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Uzbekistan

滞在登録で連行される。 – Bukhara / Samarkand, Uzbekistan

イラン、テヘランのトルクメニスタン大使館の前で出会って、ここで偶然再会したオランダ人の自転車ライダーカップルは、朝から出発に向けて動いている。トルクメニスタンは砂漠が続いていたものの、ウズベキスタンに入って緑も人も増えて、自転車で旅をしやすいと言った。

わたしたちも今日はブハラを出てサマルカンドへとバスで向かう。バスは乗客が集まったら出発するといった具合で、時刻表はなく、そして朝しか、ない。7時ころから朝食をとり、支度を始める。

宿は、強気でちゃきちゃきした奥さん、マディナさんと、細くてか弱そうな旦那さん、イリオスさんが運営している。今日の朝食の準備はイリオスさんの当番だということで、パンや目玉焼き、ハムにフライドポテト、そして紅茶にスイカがテーブルに用意されている。

バスに間に合うように着々と支度を済ませて大きな鞄を背負い、中庭への階段を下りたところで、緑の制服を着た警察ががやがやと宿に押し入ってきた。

事情の分からないままに、パスポートと、宿の滞在登録の紙切れ、レギストラーツィアの提示が求められる。隣の警察官はビデオカメラを回し、わたしたちのようすやパスポートをじっくりと映していく。

警察官は言った。「この宿は制限以上のレギストラーツィアを発行しているため、問題が起きている。警察署まで来てください。」

たどたどしい英語ではあるが、そう伝えられる。滞在中の他の宿泊者たちもおとなしくしている。

マディナさんは宿にはいない様子で、イリオスさんもどこかに潜んでいる。宿のオーナーはどこにいったのか、と警察官はわたしたちに尋ねてくる。わたしたちが知らないと言うと、「なぜ知らない」と返してくる。とにもかくにも警察署に来なさいと言うので、パスポートと宿で発行された問題のレギストラーツィアの紙切れを渡したままに、言われる方向へと歩く。

わたしたちはサマルカンド行きのバスをつかまえるために急いでいることを伝えながら、警察官とテクテクと歩いていく。宿に何泊したのか、一泊いくらだったのか、大きな鞄の中には何が入っているのか、とやや柔らかいトーンで尋ねられる。

警察署だと言われていた場所は実際にはただのコピー屋で、警察官は、ちょっと待っててと言いながら、わたしたちのパスポートとレギストラーツィアのコピーをとった。そして言う。
「レギストラーツィアはお返しできません。わたしにこのままついてきてください。」

わたしたちは、再度バスに乗るために急いでいることを伝えた。すると警察官は近くに停まっていた車の中にいる別の警察官に相談し、ようやくパスポートとレギストラーツィアをポケットから取り出し、わたしたちに差し出した。

解放されたわたしたちは既にアルク城の近くまで歩いてきていたので、そのまま53番のバスに乗り込んでバスターミナルまで向かう。大きな鞄を背負ったわたしたちを見かねて、あちらこちらから席を譲られる。

15分ほどでバスターミナルに到着すると、日本人ですねと言いながら、サマルカンドまでのバスはないと連呼する人、道路が封鎖されているためにバスは通っていないからタクシーに乗りなさいという人、誰もが例外なく「バスはないからタクシーに乗りなさい。」と言う。それでもターミナルをぐるぐると回ってバスを探していると、タシケント行きと書かれたバスの周りに乗客らしき人々が集まっていた。このバスはサマルカンドを経由するはずだ。

乗客の一人にタシケントに行くのか、と聞くと、一人ははいと言い、一人はいいえと言う。そして続ける。「タシケント行きバスはないからタクシーに乗りなさい。」同じ方向に向かうはずのバスの乗客でさえ、なぜかわたしたちにタクシーを勧めてくる。

幾人かの乗客に聞いて回って、どうやらそのバスがサマルカンド経由でタシケントに行くということをようやく突き止めた。乗客が集まってからの出発なので、集まるまでじっと待つ。

その間に車内では、おしん、じゅもん、とワタシハアナタガダイスキデス、ヒロシマ、ナガサキと乗客から声をかけられる。車内の気温はぐんぐんと上がっていく。

そんなふうに待つこと1時間半ほど、バスの乗客が突然に下車を始めた。「バスは出発できないことになった」と手を交差して伝えられる。理由も分からないままにバスを降りてどうしたものかとうろうろしていると、ようやく一人話しの通じる男性が話しかけてくれた。

どうやらタシケントで小さな暴動が起きたためにタシケントへ行く全てのバスがキャンセルになったらしい。「でも、Navoi経由でならサマルカンド行きのバスがあるはずです。」とその男性は言った。そして付け加えるように言う。この国の警察は少しおかしいんです、小さな暴動なのにバスを全部止めてしまうんです。

何が真実なのかつかめない中に、こんなふうに会話がまともに通じる人が現れると、それだけでとびきり輝いて見える。

こうしてNavoi行きのミニバスに乗り込む。とうもろこし畑が広がり、牛や山羊が草を食んでいる。

2時間ほどでNavoiに到着した時点で既にくったりとしていて、商店に飛び込み、アプリコットのジュースを買い求め、サマルカンド行きの乗り合いバンを待つ。

灼熱のバンの中でもウズベキスタンの人たちは満面の笑顔で話し、葉たばこを袋から取り出す。

Navoiからまた2時間ほどでサマルカンドに到着して、青いタイルのモスクに心動かされつつも、とにもかくにも宿へと向かう。すると、あちらこちらで旅する日本人男性に出会う。今はお盆の時期で、普段は日本の会社で働く旅慣れた日本人男性が、休みを利用してウズベキスタンへひとっ飛び、一人旅をしにきている。

宿の中庭にある絨毯に腰かけ、サマルカンドパンやスイカにスナック、しょっぱいチーズボール、クルットにそれにチャイをいただく。

マディナさんとイリオスさんは今どこにいるのだろうと思う。

イスラム教の聖地と陶芸の工房 – Bukhara / Bakhautdin / Gijduvan, Uzbekistan

朝ごはんは今日も宿のテラスでいただく。屋上に寝ているものだから、夜は涼しい風でブランケットにくるまらなくては寒いほどなのに、朝になって太陽があがれば気温は見事にぐんぐん上がっていく。

卵焼きにグレーチカ、それにソーセージにメロンにぶどう、チェリージュースに緑茶と紅茶がずらりとテーブルに並べられる。

今日は、中央アジアで大きな影響力をもつイスラム神秘主義ナクシュバンディ教団の開祖、バハウッディン・ナクシュバンドを祀った廟を訪ねる。ブハラ市内から、なかなか来ないバンをつかまえて走ること20分ほどで到着する。

中に入るとそこには蛇口が並んでいて、人々はそばにおかれている青い茶碗に水を入れて口にふくみ、清める。やや傾いたミナレットがあり、そばには小さな入口の奥に店もあって、数珠や帽子に壁掛け、ブレスレット、靴、それにNikeやAdidasバンドなどが売られている。

一角では、聖職者を囲むように人々が座り、やがて聖職者が詠唱し、人々はそれに合わせて手のひらを上にして胸の前におき、最後に手のひらで顔をなでるようにする。それからすくりと人々は立って、聖職者のわきに置いてある箱に金銭を入れて去っていく。

木陰でも若いカップルが佇み、女性は墓のほうを向いて祈りを捧げている。男女に分かれたモスクがあり、男性のモスクでは数人が祈りを捧げている一方、女性のほうはしん、としている。

敷地内にはハウズと呼ばれる池があり、そのそばの桑の古木の周りをみながぐるぐると回っている。そっと木の上にお札を置いていく人もいる。願い事がかなうといわれている木だ。

バハウッディンを出てから、バンをつかまえて20分ほどかけてターミナルに行き、そこからまたバスに乗りついで50分、陶器で知られる町ギジュドゥヴァンに向かう。

ギジュドゥヴァンには代々陶芸を営み、現在6代目となるアブドゥッロさんがいるので、工房と博物館を訪ねる。

静かな一軒の家にそろりと入ると、ご本人が迎えてくれ、博物館や工房を案内してくれた。

ギジュドゥヴァンでは、地元で採れる土に緑や茶色、黄色といった釉薬を主に使っていて、青い釉薬をよく使うリシタンの陶器とはまた異なる特徴があるという。ここで作っている作品の他にも、ヒヴァやウルゲンチ、アンディジャン、サマルカンドなど各地方の陶器やタジキスタン、それにアフガニスタンの陶器まで展示されている。

玩具にもなる動物の形をした笛もつくっている。イスラム教では、活きたものの偶像をつくることは禁じられているので、各人形の喉元にはカッターで切り傷がつけられている。これで、この動物は死んだもの、ということになるからだ。

博物館にはヒラリー夫人、そして在ウズベキスタン特命全権大使であり、政治家でもある中川恭子氏などとの写真も飾られ、その著作本「ウズベキスタンの桜」も棚から出して見せてもらう。

ウズベキスタンで嫁入り道具にもなっているスザニという刺繍がほどこされた布も、アブドゥッロさん一家で天然素材を使って作られている。布は100パーセント綿のものもあれば、絹を半分ほど混ぜることもあるといい、フックや糸で刺繍をしていく。

自宅には、石臼も置かれていて、ろばがそれを回していたという。イスラム教ではろばは穢れた動物とされていて、たいていこういった作業は馬やらくだを使うというが、月に一度しか挽かせないため問題ないんです、と言った。

陶器の窯は960度程度で2度焼くという。焼成のときには、器を逆さまにして、十字に尖った針のついたものをのせて、その上にまた器を逆さまにしてのせる。こうすることで、溶けた釉薬が器の口に溜まって、特徴のある器ができあがる。

作業場にはいくつかのろくろがあり、作陶のためのろくろは脚で蹴るろくろ、絵付けのためのろくろは手で回す小さめのろくろを使っている。日本にもオーダーベースで作って出荷しているのだそう。

アブドゥッロさんも数年前は断食もしたが、今年は暑くて日も長いからラマダンはしていないと言った。数年前はアザーンもあったが、今はもう聞かない、と言う。それでも人々は自宅や職場やモスクでそれぞれに祈りを捧げている。

ラマダンを実行していない今年のアブドゥッロさんと、緑茶やアプリコット、ピーナッツ、ナッツにレーズンなどをいただきながら、さらに話をする。

農業を主な産業とする今のウズベキスタンの経済は良いと言った。大統領が元経済家で、アブドゥッロさんのような芸術家は税金を払わなくて良い政策がとられている。対して旧ソ連時代は芸術家としての表現も制限されて、お父さまはとても苦労されたという。そもそも国営の商店しかなく個人ビジネスは許されなかったものだから、お父さまは時折大きな問題にぶつかっていた。展示会をするのも大変だったという。そしてまた当時は祝いの場でも宗教活動が許されない。

まわりでは甥たちが土をいじっている。冬はこの辺りもマイナス20度くらいまで下がることもあるらしく、二か月ほどは作陶もお休みすると言った。でも今は主な買い手となる旅行者も多い季節。

アブドゥッロさんは、バスターミナルまで送っていきますよと言いながら車庫に停めてあった渋い車を出してくれた。旧ソ連車、ラーダである。このあたりでは韓国の大宇かシボレー車を見かけることがとても多い。どうやら、かつてフェルガナ谷にあった大宇の工場がシボレー車に変わったのだそうで、とにもかくにも多い。そんな中でのラーダ車。

送ってもらったターミナルからもまた苦労をして乗り合いバンとバスを乗り継いでブハラの街に戻ってくる。

ブハラで泊まっている宿のオーナー夫妻の奥さんは、日本の国際協力機構が運営しているブハラ大学内の日本センターで日本語を勉強している。使っている教科書をひっぱりだしてくると、そこには東芝国際交流財団恵贈というシールが貼られていた。

夜は宿のオーナーの旦那さん、イリオスさんに勧められてウズベキスタンとロシアの白ワインをいただく。やや薄くて水っぽいものの、お腹の痛い中でもくくくと飲めてしまう。

夜は再び、青いライトの照らされたWifiカフェで涼しい風を受けながら、地元のお茶をいただく。甘さの中にシナモンの風味。

茶色い古い街 – Bukhara, Uzbekistan

朝は目玉焼きにソーセージ、それにフライドポテトとソバの実、グレーチカ。そしてパンにチェリージュースとグリーンティーと紅茶やすいかにメロン。

お腹の調子がまだ直っていないのに、すっかりたくさんいただく。宿に泊まっている他の旅人たちも、ウズベキスタンに入ってそのほとんどがお腹を壊しているようで、一致団結ふうだ。

宿の近くのアンバール通りをまっすぐに帽子市場、タキ・テルパクフルシャンへと向かう。唐辛子の模様をつけた角帽子ドッピやもわもわ帽子、コウノトリの形をしたはさみ、嫁入り道具ともいわれる刺繍のほどこされたスザニの布などが売られている。

土砂に埋もれていたのを1936年に掘り出されたマゴキ・アッタリ・モスクは、その周囲を掘り下げられて、穴の中に掘り出されたかたちになっている。このモスクは破壊されては建てられて、その壁面は3層に分かれているという。

1619年に建てられたナディール・ディヴァンベギ・ハナカや、イスラムの教義に反する顔が正面入り口の上に鳳凰の図とともに描かれているナディール・デイヴァンベキ・メドレセ、そして160の学生用の部屋フジュラがあるという大きなタカリダシュ・メドレセをそれぞれ訪れる。

街の中心にある池、ラビハウズに腰掛けて、ざくろジュースを飲む。この街の商店の冷蔵庫も中国製星星社の冷蔵庫が圧倒的だ。ウズベキスタンに入ってから中国製品がぐっとまた増えてくる。

それから、ウズベキスタンに入ってからよく見かけるエメラルドグリーンの色の青タイルでつくられたドームをかぶせた4本のミナレットがたつチャル・ミナルへと向かう。

この街の建築物はどれも外見で人を惹きつけるものがあるものの、一度中に入ると、どうにも手入れが行き届いていないふうで、さみしげな土産物屋がぽつんとあったりする。中には店員がいない土産物屋もあり、どこからともなく店員があわてて駆け寄ってくるという具合だ。

そこから住宅地をまた西へと戻る。小さな商店がところどころにあり、男性たちはおしゃべりを楽しみ、子どもたちは自分の丈より大きな自転車をこいでいく。道ばたである女性たちが立ち話をし、ある女性は木の椅子に腰かけて編み物をしている。

19世紀の家の博物館と題された看板を貼った家へ手招きするおじさんがいる。絨毯やら木材が乱雑に置かれた向こうに、ぎこちない風情の家が佇んでいる。ところどころが壊れ、そこに食器がぶらさげられている。おじさんは、かまどを見せては、パンをその中に広げる仕草を見せ、バジルをどこかからかもぎ取っては走ってわたしたちに差し出した。

また手招きをされて入った商店の中には、サイズの合わない大きなサンダルをはいた子どもが立ち、1964年のロシア製の車が置かれている。車は既に埃をかぶり、車体には銃の模様に落書きがほどこされ、壁にはモナリザが微笑んでいる。

またてくてくと歩いていき、イーワーンに赤や緑、黄色に青色といった細かな装飾がそれぞれに描かれているアブドゥールアジス・ハーン・メドレセ、その200年以上も前に建てられたシンプルな青を基調とする中央アジア最古の神学校、ウルグベク・メドレセを訪ねる。この神学校も中に入ると、どうにもものがなしい雰囲気で、イーワーンはぼこりと穴が開いている。

タキ・ザルガランを通るものの、宝石商と名付けられたこの市場も今となっては他の2つのタキと同じような土産物が並んでいる。近くには、青や緑をベースにした鮮やかな色の食器がずらりと並べられている。

1127年に建てられてから、お祈りの呼びかけや見張り、キャラバンへの道しるべ、それに死刑場としても使われたカラ―ン・ミナレットをはさむかたちで、それとつながっているカラ―ン・モスクがある。ここは旧ソ連時代には倉庫になっていたところを再び礼拝所として開かれたところなのだそう。

その向かいにはミル・アラブ・メドレセがある。山羊が一頭、紐を繋がれて、大人たちにむりやりに広場を引きずられて、メドレセの中へと連れられていく。山羊は身体を懸命に引き、フンを撒き散らしていく。こうして山羊の抵抗もむなしく、メドレセに押しやられた山羊は、そのままメドレセの奥へと消えて行く。

入口付近には、幾人かの男性と女性が座り、祈りが捧げられた。一人の、イスラム帽をかぶり、白髭をたっぷりとたくわえた男性が朗詠をし、他の人々は手のひらを上にして身体の前にかざした。

そのうちに、今度はウェディングドレスを着て白い日傘を手にした新婦と、黒のスーツを着てネクタイをしめた新郎が写真撮影を始める。時折キスをするものだから、周りの人々はカメラを片手に二人に近付いてパシャパシャとやるのである。

夕日を浴びるアルク城の向かいにはバラハウズ・モスクがある。かつてハーンが城から絨毯を歩いてここまでやってきたという。池には魚が泳ぎ、モスクには古びたクルミの柱が20本並ぶ趣のある佇まいに、中国製電光掲示板には赤い文字で時間などが示されている。中ではちょうど4人の男性が絨毯の端のほうで、祈りを捧げていた。旧ソ連時代はイスラム教が禁止されていた。旧ソ連圏であるトルクメニスタンに入ってから、祈りをこうして捧げる人を見るのは、ほとんどなかった。アザーンも聞こえてこない。

ピンク色に染められた空の下、旧約聖書に出てくる預言者ヨブが杖で地面を叩いたら泉が湧き出たという伝説のあるチャシュマ・アイユブやイスラム初期の建築様式の霊廟で注目されているというイスマイール・サーマーニ廟まで歩いていく。

近くには簡易遊園地もある。細いつくりの観覧車や、ただぐるぐると回り続ける類の乗り物がほんの少しのアレンジを聞かせて何種類もある。中国製もぐらたたきがあり、さびれたボーリング、スパイダーマンの遊戯物がある。綿あめには虫がついているものの、玩具屋には人が集まり、大人たちは飲食を楽しんでいる。

太陽が沈んでいくと、ぐっと気温も涼しくなり、イルミネーションがつけられた簡易遊園地に続々と人々が集まってくる。鳥がびいびいと鳴いていて、後ろのステージからは音楽が鳴っている。遊園地からは子どもたちのきゃあきゃあ言う声が聞こえてくる。

夜になってもまだお腹が空かないものだから、近くのWifiカフェのテラスで、ブハラ特有のお茶をいただく。甘いシナモンの香りがした。

乗車拒否の灼熱バス – Urgench / Bukhara, Uzbekistan

朝にうっすらとした眠りから目が覚めると、一緒にいたハヤくんはとてもしんどそうだった。それでも、この街にとどまっていてもできることはなさそうなものだから、今日はバスに乗ってブハラの街まで行こうということになる。

テントを張っていたところからほど近いターミナルに行くと、ターミナルの門の開く7時を待つ人々が既に集まってきていた。ブハラ行きバスは9時に出るという。

一度テントに戻って荷物を担ぎ、再度バスターミナルへ向かう。バスは既にそこに停車していたので、大きな荷物を置いて、ハヤくんには休んでもらいつつ、商店で飲み物を買ったり、両替を済ませたりしに街へ繰り出す。

わたしたちもお腹の調子がまだ良くならないものだから、商店でざくろジュースを買って済ませる。そうしてターミナルへ戻ろうと歩いていると、向こうから手招きする男性がいた。

聞くと、バスでわたしたちを待っていたハヤくんの具合が悪そうだから、バスターミナルの責任者は、ハヤくんが頼みもしないのに医者を呼んだと言っている。バスにはがやがやと美人女性医者から、不機嫌そうなターミナルの責任者、いかにも恐そうなターミナルの女性などがずかりずかりとやってきた。

ターミナルの責任者は、ハヤくんの具合が悪いのをバス会社の責任にされちゃ困る、と言った。だからこの紙にサインをしなさい、とロシア語ばかりの紙を手渡してくる。英語の紙がほしいと言っても応じない。しまいには、バスから降りて検査を受けなければいけません、と言う。

もう大丈夫だとハヤくんが何度伝えても、責任者は「君は大丈夫かもしれないが、こっちには問題なんだ。責任問題になりかねない。早く降りなさい。そうでなければ警察を呼ぶ」と真顔で病人のハヤくんに向かって繰り返すばかりだ。

それじゃあ、と、指示されたとおりに、ハヤくんの具合の悪いのはバス会社の責任ではありませんと紙に書いてサインをする。そしてまた、指示されたとおりに、パスポートコピーも手渡す。

それでもバスを降りなさい、と聞かない。

そのうちにバスの乗客全員がわたしたちを残して、バスを下車した。そしてバスの運転手は言う。「このバスは明日まで発車しないことになった。だから、あなたたちも降りなさい。」

それでもバスの乗客全員の荷物は網棚に載ったままだ。わたしたちが下車に応じずにいると、しばらくしてバスの乗客たちはまた乗車をしてきて、そしてバスはふいに出発した。まるで芝居のように。

バスターミナルの責任者たちはわたしたちを下車させることを諦めたようだった。

こうして滑稽な朝を迎えたDAEWOO社のバスは、ブハラに向かって出発した。途中に停車をしては、大きな木の箱やら鉄の太いパイプやらがバスに運ばれ、通路に置かれる。だから、休憩のときにバスの外に出るには、えっちらおっちら木の箱やらを跨がなければならない。乗客たちはあちらこちらから手をかしてくれる。

気温はぐんぐんとあがっていき、座席の下の鉄板は高い熱をもち、灼熱バスへと変わっていく。

できたばかりの舗装道の横の砂利道をバスは通っていく。隣にトラックでも走るものなら、バスの窓から砂埃が舞ってくる。がたがたと走るバスの網棚からはペットボトルやら麻袋やらが降ってくる。

交通事故を起こした車が2台ぐにゃりとへし曲がっている。灼熱バスは時折砂漠の真ん中で停車し、乗客たちはそれぞれに身を隠してトイレを済ませる。そのわずかな休憩時間もほんの1分程度で、すぐにバスはクラクションを鳴らして先へ進もうとする。

そんなバスに、生れたてで眼もまだわずかにしか開いていない赤ん坊が揺られている。

砂漠から徐々に緑の広がる畑が見えてくるようになり、わずかな湿度を感じるようになる。スカーフを顔にまとった女性たちがロバのひく荷台に乗って走っていく。

こうして19時にバスはブハラに到着する。ハヤくんもわたしたちも、体調の悪い中の灼熱バスから解放された。通路の大きな木の箱や鉄のパイプを跨ぐ作業もまた乗客たちが手を貸してくれる。

そこからミニバンに乗って、宿を探す。満室の宿の多い中、マディナさんとイリオスさんの宿、Madina & Ilyos B&Bに寝床を見つけた。大きなメロンをいただきつつ、商店でロシアの梨ジュースを買い求める。

お腹にやさしい無炭酸を買ったつもりが、これもまた炭酸飲料だった。
暑い街には炭酸飲料がとても多いのだ。

水を買いに立ち寄った商店のオーナーが、店の奥に手招きする。靴を脱いで絨毯にあがり、中をのぞいてみると、くり抜かれた棚に装飾のほどこされた食器が並べられていた。店の娘は猫を抱えて、ソファに座る。

消えていく海と錆びれた船 – Nukus / Moynaq / Aral Sea / Nukus / Urgench, Uzbekistan

朝もメロンをほおばってから宿を出る。今日は、ここから目的地であったアラル海へと向かう。

まずは歩いて30分ほどのところにある中央バザールへ向かい、そこからアラル海への交通手段を探すことにする。バザールからはタクシーもつかまえやすいと聞いていたものの、そこにいた人々が別の場所からはバスが出ているというものだから、言われた場所までミニバスで向かう。

到着したところで、またわんやわんやと交渉が始まる。結局、バスは昼ごろまで出ないということで、タクシーをつかまえていくことにする。ウズベキスタンのタクシー運転手は、ほとんど例外がないほどに、たちが悪い。バスが走っていようと、バスは通ってないと口癖のように言い、たいていとんでもない金額から値段交渉を始めなければならない。

とにもかくにもタクシーを見つけて、アラル海へと向かっていく。このアラル海は人的要因によってその面積が急激に縮小した、「20世紀最大の環境破壊」ともいわれている場所。

旧ソ連時代、綿花栽培のために灌漑をつくり、アムダリヤ川上流に運河を建設して、アラル海に流れ込む川の水量が激減した。そして、河川流域の経済活動や人口増加によって水の使用量が増加、そのうえ、生活、農業排水がアムダリヤ川に戻されずに砂漠に捨てられていることなどがあいまって、アラル海はからからとその面積を小さくしていった。

9時40分位に出発したタクシーは、川を渡り、土色の墓を眺め、真新しい家々を横切り、道に歩く牛とすれ違い、運河をせき止めて作られた湖を過ぎていく。すると、アラル海に近い町、ムイナクの看板が現れた。

暑い日差しの降り注ぐ町には白い家が並び、ひっそりとしている。白い壁には水色でカラカルパクスタン共和国と書かれている。

3時間ほどタクシーが走ったところで、船の墓場、と呼ばれる場所へ到着する。かつての海岸であった絶壁に建物が建っていて、かつての海であったところには広大な砂漠が広がっている。そして、数隻の錆びれた船がその砂漠にぽつりぽつりと佇んでいる。かつてここにはアラル海があったのである。

岸壁にかかる階段を下っていき、渇いた砂漠のほうを向く、錆びた船の骨に近づく。砂丘には風の模様が描かれ、その下には貝殻がいくつも砂に埋もれている。ハエの飛ぶ音と風の吹く音が聞こえるだけで、そこに水の音はない。

遠くに見えた川のほうまで歩いてみる。さらさらとした砂から徐々に固い砂へと変わっていき、ところどころに湿った土も見える。

30分ほど猛暑の砂漠を歩いてたどり着いた川は濁っていて、遠くのほうに草場を求める牛が歩いていく。

船の墓場から少し車を走らせたところには、1991年に閉鎖された水産加工物の缶詰工場跡地がある。ゲートの近くの看板には、魚を網ですくう人々と積まれた缶の絵が描かれている。

ひっそりとしたその工場の跡地の窓ガラスは割れ、錆びた鉄板が貼り合わせられている。割られたガラスから中を覗きこめば、そこには埃をかぶる荒れ果てた機械が並んでいる。

山羊が歩いているだけで、かつての活気はどこにも見当たらない。そんな中に一人の青年がぽつりと立って、ラップをかけ始めた。それが余計に静けさを強調する。

町に数軒しかない商店まで車で向かい、水を買い求めて、歴史博物館を訪ねる。鍵をもつ担当者が昼食に出ていて、しばらく待つ。博物館を訪ねてくる人は、他にいない。館内に入ると、1960年のころのまだ湖に水がひたひたと広がり、町には建物が並び、人々の集まる活気があったころの様子が絵や写真に描かれていた。

すっかりと寂れてしまった町を離れて、ヌクスの街へとまたタクシーに揺られる。水のほとりには、牛が佇む。

ヌクスの宿に置いておいた鞄をピックアップして、今日はこれからブハラの街へと向かいたい。それでも交通手段に悩まされるウズベキスタン、まずは比較的大きな町、ウルゲンチまで向かって、そこからどうするかを考えることにする。

宿からタクシーに乗ってバザールへ、そこからまたウルゲンチまでの乗り合いタクシーが出ているというターミナルまでバンに乗り、そしてまたタクシーをつかまえる。いろいろな人がいろいろなことを言ってくるので、何が本当のことやら分からずに、あちらこちらとうろうろしながら、前へと進む。

こうして、タクシーが渇いた道を走り、ウルゲンチに到着するころには22時になっていた。ほんの少しの路線をのぞいてウズベキスタンは夜行バスがないので、これ以上進むことはできない。

行こうと考えていた宿も鉄道駅の改装に伴い、どうやら閉鎖したようで、近くの空き地でテントを張ることにする。

ウズベキスタンでは、ソ連時代の名残である、レギストラーツィアという滞在登録が毎日必要で、その登録ができないホテルや場所には泊まってはいけないということになっている。それでも、車中泊やテント泊だと例外的に問題がないと聞いたこともあるものの、本当のところがこれもまたよく分からない。

だから本当はここでテント泊をするのも良いものか分からないのだが、それでも今夜分のレギストラーツィアの紙きれは、昨日宿泊したホテルが間違えて今夜の分まで発行をしてくれていた。だから、ここはレギストラーツィアを発行してくれる宿がどこにあるのかも分からないことだし、テント泊をしてみようということになる。

こうして夜の工事中の駅前でがさごそとテントを張る。若者たちが幾人か通り過ぎて行く。

テントも張り終え、寝ようかというところで、てくてくと警察2人がやってきた。ウズベキスタンの警察は、賄賂を要求してくるとかどうにも評判が良くない。しかも、わたしたちが持っているのは、間違えて発行されたヌクスの街のホテルのもの。今ウルゲンチのここでテントを張っているのが良いことだとは思えない。

それでも、一緒にいたハヤくんが国際学生証を見せて交渉していると、その警察はにこにことしてロシア語を話し、結局握手で解放された。

テントの上には星が瞬き、流れ星が見える。そしてこうもりがわさわさと飛んでいった。