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Uzbekistan

ウズベキスタン-キルギス国境情報

ウズベキスタンのアンディジョンから、キルギスのオシュまで抜けるルートです。

1.アンディジョンのBabur streetで、国境行きのタクシーに乗る。
 (※UZS 6,000-. 所要1時間。)
2.ウズベキスタン側で税関申告書を2枚記入。1枚を戻してもらう。
 (※税関申告書の所持金の額は、入国時に記入した額より少なくなっている必要があるようです。)
3.荷物を全てX線に通す。
4.入国審査。2で戻してもらった税関申告書とパスポートを提出。
5.建物を出て、200m程でキルギス側の建物に到着。
6.建物に入って、パスポートを提出。

◎両替
 ウズベキスタン側の建物を出たところに、両替所があります。
 UZS 1000 = KGS 16.00 で両替しました。
 

日本語学校とどきどきの国境 – Rishton / Border with Kyrgyzstan, Uzbekistan

今朝はじゃがいもと肉の入ったウズベキスタンふうコロッケときゅうりにトマトソース、それにお母さんが作ったという桃のジャムにチャイとパン、そして庭でもいだばかりのぶどうを中庭の絨毯にすわっていただく。

家のお母さんは、旧ソ連の時代は海外にも自由に行けなかったから、今のほうが自由があって良いと言う。でも、物価の安かった旧ソ連時代に比べて、今はインフレで生活はやさしくはない、と柔らかな笑顔を顔にたたえて付け加える。旧ソ連時代もものはバザールや商店で買っていた。周りに座っている若い子どもたちは、もう旧ソ連時代のことは知らないんですと言った。

今朝は家からほど近いNORIKO学級に連れて行ってもらう。NORIKO学級とは、1994年にエンジニアとしてウズベキスタンに赴任された大崎重勝さんが、リシタン・ジャパンセンター所長のナジロフ・ガニシャル氏と出会って開いた日本語学校だ。

学校の前には、2005年に亡くなった大崎おじさん、そして心と大きく書かれた石碑がある。

9時から授業が始まるといい、8時半にならない学校は、まだ静かだった。それでも、学校には、ボランティアで先生をなさっている小池先生も、JICAで活動されている方もいらしていた。小池先生は、もともとドイツ国際平和村というNGO団体で活動されていて、そのNGO活動の一環でウズベキスタンに来て、そのままご縁でこの学校でボランティアをされている。

この学校は現在、亡くなった大崎さんとともに活動を始めたウズベキスタン人が自腹で運営をしているという。かつてはボランティアで賄えたこの学校も、インフレに悩まされて学校の継続が難しくなってきている。一時期ボランティアの先生がいなくて閉校をしたこともあり、これからも小池先生がいなければ、また閉校せざるをえない状況にある。

9時になるころ、元気な子どもたちが続々と教室にやってくる。教室の前にはウズベキスタンと日本の国旗の絵が掲げられ、壁にはハロー・キティの掛け軸や和人形にこいのぼりなどが飾られている。

生徒たちはこんにちは、と大きな声で、日本語の挨拶をする。先生の指導のもと、黒板に漢字やひらがなを書く。そしてわたしたちも交じって、例文をつくったり、一緒にカルタで遊んだりする。文章を作り終えたら、子どもたちはたたたと駆け寄ってきて、見てみてとノートを差し出す。侍、脇坂淡路守と漢字で書いて、その画を描く子どももいる。

13、14歳ほどまでの年齢も日本語のレベルもばらばらの子どもたちが一つの教室に集まるのだから、先生も大変だ。そのうちに、子どもたち同士のけんかだって始まる。先生もよくあることなんです、と言った。

学校には工房も併設されていて、中庭ではいくつもの陶器が積み重なり、ろくろの上で絵が描かれていく。

今日は、国境が開いているうちに、キルギスのオシュへと向かいたい。シャンプーやお茶を買い求めて、バスに乗り込み1時間ほどでフェルガナの町へ到着し、またミニバスに乗り換えてアンディジャンへと向かおうとするも、ミニバスはすぐに人々が殺到し、なかなかのカオスと化している。なにしろ便数が少ないのだ。暑いので、近くで桃の炭酸を飲みながら待つ。地元の人々も炭酸をよく飲んでいる。

ガイドになりたいという男の子がわたしたちと一緒にバスを待ち、なかなか交通手段が整っていないことをわたしたちに謝った。

ようやくやってきたミニバスに飛び乗り、1時間ほどでアンディジャンの町へと到着する。

ウズベキスタンでは町のあちらこちらでしゅわしゅわとした炭酸飲料が売られている。お腹の調子も回復してきたので、頼んでみる。透明の炭酸水を管からしゅわしゅわと泡をたてながら出して、それに原液を上からまたしゅわしゅわと入れる。それはまるでビールのような見かけだが、子どもたちも飲んでいる。甘い炭酸水の最後にほのかな苦みがふわりとする。

新しくてお洒落な雰囲気のアンディジャンから、国境まで乗り合いタクシーで向かうことにする。乗り合いタクシーを探しにてくてくと歩いていると、白い自家用車に声をかけられる。既に乗車していた他の二人のウズベキスタン人の乗客もオシュに向かうと言う。

アンディジャンから40分ほどでキルギスとの国境に到着する。もう夕焼けも近い。山羊や羊に馬が放たれている。

わたしたちは、昨日個人宅に泊まってしまったために、蓄積しておかなければならないともいう滞在登録、レギストラーツィアが一日分欠けている。出国の際に何か文句を言われかねない。この国の警察は悪名高いのである。

やや緊張の面持ちで建物に向かう。入口でパスポートチェックがあるものの、何かにつけてありがとうございます、と向こうから言われる。そして隣の担当者はパスポートをチェックする前に突然に、子どもはいるのか、と聞いてきた。

一つ目の建物を通り過ぎ、中庭を通って、次の建物へ入る。申告書を2枚書く。入国時にはロシア語しかなかったものの、出国時には英語のものもある。足元に荷物を置いて申告書を書いていると、職員に、盗まれないように気を付けてくださいね、と言われる。

申告書類をもって担当職員のところまで持っていくと、紙に目もやらないうちに、また子どもはいるのか、いつ子どもをつくるのか、ウズベキスタンをどう思うのか、と尋ねてくる。用紙に記入する、所有ドルの額は入国時より減らしておいた。すると特別な問題もなくスタンプが押される。

ここからイミグレーションの窓口へと移動する。まだ出国手続きは終わっていない。

この窓口にも入口と同じように地元の人たちの長蛇の列があるものの、先へどうぞと人々から勧められる。滞在登録の問題でどきどきとするも、結局レギストラーツィアの紙を出しなさいと言われ、一日分欠けたままの全ての紙切れを取り出して、窓口に渡す。すると、それを特別に見るわけでもなく、ただ回収されただけだった。

こうして無事に出国を果たす。

両替を済ませて、少し歩けばもうキルギスのイミグレーションだ。

のんびりタクシーと陶芸家族と地元ごはん – Tashkent / Rishton, Uzbekistan

朝に宿の中庭の絨毯で目覚めると、宿のオーナーは既に朝食の準備をしていた。空には久しぶりに雲が浮かんでいる。チャイにパンにスモークチーズ、それにゆで卵が運ばれてくる。オーナーのMirzoさんは、代々受け継いでいる、弦が二本の楽器Dutarを弾きながら、謡いあげてくれる。

今日はタシケントからフェルガナ盆地のリシタンまで向かうことにする。バスが走っていないので、乗り合いタクシーを利用することになる。

宿を出て、乗り合いタクシー乗り場へ向かうためのバスが出ているクカルダシュ・メドレセ前まで歩いていく。道ばたでは朝から焼きたてのパンが売られ、建物の裏ではペットボトルの山を仕分けする人々、大声で叫びながらお金をせびる男性などがいる中、てくてくと歩いてチョルスー・バザール裏のバス停留所へと到着する。

鮮やかなタイルに彩られたタカルダシュ・メドレセや、銀色のドームにしゅっと月のマークがたっているジュマ・モスクの近くに、旧ソ連ふうの四角くて味気のない建物が並んでいる。

バスに乗りながら眺める街には、スワロフスキーやBang & Olufsen、それにモンブランなどが煉瓦づくりに並び、ZARAの看板も見えてくる。駅を通り過ぎ、コンテナの積まれている脇を通り、銀色のドームの輝くモスクの前を走っていく。時折古びた無機質なマンションが1990年とカラフルに書かれた数字とともにクリーム色や水色で彩られている。

タクシー乗り場に到着すると、運転手たちは、いつもと変わらず平然と相場の10倍ほどの値段をぶつけてくる。それに応じずにいても、値引こうとする様子がない。やっと交渉が成立したところで、近くの売店で梨の炭酸飲料を買い求めて、タクシーに乗り込む。他二つの座席は、黒いムスリム帽をかぶった友だち同士のおじいちゃんたちが座っている。

山間の道をタクシーは走っていく。1時間ほど走ったところで、ガソリンスタンドに入るから車を降りるように言われ、それから30分ほど走ったところで、運転手は急にタクシーを停めて今度は眠いから寝る、といった具合で、てっぷりと出たお腹を見せながら、ぐーすかと眠りだした。

運転手が眠りから覚めて運転すること30分、今度はパスポートチェックで一度下車をして、警察のいるブースでパスポートを見せて、紙になにやらいろいろと記入される。

窓の外には列車が通り、あるいは、エメラルドグリーンの色をした川が流れていく。運転席からつばを吐けば、後部座席のこちらにかかる。トンネルでは写真撮影が禁止されていて、カメラを隠すように言われる。トンネルの出口には銃を持った軍人が立っている。

それにしても涼しい風が吹いていく。

岩肌の見える道を走ること30分ほどでタクシーは再び停車する。

運転手がご飯を食べたいから、車を降りなさい、と手で合図をする。招かれるままに、運転手と乗客とともにテーブルを囲む。運転手は羊肉やパンと生たまねぎ、それに緑茶をオーダーして、パンに羊肉をはさみ、わたしたちも食べろとまたジェスチャーをする。そして乗客のおじいさんも手にもったパンを袋に入れて、どうぞ食べなさいとわたしたちに差し出す。食事を終えて運転をし始めると、運転手と二人の乗客は一様に顔に手を拭うようにして祈りを捧げる。

くねくねと峠を進んでタクシーは進んでいく。ちょいちょいと停車していたものだから、3時間ほどで着くはずのところを4時間半ほどかかってコーカンドの町に到着した。他の二人の乗客はそれを気に留めるようすもない。新しい建物ばかりの並ぶコーカンドから、さらにバスに乗ってBagdad、そこからミニバンに乗り換えて、リシタンへと向かう。乗客たちは、おしん、ひろしま、ながさき、と知っている言葉を並べる。

リシタンでは、有名な陶芸家であるRustam Usmanovさんの工房を訪ねる。

かつて近くに2000人を雇用する繊維工場があったものの、そこが倒産し、ご家族をはじめ、多くの人々が失業をした。そして1996年から97年にかけて工房などを開設したのだという。

ろくろの上でリシタンでとれる赤土を練り上げ、1日置いて底を切り、1週間を置く。そして、カオリンやクオーツ、それに水からできたアンゴップにつけて、窯に入れる。すると、灰色だったアンゴップが、赤土の陶器の上で白い色に変化する。この地域では白い磁器の土がとれないため、こうして赤土にアンゴップをぬることで、白い下地づくりを実現しているのだそう。

窯は950度ほどにあげ24時間高温を保ち、そこからまた24時間気温を下げていく。そして絵付けをして、透明の釉薬にくぐらせて再度窯へと入れて960度程度まであげていく。

釉薬は、植物をスモークしてその灰をクオーツとともに特別な窯に入れて1300度で8時間ほど熱してつくる。そしてクリスタル調の緑石に変わったら、挽いて白い粉へと変える。それが透明な釉薬となる。

この工房では足蹴りろくろから電動ろくろへと切り替え、薪窯からも、経済的なプロパンガスの窯へと一年ほど前に切り替えた。新しい窯のグラスファイバーの部分は中国製だが、その他の部分は地元のものを使っている。

絵付けの色にしてもイランのラピスラズリやロシアのコバルトなどを使っていたものを、半分ほどの値段で買える中国のものに切り替えていったのだという。それでも、緑色を出す銅やマグネシウムは地元の材料を極力使っている。 

ギジュドゥバンでは器を逆さまに窯に入れていたが、ここでは器の表面を上にしている。ギジュドゥバンのように逆さまに入れると、数を多く一度に焚けるので、結婚式のための器などはこうして焚くのだそう。Rustamさんは、先日わたしたちが訪ねたギジュドゥバンのアブドゥッロさんとも友だちで、お互いの場所にない材料などを送り合ったりしている。

若い人で陶芸家を目指すのはそれほど多くない。みなお金の儲からない芸術家よりも、ビジネスマンになりたがるのだ。冬は寒いので、絵付けをメインに行っているという。

建物内には、9世紀のころからのリシタン付近で発掘された陶器が飾られ、13世紀のころに青く絵付けをされた器もある。

Rustamさんは、1996年と昨年に日本で展示会を開くために来日したことがある。カラオケにも行き、ウイスキーや熱燗を飲んだよ、それも毎日、と冗談めいて言う。白髪で上品なRustamさんは、名の知られている陶芸家であるのに、ゆったりとして、お茶まで注いでくれる。工房を説明してくれた息子さんともとても仲が良い。

そのうちにRustamさんと息子さん、それに冗談をよく言うお友だちと一緒にご飯をどうぞとお誘いをいただく。テーブルにはお茶にぶどう、ナッツにドライフルーツ、パン、りんごにチョコレートにケーキなどが並べられている。

息子さんのお友だちは、グルジア人は鼻がにょきりと高い、とか女性を紹介してくれ、とか、その冗談のつぼが日本人のそれと似ていて、みなで大笑いをする。食事を終えると、さきほどまで騒がしくがはがは笑っていたみなをお父さんが導いて、手のひらを上にして、それから顔をぬぐうようにする。旅がスムーズに進むように祈ってくれた。

最後には、魚や鳥が描かれていた陶器をどうぞ、とご本人が梱包して持たせてくれる。

わたしたちが宿をまだとっていないと伝えると、お知り合いを紹介してくれるという。ここウズベキスタンでは滞在登録の問題があって、基本的にはそのレギストラーツィアという紙切れを発行できないところには泊まれないことになっているけれど、テント泊や車中泊だと言えば許されることもあるとか、1か所に3日以上滞在しない場合は法律上は本当は必要ないとか、とにもかくにも宿は他にないので、そこにお邪魔させていただくことにする。

そして、そこまで車で送っていただいた。

このご家族は日本語が達者だ。近くにある日本語学校でかつて学んだ同級生同士が結婚をして日本で仕事をはじめ、そのうちに妊娠をして出産のために帰ってきていた女性もいる。日本にいる間は、ウズベキスタンの家族やナンやフルーツを恋しく思うことももちろんありますよ、と言う。

陶芸工房の社長でもあるというお父さんは、ラマダンを実行し、日の出から日の入りまでは飲食を控えていたという。それでも、ラマダンは素晴らしいものだと言った。

部屋は靴を脱いだ絨毯にふとんがしかれ、壁には埼玉県鳶・土木工業会のカレンダーや着物に富士山、桜の描かれた布がかかり、棚にはリシタンの陶器とともに雛人形が置かれている。

Patriotビールを出してくれ、じゃがいもや肉の入ったラグマンやトマトやきゅうりのサラダをいただく。それにパンやチャイ、熟したメロン、そして揚げたお菓子などがテーブルに並べられる。

外からアザーンが聞こえてくる。

警察官の街、タシケント – Samarkand / Tashkent, Uzbekistan

今日の朝食も宿で、パンやチーズにハム、ヨーグルト、それにネスカフェのコーヒーやチャイをいただく。パンにはバターとはちみつを今日もたっぷりとつけてほおばる。合わせて出されたセモリナはほのかに甘く、そしてお腹にずっしりとくる。

今日は、ウズベキスタンの首都、タシケントまで行きたい。ウズベキスタンでは、バスに乗ろうとすると、タクシー運転手たちがみな口を揃えてバスは無い、と嘘を連呼してくる。そんなふうなものだから、バスより列車が快適だと聞いていたものの、昨日駅まで行って尋ねてみたら既に列車の席は完売していたので、再びバスでタシケントへ向かうことにする。

今までのバス乗りには苦労をしてきたので、今回も覚悟をする。朝から、香辛料や野菜、魚のフライにお菓子などを元気に売るシヤブ・バザールを通り抜けて、なかなか来ないバスを待って、それに飛び乗りバスターミナルへ行くと、タシケント行きのバスがあっさりと分かりやすく停まっていた。だいたいの人は英語が通じないが、どこからともなく現れた英語が片言できる男性が今回も助けてくれる。

バスにはDVDを流すテレビもあるが、やはり冷房はない。天井に開いた窓から容赦ない日差しが照りつけてくる。歳を重ねた欧米系自転車ライダーご夫婦は、バイクをバスにつめている。一昨日はタシケントまでのバスが運休されていたものの、今日はもう問題がないようだった。

道はあくまでも平らで、畑や乾いた土が広がっている。時折牛が放たれ、道ばたにはスイカや瓜が売られている。川に飛び込んで泳ぐ人々もいる。そんなふうにバスに揺られること4時間半ほど、タシケントの町へと近づいていく。

タシケントはかつては悪質な警察も多かったといい、今でもなかなかに厄介だと聞いていたので、町に入ると緊張を強いられる。何か口実をつくって賄賂をとろうとしたり、所持金の検査と言いつつお金を抜きとったり、するらしい。バスを降りれば、そこには途端に緑の制服を着た警察官が数名、集まっている。

特にタシケントの地下鉄は、警察のチェックが激しいと聞いていた。バスターミナルから最寄りのOlmazor駅に入り、おそるおそるプラスチックの玩具のようなコインを買って、改札口を通り、中へと入る。あちらこちらに確かに緑の制服の警察官。やや速度の速いエスカレーターに乗って地下のプラットフォームへ降り立つと、早速また警察官二人が近づいてくる。

その警察官の指示に従い、パスポートを提示する。二人がそれを1枚1枚めくっている間に地下鉄はやってきてしまうが、次の電車に乗りなさい、とジェスチャーで示してくる。こうして地下鉄を1台乗り逃す。言葉が通じないので、向こうも諦めモードでわたしたちを解放し、次の地下鉄に乗り込む。

車内はシンプルなつくりで、ぱらりぱらりと乗客がいる。核シェルターにもなる地下鉄の駅は、宮殿のようなつくりのところもあり、絵が描かれ、豪華なライトがいくつもぶら下がっていたりする駅もある。Paxtakor駅で乗り換えてChorsu駅へと向かう。途中に警察官が乗り込んできたりするものだから、意味もなく緊張させられる。地下鉄では警察による荷物検査もあると聞いていたものの、今回はパスポートのチェックだけで済む。

駅から宿まで、15分ほどの道を歩いていく。途中、Zarqaynarスーパーマーケットを見つけて中に入る。防犯用に荷物預け所があり、明るい蛍光灯に照らされ、冷房ががんがんと効いている。品ぞろえも豊富で、缶詰置き場にもずらりと缶詰が並んでいる。ここ最近こんな光景は見ていない。

お腹を壊してからずっとお世話になっているフルーツジュースのパックも、きれいなままに冷蔵庫にきちんと納められている。そんなわけで、ひとしきり感動をしつつ、パイナップルのフルーツジュースを買って、それを冷房の効いたところでごくりごくりとする。

道ばたにはモスクがあり、久しぶりのアザーンさえ聞こえてきて、近所の人々が入口へと入っていく。

今日はやっとラマダンが明けた三連休のはじまりだというのに、ラマダンを感じられないウズベキスタンの首都、タシケントのラマダン明けもまた平然としたものだった。日が暮れる前でも食堂は開いていて、日が暮れてからも、変わらずに営業をしている。

宿に荷物を置き、再び地下鉄に乗って、WifiのあるGrand Mirホテルへと向かう。もうとっぷりと日が暮れて辺りは暗いが、地下鉄はまだまだ走っている。周りには、SAMSUNGやHyundaiという文字がでかでかとネオンに輝くビルが建ち、冷房の効いた華やかなホテルのロビーからは韓国語が聞こえてくる。

地下鉄の警察官たちは夜でも手抜きをすることはない。行きの地下鉄改札前ではかばんを開けてください、と言われ、帰り道の地下鉄改札前ではパスポートを見せてください、と言われる。それぞれに従っていれば、向こうも威圧的な態度をとることはほとんどなく、日本人ですね、とやや笑顔さえ見せる。

こうして23時を過ぎて乗客もわずかにしかいない駅にも、警察官は目を光らせ、監視カメラがホームを見渡している。どうにも緊張してしまうが、地下鉄は深夜24時まで動いているというのだから、なかなかに便利なのである。

お腹の調子もよくなってきたところだけれど、用心して夜はパンとスイカにメロンで済ませる。

イスラム世界のサマルカンド – Samarkand, Uzbekistan

朝は宿の中庭で、手づくりヨーグルトにチーズやサラミ、パンにゆで卵、それにネスカフェのコーヒーとチャイをいただく。パンには自家製のはちみちをたっぷりと塗っていただく。

バスに乗ってティムールの像まで行く。ここには「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」とも言われる、サマルカンドを復興させたティムールさんが、硬い表情で腰かけている。

そばにはティムールやその息子たちが眠る霊廟、グリ・アミール廟がある。細かなタイルが組み合わさり、しゅっとしぼんだような形のドームの下に、軟玉でつくられたティムールの墓がある。そう広くはない空間はムカルナスに囲まれて、墓石が並んでいる。わきで、若い女性が手のひらを上にして祈りを捧げている。

向かいには、ルハバッド廟があり、神秘主義者のシェイヒ・ブルハヌッディン・サガルジを祀っている。グリ・アミール廟と比べると、茶色い煉瓦のあっさりとしたつくりだが、墓石には細かな文字の装飾が施されている。

そこからしばらく歩いていけば、旧市街の中心、レギスタン広場にたどり着く。大きな広場を囲むように、学者でもあったウルグベクの建てた神学校、ウルグベク・メドレセや、それを模倣してつくられたという神学校、シェルドル・メドレセ、それにサマルカンドの主要礼拝所としても使われた神学校、ティラカリ・メドレセがどっしりと建っている。

シェルドル・メドレセの入口のアーチには、鹿を追うライオンと、その背には人の顔をした日輪が描かれている。偶像崇拝を否定するイスラム教では、動物や人を描くことはタブーとされているが、支配者が権力誇示のために、こうしたデザインを描いたそうで、建築家が責任をとって自殺したという話もあるという。

チョルスー・ギャラリーの入口にはなぜか警察官が数名いて、払わなくて良いはずの入場料を払えと言う。そのまま去ろうとすると、待て待て、じゃあ入場料要らないから入れ、と言う。入ってみると、ウズベキスタンの山や砂漠や建物を描いた絵や民族衣装を描いた絵が掛けられている。そして、その中に先ほどの警察官が描いた絵もあった。かつて大学で絵画を学んでいたものの、今は警官になったのだと言う。

そこからタシケント通りをてくてくと歩く。通りは新しく、両わきに土産物屋が並んでいる。子どもたちがナンを山盛りにした荷台に布をかけて運んでいく。眉をつなげたメークをする女性もいれば、子どもはいないのかとふいに尋ねてくる女性たちもいる。 

タシケント通りを少し奥に入ると、ナンを焼く工房がある。男性数名が黙々とナンを焼き上げていく。一人は生地を伸ばして真ん中を手でくぼませ、木と鉄でできた道具でぽんぽんと点をつけていき、それからゴマを上に塗る。働く男性の一人には、肩に火傷の痕があった。暑い日差しの下で、生地をのばして、窯の中に身体ごと入れてぺたりとはる。一ついただいていくことにする。窯から出たばかりのパンはあつあつで、外はこんがりと、中はもっちりとしていてボリュームがある。

近くの商店に入り、チェリージュースを買い求める。店内には、装飾のほどこされた深いえんじ色のベルベットの服に、赤い羽根のついた帽子をかぶった民族衣装を着る女性も買物に来ていた。

その広大さと建設したティムールの力の入れようで、さまざまな伝説をつくりだしたビビハニム・モスクや、地元の人々で賑わうシヤブ・バザール、ゾロアスター教の跡地に建てられたハズラティ・ヒズル・モスクを通って、夕暮れのアフラシャブの丘へとたどり着く。ここは、モンゴル軍が破壊するまで旧サマルカンドの町が築かれていたというが、今となってはすでに荒涼とした丘だ。茶けた草が傾く太陽の光を浴び、風に吹かれてそよそよとしている。

そばには、ティムールの妻や家族に親族、それに部下の将軍などを祀った霊廟が細い道をはさんでずらりと並ぶシャーヒズィンダ廟群がある。いくつも並ぶ霊廟の入口には、幾人かが集まって、手のひらを上にかざして祈りを捧げている。ある霊廟には、ナンと数枚の紙幣が供えられている。日も暮れて、静けさに包まれた霊廟がライトアップされた中、警察官と職員は、天国への階段と呼ばれる階段をあがったところにあるコシュ・グンバズ廟の前に絨毯をしいて長いテーブルを置き、夕食を楽しみ始める。

隣に位置する市民の墓地には、墓参りに来る人々が絶えない。

昼間の暑さがなかったかのように涼しい中、地元の人たちは街に繰り出し、アイスクリームを買ったり、ローラーブレードをはいて滑ったり、自転車をこいでいく若者たちが現れる。ビビハニム・モスクはその入口を緑のライトアップで照らしている。

夕食は、宿の近くの商店で買ったサマルカンドのビール、Pulsarとウクライナのイワシのトマト缶、それに宿のオーナーから差し入れのあったメロンも合わせていただく。どうやらウズベキスタンでは綿花油という、日本人が消化酵素をほとんどもっていない油がよく使われていることで、お腹をこわすことが多いらしい。そして、中国のほうから入ってきた旅人はお腹をこわしづらいのに比べて、わたしたちのように西からウズベキスタンに入った旅人はお腹をこわしやすいとも聞いた。それでも、控えめの食事に久しぶりのビールはすっかりおいしい。