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ボリビアのオキナワ – Santa Cruz / Colonia Okinawa, Bolivia

朝目をさましてみると既に標高450m程度まで下がってきて、ペットボトルがくしゃりと縮んでいる。リマからクスコまで持ち運んでいたペットボトルが膨張したのと反対で、外はむわりと暑く、空気は心なしか濃い。

昨晩宿の近くの道で売られていたフランスパンのようなパンとチーズののったパンをほうばる。8時半ころ、バスは警察に停められ、荷物検査を受けるものの、わたしたちの鞄は外から触れられただけだった。

茶色く大きく濁った川をいくつか渡り、むわりと緑が生い茂る平地をバスは進み続ける。牛は草を食み、あるインディヘアの女性は子どもをあやし、ある女性は口を開けたまま眠りこけ、ある子どもは泣き出し、わたしたちは高所で日に焼けていた顔をしている。

ブエナ・ビスタで休憩をとりつつ、バスは12時過ぎに暑いサンタ・クルスに到着する。ターミナル近くにもまた観覧車などの簡易遊園地が設けられている。ここには日本語「六甲バター株式会社」のタクシーが停まっている。

サンタ・クルス近郊にはいくつかの日本人移住地がある。その中で、第二次世界大戦後、荒廃した沖縄から移住してきた方々のいる場所、コロニア・オキナワに向かう。

サンタ・クルスから乗り合いタクシーであるトゥルフィーに乗りこみ、乗り換え地点のモンテーロまで1時間ほど、隣には段ボール箱につめた犬を大切そうに膝に抱える女性が座っている。

モンテーロで「運転上の注意」のもろもろが日本語で書かれたトヨタ、カローラ車に乗り換えて、コロニア・オキナワへ進む。平原には牛や馬がいる。この辺りは小麦やとうもろこし、大豆の栽培が有名なのだという。

50分ほど走ると、赤い文字で”Bienvenidos a OKINAWA”とスペイン語で書かれた下に「めんそ~れ オキナワへ」とある白い看板に出迎えられる。

たどり着いたオキナワに降り立ったところで、日本の方だと思われるお二人に声をかけられる。JICAに派遣されて青年海外協力隊として診療所で働いていらっしゃるみゆきさんたちだった。

わたしたちが大きな鞄を背負っているのを見て、声をかけてくれた。ここサンタクルスではJICAのボランティアの方は4名活動されているのだという。みゆきさんは、町ですれ違うさまざまな方と挨拶を交わしていく。車が走れば砂埃が舞い、歩いていれば蚊が集まってくる。この環境で、働き方の異なる地元の方々とともに働くというのは、どれだけの苦労があるのだろう。

アンティクーチョまでごちそうになってしまった。キトで食べたアンティクーチョは牛の心臓であったが、ここのものは金城さんが初めて作られ、その後他の店でも作られるようになったという、肉を衣でつつんで揚げた串である。

今では、オキナワ市に住む人のうち、9割がボリビア人で、残りの1割が日系人なのだそう。それでもオキナワ第1、第2、第3の3つの移住地のうち、ここ第1はまだ日系人が多いのだという。「オキナワ日本ボリビア協会」も「オキナワ第一地域開発振興会」も「オキナワ総合スポーツ公園」も「オキナワ診療所」も「マミーハウス」も、ある。

オキナワ日本ボリビア協会のゲートをくぐり、「文化会館」の日系人のご担当者にご挨拶をして、「オキナワボリビア歴史資料館」を見学しにいく。

敷地内には「オキナワ移住地慰霊塔」がたてられ、オキナワ第1、第2、第3、それぞれの移住地の死没者の方々の氏名、西語の読み方、年齢、亡くなった年月日がずらりと並べられている。

オキナワでは、風土病や水害などにより、当初の移住地から移転を重ねた。生活は厳しく、ペルーやアルゼンチン、ブラジルへ移転していく人々も多かったのだという。残った人々はその方たちの土地を安く買いうけ、今では大地主になっている方々も少なくない。

当時、琉球政府は米軍基地を作る必要があり、移民を奨励していたのだという。だから、展示のしてあった沖縄タイムスの1954年6月19日付けの新聞には「力強い抱負を抱いて ボリビア移民きょう発つ」と書かれ、7月18日の新聞には「”万才”叫んで壮途へ 三千の見送りで賑わう港」、1955年12月19日には「待ちに待ったボリビアへ “新天地に楽園を” 昨夜南米移民発つ」といった文字がおどっている。

移民の方々は素晴らしい場所なのかと思ってやってきたら、実際にはジャングルの中に住むようなもので、半ば騙されたと感じるほど、大変な生活だったのだと聞く。

館内には、第3移住地の農協で使われていた地球儀や日本語教育に使われていた本やノート、手で造ったというトウモロコシ用の脱穀機、豆腐造りのための臼、燃料が石油の冷蔵庫、食料入れとして使用した不発弾、唯一の交通手段だった馬の背に置いていた鞍、繰り返し聞いていたという日本のレコード、入植初期の土地配分図や当時の写真などが展示されている。

サンタ・クルスに戻るため、ターミナルへと向かう。茶色の大きな鳥居のそばに教会がある。とても暑いので、日系人の方のNakaditaという店で水のボトルを買い足し、トゥルフィーに乗り込む。

夕暮れに向かう中、「コロニア沖縄農牧総合協同組合」や「CAICO Harinas y Fideos Okinawa」の建物を通りながら進んでいくと、今度は「”Feliz Viaje” 良い旅を!行ってらっしゃい。」という看板で見送られる。

日は沈み、徐々に辺りは暗くなっていく。

モンテーロでトゥルフィーを乗り換え、サンタ・クルスに着くころにはとっぷりと暗くなっていた。宿をとり、近くに夕食を食べに行く。

鶏肉とじゃがいもがごろりと入り、野菜やご飯がスープに入ったオジヤ風のロクロを注文し、Pacenaビールをオーダーする。標高が低いことやすっかりと暑いこと、そして久しぶりのビールで、ごくりと飲んだ後は、しばらく目をつぶって味わう。

隣のテーブルのおじちゃんたちは、陽気に酔っ払い、さいころを振り続けている。