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2011年11月

ぽっぽー機関車と、ビールおじさんたち – Trinidad, Cuba

トリニダーはかつて周辺のサトウキビのプランテーションにより、奴隷売買や作物の取引の中心地として繁栄した街でもある。トリニダー駅とロス・インヘニオス渓谷のGuachinango駅を、かつてサトウキビを運んでいた蒸気機関車が走っている。

今日も朝ご飯は宿のテラスでバターとキューバ蜂蜜にハムとパン、オレンジとパイナップルにオレンジジュースとコーヒーをいただいたあと、約1キロ程離れたトリニダー駅まで歩く。トリニダー中心地はまるで観光地と化しているが、少し離れると、人々の生活がそこに息づき、馬車も日常生活に利用されている。

機関車は1906年米国製で客車は木でできている。定刻の9時半、ぽっぽーという音とともにがしゃりがしゃりと走り出す。とたんに街から抜け出し、あっという間に辺りは山に囲まれ、牛と白い鳥のペアの群れ、放牧されている馬や羊や山羊、その子ども、たわわに実をつけたバナナの木を見つつ、時には高い鉄橋を渡っていく。

木材を燃やし水を沸騰させて動いているため、鉄路には水をくみ上げるポンプがついていて、時折機関車は水を補給するために停止する。そして、水をくみ上げた後は辺りに水しぶきが飛び散る。黒い煙がもくもくと空にあがり、線路を覆う木々を、黒い煙で噴き上げる。

列車の中にはバーカウンターさえついていて、メキシコ産コーラ、国産コーラ、BucaneroやCristalビールにモヒートなどが用意され、蝶ネクタイをつけたお兄さんさえいる。そしてギターを持ったおじさんが音楽を鳴らし始める。

途中、黒いハットを被ったおじさんが「ぼくはここに以前50年間住んでいて、今日は友だちを訪ねに来たんだ」と言い残して、まっすぐに進む砂利道の、名前さえないような場所で降りて行った。

1時間半弱でイスナガ駅に到着する。駅近くの沿線に住む人々は一日一本の機関車の到着を楽しみにしているのか、多くの人が家の外で到着を待ち、手を振る。この駅には世界遺産でもあるロス・インヘニオス渓谷の一部であるサン・ルイス渓谷を見渡すことができるマナカ・イスナガ塔がある。

ロス・インヘニオスは植民地時代に大規模なさとうきび農園だった場所で、数多くの奴隷が働かされていたという。このマナカ・イスナガ塔から奴隷を監視し、その鐘で労働者に合図を送っていたのである。

このイスナガ塔、急な木の階段に歪みのある不安定な地面で、なかなか恐怖心をそそるものであったが、登りつめると広大な平原にバナナの木やレンガ造りの家、馬乗りやさとうきびを入れたという大きな鍋、当地の手芸品であるファゴッティングという手法で刺繍をほどこした白い布地がはためくのが見渡せる。

駅付近にはさとうきびのジュースをその場で機械で搾ってジュースにしているスタンドもある。地元の人もぱっと来て、支払いを済ませて一気に飲みほして去っていくといった形でこのスタンドを利用している。

12時にはまた機関車が出発して15分程先にあるGuachinango駅に到着する。ここにもかつてさとうきびのプランテーションのオーナーであった人の大きな家がある。

より平地で肥沃な土地を求めてさとうきび畑は別の場所へと移動していったようで、今この辺りはバナナ畑が広がり、牛や馬、山羊や鶏や犬がゆったりと暮らしている土地となっている。そののんびりとした雰囲気の中、オーナーの家ではバンドが音楽をならし、わたしたちはそれを聞きながら、Bucaneroビールとともに草原に寝ころがる。

13時半にGuachinango駅を出発し、トリニダーに戻る機関車に乗っていると、おじさんが今もぎとったものだとグアバを差し出してくれた。この機関車にはトイレも完備されているが、いつの間にかその中にはまだ熟していないバナナがどっさりと詰め込まれ、トイレを占領していた。

帰りももくもくと黒い煙をあげながら、機関車は進む。太陽の光が黒い煙に包まれると、光の線がよく見える。時に停車して線路脇に積まれていた木材を載せて、水をポンプから吸い上げる。

機関車の運転席にも車体の上にも乗ることができる。車体の上は不安定でひやりとするが、Cristalビールを飲みながら陽にやけた身体で仕事に励む機関車のおじさんたちは、頼もしい。

トリニダー駅に戻っててくてくと歩いていると、ある家の庭でドミノをしている人たちが集まり、大盛り上がりを見せていた。10つのパイを手にして、パイに書かれた丸の数を合わせて並べていくゲームで、若い女性やおじさんなどがVCと書かれたアルコール度数40%のウォッカや38%のMulataというラム酒を片手にどんちゃんとわいわいしているのである。

日本人、スズキイチロー、と言いながら、わたしたちにラム酒を勧めたおじさんは、ここにいるみなが友だちなんだとつぶやいた。

セスペデス広場付近で子どもたちはキックベースをしている。キューバはヨーロッパ系が約4分の1、アフリカ系約4分の1、半数が混血と推定されているそうで、さまざまな肌の色をした子どもたちが同様に遊んでいる。人種差別はほとんどないのだという。わたしたちはEmpanada Gallegaというほんのり甘い餡の入ったパイを屋台で買ってつまむ。

夕食は、道を歩いていて声をかけられたMarin Villafuerteというレストランで、Pollo Napolitanoという鶏肉にチーズをのせて焼いたものにご飯とサラダ、バナナフライがついたセットを注文する。チーズのたっぷりかかった鶏肉はジューシーだ。

宿に帰ってきて、おじさんが差し出してくれたグアバを切って食べる。キューバで食べることのできるメニューは限られているが、それでも、日本人の口には合う味付けなのである。

巨大なクレイジーわくわく洞窟エンターテイメント会場 – Trinidad, Cuba

トリニダーバスターミナルにわずか定刻10分程度遅れで7時前に到着したViazulバスには客引きさんが集まっていた。そこから知り合い間をバトンタッチのように行われたスムーズな客引き連携のおかげで、JulioとNeryさんのカサ・パルティクラルにたどり着き、部屋をとる。

早速、ハムにバターにキューバ蜂蜜にパン、パパイヤにパイナップル、かすかな炭酸の入ったオレンジジュースとコーヒーを出してくれ「自分の家のように過ごしなさい」と言ってくれる。外には馬が走るパカパカという音が聞こえてくる。

トリニダーはすっかりと観光客が増え、レストランや宿泊先を探していないか常に声がかかる。

わたしたちは昼過ぎに家の向かいにある屋台で塩味とマスタードのきいたハムをはさんだパンをかじりながら革命博物館へと向かい、その前に座っていたおじいちゃんからバナナを買う。いくらか尋ねると「いくらでもいいよ」と笑った。

博物館にはモンカダ兵営襲撃の写真や、カストロがメキシコでゲバラと合流後にキューバ上陸をしたヨット「グランマ号」の写真、FEU(the University Student Federation)の設立経緯、ゲバラやカミーロの写真に加え、カストロの言葉があちらこちらに書かれている。

キューバが撃ち落とした米軍航空機の残骸も置かれており、また前政権である親米バティスタ政権の掃討作戦で命を落としたカストロ率いる革命軍の写真もあるといった具合で、現政権への支持を集める内容になっており、地元の小学生たちも見学に来ていた。

博物館のお姉さんは茶目っ気たっぷりで、博物館前のマヨール広場では小学生がバトンをもちながら鼓笛隊の練習をしている。街では客引きさんもあちらこちらにいて、メキシコ産コカコーラも国産コーラも置いてある。

宿に帰り、近くのホテルでコックとして働いているというJulioとNeryさんが作ってくれた夕食をBucaneroビールとともにいただく。

ポターへ・デ・フリホーレスという豆や肉のスープにロブスター、キャベツにトマトとご飯、パン、そしてオレンジとグアバがついている。キッチンから良い香りがしてくる。JulioさんとNeryさんのお友だちもそのうちに集まってきた。

トリニダーには洞窟が数多くあり、洞窟を利用したディスコさえある。その名はDisco Ayala。23時過ぎに家を出て、ひっそりとしたトリニダーの街を歩く。

時折爆音ダンスミュージックが漏れ出ている場所があるが、街全体はとても静かで、歩いている人もまばらだ。分かりづらい道を人に尋ねながら、薄暗い舗装されていない小道を上がりきったところにそのディスコはある。

入口の赤い眼鏡をかけたおじさんから3CUCでチケットを買い、洞窟を下っていく。その洞窟は何やらとても大きな洞窟のようで、奥深い暗闇に空き缶やら煙草のパッケージやらが無造作に投げ捨てられていたりする。

ディスコの中は地元の人も混じって腰をふりふり盛り上がっていた。モヒートを飲む。ミュージックビデオが流され、キューバ音楽だけでなく、欧米のダンスミュージックも会場を沸かす。

DJブースもあり、洞窟の音響によってディスコは大きな活気に包まれる。炎を使ったり、女性をテーブルに乗せて口でそれを持ち上げたり、ガラスを食べたりといったパフォーマンスも間にはさまれる。

ここは、人間が作り出した、巨大なクレイジーわくわくエンターテイメント会場なのである。

1時半ごろ店を出ると辺りは虫の声が響いており、頭上にはたくさんの星が輝いていた。石畳の暗がりの道を戻ると、馬が道端で主に洗われている。

そしてひっそりとした住宅街の中で爆音ダンスミュージックを流す1CUCクラブが、地元の人々により熱気にあふれていた。
若者が数人、モヒートを飲みながら、道を歩いていく。

グアンタナモを愛するウィリアムくん。 – Guantanamo, Cuba

今日は朝早くに起きて、グアンタナモへ行くことにする。Viazul社のバス、グアンタナモ経由バラコア行きが7時45分に出発なので、それに合わせてバスターミナルへと歩く。

夜遅くまで賑やかな街が、朝早くからまた明るく活動しているのである。大通りでは大人向けジャズが流れ、バンドがスタンバイをしている。

てくてくと歩いていると、通り沿いに「グアンタナモ、グアンタナモ」と叫ぶおじさんがいた。そばには大きな赤いトラックが停まっており、荷台には既にぎゅうぎゅうとたくさんの人が座ったり立ったりしている。

聞くとそのトラックがすぐにグアンタナモに出発するという。荷台だと15MN、運転席の隣だと20MNだというので、空いていた運転席の隣に座らせてもらう。

高さのある席にえいと飛び乗る。運転手は若い男性で、行き交うトラックや荷台に乗る人々と手や顔で掛け合いながら、先へ先へと進んでいく。時折頭上横につながれているワイヤーをリズミカルに手でひっぱりクラクションを鳴らす。

前を走るトラックからまきあがる黒い煙がわたしたちのほうへなびく。朝もやに包まれた山々を窓の外に眺め、牛を連れた人や人々を乗せた馬車と、道を譲りあいながら進む。7時にサンティアゴ・デ・クーパを出発したバスは9時過ぎにはグアンタナモに到着する。

バスターミナルで、グアンタナモ米軍基地へのアクセスについてわたしたちが周りの人々に尋ねていると、基地で働いているという地元女性も含めて大変な議論となる。

みなが豪快に助言をくれた後、まずはターミナル近くの屋台でチョリソののったピザを食べることにする。ふっくらとしたパン生地にたっぷりのチーズとぴりっとした辛さのチョリソがのったあつあつのピザで、食事のまずいと言われるキューバだとは思えないものだった。

客引きお兄さんたちの一団にいたウィリアムくんがシトロエン車でわたしたちをグアンタナモ基地近くまで連れて行ってくれることとなった。高台から基地全体が望める場所を知っているといい、ここを訪ねる観光客をよく連れていく、と言った。

運転をしつつ、窓の外の数多くの友だちたちに挨拶をし、からかいあい、時には助手席に乗せる。ウィリアムくんはこの街で生まれ育ち、たくさんの親しい友だちがいる。その様子はまるでグアンタナモのドンだ。そして彼は言う。「グアンタナモはきれいだし、人がすごく良いんだ。グアンタナモが大好きだ。」

彼はロシアに6年ほど住んでいたといい、ロシアとキューバに奥さんとそれぞれ子どもがいるという凄腕の男性だった。前の晩は踊って飲みすぎた、広島に友だちがいる、イチローはすごい選手だと陽気に運転をしながら言う。

サトウキビ畑が広がる道を進み、米軍基地へと続く鉄路をこえて、そのうちに、雑草が広がる平地を走ることになる。道の途中にはキューバ軍基地へと続く入口も見える。はるか遠くのほうに山々が見えるが、あたりはあくまでフラット、だ。

ウィリアムくんがライセンスをもったきちんとした運転手であり、グアンタナモのドンであることがあたりでは知られているようで、数か所あるチェックポイントでも停止することなく通過できた。

米軍基地へと通じるゲートの外はキューバ軍がおり、米軍はその中の敷地にいるのだという。ウィリアムくんは、わたしたちを小高い丘へと連れて行ってくれた。

そこからは、遠くかなたに米軍基地やアフガニスタンやイラクのテロ容疑者の収容所があるグアンタナモ湾が見渡せる。赤く細長い建物と湾にかかる橋。近くの林から煙があがっている。

ウィリアムくんはこう言った。キューバ人はアメリカ人を嫌っていない。それは国の問題であって、個人個人は関係がない。僕にはアメリカの友だちがいて、Eメールでやりとりをしているよ。加えて、チェ・ゲバラはLOVEであり、カストロはFATHERである、と変わらぬ明るい調子で語ってくれる。

グアンタナモという町は、サンティアゴ・デ・クーバよりも明るい街に見えた。今、ここは建築ラッシュなのだという。入場制限があるかのごとく、商店に入るのに並ぶ人々がいる。冷房のきいた照明の落とされた地元レストランがあり、列をなす一組ずつが入店するときだけロックされた扉が開き放たれる。それでも、街はカラフルで人々はきらきらと闊歩していく。

わたしたちは教会のある中央広場で本場と変わらない味の国産コーラを飲み、近くの屋台でチーズスパゲティという名の麺を頼む。チーズスパゲティとは、ぷよぷよとした伸びきった麺がぷつりぷつりと切られて、味のない赤いソースとチーズがかけられた、おそらくミートソース風味のものである。

それからウィリアムさんと一緒に、古い建築物Salcinesを見て、お勧めしてくれた地元でも有名だというLa Venecianaという店でチーズたっぷりピザを頼み、立ち食いをする。こちらの人はピザを二つに折りたたみ、小さな厚紙でそれを手ではさんでサンドイッチのような形でじょうずに食べている。

その後ウィリアムくんは、馬車がずらりと並んだ停留所のそばを通り、「中国洪門民治党駐雲丹分部」(Min Chih Tang) 」という名の建物に連れていってくれた。建物のわきには中国の置物やお香が置かれ、メキシコ人だという年上の女性が大きな木の揺り椅子に腰掛け、揺られている。

こうしてウィリアムくんによるグアンタナモの一日は終りを告げ、ESTACION DE OMNIBUS GTMOのバスターミナルへと戻る。するとウィリアムくんの知り合いの、同名ウィリアムさんがTOYOTAの四駆でサンティアゴ・デ・クーバまで人々を乗せていくというので便乗する。

1時間半程でサンティアゴ・デ・クーバに到着し、夜の19時半にトリニダー行きViazul社バスが出発するまで街を歩いていると、サルサとピアノと語学を学んでいるという日本人のさとみさんに声をかけてもらった。

お勧めのBendita Farandulaというレストランを教えてもらい、Lomo ahumado con pinaという豚肉にパイナップルののった料理をCristalビールとともに頼む。パンや豆の入った黄色いご飯にバナナ、サラダやポテトがついていて、さすが馴染みやすい大満足の食事なのだ。

きちんと時間を守る空調完備抜群のViazul社バスは、定刻1分前、に適度の冷房をつけて、出発するのである。

キューバらしい街 – Santiago de Cuba, Cuba

キューバのカサ・パルティクラルの室内は一様に暗い。窓にスクリーンがかかっていたり、窓が家の外に向かっていなかったり、分厚い木の板が光を遮ったりしている。それでも朝は、近隣の家の開け放たれた窓から漏れ出る爆音のりのり系音楽と、人々の話し声で目が覚めた。人々は早々に家の外に繰り出している。

朝食はNancyさんの手作りだった。オムレツにトマト、チーズにパリパリとしたパン、オレンジやバナナ、そしてオレンジジュースと苦めのコーヒーであった。バターはふんわりとした卵の風味であり、チーズは豆腐のようでもある。備え付けのマスタードと蜂蜜はキューバ製であるが、チリソースは米国製、コーヒーの入った磁器ポットはブルガリア製であり、ミルクの入った磁器ポットはYAMASANと書かれた日本製であった。

昨日の誕生日会で撮った写真や動画を渡すためにEglisさんたちの住む別の家を訪ねる。パソコンはあるが、インターネットに個人宅でアクセスするのは違法なのだと言った。違法かどうかの見解は、人によってずいぶんとばらつきがある。いずれにしても、キューバにおけるインターネット利用は高級ホテルといった一部限られた場所でのみ可能であり、また高額なので、ほとんどのキューバ人はイントラネットとEメールのみを利用している。

Eglisさんのパソコンには既にEglis自身のデジカメで撮影した写真が入っており、子どもたちがそれを嬉しそうにのぞきこむ。

家には33歳のEglisさんの子ども三人と、一番上の娘さん15歳のボーイフレンドがいた。昨日のパーティでも集まった両親の若さに目を見張ったのだが、今日もEglisさんと娘さんボーイフレンドがほぼ同じ歳のように見えるから、驚いてしまう。

入口は質素なEglisさんの家も、三階まである。元気な犬のジェイクが常に興奮をしている。屋上では奥さんの趣味でmaracullaなどの家庭菜園が行われ、ココナッツもなっている。食べるための魚もプラスチック製の大きなタンクの中に飼われていた。

7月26日モンカダ兵営博物館を訪ねる。この兵営は1854年に刑務所として建てられたもので、1952年に政権についたバティスタの兵営であった。1953年にカストロ率いる革命軍が親米バティスタ政権打倒をかかげてこの兵営を襲撃するも失敗に終わりカストロも逮捕されたが、これがキューバ革命実現に向けて大きなきっかけとなる。

いまだその襲撃の際の弾痕がいくつも残っている。兵営前には、やしの木が生え、子どもたちがタコをあげており、電線にはいくつかのタコがひっかかって黒く垂れ下がっている。

Victoriano Garzon通りのフェスティバルを歩く。土曜日の夜のほうが盛り上がっていたのだと思うが、日曜お昼もモヒートやラムを飲む陽気な人たちがいて、わたしたちもお酒を勧められる。子どもたちは簡易遊園地で遊びまわり、音楽を聴くブースにはPanasonicのテレビが置かれている。

何匹もの豚が口から太い木で貫通され、くるくると回されながら焼かれていく。赤と白の縞々の服を着た男性はサポジラという実を売っている。ビールはCaciqueが20MN、Mayabe 18MNで売られ、BucaneroとCristalは1CUCで売られている。

わたしたちは屋台で売られていた魚とチップスを10MNで、アイスクリームを1MNで買って歩きながらバスターミナルに明日のバスについてを調べに行く。魚はあじフライであり、チップスはじゃがいも揚げ、アイスクリームはナッツ味の練乳風味といった具合で、シンプルな味が良い。

バスターミナルの後はどこからか連れられてきたマイケルさんにモロ要塞まで連れて行ってもらうことにする。青い車体の古びたその車はフロントガラスにひびが数多く入り、窓は木で落ちないように留められ、メーターは壊れて動かない。ブオオオオと大きな音を鳴らして出発すると、大きな身体のマイケルさんはサングラスをかけて、まるでバイクを運転しているかのごとく身体全体を揺らしながら、その車を運転していく。

モロ要塞は1950年代に海賊の襲撃を防ぐために基礎が造られ、1643年に完成したもの。撮影スポットにもなっているのか、花嫁がドレスを着て、撮影をされながら、時に花びらをまきながら、歩いていく。武器庫や礼拝堂、牢獄などがあるのだが、リアル人形が暗闇にむやみに置かれていたりして、こちらを仰天させる。

要塞の上からはカリブ海と半島を見渡すことができる。また日の入りに合わせて空砲をうちあげる儀式が行われた。白い服装にハットを被った7人の男女が一連の儀式を行い、空砲がうちあがると、「VIVA CUBA DE LIBRE」と叫んだ。

市内に戻り、中心地にあるカテドラルや、キューバで最も古い建物だと言われるサンティアゴ・デ・クーバを建設したディエゴ・ベラスケスの家、革命前はキューバのラムであった今やプエルト・リコのラム酒・バカルディの博物館を回る。

1844年に建てられた音楽会館で、1950年代以降トロバ音楽のコンサートが人気を呼ぶようになったカサ・デ・ラ・トローバでは、サンティアゴ出身だというGRUPO LA PASIONがライブを繰り広げている。ここは映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のコンバイ・セグンドなどを輩出した場所でもある。建物内でも外でもペアになって踊り出す人々が現れる。

行きすがりの人に教えてもらったLa Caribenaという個人宅を改装した屋上パラダールで夕ご飯をいただく。白身魚と海老やハムにチーズがのせてあり、ご飯やサラダ、バナナのフライ、プラタノ・フリートがついている。ビールはBucaneroにする。ここには表価格と若干安い裏価格のメニュー表があるが、いずれにしてもCUC払いの店である。サンタの格好をした店員ミュージシャンが時には音楽をひき、時には食べ物を運ぶ。

ここに連れて来てくれた男性は、わたしたちの食事の終わるのを待っていて、やはり何か報酬を求めているようだった。そして話しながら歩いている途中、セスペデス広場に近づた頃、「これから先、旅行者と話しているのが見つかると警察に捕まるから、これ以上はついて行けない」と言った。

セスペデス広場やドロレス広場はバンド音楽で多くの人々が集まっていた。風は涼しく、おじいちゃんもおばちゃんも、おかあさんも子どもも一緒に組んで踊り始める。

旅行者と一緒に食事やお酒を飲み、ご馳走をしてもらう。
旅行者に情報を与え、報酬を得る。
商店にある品物の数は少ないが、24時間オープンのカフェテリアも存在する。
そして同時に明るく腰をふりながら踊り続ける人々が、ここにはいる。
 

5歳の大きな誕生日会 – Santiago de Cuba, Cuba

立ち寄ったバスターミナルには、チェ・ゲバラの像が壁面に描かれていたりする。水やドリンク、簡単なスナック類を売っている売店もあったりする。

2車線のさほど広くない道をバスは走る。馬車や自転車とともに、走る。バスは、とうもろこし畑、やしの木、十字架のついた石のお墓のそばを通り、窓からは牛を使って畑を耕しているのが見える。

バスは11時過ぎにサンティアゴ・デ・クーバに到着した。ターミナルのお兄さんは「松坂はすごい。日本の野球はすごい」と笑顔を見せてわたしたちを迎えてくれる。

ターミナルを出たところの客引き4組ほどの中からカサ・パルティクラル(個人宅の一部を提供している宿)、NancyさんとEglisさんの家を選ぶ。宿まで乗せてくれた車は、ごつくて恰好の良い車だった。カサ・パルティクラルは、Eglisさん夫妻と、Eglisさんのお母さんであるNancyさんを中心に運営されている。

お昼を食べに街に繰り出す。

どこか良いレストランはないかとPlaza de Marteのある広場に向かったものの、他の国でならあるだろう場所に、レストランが見当たらない。屋台がありそうな場所に、屋台がない。

そこで、広場にいたお兄さんにどこか良い店がないか尋ねると、ロブスターの美味しい店を案内してくれると言った。コックをしている36歳、その名はモリスくん。英語、ロシア語、フランス語、イタリア語、ドイツ語を話すことができ、アフロキューバンの宗教を信仰しているという。いずれ宿、カサ・パルティクラルを開業したいと言った。

以前料理学校で教えていた時は17CUCだった月給は、今は70CUCだと言う。7時45分から23時まで一日おきに働く。27歳の奥さんがいて、前妻との間の16歳の子と、今の奥さんとの間の5歳の子がいる。稼がないといけないんだ、と言った。インターネットは一時間に6CUCほどかかるから、そのお金があるならお酒や煙草に使いたいのだと言う。そして、政府は頼りにならないと声をいくぶんひそめる。

教えてくれたLa Terraza Restaurante Parrilladaではロブスターとバナナの揚げ物、サラダを注文する。ビールはコクのあるBucaneroと軽めのCristal。ロブスターはぷりぷりとしたもので、モリスさんたちキューバ人であってもCUCで支払わなければならず、高価なのだと言う。

モリスさんは一度席を外し、友だちが売っているという葉巻とともに戻ってきた。そして若干の遠慮を見せながら、わたしたちに買って欲しいそぶりを見せた。

丘の上にある、1931~33年にカストロが住んでいた家の近くで海を眺めていたら、ロシアからの単身旅行おじいちゃんと、どこからともなく現れた以前ロシアに住んでいたというキューバ人に話しかけれた。

ロシア人はキューバに入るのにビザが必要ないのだという。ロシアに心を置いたまま昔の白黒写真をもって話を続けるキューバのおじさんは、わたしたちがマイクをもって録音していないかしきりに気にしていた。

ここでは子どもたちもわたしたちに「ペン」がほしいと声をかけ、大人も話の最後に油などといった「食べるのに役立つものがほしい」と言う。美味しい店についてわたしたちが聞けば、その店まで連れて行ってくれ、そして一緒に席につき、ドリンクを奢ってもらうのを待つ。

道端で売られていたfritura de arinaといった揚げ物を1MNで買いながら、道を歩く。さくさくとして甘くておいしい。

宿に着くと、Eglisさん夫妻の5歳の男の子、Yordanくんのバースデーパーティが行われていて、近所の人々が40人ほど家からあふれながらも集まっていた。風船や色紙で装飾された部屋に置かれた大きなテレビに映されるアニメから、大人の聞くようなノリノリ音楽が流れてくる。そして、大人顔負けのセクシーダンスを子どもたちが見せてくれ、そのうちに大人たちも踊り出す。チュクチュク、チュクチュクチュク。Nancyさんも頬を赤らめ、ノリノリだ。

Eglisさんたちが買ってきたという、ディズニーランドの飾りが置かれた水色のクリームで彩られた巨大バースデーケーキも置かれている。バースデーソングが歌われ、カップに入ったアイスクリームが配られ、Ronera la Palmaという強くて甘いお酒がふるまわれた後、切られたバースデーケーキにパスタサラダが配られる。箱には「わたしたちの5歳のYordanの思い出に」と書かれていさえする。ケーキはクリームたっぷりの甘い見かけであるが、クリームよりもスポンジに甘みがしみこんでいるケーキである。

誕生日会の最後には、天井からぶらさげられていた人形の乗った車を、くす玉のごとく開けてプレゼントをばらまき、子どもも大人もそれを取りに行くという仕掛けさえ施されている。大人はその中でも「ペン」を積極的に取りに行く。1歳、5歳、10歳、15歳とこのように盛大にお誕生日をお祝いするそうだが、その一日がこうして過ぎていくのだった。

Eglisさんの腕には、奥さんの名前と愛しているの文字が彫られ、奥さんの腰にはEglisさんの名前が彫られている。