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Kenya

ケニア-エチオピア国境情報

ケニアのナイロビから、エチオピアのアディスアベバまで飛行機で行くルートです。

1.ナイロビの空港まで行く。(※航空会社ごとにターミナルが違うので、確認してください。)
2.空港に置いてある、出国カードを記入し、パスポートと一緒に出国手続のカウンターに提出。
3.飛行機に乗る。
4.アディスアベバ空港到着後、黄熱病の予防接種の証明書(イエローカード)の提示を求められる。
5.入国審査の前、左側にビザの係があるので、入り、ビザ申請用紙を記入し、提出。
 (※US$ 20.00)
6.入国審査で、パスポートを提出。
7.空港から中心地まで、ミニバスかタクシーで移動。(※タクシー 所要20分 ETB 200-.)

◎両替はしませんでした。
 ATMがアディスアベバの空港にあります。

ケニアからエチオピアに行くときのビザの問題。 – Nairobi, Kenya

アフリカに入るとビザというのは時に大きな問題となる。しかも常に状況は変化している上、担当者によって状況が違うこともある、というのだから、悩ましい。

国境でビザがとれるなら良いものの、事前に取得しておきなさい、となると、なかなかに手間がかかる。

エチオピアが、ケニアから陸路で入国する者に基本的にビザを発行していないというので、はたと困ることになった。ウガンダ首都のカンパラにあるエチオピア大使館に電話をしてみると、「ビザは空港でなら取得できます。または、本国の大使館にて取得することも可能です。」

そんなわけで、エチオピアへどうやって北上するかを考えていた。

朝食は、苺ジャムとバターを塗ったパンやマンゴーをほおばり、紅茶をすする。外はまだ曇り空。

ナイロビでも宿の周りはのんびりとした雰囲気だ。

議事堂にほど近いエチオピア大使館まで歩いて念のため確認をしてみることにする。大きな道路沿いには車が渋滞し、草むらで倒れている男性もいるが、行き交う人々は気にとめない。

荷物検査のみならず、入口で鞄を置いていく必要がある。なにやら重々しい。

中のソファにはずらりと列ができている。端に腰かけて、順番を待つ。ふいに、植物について勉強をしにケニアに留学しに来ているという中国人の男性に話しかけられた。「僕は学生なので、Kenya Re-entry Passのスタンプがあるのですが、もしないようなら、ビザはもらえませんよ。」と言う。

閉館の12時をやや過ぎて、いよいよ順番が回ってきた。わたしたちが今日の受付の最後らしい。中には二人の女性が担当をしている。

「Kenya Re-entry Passを持っていないとビザは発行できません。Kenya Re-entry Passは、ケニア在住で仕事をしていたり、学生であったりしない限り、発行はされません。1、2年前からルールが変わったんです。理由などは、上が決めていることなので、分かりません。

飛行機でエチオピアに入れば、空港でビザを発行しています。」

既に担当二人の女性は、帰宅をしたいかのように席をたち、荷造りをしながら、そう言う。やはり、ケニアからエチオピアに入るのには、飛行機で飛ぶしかないのだ。

道ばたで話しかけられたスーツを着た男性に、ふいにHeal the NationというドキュメンタリーのDVDを手渡される。

「2008年1月の出来事に対する改革への必要性をケニア国民がきちんと認識して取り組まなければ、2012年のクリスマス・パーティのように見えてしまうかもしれない。」とパッケージに書かれている。

2007年から2008年に起きたケニア危機に関するDVDである。

昼はオムレツをはさんだサンドイッチをほおばる。

16時まで開いているというスーダン大使館にも向かう。道を聞く人、みな、親切に道を指し示してくれる。しかも、その情報は、たいてい正しい。

宿から歩いて50分ほど、大使館があった。閉館まぎわの15時50分にたどり着く。門番の男性にビザについて聞きたいと言うと、今日はもう業務を終了したんです、雨が降ったので。明日また出直してきてください、と言った。

こうして、スーダンビザは、アディス・アベバで取得することにする。

道にはずいぶんと長い車の列ができている。

夜はTuskerビールを飲み、チャパティをかじる。にっこりマークの象が描かれたこのビール、くせがなくて飲みやすい。

23時半にはタクシーに乗って空港へと向かう。宿に来たタクシーは、真新しいトヨタのカローラ車だった。中のモニターには日本語が表記されている。カローラ車は、やわらかな座席を乗客に提供し、スムーズかつ静かな走行をみせる。

ナイロビ出身だというタクシー運転手は、この車をナイロビで購入したという。タクシー運転手になって8年、ナイロビがとても好きなんです、と言う。

この8年で食事や交通機関は良くなったものの、政治は悪くなっている、と言った。

ナイロビは、確かに大都会だ。この時間でもところどころ灯りのついた店がある。

朝や16時のラッシュ時には4時間かかることもあるという町から空港までの道はがらがらで、20分ほどで到着した。

朝3時25分のフライト、24時間オープンの空港というから、さぞきらびやかなのだろうと想像していたら、ナイロビの空港ターミナル2はやや薄暗かった。夜中の便も、エチオピアやトルコ、エジプト行きなどの数便くらいしかない。荷物をX線に通して空港に入る。

チェックインカウンターで手続きを済ませる。
ターミナルの規模もさほど大きくなく、ゲートをくぐればすぐに出国のイミグレーションカウンターが2台並んでいる。記入した出国カードを差し出す。目的地を聞かれるだけで、あとはエスカレーターを上がり、搭乗口で待つだけだ。

かばん屋や酒屋、本屋、煙草屋といった免税店が並んだ通路がある。店によっては、中で店員が布団をひいてくるまり眠っている。

壁には、「ケニアは薬物の売買地点にはなりません。」と、刑務所に入った男性の絵が描かれた警察署のポスターが貼られている。10年の懲役刑が科せられます。10年は長いですよ、それと夢とを天秤にかけてください。

乗る直前に手荷物の荷物検査があり、それが終われば搭乗だ。横にはルワンダ・エア、ケニア・エアウェイズ機が並んでいる。

ライオンは、時にとても怠け者なんだという。 – Masai Mara National Reserve / Nairobi, Kenya

朝起きてみると、テントの外から牛のカラカラという音が聞こえてくる。茶色い家や草原の広がる中で、牛を追うマサイ族の人々がまとう布は、明るく際立つ。

6時半からモーニングドライブに出る。朝はやはり動物が活発に動いている。ヌーやインパラ、しまうまの群れが草原でゆったりとしている。そこに臆病だといわれているディクディクがきょろきょろとしている。

しばらく車を走らせると、道にのそのそとメスライオンが2頭歩いていた。筋肉に満ちたその身体をがしがしと前に進ませて、そのうちに草むらに入り、辺りをくるりと見渡す。獲物を探しているのだ。

しなやかなしっぽをわずかにたてて、いくども頭をあちらこちらへと振った後、そのうちに草むらにぺたりと座りこんだ。

ライオンは、時にとても怠け者なんだ、とマイケルさんは言う。確実に狩れる相手しか追わない。それで餓死するライオンもいるくらいだ。

餓死しそうなライオンがいたら、レンジャーと相談をするんだ。それで、しまうまの脚だけを負傷させて、車で運んで、ライオンの前に差し出すんだよ。しまうまはたくさんいるけれど、ライオンを繁殖させるのは大変だからね。

一つの家族だというバファローの大群のわきに、ハイエナが一匹いる。バファローがライオンなどから食われた残骸を、骨までしゃぶりつくためにいるらしい。

誰も見つけられない草むらの中からマイケルさんは、ライオンを見つけ出す。その目はぐっと動物を見つけ出すハンターだ。その目の良さと勘の鋭さには身震いする。そして大きな動物を見つけ出したら、携帯電話を取り出し、仲間のドライバーたちと情報共有をしあう。

今度はライオンが3頭茂みに隠れている。目の先にはバファローがいるが、まだ遠く、しかもバファローと戦うことはなかなかに労力にいることで、負けてしまうことすらあるという。

こうして3頭もまたぴたりと身体を寄せ合い、茂みに横になる。朝日に照らされて、目を細めたり、ときにこちらをじっと見たりする。

カンムリヅルが頭に黄色い冠のようなとさかをつけて、ひょこひょこと歩き、だちょうが長い首を揺らしている。

2時間ほどゲーム・ドライブをしてから宿で朝食をとる。トーストに豆、オムレツにチャパティ、それにマンゴーとミルクコーヒーをいただく。

朝食を食べ終えれば、ナイロビへの帰路へつく。マイケルさんは、金曜日に保護区内で象が密猟されたから、今調査が入っている、と言った。旅行者しか今はマサイ・マラに入れないから、おそらく旅行者を装って入った人がいるのだろう、と付け加えた。

道のわきには、赤い布をまとったマサイ族の人々が、特別な日に塗るという額に白や赤のペイントをつけながら、牛を棒でたたき、追っていく。

昼食は、豆にキャベツに羊肉、ライスにチャパティといった定番メニューである。

大雨が降ったり、やんだりを繰り返しながら、ナイロビへと向かう。道には、死んだハイエナ、戦い合う牛、雨の中倒れた人がいる。

やがて高層ビルも建つナイロビの街へと入っていく。雨が止んでも街はさきほどの雨で土にまみれ、道のわきには大きな泥の水たまりができていた。

夜は宿のレストランで、White Capラガービールを飲みながら、チャパティをつまむ。

動物とマサイの人 - Masai Mara National Reserve, Kenya

朝食も、食堂で外の景色を眺めながらいただく。トーストにバターと苺ジャムをぬり、パンケーキとソーセージ、豆のトマト煮とともにほおばり、それにミルクコーヒーをすする。

今日もマサイ族の人々は朝から牛を追っている。

ヌー、トピが群れをなして時にじゃれあいながら、朝日に照らされている。しまうまは背中にちょこんと鳥をとめている。

2頭のチーターがそのしなやかな身体で草むらに佇んでいた。くるりとしっぽを振るその様子もまたネコのようだ。あくびをしたり、草むらにぺとりと横たわったり、脚で顔をかいたりする。

一頭がすくっと起きあがるともう一頭も起きあがり、一頭が一方向を向くと、もう一頭も同じ方向を眺める。

その後も走り回るハーテビースト、トピ、ゆたりゆたりと歩く象を見ながら、進む。

ホロホロチョウやテリムクドリが道ばたを歩いていく。

ぬかるんだ泥道に一台のサファリ・カーが立ち往生すると、わたしたちの車も含めて助けに向かう。

「誰か一人にでもトラブルが起きたら、必ず助けにいかなければならないんだ。そうでなければ、自分たちがトラブルにあっても誰も助けにこない。」
マイケルさんは言う。

サファリは、自然と対峙する命がけの仕事なのである。

今度は草むらを歩く3頭の雌ライオンがいた。遠くのほうをぐるぐると顔を回して眺め、そのうちに茂みに寝そべり、休み始める。

7頭のマサイキリンが草原に長い首を伸ばし、その周りにはインパラが駆け回っている。
ワシが木にとまり、クワクワと高い声で鳴いている。

このマサイ・マラ国立保護区は、タンザニアのセレンゲティ国立公園と国境線で隣り合っている。

タンザニアとの国境を示す石碑が立っている。石には真ん中に線がひかれ、「T 21、K 2」と書かれている。ケニア側にいる人はタンザニア側に21m入ることができ、タンザニア側にいる人はケニア側に2m入れるという意味らしい。

昼食は、マラ川のほとりでとる。配られたランチボックスには、きゅうりやトマトのぶ厚いサンドイッチにチキン、カップケーキ、バナナ、パイナップルがつめられている。それに白ぶどうジュースを飲み干す。周りには、サバンナモンキーがうろうろとしていて、ランチボックスを狙っている。

一匹がバナナをぬすみとり、それに目を向けている間に、もう一匹が今度は林檎を奪っていく、といった具合で、グループ犯罪を犯す。とても賢いのである。

マラ川には、ヒッポ・プールという、かばの浮かぶエリアがある。わにもいるので、銃をもったレンジャーつきでないと、そこを歩くことは許されない。

レンジャーとともに 泥道を歩いていく。草むらではバファローがこちらに顔を向けている。その角がところどころに落ちている。

涼しくなる夕方に、かばは水から出て陸にあがり草を食べるといい、道にはその足跡やインパラの足跡などがついている。そのうちに、かばがンゴンゴと鳴いているのが聞こえる。口を開けて水をしゅーと吹き出しながら、水面から目だけを出したり、そのうちに身体を出したり、あるいは身体を沈めたりしている。

対岸には、わにが身体の半分を地上に出して寝そべっている。尖った歯が少し見える。

7月から8月にかけてはヌーの大群がセレンゲティ国立公園から、この川を渡ってマサイ・マラへとやって来る。10月ころには、共に渡ってきたしまうまと再び草を求めてセレンゲティへと帰っていく。

川岸にはヌーやしまうまの通る道の跡がみられる。

マイケルさんは12年ガイドをしているという。1年8か月、ツアーガイドになるための学校に通っていた。そこではサファリのガイドになるだけでなく、どのように顧客満足度をあげるか、なんていうことも勉強するらしい。

みんな一生懸命お金を貯めてこのサファリに来てくれているんだから、お客さんの夢をかなえることが、僕の仕事なんだ。この仕事をしていると、危ない目にもたくさんあうけれど、僕は仕事が大好きなんだよ、と大きな目を見開いて言う。

マサイ・マラ国立保護区の隣には、マサイ族の住む村、Ngorelo村がある。16時半ころからその村を訪ねてみる。

案内をしてくれたのは、200人いる村の村長の息子、センギュラくん。8人兄弟がいる27歳、奥さんと一人の娘さんがいる。他のマサイ族のコミュニティとも携帯電話で頻繁にやりとりをしている。村で携帯電話をもっているのは、数人だけらしい。

山羊のミルクをしぼる子どもがいれば、コカコーラのラックを持ち運ぶ男性もいる。
マサイ語でハローは「ソパ」、ありがとうは「アシェ」、バイバイは「オレセレ」という。

センギュラくんの家に連れて行ってくれた。家は、木と牛糞と泥をこねたものでできている。  

電気がないので夜はろうそくを使うのだが、外はまだ明るいこの時間でも家の中は暗い。

家の真ん中に、炭をおこすキッチンがあり、その左に木の枝を重ねたベッドが一つ置いてある。ここにセンギュラくん家族3人と、奥さんのお母さん、弟、その奥さんの6人が暮らしている。
センギュラくんと奥さんは、同じ学校に通っていて、恋におちた。

食事は、羊や牛のミルク、山羊の肉、それにウガリが主で、米やチャパティはあまり食べないという。

飲む水は近くの川から汲んできて、お手洗いは茂みで済ませるという。

今日はちょうど35歳や40歳、45歳といった節目にあたる歳を迎えた男性を祝う儀式が行われていた。

特別な牛を殺し、それをみなで食べ、その後牛を火にかけて、夜は踊るのだという。赤い布をまとった男性が、煙のたつ火を囲み、夜のセレモニーの支度をしている。足元には、牛の頭がごろりと転がっている。

ちょうどこの日に節目の誕生日を迎えた男性の奥さんも、家から出てきていた。 赤や緑の鮮やかな衣装を身につけ、耳にはじゃらりとビーズなどでできたイヤリングをしている。

耳に大きな穴が開き、垂れ下がっている男性や女性がいる。これはファッションでもあり、踊りの際にも使うのだというが、学校に行く人々は危ないという理由で、開けないことも多いらしい。

マサイ族の人々は、羊の毛でできたオレンジや赤の格子の布、ウキチや色鮮やかな布を身にまとい、手にはウリンガという先が丸まった木の棒を持っている。この布を巻きつけられるのは12歳からなのだそうで、子どもたちは、どうりで、洋服を着ている。

時折身体に巻きつけているコットンの布は、マサイの布ではなく、買ってきたものだという。

マサイの布は男性が作るのだという。女性はアクセサリーをつくったりすることはあるが、家事をするという役割を果たす。

この村には、5歳から16歳までの子どもたちが通う学校がある。英語、スワヒリ語、科学、 ソーシャル・スタディ、キリスト教を教えているといい、話されているマサイ語は特に教えられていない。ここでは、教師に払うための費用以外は、無料で教育を提供している。大学まで行く生徒もたまにいるらしい。

マサイ族の主な収入源は牛や山羊。その他、町に出ていく人はホテルや観光業で働く人が多い。政府からマサイ族に対して特別な支援があったりすることはないと言った。

誰がマサイ族かというのは、服だけなく、身体の特徴からすぐに見分けがつくという。

宿に戻って夕食にする。牛肉に野菜の炒め物、チャパティにパンやご飯、マンゴーにすいか、それにスープがつく。サファリの食事は、地元の食事とは、かけ離れているのだろう。

まんまるの月が明るく輝いていた。

ライオンのあくび – Nairobi / Masai Mara National Reserve, Kenya

今日から2泊3日でマサイ・マラ国立保護区にサファリに出かける。南アフリカのクルーガーに続いて2度目になる。

8時に宿からサファリカーに乗り込む。ナイロビは朝から人が街を歩いている。

こうしてナイロビを見てみると、大都会だ。地方にある土でできた壁に藁ぶきをのせている家を考えれば、コンクリート・ジャングルのこの場所に、仕事を求めて多くの人が集まるというのは自然なことなのかもしれない。

その建物を過ぎると、やがて錆びたトタンでできた家が立ち並び、郊外の家々を過ぎると、緑豊かな地域へと入っていく。

イスラエルからモザンビークまで9,600kmを連ねる「The Great Rift Valley」、大地溝帯に到着する。地球の溝ともいわれるその広大な谷にゆらりと光が揺らいでいる。山沿いにその谷を眺め、やがてその谷に下っていく。

昼食は、マサイ族も多いという商業の街、ナロックのレストランでいただく。鶏肉の煮込みにレンズ豆、キャベツ炒め、それにパスタ、ライス、チャパティがビュッフェ形式でふるまわれる。

昼食を終え、ガイド兼運転手のマイケルさんの運転するトヨタ・ハイエースのサファリカーで、再びマサイ・マラに向けて出発をする。辺りでは牛や羊、山羊が飼われ、チェックの布を身体に巻いたマサイ族の人々がそれを追う。

そのうちに大雨がざあざあと降り出して、道をふさぐように濁流が荒々しく流れており、バンはストップする。しばらく川のようになった水位が下がるまで、車を降りて待つ。

その地域はマサイ族の住む地域で、車を降りると周りの子どもたちが集まってきた。鮮やかな布を身体に巻いた子どももいれば、洋服を着ている子どもたちもいる。

学校は先週から休みに入っているという。家ではマサイ語を話すといい、ありがとうは「アシェ」というのだと教わる。

食べものは、ウガリや米、チャパティ、それに牛肉や山羊の肉を食べるという。鶏肉はあまり食べず、魚は今まで食べたことがないと言った。飼っている乳牛には、名前がついているのだという。

やがて雨は小降りになり、濁流は落ち着いていく。舗装されていない道を、マイケルさんは、バンの後部をときに滑らせながら、あるいは時にひどく車体を傾けながら進んでいく。川を横切ったりするものだから、ハイエースは泥んこだ。

マサイ族の人々は、雨の泥道を気にするようすもなく、やはり牛や山羊、羊を追い、頭に木材を抱えて歩いていく。

16時前には宿泊先となるManyattaキャンプに到着し、マンゴージュースで迎えられ、ミルクコーヒーもいただいて一息ついてから、まもなく夕方のゲーム・ドライブ、サファリに出かける。

南アフリカにあるクルーガー国立公園は茂みが多かったので、その陰にいる動物を探していく格好だったけれど、ここマサイ・マラ国立保護区は茂みも低く、広大なサバンナが広がっている。

Oloolaimutiaゲートから入って早々、ヌーやしまうまやらインパラやらバファローが草原に佇んでいる。見やすいのも甚だしい。

そして、今回はガイドのマイケルさんがその肉食的直観で動物を探してくれるものだから、なんともお気楽なものである。

クルーガーの舗装された道とは異なり、マサイ・マラの道は泥道で、車同士がぶつかったり、あるいは泥沼にはまっているトラックなどがいる。クルーガーの洗練された雰囲気と異なり、元祖サファリとしてのワイルドさが、ここにはある。

若い雄ライオンが二頭草むらに寝そべっている。一頭はまだ眠りについていて、一頭は今起きたばかりのようすで、大きなあくびを何度もしている。そして、手で顔をごしごしとこすったりする仕草は、いかにもネコ科らしい。

ガゼルにハイエナがじっと近づいていく。

ジャッカルやトピ、カンムリヅルがこちらをきょとりと見ている。

マサイキリンや象の群れがのそりのそりと歩いていく。

すれ違うサファリ・カーには、お金持ちふうインド人がなぜか多くいる。

今回の宿はそれぞれ一つのテントをあてがわれる。大きなテントには、中に蚊帳のついたベッドがしつらわれ、奥にはお手洗いとお湯の出るシャワーまでついている、贅沢テントである。電気も夜の22時まではついている。

夜は、キャンプ場の食堂でいただく。ミートソーススパゲティに、にんじんといんげん、ポテトにキャベツ炒め、パンとスープのビュッフェ、デザートにはすいかがついてくる。

それをマサイ族の人々がサービスをしてくれる。

テントの外では鳥や獣の声が遠くのほうでする。