China
蘭州といえば牛肉麺、ということで、老舗の馬子禄牛肉麺館までバスに乗っていくことにする。途中、バスの窓から、日本語で味千ラーメンと書かれたところもあれば、浜崎あゆみさんが表紙を飾る雑誌のポスターも貼られている場所もあるのが見える。
バスを降りててくてくと歩き、近くにいた人に道を尋ねる。すると、その人は、近くまで連れていくからついてきなさい、と言う。そしてどの国から来たのかと聞かれて、日本ですと答えると、ようこそいらっしゃいました、と笑顔を向けられる。お礼を言って、中国では日本人は歓迎されないこともあるので嬉しいですと伝えると、中国には「遠くの親戚より近くの他人」ということわざがあります、日本は中国の隣人なので、友だちとして関係を築いていかなければなりません、とまた微笑んだ。
こうして馬子禄牛肉麺館までたどり着き、定番の牛肉麺をオーダーする。入口で買い求めて、紙切れを奥の厨房へ手渡すと、一人のシェフが慣れた手つきで丸まった麺粉をびよんびよんと伸ばして麺をつくり、それをひょいとわきの鍋に入れる。
それを隣のシェフが時間をみて、また慣れた手つきで取り出して、椀に入れて、スープをかけ、小切りにした牛肉や香菜、それに調味料をぱぱっとかけて、ひょいとカウンターに置く。
わたしたちはなみなみと注がれた真っ赤なスープの入った椀をそろそろと持って、テーブルに運ぶ。
手でこねられ、太さのそれぞれ違うもっちりとした麺に柔らかい牛肉の小切りが、喉がぴりりと辛くなるスープが絡まり合う。ポットに入れられたお酢をまたとぷとぷと注いですする。辛さにじんわりと暑くなる。
店内は、通い慣れたふうの地元客で賑わい、一人客も少なくない。従業員たちも昼のまかないに、テーブルごとにかたまって牛肉麺を食べ始めた。
身体もじんわりと暑くなったところで、白塔山公園に向かう。黄河は、黄色く濁っていて、川辺には多くの人々がおしゃべりを楽しみ、ときにアイスクリームをほおばっている。
中山橋を渡った先にある白塔山公園には、いくつもの楼閣が建てられている。石の階段をてくてくと上がっていくと、そのうちに寺の向こうにモスク、そして黄河の向こうには高層のビル、そして建設中のビル、といくつもの空気が重なり合って蘭州という街を造り上げているのが見渡せる。
公園の階段をてくてくと上がって下ってきたご褒美に、小豆ミルクアイスをほおばる。
今日はこれから列車に乗って成都に向かう。この列車のチケットは、蘭州へ到着した3日に駅の窓口で買ったものだが、そのとき既に「席無し」チケットしか買うことができなかった。中国の列車は、「軟らかいベッド」「硬いベッド」「軟らかい座席」「硬い座席」「席無し」とチケットが分かれているが、そのどれもが朝から晩まで満席、買えるチケットは16時半発の「席無し」チケットしかなかった。ほとんどの列車は「席無し」のチケットまで完売されていた。
「席無し」となると、よほどの根性でスペースを座るスペースを抑えないかぎり、21時間ほどの時間を立ったまま過ごすことになる。
蘭州の駅の前は大変な混雑ぶりで、敷物を敷いて座り込んでいる人もいる。そして、荷物検査を待つ人の行列が既にできている。そこを通り抜け、さらに大きな駅の中をプラットフォームへと急ぎ、指定されていた車両に飛び乗る。列車の入口から既に立つ人でいっぱいだ。
トイレとごみ箱の前にしかスペースがなく、そこに鞄を置く。通路はぎゅうぎゅうになっていて、床に座り込むスペースもない。鞄をおさえながら、立ったままいると、フルーツやお菓子にドリンクを販売員ががらがらと荷台にのせて押してくる。そうなると、混乱はさらなる混乱をきたし、鞄を端にぎゅっと寄せて、身体を壁にぺとりとつける。そのすぐそばでは、煙草を吸うおじさんがいて、そしてまた吸い終えた吸いがらを足元に落として足で踏みにじるおじさんがいる。
こんな状態で21時間、立ち続けるのは、なかなかに大変だ。
半ば、途方に暮れる。
そんな状態が20分ほど経ったころだ。
大きな鞄とともに突っ立っている外国人のわたしたちは目立ったのか、添乗員の女性が、どこの国から来たんですか、と聞く。
長旅になるこれほど混雑した列車の中で、日本人だとは恐ろしくて言えない。
たびたび中国でそうしてきたように、今回も、韓国人だ、と口にする。
すると、さほど広くはないけれど、ここよりは良い場所があるからついてきなさいとスタスタと乗客おしのけ、前へと進んでいく。
鞄をしょって通路に立つ人をかきわけ、ようやくたどり着いたところは、がらんどうの食堂車だった。30元足せばここにいて良いですよ、とその女性は言った。
各テーブルには造花が飾られ、清潔な白いカーテンが窓にかかっている。外国人だから、優遇しちゃいます、ここを使って良いですよ、とふくよかなその女性は言って、どうぞ座りなさい、熱湯が欲しければ、熱湯もあるから、注いで飲みなさい、と言った。電源も、ある。
通路に歩く人のいるたびに、立ちっぱなしの身体を少しひかなければならなかったのが、突然にがらんどうの豪華食堂車に座れることになった。
営業時間外の食堂車は、中国人乗客が入ってきても追い出されていて、添乗員の人々しかいない、静かな車両だ。それが7時を過ぎたころになると、続々と人々が来て、炒め物に白飯などを食べていく。
商店で買ってきた鶏肉のソーセージに、チョコレートのお菓子、それに棗やカモミールティーをほおばりながらいると、22時から6時までは夜食のサービスがあり、30元を支払えば、「席無し」チケットを手にした人々もそこに座席を確保できるという。
これが、添乗員の女性がわたしたちに伝えていた30元のことだった。本来の夜食サービス時間を、外国人のわたしたちには時間を広げて食堂車の席を提供してくれていたのだった。
こうして22時ころになると「席無し」チケットの人ばかりで食堂車の座席は埋まる。そして夜食サービスが配られる。薄い食パンを2枚にゆで卵、それに粉ミルクをお湯で薄めたミルクに、薄くてほんのり甘いコーヒー。
車内では、角度によって浮かび上がる紙や本などが、添乗員によって売られていく。
それから1時間もすれば、灯り続ける電気の下、テーブルにつっぷして眠る人、腕組みをして眠る人、がはがはと笑いながら話し続ける人と、いろいろに分かれていく。
食堂車を出てみると、廊下まで乗客がびっしりと座っていた。
2012/09/05 23:31 |
カテゴリー:China
朝は6時ほどからラブラン寺でお経を唱えるというので、まだ暗いうちに宿を出て、歩いていく。朝の早いうちから自転車で寺の辺りを飛ばしていく子どもたちがいて、タクシーに乗ってどこかへ向かう僧たちがいる。
広大な敷地を持つ寺の中にある薄暗いお堂の中に、紅色の袈裟を着た僧がいくつもの列を成して座っていた。いくつもの仏像が置かれ、手前にはヤクバターのキャンドルが灯りをともしている。
湯気のたつミルクティーを入れた金のポットを僧たちが別室から早足で運び出し、それに幾列かを成して座っている僧たちが口をつける。
低い声でお経が始まり、時折黄色いとさかをつけた僧が鐘を鳴らし、ひとしきり続くと、また途切れ、静けさに包まれる。聞こえてくるのは鳥の声だけだ。
黄色いとさかをつけた別の僧は、筒をぼんぼんと床に叩く。信者たちが願いを記した紙切れを放り投げていく。そのうちに供え物が運ばれてくる。供え物を置いた箱にはどくろが描かれている。
奥の小部屋でもまた祈りが捧げられ、金の仏像の前にはパンチェン・ラマの写真が掲げられている。外では松の木が焚かれ、煙をあげている。お堂には、その周囲を回る人々がいて、幾人かが入口の辺りで五体投地を繰り返している。
上着を重ねて着込んでいてもまだ寒くて手がかじかむ。そんな中を僧たちは裸足で木の板の上を歩いていく。片腕の袈裟を剥いで肌を出していることに、寒くないのかと尋ねられると、顔を出していても大丈夫なのだから大丈夫ですよと答えた。
冷たい風がびゅんびゅんと吹きつけ、前かがみで歩いていると、小さな建物の中にいたおじいさんが、立ち寄っていけば良いと薪をくべたストーブを指さす。やかんをストーブにのせて水を温め、煙草を勧める。おじいさんは、煙草をくゆらせ、米の粉とお椀に入ったバターを手でこねて団子を作り、口にほおばる。
医学学校に入ると、中には大きな金の仏像、それに壁には小さな仏像の絵がぎっしりと描かれていた。
山の上に鳥が飛んでいく。
朝食を取りに、寺の端に位置するノマド・レストランに入る。チベット・ミルクティーにツァンパ、それに揚げモモをオーダーする。ミルクティーはとても薄い。揚げモモはかりっと揚げられていて、中にはヤクの肉がつまっている。ツァンパは、大麦を丸めてドライチーズやバターと合わせて団子状にしたもので、甘いクッキーを再構築したようなものだ。
それから再び、マニコロを時計回りに寺を巡り回しながら、歩く。くるくると回すと、木と鉄の留め具の音が、からからきいきいと鳴る。マニ車を回す右手に手袋をはめ、左に数珠をもった人々が絶えることなく歩いていく。人々の頬は標高の高いこの土地の日差しの強さで赤く日に焼けている。毛を剃っている人もいれば、後ろ髪を二つに分け、細い三つあみを作っているおばあさんもいる。
倣ってマニ車を回していくものの、なかなかに重い。一つ一つ回していくのは結構な力がいる。触れるようにだけ回っていく人や、前の人がいるときは躊躇なくそのマニ車を飛ばしていく人もいて、さまざまだ。子連れで回る女性もいる。道の途中には、小さな子どもの僧が祈りを捧げる小さな箱がぽつぽつと並んでいる。
スプリンクラーに似たシュシュシュという音をたてる虫が草の中から聞こえてくる。
境内の中にある石壇には松の木が燃やされ、棗なども合わせて放られている。淵には火に振りかけるためのミルクが置かれている。
五体投地を繰り返して進んでいくおばあさんがいる。手にミトンをつけて、身体に括った杖を後ろにひきずりながら、ゆっくりと進んでいく。身体中が埃まみれだ。寺を囲む白い壁面はところどころにチベット語や模様が描かれている。幾度も触れられるその箇所は、黒ずんでいる。
チベット語のお経が彫られた木の板が2万点ほど保管されているBarkhangは、昼休みで閉まっていたが、そこにいた若い僧たちが、木の板を手に、携帯で撮影した内部の様子を見せながら説明をしてくれる。
そして、ある食堂に入った。蕨麻米飯という、バターと砂糖のたっぷり入ったご飯に蕨がのっているものをいただく。甘いお菓子のようで、蕨の味はもはやしない。それに牛肉の入った肉餅を、お茶を合わせていただきながらほおばる。店の店主は、どうぞゆっくりお茶でもしていってください、とわたしたちに柔らかい笑みを浮かべて言う。チベット族ですか、それとも漢族ですかと尋ねると、漢族です、となんだか申し訳なさそうに答えられた。そして、もともとこの土地に生まれたんです、と言い訳をするかのように言った。
そして、また蘭州へと戻るバスに乗り込む。
門を抜け、カラフルな旗が舞うストゥーパを抜けていく。しばらくすると、各建てものの入口に中国国旗の掲げられた地域がある。
わらの積まれている家があり、とうもろこし畑があり、庭で食事をとっている人がいたかと思えば、突然にクレーンののった工事中の大きな建物が何棟も現れる。そして、深い緑の中にやはり中国様式に無理やり月マークをのせたようなモスクがいくつも建っている。
馬をのせたトラックが通り過ぎていき、羊にバスは道をはばまれ、小さな町に立ち寄れば、解放軍医院と赤く大きな文字で書かれた病院がある。
そして、かつてはなかった臨夏からの高速道路にバスはのっかっていく。その後もモスクは続いていく。途中、ガードレールに衝突してぐねりと前方を破壊された乗用車の横をバスは通り過ぎていく。
18時半頃にはバスは蘭州南バスターミナルに戻ってくる。バスを降りたとたんに、中国らしいスパイスの匂いがぷんとただよってくる。そして、そこには漢字が溢れ、高層ビルが建ち並び、たくさんの車とバスが行き交う賑やかな街があった。ここはかつて、チベットだったという人もいる。
町のバスに乗って、町の中心へと向かう。ビジネスホテルと中国語で書かれた、それでものんびりとした家族経営の宿に荷物を置いて、近くの食堂街へ向かう。
多くの人々がビールを飲み、トランプなどのテーブルゲームで遊んでいる。新疆ムスリムの清真料理や四川料理といった食堂が並んでいる。商店で雪花というビール瓶を買い求めて、清真の羊肉の餃子をオーダーしてビールとともにいただく。隣の席に座った男性も酔ったふうに、唐辛子の入れものも持っていけ、大蒜も食べろ、と指し示す。生大蒜をかじりながら、ビールをちびちび、餃子をぱくぱくとしながら、蘭州の夜は更けていく。そして、最後には、お気に入りのナッツチョコレートアイスをほおばるのである。
2012/09/04 23:34 |
カテゴリー:China
時間調整のために長い時間どこかで停車したバスは、思い出したように再び出発して、朝の6時半頃に蘭州の東バスターミナルへと到着した。バスの中で寒くて幾度か目を覚ましたのと同じように、蘭州の朝は、涼しい風が吹いている。
今日の目的地、夏河までのバスは、南バスターミナルから出ているので、バスを乗り継いで向かう。蘭州は大きな街なものだから、この移動にゆうに40分ほどはかかった。
大きく「蘭州汽車南駅」と書かれた南バスターミナルで降りて、夏河行きのチケットを買う。中国で列車のチケットを手に入れるのはなかなか難しいが、バスのチケットは当日だって買える場所がある。月餅をかじる。
朝の8時半にはバスが出発する。蘭州までの平らな乾いた土地とは変わって、緑の山々が連なり、その合間には家がある。
臨夏あたりで、山間のあちらこちらに新しい白いミナレットや、中国ふうの寺ににょきりとイスラム教徒の月が立っているのが見えてくる。一つ通り過ぎればまた一つ、といった具合で途切れることがない。これは、中国のイスラム教徒、回族が、自身の領土を広げるために、どんどんと建てていったものだという。だからラブラン(中国語では夏河)のチベット族は、町の入口にストゥーパを建てることで、それ以上は入ってこないようにしているのだそう。
臨夏あたりはモスクのほかに、工事中の現場が盛んにある。それがチベット族の住むラブランに入れば、ぷつりとない。中国政府は、チベット族の住むエリアに工場を作る許可をほぼおろさないのだという。そうすることでチベット族を経済的に追い込み、救済を求めさせるという。
新疆ウイグル自治区に多いトルキスタンやカザフスタンからのイスラム教とウイグル族と、中国系イスラム教徒回族、そしてチベット系イスラム教徒サラ族は、中国政府からまた違った扱いを受けているのだった。
3時間半ほどして、夏河に到着する。この街を訪ねるのは、2005年以来ぶり。ここに住むチベット族の生活は変わったのだろうか。バスから降りると、紅い袈裟を着たチベット僧、細いみつあみをほどこした女性たちがあちらこちらを歩いている。
Tara Guest Houseに部屋をとり、近くの食堂に入る。まわりには、漢族とはまた違った風合いの、ほほを日焼けしているチベット族の女性と男性が食事をしている。女性は鮮やかな首飾りと大きな耳飾りを身につけている。隣ではチベット僧がテレビを眺めている。わたしたちが入ってきたのをみて、客は微笑む。バター茶に牛肉のモモを注文し、さきほどチベットパン屋で買ったパンを合わせる。
それから、ラプラン寺の周りをマニ車を回しながら、くるりとする。多くの人々が同じようにずらりと並ぶマニ車をまわしている。ある女性は子どもを背に、手には軍手をはめて、歩いていく。数珠をもつ人もいれば、マニ車をもつ人もいる。そばでは袈裟を着た男の子たちが遊んでいる。
それから、以前夏河を訪ねた際に友だちになったラムくんと再会する。
寺には、尼僧など200人ほどが住み、勉強をしている。
髪の毛を短く剃り、結婚をせず、シンプルな生活を送っている。
高校になるとみな2週間軍教育を受けるという。
丘の上からは、その軍服を着たチベット族が並んでいるのが見える。
寺には、ラブラン寺の創始者の写真が飾られ、ヤクバターのキャンドルの灯る香りがする。花を意味する白いスカーフが掛けられ、木を焚いた煙がもくもくとあがっている。
山には大きなタンカをかける場所があるものの、その前には中国らしい遊歩道が建設中だ。かつては西安がチベットと中国の境目だったとも聞くが、今ではここも漢族の世界が広がりつつある。
ラムくんのご自宅に呼ばれてお邪魔する。以前もお会いしたお母さまや、可愛らしい奥さまと娘さんが出迎えてくれる。娘さんは、既に少しハンバーガーを口にしたことがあって、それ以来、テレビでハンバーガーのCMが流れれば、口をぺろりとさせるのだという。娘さんの名前は「幸運を運ぶ」という意味のチベット語の名前で、チベットのラマに名付けてもらったのだそう。
この街では冬の寒い時期、ヤクの糞を燃料にして部屋を暖める。
2005年当時もラムくんはこのラブランで生活をしていた。でも、外国人とも付き合いのあるラムくんは常に行動を監視されているといって嘆き、いつか歩いてでも良いからインドに渡りたいと話しをしていた。その後、仕事の話しがあってラサへと渡り、ラサ出身のチベット族の素敵な女性と結婚をして、女の子の父親となって、幸せな生活をしている。
それでも近頃、チベットラサ地域に対して観光客を厳しく制限していることから、ほとんど観光業は成り立たなくなり、このラブランに2カ月ほど前に戻ってきたという。4年ほどラブランの土地を離れていたので、スパイをされることもない。そして溺愛する娘さんもできた。
この冬は、西寧でフランス語を2カ月みっちりと夫婦で習うのだという。フランス人観光客は英語も話せる人も多いが、できればフランス語のできるガイドを欲しがるためだ。今、旅行会社も質よりも、若くて安いガイドを雇う傾向にあるため、夫婦は英語以外の言語を習得することにしたのだった。
2007年からチベット族50人以上の焼身自殺があり、2カ月ほど前に起こったラサ、ジョカン寺前の二人の焼身自殺は、このアムド地方出身のチベット族が行ったものだったという。だからアムドのチベット族は今ラサに入ることすら難しい。一方、漢族は問題なくラサに入れることができる。それがラムさん家族がラブランに戻ってきたもう一つの理由だ。中国人がどっとラサに入ってきているのだと、漢族のことを指して言う。
ラブラン寺の近くに広場を今、作っているという。最近になって中国政府は新しいチベット寺を建設しているが、それはそれらを博物館として観光用に仕立て上げるためだという。そこに心はこもっていない。
2007年からチベット族50人以上の焼身自殺があり、2カ月ほど前に起こったラサ、ジョカン寺前の二人の焼身自殺はこのアムド地方出身のチベット族だったという。だからアムドのチベット族が今ラサに入ることすら難しい。一方、漢族は問題なくラサに入れることができる。
チベット族の焼身自殺が相次ぐのは、反政府の声をあげて捕まると一生牢獄での生活になる。それならば死んだほうが楽だと考えてのことだとも聞く。
今、チベットに入るには、同じ国から5人以上の団体としてでないと、入ることすらできない。完全にチベットをシャットダウンしないのは、国際的な批判を免れるためだが、そもそもチベット行きを希望する5人以上の団体を同じ国の人々で作るというのは、それほど簡単なことではない。完全にブロックしていないと表立ってはいいながらも、自由な旅行を妨げている。
今、ラサは漢族の人々が入り込み、新しい建物を建て、ビジネス地帯と化している。特に四川省の人々がどっさりと入ってきている。中国政府は漢族がチベットに入りビジネスをすることを奨励し、経済的な援助もしているという。
チベット族が歩いていれば、IDを求められ、チベット族が寺の周りを時計回りに巡礼しているところを、銃を持った軍人が反時計回りに歩くのだという。ジョカン寺の周りにしか、もうチベット族はいないようなものです、とラムくんは言う。自由がなくて、とても生活がしづらいから、まだこのラブランの方が良いと言った。
断食をすることがある。その日は食事もしないし、話しもしない。これはカルマに良いと考えられ、また話しをしないというのは、感情をもった動物がそれでもその感情を言葉にできない状態を感じ取るためだという。
中国は、今アラビア語を話すトルキスタンやモンゴル語を話すモンゴル、そしてチベット語を話すチベットに侵入していっている。
チベット語では日本のことをニホン、といい、数字を数えるのだって、とても似通っている。日本にぜひ遊びに来てください、と言えれば良いものだが、チベット族がパスポートを取得することはとても難しいのだから、なかなか簡単に口に出せない。
ラムくんは、経済は自然災害や事故などで簡単に崩れるものだから、それよりも大切なことは心だと何度も繰り返した。漢族も急激な経済成長の中で、仏教徒が増えているのだという。心の平安を宗教に求め出している。それは良いことだとラムさんは言った。
このラブランにも漢族の旅行者はやってくる。でも彼ら個人個人は起きている問題を理解していない。テレビはその問題を放映しないからだ。だから問題は政府にある、とラムさんは言った。
ご自宅では、フルーツやミルクやジュースをいただいていたのに加え、挙句の果てには
野菜のはいったヌードルやコーヒー、ヨーグルトまでいただく。
たくさんの話しをした後、別れを告げる。ずっと手を振ってくれている。
寺の周りは灯りがほとんどなく、月明かりを頼りに歩く。辺りにいるのはチベット僧ばかりで、そのほとんどが携帯を片手に誰かと話しをしている。一つの寺からお経が聞こえてくる。
夜は冷える。宿に帰り、温かなお茶を飲む。
こうしている毎日にも、西寧から成都までの線路は建設されていき、また新たな道ができていくのである。
2012/09/03 23:50 |
カテゴリー:China
朝、部屋の外に出てみるとまだひんやりとしていた。宿から畑を通り過ぎて大通りに出てバスをつかまえ街の中心へと向かう。砂山は朝日を浴び、紫の朝顔が咲いている。
敦煌で有名な驢肉黄麺は朝が早すぎてどの店もまだ麺をこねていたので、開いている一軒の店に入る。そして、玉葱やペッパー、羊肉の炒め物が幅の広いもっちりとした麺の上にのった新疆伴麺を注文し、どばどばとお酢をかけていただく。トマト味のスープによく合う。生のにんにくを本当は齧りたいところだ。
今日はこれから蘭州へと向かうバスに乗る。タクシーに乗ってターミナルまで行き、バスに飛び乗る。今回も寝台バスだ。カザフスタンからウルムチへ入ったときの寝台バスは靴を脱いで絨毯ばり、ベッドが2列並んでいるバスだったが、今回は板張りで靴で上がり、ベッドは3列並んでいる。そして、珍しく、乗客はその半分もいない。
時折棗を齧りながら進む。
乾いた土地の続く中、ところどころに緑の大地が現れる。遠くのほうには雪山が見える豊かな自然の中に、ブルドーザーが土を掘り起こし、建築中の高架がずらりと並び、ふもとにはテントが張られていたりする。その近くの線路に列車が通っていく。そして砂埃をあげてトラックが走っていく。そんな光景がずっと続く。
新疆名物の瓜を運ぶトラックもあれば、牛を運ぶトラックもある。
ごみの溜まるところもあれば、はるか向こうに白いぴかぴかの建物がそびえているところもある。
砂山には、清泉人参果は健康に良いとか、総合改革を深めて人口問題を解決しようといったことがでかでかと書かれていたりする。
時折停まる街には新しくて背の高い建物ばかりが並んでいる。それでも、古びた紺やグレーの服を着た人々が歩き、あるいは三輪バイクにのってトコトコと移動をしていたりする。トラックの荷台には日焼けをして頬の赤い人々が揺られていく。
夕方になるころ、バスは食事休憩となる。食べ過ぎがたたっているのか、昨日の飲み過ぎがたたっているのか、お腹の調子があまり良くないので、近くの商店で月餅を買い求めてほおばるだけにする。
子どもたちは熱心にテーブルゲームにいそしんでいる。
夕日にオレンジに色に照らされた畑が続いているかと思えば、ひょっこりと建設中の建物にクレーン車が見えてくる。
そのうちに日は沈み、バスの向かう先のほうに、オレンジ色をした月が浮かんでいるのが見え始めた。
2012/09/02 23:00 |
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朝も工人市場に出向いていくと、昨晩数軒の屋台が並んでいただけの雰囲気とは変わって、活気に溢れていた。そして、ウイグル族料理を出すウイグル人の多かった夜から、とたんに漢族の人々が増え、呼び込みをしている。
ハミ名物の大棗に、すいかや瓜、じゃがいもやトマトに鴨の卵、肉の塊に牛乳。市場の一角で揚げられていた揚げパン、油条をかじりながら、食堂に入って豆腐脳という豆腐や野菜の入ったスープをすする。まだ肌寒い朝に温かな湯気がたち、外から明るい日差しが差し込んでくる。典型的な中国の朝食だ。
今日はハミから敦煌へと向かうため、支度を整えてバスに乗って長距離バスターミナルへと向かう。
ここでもターミナルへ入るのにまず荷物検査をして入る。だいたいバスは遅れずに時間通りに運行していて、9時の発車を10分ほど遅れたばかりで出発する。
ただひたすらに乾いた大地にぽつりぽつりと固い緑の生える広大な大地を進んでいく。遠くのほうに山が見え、あるいは砂埃が渦を巻いて高くまであがる。時には瓜が道ばたで売られ、あるいはずらりとぶらさがって干されている。干し葡萄を口に放り込む。
途中にバスは故障して停まり、乗客一同降りて修理をしたものの、再び走りだしても一向にスピードが出ない。道のゆらぎと相まってバランスの崩れるバスに、乗客たちは自ら、左に身体を寄せてなどと叫び合う。
自転車に乗った、ちゃんとした装備をしたサイクラーたちが、耳につけたイヤホンから音楽を漏らしながら、バスを追い越していく。
薄紫色の花が渇いた土地にこんもりとして、葡萄が干され、人々は畑で作業をしている。
1時間ほどして、そのうちに乗り換えるためのバスがやってきた。
中央アジア辺りから数の増えてきた、扉なしのボットントイレが、この辺りでも牛耳っている。たいていトイレは見晴らしの良い砂漠の中か、穴がいくつか並んだトイレとなる。そんな中でも人々はだいたい人目をはばからずに携帯で話しをしたり、あるいは隣の人とゲームに勤しんだりしている。
16時半ころには敦煌のバスターミナルへと到着する。このバスターミナルも、かつて街の中心にあったところから、中心から少し離れた場所の新しい建物へと移動していた。敦煌はもう新疆ウイグル自治区を抜けた甘粛省にあって、町の看板にはウイグル語を見かけることはなく、漢字ばかりが並び、街でウイグル族を見かけることもぐっと減る。
のんびりと走るバスに乗って街の中心にあるカフェに向かった後、東西40キロ、南北20キロに広がるさらさらの砂漠の山、鳴沙山に近い宿まで送ってもらう。
19時半ころ、宿を出て歩き始める。辺りには山羊や牛が飼われ、草の香りがする。棗があちらこちらになっていて、もいでそれをつまみ、民家で売っていたまだ青い桃を買い求めてかじって歩く。通りには、鳴沙山で観光客を乗せ終えたラクダが連なって、バイクや自転車に引かれていく。やがて太陽は砂山の向こうに沈んでいく。
薄暗くなってから鳴沙山に登りはじめる。さらさらの砂の山にざくりざくりと一歩ずつ足を進める。砂山の峰まで登りつめてから、峰に沿って頂上へと向かう。足が埋まるものだから、なかなかに息が切れる。
右手には夕焼けの名残が見え、左にはまあるく白い月があがっている。ゆるやかな曲線を描いた砂山の合間に、三日月の形をした月牙泉がひたひたと湧き出ている。
砂山の峰に腰掛けてただ眺める。灯りのともる街のほうから時折音が聞こえてくるくらいだ。
ちょうどそこで知り合った上海在住の中国人の男の子二人と夕食をとりに敦煌の町の中心にある夜市へとタクシーで向かう。
夏の夜市は賑わっていて、店の外にはずらりとテーブルと椅子が並び、みな中華にビールをぐびぐびといっている。客の多い店に入り、羊肉や茸、豆腐皮、烤餅の串をてんこもりに、それにピリ辛の臊子麺をいただく。ビールは、甘粛省の黄河ビール。イスラム圏に入ってから、不思議とビールを飲みたいという欲望が失せていて、それがイスラム教で禁止されているからか、あるいは暑すぎることによるものかと思っていた。ビールよりも炭酸飲料が欲しくなる。
中国に入ってから再びビールがほしくなる。そして食事によく合うものだから、ついぐびぐびといってしまう。
中国のZhuangくんは、中国のパスポートではビザをとるのが難しい国があって、ときには第三国で取れないため中国にビザを取得しに戻らなければいけないときもある。だから世界旅行は難しいんです、日本のパスポートは強いから良いなあ、と言う。そして中国の共産党は嫌われているんです、と付け加えた。でも、この大きな中国は一党独裁じゃないと、ばらばらになる。50年後には中国は違うかたちになっていると思う、と言った。
そして、こう加える。中国沿岸部に住む漢族たちはウイグル族たちを危ない人たちだと思っていて、自分もその一人だった。でも、それはマスコミのせいだと分かったんです。ウイグルで何かが起きるとすぐに取り上げる。でも実際新疆の犯罪率はそんなに高くはないんです。
中国は本当に変な国、もうここは資本主義だよ、景気も良いから中国のどの場所に行ってもみんななんだか嬉しそう、と、中国各省に行ったことがあるというZhuangくんは言う。でも、どの場所に行っても同じ、それぞれの文化もなくなってしまうけどね、と淡々と加える。
日本で2年間日本語を勉強し、その後 大学へと進んで4年間、その後日本の企業で2年間働いたZhuangくんは、もう少しで日本のパスポートを申請できたという。日本のパスポートの強さを知っているものだから、日本国籍取得も考えたが、いずれ中国に戻ることを考えて、諦めた。今は上海の日本企業で働いている。
隣の席に座っていたカップルの男性も偶然に日本語を勉強していたという。でも、仕事で使う機会がないのだとその人がいうと、仕事で日本語を使うものの僕は日本語を勉強したことを後悔していますよ、と答えた。
12時半を回ってもまだ賑やかな夜市をあとに、再びタクシーに乗って宿へと帰る。
2012/09/01 23:13 |
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