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2013年08月

故郷の祭り

故郷でもある、笹塚の
観音縁日祭り。

訪ねるたびに、心の中の風景よりも
街が小さく見えると思う。

元気な子どもたちもたくさん。
あちらこちらで知り合いのお母さんたちがきゃっきゃとしている。

かつてあった昔の店がなくなっている。
そこにいたおじいさんやおばあさんは今、どこにいるだろう。

綿あめ屋さんは今年も元気。

黄金芋

人形町、壽堂の黄金芋。

こんな見た目で芋じゃないんです。

被災地を巡る 5

旅の最終日は、世界遺産の観光をする。
平泉には、巡回バスがまわっている。

それに乗って、中尊寺へ向かう。
中尊寺は、
「平泉 – 仏国土(浄土)を表す建築・
庭園及び考古学的遺跡群」の一つとして
世界遺産に登録されている。

















月見坂を上がり、弁慶堂を見て、
本堂、薬師堂、不動堂など丁寧に参り、
小岩井フルーツを飲み、
讃衡蔵、金色堂と巡る。
屋外能楽殿で最後。












昨日の平泉のひっそりとした雰囲気とはうってかわって、
たくさんの観光客の中を縫うようにして歩く。

それからまたバスに乗って、
名物の「元祖盛り出し 平泉わんこそば」を提供している
芭蕉館に向かう。

この「盛り出し方式」というのは、こういうことらしい。

”生活のゆるやかであった昔の私達の先祖は、
素朴な食生活の中でも、その特質を生かし、
ゆったりした気分で、それぞれの風味を楽しんだ様ですが、
現代は日々その余裕がありません。

しかしその明け暮れの中でも、工夫の仕方で、
当時の気分を味わっていただけるものと信じ、
主々構想を重ね、ここに当店は「盛り出し方式」の中に、
わんこそば本来の由来と、意義を偲ぶ独特の方式で、
その味覚を提供申し上げる次第です。”

一段はサービスされるというので、
鮪の山かけ、なめこおろし、筋子、鰹節、のり、ねぎといった
薬味をつけながら、平らげると、満腹だ。











また巡回バスに乗って、閉館間近の毛越寺に入る。
人気もほとんどない中、
本堂から、大泉ヶ池のまわりをくるりと回る。

ほとんどの建物が既になくなっているものの、
当時の様子を想い描きながら、ゆっくりと歩く。












庭園の遣水に盃を浮かべて、
流れにあわせて和歌を詠む、
平安時代の遊び。

こうして夏の休みは終盤を迎える。

平泉から列車に乗り、盛岡へ。
大好きなお友だちがすっかり盛岡生活を満喫している様子を聞きながら、
盛楼閣で焼肉と冷麺を食べて、
つかの間の再会を楽しみながら、
東京への夜行バスに乗る。

被災地を巡る 4

今回宿泊をした、かどや旅館の女将さんは、言っていた。

坂の下のところまでは水が来ていたんですよ、でもこの宿は坂の上にあるから、水は来なかったんです。

気仙沼駅から陸前高田まで
BRTに乗っていく。

便数は多くはなく、
セブンアップに、クッキーにごませんべいをほおばり、待つ。











BRTがちょうど奇跡の一本松を通るので、
一度下車をする。

たくさんの人々が松の近くで車を降りて、
松のほうを向いていく。

りくxトモの灯が松までの道を示している。












高田松原を失った陸前高田に残された一本松。
この松も、海水の傷みによって枯死してしまったというが、
保存をされることになった。

アスファルトの道は途中で途切れ、
橋はひしゃげ、
地面はべろりと剥がれ、
たくさんの鳥が空を飛んでいく。

再び、BRTに乗りこみ、
陸前高田駅まで向かう。





かつてあった列車の駅は今は無く、
BRTの駅も、山を切り崩してつくられ、
隣には仮設の観光案内所と市役所くらいしかない。
通りを歩く人はほとんどない。
もともと人が住んでいた場所ではないのだ。

観光案内所で、最寄りの食事処を尋ねると、
10分ほど歩いたところに未来商店街があると聞き、
そこまで訪ねることにする。



カラフルな仮設の商店街には、
カフェレストランや
整骨院、食事と本と酒の店、
鮨屋などが並ぶが、
他の街の仮設商店街が
観光客で賑わっているのと比べると、
どうにもひっそりとしている。






寿司が食べたいとなって、鶴亀鮨に入る。
いくらや蟹や海老、サーモンや卵ののった
上チラシを注文する。

仮設店舗の二階に通されるも、
その中は、新調された座敷で立派だ。
木の扉を開けて、入る。

二階の注文は、一階の厨房から、
からころと木の箱に食事がのせられて、
運ばれてくる。

醤油がなかったので、一階に電話をかけてそのことを伝えると、
どこから来たの、東京、
東京では醤油を使うの!
とおじさんが言って、電話を切った。

すると、すぐに下からからころと木の箱に醤油瓶がのせられて
運ばれてきた。

そこに手紙も入れられていた。

「ごめんね
高田も
しょう油
つかいます」




美味しく平らげた後、一階に降りて行くと、
にこにことした大将がいた。

ごめんねえ。

大将は、今、文章を書いているのだという。
できあがったら、送るからさ、住所を書いてよ。

送られてこなかったら、できてないってことでさ、
と言ってまた笑った。

そこから、走ってBRTのバス停へと戻る。
なにしろ本数はそれほどない。

ぜいぜいとして、気仙沼行きのバスに間に合う。
今日は平泉まで行きたいが、気仙沼から先のJRには
ぎりぎり間に合わなかった。

さて、どうしたものかと思っていたら、
一関までのバスはあるらしく、
それに乗って、一関まで行き、
そこからローカルバスに乗り換えて、
平泉に向かうことにした。

一関までの道中、
川沿いで花火大会が開催されるというので、
浴衣の人々が集まり始めている。
一関に到着してからも、浴衣の人が多い。

わたしたちはその花火大会とは逆の方向にある
平泉にバスで向かうも、乗客は二人のみ。













無事に平泉に到着し、観光案内所で案内をしてもらった
志羅山旅館に宿をとる。

宿からほど近い毛越寺では、
法灯会が行われていて、
灯篭で蓮の花や星などが形作られていた。













浄土庭園大泉が池には、
お坊さんが並び、お経を唱え、
池には木の筏にのった二人が、
灯篭を一つずつ池へと置いていく。

辺りにはお経が響き、
灯がゆらりゆらりと揺れる。

この日は大文字もあると聞いたので、
よく見えると言われた橋まで歩いて行く。

世界遺産であるはずのお盆の平泉の街は、
なぜかとても静かで、人通りがほとんどない。

人気もなく、静かなもので、道があっているのかわからないまま、真っ暗な道を歩きつつ、頼りになるのは、通りの街灯と、道の隅に置かれた灯篭だった。

ようやくたどり着いた橋からは、
大文字だけではなく、さきほどの花火大会の花火も見える、
素晴らしいスポットだった。

それでも、見に来ているのは30人程度だった。
それから数十分、橋の上で花火を見ながら、
大の字の火がつき、そして消えかけるまで眺めていた。

そして、ふと後ろを振り返ると、周りにはもう誰もいなくなっていた。
大文字はまだ全て消えたわけでもないし、
花火大会もまだ終わっていないのに、
誰も、いない。

そして、さきほどの道へと戻ると、今度は
道の隅に置かれていた灯篭が
きれいさっぱりになくなっている。

なんともあっさりとしている。

こうして、開いている食堂は韓国料理店だけとなり、
ソウル食堂へと入り、
ビールと冷麺をいただくことにする。

隣のおじさんが酔っ払い、明るく話しかけてくるのを、
きれいな奥さんが止めに入る。

この旅最後の街、平泉の夜は更けていく。

被災地を巡る 3

石巻の街はあちらこちらに、
石ノ森章太郎さんのキャラクターが
じっと立っている。

市役所に入れば、”高校生が作るいしのまきカフェ”があったり、
復興ふれあい商店街に入れば、
ボランティアの人たちがペンキを塗った
カラフルな自転車のレンタルをしていたりする。



自転車を貸してくれた親父さんも、震災当時のことを話してくれた。
店は破壊されたものの、
残った宝物をこの仮設の店でも高くに掲げている。

自転車を2台を借りて、マンガロードの商店街を走る。
商店街はお盆だからか、
閉まっているところがほとんどで、
ひっそりとしている。



それでも、
日和アートセンターとかわいらしく書かれた店の中では
若い女の子が絵を描いていたり、
老舗の尾張屋は、シャッター一面に手書きのペンキで
書いている。

「全国のみなさん
本当にありがとうね
石巻人も頑張ります」


昼前の時間になると、終戦記念日の黙とうを促す町内放送が
流れてくる。

丘の上にある、日和山公園まで上がっていく。
自転車ではあがりきれず、自転車を手で押しながら、あがる。

ひーひーしながら、ようやくたどりついた公園からは、
街の様子が一望できる。



押し流された舟が道の上に放置されているところもあれば、
雑草が生えるばかりの場所もある。
震災前の写真と見比べても、
その違いに呆然とする。

目前に見える、橋のうえで、一晩明かした人もいるという。
真っ暗な波が足元に幾度も押し寄せてくるのは、
それは怖いものだろう。

公園には、鹿島御児神社がそびえ、
紫色の朝顔も、あじさいも咲いている。





喉の渇きを癒しにファンタを飲んだ後、
再び自転車にまたがり、
坂を駆け下る。

仮設の石巻市立女子高等学校や
石巻市立女子商業高等学校、
墓石が散乱したままの墓地、
「すこやかに育て心と体」と掲げたまま、
布に覆われた門脇小学校。



雑草の広がる土地の向こうには、
製紙工場の煙があがっている。

草むらに近寄ってよく見てみると、
陶器やガラスの破片、倒れた家電、
家のコンクリート土台。

そこに「お地蔵さんプロジェクト」による
仮建立の真新しいお地蔵さんが現れる。












残された大木、
一階部分の破損している家、
大破している車、
橋にかけられた折り鶴、
鉄パイプのひしゃげた駐車場、
ゆがんだ道、
身体の半分を失った自由の女神像。






























どこを向いても、まだあの日の続きだ。

石巻まちなか復興マルシェに立ち寄り、
石巻うまいもん屋に行く。

行列ができていて、その繁盛ぶりが分かる。
石巻産のぶり、かつお、たこ、くじらに、
北海道産のほたてや生海老ののった、
豪快海鮮丼。
それから、石巻やきそば。
麺を二度蒸しすることで麺が茶色く、
そして、魚介だしで焼き上げる。
あっさりとしていて、ぺろりといける。

復興ふれあい商店街で
自転車を返却してから、
同じ商店街にある、
手造りパン工房パオに立ち寄り、
甘食、を買い求める。

そこの女将さんもまた、
当時の様子を語ってくれた。
逃げた時の様子をありありと語った。

そして、何度も繰り返す。
ここでお店をやり直せているのも
ボランティアの人のおかげ。

ボランティアの人たちが
口コミで広げてくれたの。

近所の方々と助け合って生きている。

このあたりは、
電車の便もずいぶんと悪くなっている。
気仙沼の先の陸前高田まで行きたかったが、
石巻からローカル線でまずは前谷地、
そこから乗り換えて、田んぼの中を走り、
柳津駅まで行くと、代行バスに乗り換えなければならない。

バスを待っている間に、徐々に日が暮れていく。
同じ待ち人のおじいさんが、
バス会社のおじさんの携帯電話を借りて、
話しこむ。

その後、10円玉だけ受け取ったというバス会社のおじさんは、
「まったく、普通の電話と違って
携帯の通話料は高いってことを知らないんだから、
やんなっちゃうよ」と
ぶつぶつと言っている。

そうこうしている間に気仙沼に着いたころには21時ころになっていた。
陸前高田までは終電バスもあるようだったが、
陸前高田は、街全体が破壊され、
駅にたどり着いても近くに宿がないようだった。

今夜は先を急ぐよりも、
気仙沼で一泊しよう。

いくつか宿にあたるも、どこも一杯だというが、
かどや旅館は、空いていたもので、
部屋に通してもらう。

そこからひっそりとした町並みに夕食を求めに行く。
街にはほとんど店がなく、
特に被害の大きかった、坂を下ったところは、
街灯も暗く、仮設商店街のほうにだけ、
光が灯っていた。

光のある方向へと歩き、気仙沼横町に入り、
にぎわいのある居酒屋を見つけるも、いっぱいだという。

そこの客の一人の青年が、
じゃあ、開いているお店に連れて行ってあげるよ、
と言った。

言われるままに、ついていく。

近くの別の仮設商店街に行くも、
やはり夜も遅く、閉まっている。

そこで、同級生がやっているという
とんかつ勝子に通され、
まあ、どうぞ座ってくださいと
店主の男性が言う。

よく来たね、
飲んでいったら、
とジョッキにサワーを入れて、
差し出してくれた。

ごくりごくりといただく。
旨い。

明るい奥さんと、
過去にイロイロあった、優しさ満点旦那さんと、
その後もわたしたちを素敵なバー、カプリコンに連れて行ってくれた
酔っ払いぎみの素晴らしき男性。

気仙沼での思いがけない
夜更かしトーク。
バーは満席でわいわいがやがや、
互いの会話の声さえ聞きづらい。
でもこのお店にいる時間が、
人と人とをつないでいく。

ピザにカルパッチョ。
仕上げは今夜もセブンイレブンでアイス。