だということをどうか周りの人に伝えてほしい。」

公共経営を専攻する男性は、イランが今最悪の状況にあることを心から嘆いていた。そして、国を変えたいと願っていた。アリ・ハメネイは、問題だ。国を変えたいが、政治家になることは、そちら側の勢力に加担することになるので、望むところではない、と言う。嘘をつかないと政治家にはなれないんです、と言った。それでもイランを変えたいと、その男性は続けた。

建物の入口正面には、ゾロアスター教の善の神、アフラ・マズダの像があり、寺院内では、火が灯され続けていて、煙の香りがする。軍人やイスラム教徒もその場所を訪ねてやってくる。

隣の建物では、外壁のアフラ・マズダの像が作り途中にある。中では、ゾロアスター教徒の白シャツに黒チョッキを着た男性や、白や緑の服装を着た女性の像などが展示され、聖典アヴェスターからの引用が掲げられていた。

前のベンチに腰かけていたイスラム教徒一家が、隣のベンチに座っていたわたしたちににんじんアイスクリームをどうぞと瓶ごと差し出す。にんじんはイランではスイーツにもよく使われ、にんじんジュース、にんじんアイスクリーム、にんじんジャムなどは定番なのだ。

そこからまたヒッチハイクをしてアミール・チャグマーグ広場まで戻る。ちょうど良い街の規模とイラン人の優しさで、またすぐに一台の車が停まってくれる。バザールには、金色のジュエリーがきらきらと売られている。それでも日没が近づいてくると、店はバタバタと扉を閉め始める。

かつて英語の先生で、退職をしてからは奥さんに仕えているという男性から話かけられた。イラン・イラク戦争では兵隊として戦地に赴き、イラクに捕えられ5年間拘束されていたという。それでもイスラム教徒として旅行者を厚くおもてなしするのがイラン人です、と言った。

ヤズドにはゾロアスター教徒も多数住んでいて、イスラム教徒であるその先生も、ゾロアスター教徒の先生とともに授業を組んで教えていて、良い仲間なんです、と言った。マスジェデ・ジャーメの近くにはユダヤ人地区もあります。国籍も宗教も関係ないんです、と外国人を自宅に招いたりして観光協会から注意を受けたこともあるという先生はそう言った。

緑のタイを首につけた男性がそばを歩いていく。ムハンマドの子孫であるセイイェドだといった。

バザールを抜けて、ユネスコからも表彰されたという、伝統的建築を改装したメフル・ホテルを訪ねる。ここも他ホテルと同様に中庭を囲むように部屋が並び、半地下にも部屋をもつ。そして公的なスペースと私的なスペースは分かれていて、まるで迷路のように入り組んでいた。

外に出ると、ふっくらとふくらんできた月の下で絨毯を敷き、ホテルの前で祈りを捧げる従業員がいた。

既にバザールの扉は閉まり、ひっそりとしていたものの、その中のモスクからは発砲の白い容器を手にした人々が続々と出てきている。ラマダン中、日没8時ころの祈りを終えると、モスクがこうして人々に無料で弁当を提供しているのである。多くの人々が待ちきれないかのように殺到し、時にどなり合い、あるいはモスクの周りの地べたに座り込んで、ご飯をかきこんでいる。

わたしたちも列に並んで弁当をいただき、アミール・チャグマーグのタキーイェの前の芝生に座ってそれをいただくことにする。シンプルなピラフの上にパンがのっている。周りでは、バーナーを持ってきて家族でピクニックをするかのように夜を楽しんでいる人々がいる。目の前には、高さ8.5メートルあるというナフルが置かれている。

イランには軍といっても、共和国軍とイスラム革命防衛軍という2種類の軍があるのだそう。今日は街に軍人の姿がよく目につく。

タキーイェの下をくぐったところに美味しいアーブ・グーシュトを食べさせてくれる店があるとお勧めをもらったので、訪ねてみる。羊肉やじゃがいも、豆の入ったスープの入った壺がお盆にのって絨毯の席に置かれる。絨毯にビニールを敷き、壺に入ったスープを銀の器に出して、共に出された重みのある銀の棒でそれをすりつぶし、ナンをちぎってそれに入れていただく。ナンはスープを吸いあげる。生たまねぎをかじりながら、ほおばる。

日の暮れたヤズドは、昼よりも人通りが増える。マスジェデ・ハズィーレには、白や黒のターバンを頭にのせた聖職者たちが続々と入っていく。

夜はエスファハーンに向かう。タクシーに乗ってターミナルへ向かい、チケットを買う。VIP車ということで、横は3列の座席でゆったりとしている。リクライニングも完ぺきだ。定刻の12時を30分ほど過ぎて出発し、冷たく凍ったいちごジュースにココナッツクッキーやバナナウエハースの入ったお菓子箱が配られる。

イランのお家ごはんとゾロアスター教徒の墓場 – Yazd, Iran

朝の5時半ころにヤズドのターミナルに到着すると、宿のドライバーが迎えに来てくれていた。途中にガソリンスタンドに立ち寄り、イランのガソリンは安い、1リットルレギュラー4000リアルで、ハイオクでも7000リアルだよと嬉しそうだ。

朝食は、宿の中庭で、チーズや棗、トマトやきゅうりにオムレツとパンにメロン、それからコーヒーをいただく。

暑い日差しの照りつける昼のヤズドの町は、商店のシャッターもぴしゃりと閉められ、ひっそりとしている。時折現れるモスクの周りに礼拝を終えた人々が集まっている程度だ。

そんなシャッター通りを歩いて、ゾロアスター教徒の墓場、沈黙の塔まで足を運ぶことにする。

ゾロアスター教徒は、イスラム教徒の服装規定とは異なり髪を覆う必要もないというが、イラン国民としてイスラム教の規則を守らなければならないため、みな髪をヒジャブで隠している。だからヤズドの住民の1割がゾロアスター教徒だというが、誰がゾロアスター教徒なのかは傍からは判らない。

沈黙の塔へ向かうバスを探しに歩いていると、全身を黒いチャドルで覆った若い女の子とそのお母さんに話しかけられた。その女の子は、全身を覆う黒いチャドルも暑くはない、むしろイスラム教徒としてとても好きなのだと言った。

近くにいた男性が、沈黙の塔へ行くなら送っていくよと言い、さらに昼は暑いからまずは家で涼んでから行けば良いと言う。男性が乗っていた車は、大きくて長年使われてきたメルセデス・ベンツの大型トラックだった。

大きなそのトラックによっこらしょと飛び乗り、運転席の隣に座らせてもらう。トラックには日本製のテーププレーヤーが取り付けられ、イラン音楽を流す。食べなさいともらった棗をほおばり、右手に伝統的な貯水施設、Ab Anbar Rostam Givを見つつ、沈黙の塔にほど近い男性の家に招いてもらう。

日差しの強い外から、真っ白なそのご自宅に靴を脱いであがると途端にひんやりとして涼しい。棚にはカラフルな磁器が並べられ、アンティークのランプも置かれている。そしてそこにはふんわりとした笑顔を白に花柄のチャドルで包んだ奥さんと、18歳のお姉さん、15歳の妹、13歳の弟の3人の子どもがいた。

見知らぬ者同士だったというお父さんとお母さんが結婚して20年、お姉さんは大学生で、職が得やすいという会計を勉強し、妹は将来心臓医を目指し、弟はサッカー選手を夢見ている。イスラム教徒の一家だ。

今は夏休み中だが、ラマダンの間は特に外は暑いので、外出もせずに室内にいて水分をとらずにすむように心がけていた。

そのうちに親戚のお母さんと女の子も入ってソファに腰をかける。女の子はグラフィック・デザイナーとしてアトリエで働いていて、iPadを取り出し、Google Translateを見事に使いこなし始めた。VPNを使って、政府のフィルターなどお構いなく、facebookを駆使している。

ひんやりと冷たいぶどうジュース、それにZoolbia、Bamieh、象の耳という名のGoosh-e Feelといったスイーツから始まり、ぶどうやメロンにスイカ、レンズ豆のシチュー、ホレシュテ・ゲイメとライス、トマトや棗のシロップ漬けにいちじく、チャイ、そして庭からとった木苺などが次から次へとわたしたちの前に運ばれてくる。ラマダン中の家族はみな、ぱくぱくと食べるわたしたちを囲み、何も飲食をせずにおしゃべりをする。

子どもたちはラマダンはつらいとも言うが、わたしたちには食べろ食べろと勧めてくる。

イランでは男の子は15歳から、女の子は9歳からイスラム教の教えに則るのだといい、断食や女の子のヒジャブ着用もその年齢から。女の子のほうが男の子よりも成熟が早いので、これほどの年齢の開きがあるのだそう。これほど男女の年齢に差があって不公平だと思わないかとお姉ちゃんに尋ねると、鼻をくしゃりとさせて、少しねとしぐさをしてみせた。それでも、ヒジャブ着用は慣れていて、暑いと感じたりはしないという。

休みの日には、勉強をしたりテレビを見たり、パソコンでゲームをしたり、家族旅行をしたり、ピクニックをしたり、映画を観たり。好きな食べものはみな口を揃えてファースト・フード。ハンバーガーやサンドイッチ、ピザは大好き。

お父さんはわたしたちにどっさりと棗を持たせ、また大きなメルセデス・ベンツのトラックに乗ってわたしたちを沈黙の塔まで送ってくれた。ラマダン中は仕事はほとんどしないのだと言った。

今のアフムード・アフマディーネジャード大統領がだめだからイランの景気も良くない、子どもたちを大学に行かせるのはとても大変だと運転をしながらペルシア語とわずかな英語でつぶやいた。

ゾロアスター教は、火、水、土を神聖化しており、それを穢すことになる火葬や土葬を嫌って遺体を鳥葬場に安置し鳥に喰いつくさせた。沈黙の塔はその跡だ。1930年代にレザー・シャ―が鳥葬を禁止してから、イスラム教徒と同様に土葬するようになったという。

ゾロアスター教徒の墓場である沈黙の塔は、イスラム教徒のお父さんにとっては興味がない場所だった。

近所の若者たちがその広がる砂地でバイクをふかしている。鳥葬が行われていた場所というが、そこは夕焼けを眺める若者たちが集まる場所になっていた。塔の上にはぽかりと白い月が浮かび始めた。

二つの丘にはそれぞれその頂上に鳥葬場があり、麓には通夜などに使われた集会場や貯水池、アーブ・アンバール、それに現在のゾロアスター教の土葬墓地も点在している。

帰りはヤズドの中心部までバスの本数も少ないようだったので、ヒッチハイクを試みる。日産車に乗った工場帰りの男性と、イランのラップを爆音で流しながら日本大好きと叫ぶ若い男性二人組に乗せてもらいながら、夜のマスジェデ・ジャーメに連れて行ってもらう。

すでに日も暮れて集まってイフタールを食べる人々がいる。

周りの旧市街を散策していると、一つのモスクの中から食事をしている男性たちが手招きをした。中に入ると、チャイや砂糖水や砂糖菓子、それにゆで卵をどうぞと差し出された。ラマダン中はこうして、日が暮れるとモスクで食事が振舞われたりする。聖職者だという男性が、奥のほうから聖職衣を取り出しぱっと着てみせて写真をどうぞ撮ってくださいとにこにこ笑いながら言った。

明るく輝く月が、イスラム教とゾロアスター教の町を照らしている。

ぎらぎらのイスラムワールド – Shiraz, Iran

今日は朝ごはんを食べる前に、寺院マスジェデ・ナスィーロル・モルクに向かう。ここに朝一番に来たのは、ステンドグラスからの光が朝にとてもきれいだと聞いたから。開館時間の8時を30分ほど過ぎて到着しても、厚い木の扉は固く閉ざされていた。そばを自転車で通りかかったおじいちゃんを巻き沿いにして、なんとか扉を開けてもらう。

朝の光に照らされて、窓のステンドグラスからは赤や緑、青や黄色といった光が赤い絨毯にくっきりと色を加えている。壁面には、ピンクや青を基調として草花や緑に囲まれた家々の模様が描かれている。

他に人はおらず、しんとした静かで小さな寺院だ。

宿に一度戻り、今日も中庭の絨毯で朝食をいただく。トマトやきゅうり、パンにバター、紅茶にミルク、クリームチーズににんじんジャム、そしてはちみつ。

のんびりとしてから、シーラーズ最古の寺院マスジェデ・ジャーメを訪れ、メッカのカーバ神殿を模したという中庭の神の家を眺める。

それから隣にあるシーラーズの聖地、シャー・チェラーグ廟を昨日に続いて訪れる。シーラーズで殉教したエマーム・レザーの弟、セイイェド・アフマド・エブネ・ムーサ―の廟だ。

イスラム教徒にとっての礼拝の日にあたる金曜日を過ぎた聖地は、昨日よりはやや落ち着いてリラックスした雰囲気だ。入口は男女で分かれ、女性は全身を覆うチャドルを羽織らなければ中には入れない。

壁やドーム型の天井は鏡のモザイクがびっしりと光を反射し、いくつものきらきらと輝くシャンデリアが吊るされている。イスラム教徒の女性が人前で全身を使って祈りを捧げるのを見るのはほとんどなかったが、ここでは黒いチャドルを身につけた女性たちが、幾度もかがんで、床に置いた石に額をあてる。

廟は銀の格子で囲まれ、中にはお札が入れられている。格子に人々は身を寄せて、顔をぐっと近づけて、キスをしていく。

昨日ここで話しかけられた姉妹は、手をへナで装飾し、片手には数珠を持っていた。そして、口をぱくぱくと動かして、声にならない祈りを唱えていた。

コーランを読み更ける人もいれば、昼寝をしている人もいる。大勢集まる廟の付近では、ふわふわのはたきで人々が誘導されていく。

聖地を抜けて、バザールをそぞろ歩く。踊りのためのきらきらスカートや布、紐などは、いつもの真っ黒に身を包んだ女性の姿からはかけ離れている。靴職人は靴をつくり、店には綿あめパック、カラフルな層をつくるスパイス、水たばこ、カラフルな器、Play Station3のソフト、絨毯などが所狭しと並んでいる。

道ばたのアイスクリーム屋やジュース屋では、入口にかけられたぶ厚い布や半開きのシャッターの向こうで、人々がアイスクリームを食べ、ジュースを飲んでいる。

シーラーズらしいメナ―レの低いマスジェデ・ヴァキール、迎賓館やキャリーム・ハーンの廟としても利用されていた建物を使ったパールス博物館、キャリーム・ハーンの居城として使われていたキャリーム・ハーン城塞を抜けて、歩いていく。

道ばたで売られていた茄子のディップHalim bademjanや、寒天のようなTar Halvaをいただきながら、夕暮れのアリー・エブネ・ハムゼ聖廟にたどり着く。庭では男女が布で仕切られた絨毯に既に人々が座って、立てられた木の上にコーランを置き、それを読んでいる。日没が近づくにつれ、徐々にその人数は増えていき、男性がマイクで引導してコーランを唱える。

その周りをノースリーブに短パンの子どもたちが走り遊びまわっている。

この廟の中もまたぎんぎんぎらぎらとしていて、その中で鏡の中に埋め込まれた青い星がアクセントを加えている。廟には香水がふられ、訪ねた人々に香水が塗られる。女性はここでもチャドルを身につけなければ入れない。チャドルを持っていないので、入口で借りて入るも、着かたが分からないので、女性たちがてんやわんやと着付けを手伝ってくれる。

最後には、ステンドグラスも綺麗だから写真を撮ってと誘われ、チャドル姿をカメラで撮ってあげるから貸してみてと言われ、果てにはどうぞとキャンディーをいただく。

日没を迎えた聖廟には緑のライトがつき、人々は水を飲み始め、そして祈りが始まる。

帰り道に、行列のできていた店で、練乳のような味のアイスクリーム、それに春雨を短く切って硬くしたのをサイダーに入れたような、コーンスターチとシロップのfaludehを買い求めて食べ歩く。

夕食は宿でキョフテ・サブジをオーダーする。レーズンやナッツの入った肉団子にご飯と生たまねぎ、それにピーマンとライムがついてくる。

タクシーに乗ってバスターミナルへ向かい、大切な旅仲間と別れを告げて今日はこれからヤズドに向かう。

バスが発車すると、冷えたりんごバナナジュースが配られる。イラン料理は食べたあとに喉がかわくことが多いので、とてもありがたい。

いろんな場所からの貢ぎ物 – Shiraz / Persepolis / Naghsh-e Rostam, Iran

5時半ころにはシーラーズのターミナルに到着し、そこからタクシーに乗って宿へと向かう。イランでは基本的に宿の中でも、部屋の外では髪をヒジャブなどで隠し、腰がかくれるほどのマーントーを着る必要がある。朝食はそんな格好をして、宿の中庭できゅうりや茹でたまご、トマトにパンのビュッフェ、それに紅茶にミルクを、絨毯の敷かれた席に腰かけていただく。

金曜日の今日は、モスクへ祈りに行く人々が朝から大勢いる。835年に殉教したセイイェド・アフマド・エブネ・ムーサーの廟のあるシャー・チェラーグ廟にも多くの人々が集まっている。

今日は、アケメネス朝の都だった遺跡、ペルセポリスに向かう。宿からバス乗り場まで向かう。道には金色の神輿のようなものが車に運ばれていく。1時間ほどでマルヴダシュトに到着し、そこからタクシーに乗り換えて、まずはナグシェ・ロスタムへと向かう。

ここにはアルケメネス朝の王墓が、岩山にギリシャ十字型にくり抜かれて並んでいる。中央には、ゾロアスター教の神殿だといわれる四角い石造りのタワーがすくりとたっている。王墓には、馬に乗った騎士のレリーフや、サーサーン朝の王が捕虜となった東ローマ帝国の皇帝をつかむ姿などがくっきりと描かれて残っていた。

そのままタクシーに乗って、ペルセポリスに行く。

馬に乗りながら上がり下りのできる高さにつくられた入口の大階段、偶像崇拝を嫌うイスラム教徒によって頭を削られた牡牛像や人面有翼獣神像のたつ正門、クセルクセス門。

その門を抜けると、儀仗兵の通路に対になった双頭鷲像がたっている。かつて100本の柱のあった百柱の門の広場には、当時財宝が展示されていたという。門には、一番上にゾロアスター教の最高神アフラ・マズダ、その下に王、一番下に王の座る玉座を担ぐ臣民が描かれている。

そこから丘をあがったところにあるアルタクセルクセス2世の王墓からは、ペルセポリス全体を見渡すことができる。ここでも岩肌が十字型にくり抜かれ、アフラ・マズダや玉座かつぎ、それに花のレリーフが彫りこまれている。

さらにクセルクセス1世の宮殿ハディーシュや、ダレイオス1世の宮殿タチャラ、会議の間ともよばれる中央宮殿とまわって、謁見の間、アパダーナへと入っていく。杉が使われていたという屋根を支えていた柱のうち12本が残ってすっくと立っている。出入り口の階段には、メディア人とペルシア人の高官の姿や、王に捧げものを献上する属国の使者たちが精細に描かれている。

牡牛にかみつくライオン、エチオピアやリビアからインドやエジプト、カッパドキアやアルメニアなど20以上の場所からの使者たちが牡牛やらくだを引き連れ、槍と盾をもち、それぞれの地域の装いで貢物とともに歩いていく。そばには楔形の古代ペルシア語も彫りこまれている。

それほど大きくない遺跡であるものの、あちらこちらでイランの人たちに一緒に写真を撮りましょう、と話しかけられるので、ずいぶんとゆっくりとする。

ペルセポリスからマルヴダシュトの町までヒッチハイクを試みると、すぐに一台の車が停車した。ペルシア語の先生だといい、町まで送ってくれるという。

先生は、イラン人の多くが現在の生活を幸せに思っていない、と言った。理由は三つあって、一つ目は経済封鎖によってものの値段が上がり、イラン経済がとても悪い状態にあるため。二つ目はイランが保有していると言われている核について人々は快く思っていないため、三つ目は国家によるイスラム教関連の決まりが厳しすぎて自由がないためなのだと明るく言う。

マルヴダシュトでバスをつかまえ、20時過ぎにはシーラーズのバスターミナルへと戻ってくる。レモン味のノンアルコールビールを飲んだ後、屋台で売られていた酸味のあるお粥の入ったスープ、アーシェをいただく。すると、屋台のおじさんはお金は要らない、と言う。

さて、ターミナルから街中までどうやって戻ろうかと思っていたら、バスの運転手が乗っていくと良いと言って手招きをして、がらんどうのバスを貸し切って町の中心まで走ってくれた。すると、バスのお兄さんはお金は要らない、と言う。

日没を迎えたシーラーズのキャリーム・ハーネ・ザンド通りには、サモサなどの屋台も出て、活気づいている。食堂に入って、ハツにレバー、それにチキンの手羽先ともも肉を炭火で焼いたもの、それにヨーグルトをオーダーする。ついてきたパンに飲み物はペプシを合わせる。

ここ数ヶ月経済封鎖の影響もあって鶏肉不足になり、その価格が2倍ほどになっていたという。それでも最近ブラジルから大量に鶏肉を輸入できてここ数日は価格が落ち着いてきた。ただイランと仲の良かったブラジルの前大統領も、現大統領にかわってから、他国の目を気にしているから、今後良い関係を保てるかは分からないと聞く。

1979年に旧アメリカ大使館で起こった人質事件やイスラエルを支持する米国によって、すっかりイランは米国に目の敵のされてしまった。イランにもコカコーラのロゴが書かれ、くっきりとORIGINALとうたわれたペットボトルが売られている。これは米国製かと思っていたら、どうやら、メイド・イン・イラン、らしい。

食堂を出ても賑やかなままの路上でアイスクリームをほおばる。店に入れば、どうぞと今度は店員にキャンディをいただく。夜も更けた道ばたに座り、おじさんの淹れたチャイを飲む。そばには水たばこが愛想もなく置かれている。皿に盛られた角砂糖を一つつまみ、口にほおばりながらチャイを飲むと良いのだと、教えてもらった。