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Bolivia

白い街 – Sucre, Bolivia

バスは順調に8時ころ、標高2790m、雨が降るスクレのターミナルに到着する。次の目的地ウユニまでの直行バスは、1日1便Trans 6 de Octubre社のみ運行しているというので、そこでチケットを購入する。

ウユニまでの経由地である標高4070mのポトシまでのバスは多数出ており、すぐにポトシへ向かい、そこで乗り換えてウユニへ行くこともできるが、一度サンタ・クルスの低地にくだってきた身としては、世界で最も高い位置にあるというポトシの町で動き回れる自信が、ない。だから、スクレで一泊することにする。

無事にウユニまでのチケットを購入したので、町の中心までミニバスに乗っていく。ターミナルのインフォメーションセンターには、ふんわりとパーマをかけた、かわいらしい女性が座っている。

ターミナルから中心地まで、どのミニバスに乗ればよいのか尋ねると、「あ」と言う。「あ、ですか」とぽかんとしていると、「『A』ですよ。」と言って、うふふと嬉しそうに笑った。スペイン語では「A」を「ア」と発音するのである。

道には「医療法人 道仁会 品川医院」や「やわたメディカルセンター」、「富士屋ホテル」のミニバス、「新潟計装株式会社」のタクシーなどが走っている。

サン・フランシスコ教会の前で降り、弁護士事務所の多い道を通りながら、Colon通りのAmigo Hostelに部屋をとり、街を歩くことにする。

世界遺産に登録されている、ボリビアの憲法上の首都スクレでは、家の壁を白く塗ることが条例で決められているのだという。

1795年に建てられ、修道院としても機能するサン・フェリペ教会を通り、Macという名のファストフード店のわきを歩いて、1580年から1633年にかけて建てられたカテドラルや県庁などに囲まれた5月25日広場へと出る。

広場には、自由の家も面している。広い中庭を通ると、螺旋階段のある図書室や1825年にスペインからの独立宣言文の調印が行われた独立の間がある。1900年代に政府の中枢機関がラ・パスに移されるまで、スクレはボリビアの政治の中心であったのだ。

近くの道に、有名な「Para ti」という名のチョコレート屋があるので、立ち寄る。洒落た店内は賑わっていて、ショーウィンドウに飾られたチョコレートの中で、アーモンドのチョコレートと、ココナッツの入ったミルクチョコレートを買い求める。

デザインされた透明のパッケージに入れられた、上品なアーモンドチョコレートや、甘さたっぷりのミルクチョコレートは、口の中でとろけていく。

そこから、サン・ミゲル教会、サンタ・モニカ教会を通って中央市場まで歩き、食事をとりにいく。大きなカボチャなどの野菜や果物、肉やスパイス、かごや花束などが売られている。

ケーキ屋では、ピンクや黄色やチョコレート色に彩られて傘がちょこりとのった、クリームたっぷりのホールケーキが並べて売られ、その後ろで女性たちがマニキュア塗りに専念している。

この市場では朝食、昼食、夕食を提供する食堂エリアが分かれている。朝食用は既に片づけられており、2階の昼食エリアへと向かう。

開業8年目という、客引きに熱心だった女性の食堂に座り、ピカンテ・デ・ポヨをオーダーする。チキンやじゃがいも、トマトとパスタの上にたっぷりと赤とうがらしのソースがかかっている。ソースは、スパイスの味がぎゅっとつまっていて、ぴりりとするが、辛すぎない。

食事をしている間に昼食エリアもそろそろ片づけの時間となる。

1階の果物売り場でチリモヤとザクロを買い求め、夕食エリアをのぞきに行く。18時頃、昼食エリアよりも夕食エリアが賑わいをみせ、サルチパパスやハンバーガー、ロミートといった軽食をとりに人々が集まっている。やはり、ボリビアでは昼食がメインで、夕食はスナックなどの軽食が食べられているようだ。

わたしたちも夕食のために、チーズの入った揚げパン、エンパナーダ・デ・ケソと、揚げドーナツのバニュエロを袋につめてもらう。同時にそこで売られているとうもろこしのジュース、Tojoriと紫とうもろこしを甘く煮たジュース、Apiをグラスに入れていただく。どちらも甘く、あたたかい。

そこから、金箔の祭壇のあるサン・フランシスコ教会や、サント・ドミンゴ教会、サンタ・クララ教会、サンタ・テレサ修道院、サン・ラサロ教会と眺めながら町中を歩く。
条例通り、どの教会も壁が白く塗られ、なかなかに混乱する。

ハロー・キティが大きくショーウィンドウに貼られ、ソーシャル・VIP・キティ・クラブをプロモーションに使う店もあり、洗練された家具屋もある。実質上の首都はラ・パスだが、憲法上の首都はスクレというから、思っていたよりもずっとファッショナブルなのである。

サン・ラサロ教会に着くころには遠くの空がうっすらと色を変えていく。坂をあがり、高台にあるラ・レコレータ修道院に着くころには、日が暮れていた。

おぼろ月に照らされた修道院のある広場には、広場に面したキリスト教の学校から出てきた学生たちがおしゃべりを楽しんでいる。

パティオの一辺にある回廊から、ぽつりぽつりと橙色の灯がかなたまで瞬くスクレの夜景を眺める。

夕食は宿で先ほど市場で買ってきた、森のアイスクリームともいわれるチリモヤの果実と、ザクロの実、エンパナーダ・デ・ケソ、バニュエロに、温かなカモミールティーを淹れていただく。

チリモヤのごつい緑の殻を割ってみると、中はクリーム色でとろりとして甘く、ザクロの実は赤と黄色の殻を割ってみると、中は真っ赤な種が詰まっていて、食べるたびに汁が飛んでなかなかに手ごわい。    

夜中過ぎ、外では大きな雷音がなり、サイレンがなり始めた。

ボリビアの特別支援学校 - Santa Cruz, Bolivia

今回サンタ・クルスで宿泊している宿は創業60年といい、一見こわい白髪のおじさんが門番をしている。泊まりはじめてから何度も「あとでカメを見ないか」と、その外見には似合わず、フレンドリーに話しかけられていた。

今朝はカメが既に起きているようで、おじさんは「カメを見て行きなさい」と手招きする。宿の一室から大きなカメがのっそりと出てくる。15歳のカメの名前は「Juan Evo」といって、今の大統領の名前なんだ、とおじさんはがははと笑った。

子どもたちが街角で、鶏肉やじゃがいもの入った温かいエンパナーダを売っていたので、それを買い求めて、もそもそと食べながら、歩く。

今日もメルカド・オキナワの近くでは露店などが出ており、その中の1軒の靴屋でサンダルを買い求めたり、薬局屋で高山病の薬を買い足したりする。

喉がかわいたので、屋台で売られていた白トウモロコシをベースにしたSomo Chichaを1杯買い求め、ぐびぐびと飲み干す。少し甘くて、冷たい。

そこから宿へ戻るとき、さきほどの子どもたちがまだエンパナーダを売っていて、わたしたちを見て、挨拶をする。

今日は、JICAの海外青年協力隊として友だちであるともみちゃんが働いている特別支援学校を見せてもらうことにする。毎日2時から5時半まで授業があるというので、12時前にカテドラルで待ち合わせをして、再びLa Cuisine De Los Chefで昼食をいただく。

今日のメニューは、乾燥じゃがいものチューニョや肉や野菜を煮込んだスープ、チャイロ、メインには牛肉のチャルケが入った炊き込みご飯に刻んだトマトや目玉焼きののったマハディート、そしてバナナフライとユカ芋がついてくる。デザートにはフランカ・セロがついてきて、ドリンクには冷えたレモネードを注文する。

食事をしながら、再び仕事の話を聞く。ボリビアでは自国で研究するというよりも他国からの文献や研究資料を借りてくることが多いのだという。

そして、こちらの学校には備品を買うお金さえなくて困ることが少なくないのだという。たとえば、壊れた時計や棚を買うお金が政府からも出ずに、学校も支払えない。

学校には遠い場所からさまざまな家庭環境の子どもたちが登校をしてきているので、1年に1度は先生が家庭訪問をして、その家庭をみながら保護者と話をすることが大切なことだが、先生の交通費が出ない。

備品は1年のはじめに、紙やのりなどのリストを渡して保護者が各自用意するものの、その経済的負担もある。

間食の時間があり、これは政府から費用が出るものの、保護者がそれ以上の間食をもたせる生徒もいて、生徒間に、家庭の経済格差があらわれてしまう問題があるのだという。

また学校を休む生徒に対するフォローもまだまだなのだという。ここでは大雨が降ると道路が閉鎖して通えなくなる生徒たちもいるというが、無断欠席の生徒たちへのフォローがまだ足りないという。

先生たちも今までの慣習から何か変化を起こすということは大変なことであり、なかなかに提案が受け入れられることが難しい。

今日は月曜日で学校の全校朝礼があるというので、友だちも紺に白のストライプの入った制服を着てきている。

昼食を終えてから、タクシーで、特別支援学校Preefaに向かう。学校は中庭を囲んでぐるりと校舎が建っている。壁には「みんな平等だけど、みんな違う」といった言葉が掲げられている。

大勢の生徒や先生たちががやがやと学校に入っていく。友だちはあちらこちらで挨拶を交わしながら、ときに子どもたちに抱きつかれながら、学校に入っていく。校長先生は、若くて綺麗に髪を束ね、グレーのマニキュアをした女性で、ご挨拶をする。

校長秘書の女性が朝礼開始の合図を鐘でからんころんとならす。この鐘も、今は一つしかないため、対象者別に使い分けができず、また鐘を鳴らす担当が常にいなければならないという問題があるのだという。だから、近いうちにパソコンを使って制御できるチャイムに変えようと検討中なのだという。

朝礼が始まる。
ピアニカに合わせて歌を歌い、その後、子どもたちが国旗をもって国歌を斉唱する。それから校長先生の話があり、再びピアニカに合わせて歌を歌う。

学校には2階建てで、現在JICAも一部資金を出して増築中なのだという。8年生のクラスでは生徒が10人ほど、先生がギターを取り出して一人一人に向けて歌ったり、みなで教室の後ろのマリア様に祈りをささげたり、先週何をしたかを前で発表させる。

他校で受け入れを拒否されたという生徒に対しても先生はゆっくりと落ち着かせる。

他に職業訓練として27歳まで通える木工班、裁縫班、料理班などもある。そのほか体育のクラスや音楽のクラスもある。

木工班を見学させてもらう。障害の程度によって、作業の進む生徒となかなか進まない生徒がいる。27歳で学校を出てもなかなか就職先を見つけるのは難しいのだという。他の職業訓練の班を経験して、進路を変更して木工班に入っている生徒もいるのだそう。

隣ではパン工房班がチーズ入りエンパナーダを作っている。ルーラーを使いながら、器用にくるりと生地を切っていく。作ったパンは、3時過ぎに各クラスの先生たちに売りに行くのだというが、いずれ校外でも売れるようにしたいと友だちは言った。

特別に、そのエンパナーダをいただいた。揚げたてのエンパナーダはさくさくとして、中はもっちりとしたチーズが入っていて、どうにも旨い。

スクレ行きのバスの時間が近づいてきたので、タクシーに乗り、ターミナルへと向かう。友だちも忙しい中見送りに来てくれる。

30分ほど遅れてバスは出発する。ぴしりと紺色の制服を着たともみちゃんは、そのまま学校へと戻る。どんどんと、ともみちゃんの姿が小さくなっていく。

サンタ・クルス近郊では緑の中に、別荘がぽつりぽつりと建っている。さわやかな風が窓から入り込む。そのうちに日は暮れていき、暗闇の中に連なる山とぽっかりと浮かぶ月を眺める。

ただひたすらに、この地で頑張って働いているともみちゃんのことを、想う。

ボリビアの海外青年協力隊 – Santa Cruz, Bolivia

今日は、カテドラル前でともみちゃんと待ち合わせをする。晴れた日曜の昼、カテドラルには人々がびっしりと座り、ミサが行われている。

近くのJet-Setという店でサルテーニャを買い、タクシーに乗って、お家へお邪魔する。その家は、校長先生をしているという日系人の方がオーナーだといい、偶然お会いし、ご挨拶をする。

きれいに整えられた家でボリビア産のコーヒーと、買ってきたサルテーニャをつまむ。美味しく淹れられたコーヒーに、肉汁がたっぷり、皮はさくっとしたサルテーニャを、涼しい部屋でいただく。   

そこからタクシーに乗って、お勧めだという中華料理店、Mandarinに連れて行ってもらう。多くのボリビア人で賑わう店内で、2階の席に座る。ワンタンスープに、魚と肉と野菜の炒め物や豆腐の炒め物を注文する。

たっぷりとソースのかかった中華料理はどれもご飯がすすむ味付けで、合わせてオーダーしたHuariビールもぐびぐびとすすんでしまう。

こちらの人々はビールもワインも、コカコーラをはじめとする炭酸飲料もよく飲むのだという。女性でぷっくりとした人が多いのはもしやすると美意識のせいではないかとも思ったものの、それは違うという。逆に糖尿病などの問題も出てきているのだという。

地元の人々は、昼食を多くとり、4時ごろにパンなどの間食をして、夜は簡単に済ませることが多いのだという。

バスに乗って、再びともみちゃんの家へと戻る。家にはインターネットもつながり、本棚には、専門である特別支援の本がずらりと並べられている。

じっくりと、海外青年協力隊としての仕事の話を聞く。
例えば、生徒たちに、他の子を叩くことは悪いことだと伝えるにはどうしたらよいのだろう。そう問いかける。すると答えが返ってくる。その子の好きなものを取って、叩いてはダメだと伝え続ける。

自閉症の子どもは、変化というものに強くないのだという。だから、先の予定をきちんと示すことが大切なのだそうだ。じっと我慢をすること、時にはパネルなどに絵を描いて示すことが重要だと、自閉症の子どもと日々接するプロは、言う。

ボリビアではまだ障害のある人々に対する保護制度が確立しておらず、これからなのだそう。障害者手帳をどうこれから活用させていくのか、という段階に、ある。

日本から遠く離れた国で、活動をしていくのは、簡単なことではない。きっと言葉にならない苦労もあっただろう。それでも、チャーミングな友だちは、いつだって変わらずに、真剣で、前向きだ。本人はいたって謙虚だが、JICAペルーの2012年のカレンダーにだって、写真が載ったのだ。

お家にずいぶん長いことお邪魔をして、かっぱえびせんまでいただいて、宿に戻ることにする。

おなかもいっぱい、あたまもいっぱい、空の晴れわたる一日だった。

ボリビアの日本 – Santa Cruz, Bolivia

朝は、9月24日広場に面したカテドラルを訪れる。中では真っ白の壁に紫色の旗がかけられ、キャンドルのそばで祈りを捧げる人たちがいる。塔に上がれるというので、煉瓦の階段を上がりながら、上まで登る。

塔の一番上ではちょうど鐘を鳴らすためにおじさんがスタンバイをしていた。そのうちにがらんごろんと鐘が鳴り、鳴り終わると、儀式のように油を挿す。

塔の上からはサンタ・クルスの街並みが見える。ラ・パスに次ぐボリビア第二の都市であり、近年発展著しいという。ところどころにひょいと高い建物があり、明るく、開放的な雰囲気がみてとれる。ラ・パスの雰囲気とは、違う。

大型スーパーTIAに立ち寄り買い物をすませて、朝食を取りに行く。

昨日は、オキナワにある日本料理を提供するレストランが夕食準備中で閉まっていたので、今日の朝食はリトルトーキョーと言われている地域にあるスーパーおきなわに入り、沖縄そばだという「うどん」をオーダーする。

鶏肉、油揚げ、うどんに錦糸卵、紅しょうがと刻みネギが散らしてある。そして、もっちりとしたご飯とお漬物に割りばしがついている。それに近くの屋台で買ったチーズの入ったエンパナーダを合わせて食べる。

さきほどまでは閑散としていた店内が、昼に近づくにつれて、日本人、日系人だと思われる人々が続々と入ってくる。そしてときおり、店で働く日本人の女性と言葉を交わし、あるときには持っていってと手土産を手渡されている。お元気ですか。うちの娘がね。ここではおそらく毎日、こうした日本語での会話が繰り広げられている。

スーパーおきなわには、食堂の他にも日本のお菓子や海苔といったものを置く商店がある。
隣のMiura Shotenでも「いらっしゃいませ」と書かれた暖簾の下で、寿司や弁当が店先で日本語で売られ、店内にはご祝儀袋だって置いてある。

ボリビアという国の中で、かつて交通の便がよくなく孤立都市のイメージのあったサンタ・クルスへやって来た理由はたった一つで、JICAの青年海外協力隊員として特別支援学校で働いている友だち、ともみちゃんに会うためである。昨日みゆきさんにお会いしたときに話をしていたら、ともみちゃんのことをご存じだった。

ささやかな手土産に、オーガニックの店で、大きな桃の入ったジャムの瓶と茶葉を買っていく。

そして、カテドラルの前で、ともみちゃんに再会する。

昼食は、ともみちゃんお勧めのLa Cuisine De Los Chefで、セットをいただく。高い天井には大きなシャンデリアが吊るされ、店内には外の明るい日差しがたっぷりと入り込んでいる。

Frangolloのスープに、牛肉のオーブン焼き、じゃがいものグラタン、野菜に黒ご飯、そしてパンのセットをオーダーする。最後にはチョコレートのムースがついてくる。それに冷えたオレンジジュースを合わせる。

そこから、洒落たカフェやレストランの集まるモンセニョール・リベロ通りに行き、Aexander Coffeeに入る。外は晴れていて、店内は冷房が効いていて、心地よい。苺のミルクシェイクとパパイヤのシェイクをオーダーする。地元の若者がおしゃれをして、土曜の午後を楽しんでいる。

サンタ・クルスでは、日がさんさんと照り、空気は濃く、人々は開放的だ。インディヘナの人々は少なく、以前交通の便が悪く混血をしなかったという、スペイン系の人々をよく見かける。靴磨きの男性も、ラ・パスのように覆面をしていない。

友だち、ともみちゃんは一度デング熱にかかったものの、それでも精力的に活動を続けている。働いている特別支援学校は、パイロット校として選ばれているカトリックの学校で、自閉症やダウン症、知的障害(学習障害)の生徒が通っている。就業前のクラス、1年生から8年生、その後の職業訓練としてのタジェール、その間のプレ・タジェールのクラスがある。

現在は「時計プロジェクト」に力を入れているのだという。ここでは、学校に時計がなかったり、例えあったとしてもすぐに壊れてしまって、意味をなさない。1日を時間で区切り、その間に休憩を入れるというカリキュラムを導入することから始める。その前までは、同じ作業を延々と続けるなど、非効率的な授業も行われていたという。時計を購入する予算が出ないのであれば、学校の生徒がその時計のパーツをつくるよう、提案をしていく。

夜は、再びお勧めの、日系人のシェフによるフレンチレストラン、Dossierに連れて行ってもらう。シェフの具志フランクリンさんは、お母様方のおじいさま、おばあさまが沖縄の方だといい、今まで東京、神戸、フランス、イタリア、スペインなどで修行をし、この地サンタ・クルスで開業をしたのだという。

カリフラワーのガスパッチョから始まり、カロテのパスタ、牛肉のローストにポテト、豚肉とプルーンのロースト、そして炎のついたクリーム・ブリュレ。

素材の味がふわりと香る。味はあくまで繊細だ。「海のものは使いません。ボリビアに海はないですから」と、物腰やわらかな具志さんはそっと言って、そしてまたキッチンへと戻っていく。黒い石のプレートは、ボリビアの石だという。店内には洒落たジャズなどが流れている。

静かなサンタ・クルスの夜だ。

ボリビアのオキナワ – Santa Cruz / Colonia Okinawa, Bolivia

朝目をさましてみると既に標高450m程度まで下がってきて、ペットボトルがくしゃりと縮んでいる。リマからクスコまで持ち運んでいたペットボトルが膨張したのと反対で、外はむわりと暑く、空気は心なしか濃い。

昨晩宿の近くの道で売られていたフランスパンのようなパンとチーズののったパンをほうばる。8時半ころ、バスは警察に停められ、荷物検査を受けるものの、わたしたちの鞄は外から触れられただけだった。

茶色く大きく濁った川をいくつか渡り、むわりと緑が生い茂る平地をバスは進み続ける。牛は草を食み、あるインディヘアの女性は子どもをあやし、ある女性は口を開けたまま眠りこけ、ある子どもは泣き出し、わたしたちは高所で日に焼けていた顔をしている。

ブエナ・ビスタで休憩をとりつつ、バスは12時過ぎに暑いサンタ・クルスに到着する。ターミナル近くにもまた観覧車などの簡易遊園地が設けられている。ここには日本語「六甲バター株式会社」のタクシーが停まっている。

サンタ・クルス近郊にはいくつかの日本人移住地がある。その中で、第二次世界大戦後、荒廃した沖縄から移住してきた方々のいる場所、コロニア・オキナワに向かう。

サンタ・クルスから乗り合いタクシーであるトゥルフィーに乗りこみ、乗り換え地点のモンテーロまで1時間ほど、隣には段ボール箱につめた犬を大切そうに膝に抱える女性が座っている。

モンテーロで「運転上の注意」のもろもろが日本語で書かれたトヨタ、カローラ車に乗り換えて、コロニア・オキナワへ進む。平原には牛や馬がいる。この辺りは小麦やとうもろこし、大豆の栽培が有名なのだという。

50分ほど走ると、赤い文字で”Bienvenidos a OKINAWA”とスペイン語で書かれた下に「めんそ~れ オキナワへ」とある白い看板に出迎えられる。

たどり着いたオキナワに降り立ったところで、日本の方だと思われるお二人に声をかけられる。JICAに派遣されて青年海外協力隊として診療所で働いていらっしゃるみゆきさんたちだった。

わたしたちが大きな鞄を背負っているのを見て、声をかけてくれた。ここサンタクルスではJICAのボランティアの方は4名活動されているのだという。みゆきさんは、町ですれ違うさまざまな方と挨拶を交わしていく。車が走れば砂埃が舞い、歩いていれば蚊が集まってくる。この環境で、働き方の異なる地元の方々とともに働くというのは、どれだけの苦労があるのだろう。

アンティクーチョまでごちそうになってしまった。キトで食べたアンティクーチョは牛の心臓であったが、ここのものは金城さんが初めて作られ、その後他の店でも作られるようになったという、肉を衣でつつんで揚げた串である。

今では、オキナワ市に住む人のうち、9割がボリビア人で、残りの1割が日系人なのだそう。それでもオキナワ第1、第2、第3の3つの移住地のうち、ここ第1はまだ日系人が多いのだという。「オキナワ日本ボリビア協会」も「オキナワ第一地域開発振興会」も「オキナワ総合スポーツ公園」も「オキナワ診療所」も「マミーハウス」も、ある。

オキナワ日本ボリビア協会のゲートをくぐり、「文化会館」の日系人のご担当者にご挨拶をして、「オキナワボリビア歴史資料館」を見学しにいく。

敷地内には「オキナワ移住地慰霊塔」がたてられ、オキナワ第1、第2、第3、それぞれの移住地の死没者の方々の氏名、西語の読み方、年齢、亡くなった年月日がずらりと並べられている。

オキナワでは、風土病や水害などにより、当初の移住地から移転を重ねた。生活は厳しく、ペルーやアルゼンチン、ブラジルへ移転していく人々も多かったのだという。残った人々はその方たちの土地を安く買いうけ、今では大地主になっている方々も少なくない。

当時、琉球政府は米軍基地を作る必要があり、移民を奨励していたのだという。だから、展示のしてあった沖縄タイムスの1954年6月19日付けの新聞には「力強い抱負を抱いて ボリビア移民きょう発つ」と書かれ、7月18日の新聞には「”万才”叫んで壮途へ 三千の見送りで賑わう港」、1955年12月19日には「待ちに待ったボリビアへ “新天地に楽園を” 昨夜南米移民発つ」といった文字がおどっている。

移民の方々は素晴らしい場所なのかと思ってやってきたら、実際にはジャングルの中に住むようなもので、半ば騙されたと感じるほど、大変な生活だったのだと聞く。

館内には、第3移住地の農協で使われていた地球儀や日本語教育に使われていた本やノート、手で造ったというトウモロコシ用の脱穀機、豆腐造りのための臼、燃料が石油の冷蔵庫、食料入れとして使用した不発弾、唯一の交通手段だった馬の背に置いていた鞍、繰り返し聞いていたという日本のレコード、入植初期の土地配分図や当時の写真などが展示されている。

サンタ・クルスに戻るため、ターミナルへと向かう。茶色の大きな鳥居のそばに教会がある。とても暑いので、日系人の方のNakaditaという店で水のボトルを買い足し、トゥルフィーに乗り込む。

夕暮れに向かう中、「コロニア沖縄農牧総合協同組合」や「CAICO Harinas y Fideos Okinawa」の建物を通りながら進んでいくと、今度は「”Feliz Viaje” 良い旅を!行ってらっしゃい。」という看板で見送られる。

日は沈み、徐々に辺りは暗くなっていく。

モンテーロでトゥルフィーを乗り換え、サンタ・クルスに着くころにはとっぷりと暗くなっていた。宿をとり、近くに夕食を食べに行く。

鶏肉とじゃがいもがごろりと入り、野菜やご飯がスープに入ったオジヤ風のロクロを注文し、Pacenaビールをオーダーする。標高が低いことやすっかりと暑いこと、そして久しぶりのビールで、ごくりと飲んだ後は、しばらく目をつぶって味わう。

隣のテーブルのおじちゃんたちは、陽気に酔っ払い、さいころを振り続けている。