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Iran

テヘランに住む人たちの本音 – Tehran, Iran

朝の5時にはテヘランのベイハギー・ターミナルへ到着する。やがて日も上がった駐車場には、女性専用タクシーが停車している。

Hamsafar社のオフィスに荷物を置かせてもらい、できあがっているはずのトルクメニスタン・ビザを取りに、メトロに乗って大使館へ向かう。開館時間の9時をやや過ぎて大使館に到着すると、2人ほどの男性が窓口のところに立っていた。やはり、前回訪ねたときの、休館日の金土に続く日曜日よりもずいぶんと空いている。

しばらく待って小さな窓口に立つ順番が回ってきた。担当者は、一番初めに大使館を訪ねてきたときに会話を交わした大使館員の男性だった。物腰がやわらかだ。

わたしたちのことを覚えていたようで、顔を見るなり、「まだテヘランにいたんですか。トルクメニスタンに行く準備はできましたか。」とにこにこしながら言う。独裁国家といわれるトルクメニスタンの印象とはかけ離れた笑顔だ。

そこで申請書を受け取り、各項目を記入していく。基本的な項目に、職業やトルクメニスタン側の招待団体の有無、滞在費用の支払者と支払い方法などを埋めていく。個人旅行では5日間のトランジット・ビザしかおりないので、入国日、出国日をきちりと計算して記入する。そして、写真1枚とパスポートコピーとともに手渡す。パスポートコピーはしばらく奥で事務手続きが行われたあと、返却された。

それから、またしばらく待つ。周りにはビザ取得業者もいるようで、わたしたちの手にしていたドル札に折り目がついていたのをもぎ取り、その折り目をわんやわんやと伸ばし始める。どうやら大使館にある紙幣検査機は、お札に折り目がついているとはじいてしまうらしい。

こうしてビザ取得業者さんたちに伸ばしてもらったお札で支払いを済ませる。どうやら大使館では一人の男性だけですべての手続きを行っているようで、どうにも忙しそうなのだ。しばらく小さな窓が開けば、またぴしゃりとその窓は閉められて、人々はただじっと待つ。

ほどなくして開いた窓から、トルクメニスタンのビザが貼られたパスポートが返却された。
無事に、トルクメニスタンのビザが取れたのだった。

お手洗いを探していると、買物を終えた男性が、家にどうぞと誘ってくれる。お言葉に甘えてついていく。マンションのようなつくりのその家は、美術品やロココ調の家具が溢れた豪邸だった。

ガラス棚には各国のアンティークの人形や器が飾られ、艶やかだ。アルコール禁止のイランなのに、テーブルにはスコットランドをはじめ、各種ウイスキーが並べられている。67歳だという男性は、既に断食を止めている。テレビでは、イランで活動できずに米国に渡って活動しているイラン女性歌手が、ヒジャブもかぶらず、肌を露出したセクシーな格好で歌っている。

奥さんも、家の中ではヒジャブもかぶらず、肌も露出した格好だ。

ゆっくりとさせてもらった後、近くの商店でPrimaのチョコナッツアイスクリームを買い求めてほおばる。濃厚なチョコレートがおいしい。

それからメトロの最寄り駅、Tajrish駅までヒッチハイクをする。英語の先生だという女性二人がわたしたちを乗せてくれた。この辺りは交通渋滞が激しいんです、と言いながら、たどたどしい運転ながらも女性は車を飛ばす。

メトロに乗ってフェルドウスィー駅まで行き、近くにある両替商に立ち寄る。ホメイニ師やアリ・ハメネイに反感をもつ国民は少なくないが、両替商やホテルなどにその肖像画が飾られていたりする。わたしたちがイランに来た当初は1ドル19000リアル程度だったのが、もう20000リアルを超えている。これもアリ・ハメネイがおこした問題なんです、と両替商の男性は言う。

ラマダンの大変なところは、こうした暑い昼間に、ゆっくりと座ってくつろげるお茶屋やレストランなどが全面的に閉まっていることだ。開いているのは商店やテイクアウトの店ばかりなので、冷房の効いたどこかの店内でくつろげるということは、まずない。

そんなわけで、冷房の効いた両替商でしばらくのんびりとする。すると、両替商の男性が、店の奥から冷たい水を汲んで、箱詰めのバクラヴァとともにどうぞと差し出してくれる。その男性も、ご両親は断食をしていたが、彼はもう断食はしないのだという。

両替を済ませて、バスに乗り、荷物を取りにベイハギー・ターミナルへ向かう。ターミナルに到着すると、バスの運転手が手招きして、1990年からの2年間日本にいたといて今はバスの管理をしているロテフトさんのところへわたしたちを導く。

彼はラマダンでも営業をしている、布で入口を隠されたカフェに連れて行ってくれ、どうぞとコーラをごちそうしてくれた。

2007 Coca-Cola Company、Made in Iran
Carbonated Soft Drink with Cola Flavour(コーラ味の炭酸飲料)

ロゴもオリジナルそのままに、わきには英語でORIGINALと書かれている。

ロテフトさんは水戸や蒲田、横浜で働いていた。水戸では三菱自動車の下請け工場で7時から16時まで部品をつくっていたという。仕事が終われば、ボーリングやカラオケに仲間と行っていた。当時は、日本に4万人ほどのイラン人がいて、他にブラジル人もコロンビア人もパキスタン人もたくさん働いていた、という。イランではボーリングは1時間10万リアルととても高いので、なかなか行くことができない。

2年働いて、観光ビザの延長もできなくなり、イランに戻ってきたという。大阪には人種差別が存在していたというから、行けなかったという。今は17歳と12歳の子どもがいるお父さんだ。カレーも寿司も好きだったなあと忘れてしまったかのような日本語で言う。

今となっては、日本への観光ビザを取ることがとても難しくなっている。そんなわけで、イラン人はトルコやUAEに出向くことが増えている。イラクには、同じシーア派の多い国として巡礼の意味もこめて行くのだという。米国も勉学の理由では入国ができるが、そのほかではなかなか入国することはかなわない。

政府機関の公務員として月に600ドルほどを稼いでいる。ただ物価が1年に24パーセントインフレをおこしているのにもかかわらず、給料は6パーセントしかあがらず、人々の生活は困窮している。それも経済制裁のためだ。

彼もイスラム教徒として、基本的に断食をしている。お金があるときのラマダンは嫌だけど、お金がないときはラマダンはいいよ、と言う。

わたしたちは今夜、夜行列車でテヘランからマシュハドまで向かう。

ロテフトさんは、18時に仕事が終わったら駅まで送ります、と申し出てくれる。ここでのガソリンは1リットル7000リアル。プジョーの車を乗りこなすロテフトさんは、パンやらクリームチーズ、クッキーやらカプチーノ味チョコバーや棗にバナナのパック、それにミルクなどをわたしたちに持たせた。そして駅の構内でどうぞとフローズンオレンジジュースをごちそうしてくれる。ロテフトさんは、そのジュースを駅のど真ん中で飲み始めたものだから、ラマダンなのに大丈夫ですかと尋ねると、ああそうだった、忘れてたと笑いながら構内のはしのほうへと移動する。

公務員は駅のホームまで入れるんですといってIDを見せながら、列車の発車するまで見送ってくれた。駅にもホメイニ師やアリ・ハメネイがセットで描かれている。わきには大きなコーラン像がある。わたしたちもパスポートを見せて、改札口を入る。

一つのコンパートメントは4人、二段ベッドが二列並んでいる。座席には苺ジャムをはさんだスポンジケーキやチョコバーが詰められた箱にパイナップルジュースパックと水のボトルが置かれている。

こうして列車は19時半ころにごとりと動き出す。テヘランを抜けて、茶色い家々の並ぶ大地を列車は走る。やがて乾いた大地に、大きく赤い月が浮かぶ。今夜は満月、ラマダン月も折り返し地点にきている。

20時半を過ぎたころに列車は停まる。礼拝の時間がやってきたのだった。ぞろぞろと乗客がプラットフォームへと降りて行き、手洗いを済ませ、プラットフォームにある礼拝堂で祈りを捧げる。20分ほど過ぎたころ、列車は再び走りだした。

断食も終わり、乗客もあちらこちらで弁当を取り出し、もぐもぐと食べだす。わたしたちもパンにクリームチーズをぬったり、バナナや棗にカプチーノ味チョコバー、それにウォルナッツクッキーなどをもぐもぐとする。

エスファハーンは世界の半分。 – Esfahan, Iran

朝は宿の部屋で棗に木イチゴ、ナンにバターとクリームチーズやにんじんジャム。それに紅茶を淹れていただく。そしてしばらくのんびりしてから、昼過ぎに今度は中庭で、ナンにバターやクリームチーズ、それににんじんジャム、チャイやさくらんぼうのジュースを中庭でほおばる。イラン定番の朝ごはんだ。

今日も「エスファハーンは世界の半分」と賞賛された街を歩く。

イスラム教色の強いこのイランにも、アルメニア人居住区のジョルファー地区があるそうで、そこには教会がいくつもあるらしい。街の中心から離れているので、ヒッチハイクを試みる。乗せてくれた若い男性は、車を停めるなり、一緒に行こうよ、友だちでしょう、とノリノリだ。運転をしながら、この街の「エマーム広場」の呼び名を、イスラム革命前の呼び名である「王の広場」の名前で呼んでほしい、と彼は言った。イスラム革命の指導者であるエマーム・ホメイニは良くない人物だから、その名を広場につけるのは嫌なんだ。でもムッラーのほうが更に良くない、独裁者なんだとアリ・ハメネイを名指しする。

エンゲラーブ広場まで連れて行ってもらい、そこで下車してザーヤンデ川にかかるスィー・オ・セ橋を渡る。33のアーチを連ねる橋の川幅は広いのに、川は既に干からびて、水がない。

橋を渡って、そこからまたジョルファー地区までヒッチハイクをすると、恋人の二人組がわたしたちを乗せていってくれた。ヒッチハイクをすると、女性の運転手が一人で運転しているときに乗せてくれることはまずないが、男性運転手や男の友だち同士、それに男女のペアなどが乗せてくれることが多い。彼女はフランス語を勉強しているといい、二人は遠距離恋愛中だと言った。

ジョルファー地区が近づくと、マスジェドのような土色のドームが見えてくるが、よく見ると、その上にちょこりと小さな十字架がついているので、それが教会だということが分かる。1600年代に建てられたというヴァーンク教会を訪ねる。時計台があり、アルメニア語の書かれた入口から中に入ると庭があって、そこに建つ鐘楼のとがった屋根にもまた十字架が伸びている。

それでも、この教会にもホメイニ師とアリ・ハメネイのポスターが貼られている。二人ともイスラム教シーア派の最高権威、アヤトラでもある。そして、併設されている店舗では、アルメニア磁器のほかに絵葉書なども売られていて、そこには、キリストが十字に磔にされている絵もあれば、モスクのムカルナスや鮮やかな壁面を描いた葉書も売られている。

アルメニア人地区で教会の多い地区、といっても、ラマダン中のそのエリアの商店も大方閉まっている。見つけた商店に入り、冷たい水を買う。そこに買い物に来ていたイスラム教徒の男性は、かつてUAEのアブダビに住んでいた。イランではアルメニア人でもキリスト教徒でもユダヤ教徒でもヒジャブやチャドルを身につけなければならないから、外見から違いは分からない、と言った。

そして、エスファハーン在住でラマダン中も断食をしていないというイラン人は、お酒を買うときにはこの辺に来るのだと言った。

続いて「王の広場」を訪ねるためにヒッチハイクをして乗せてくれたおじさんは、観光地をぐるりと廻ってくれながら、断食もしないし、ウォッカもウイスキーも飲むよ、と笑う。

マスジェデ・エマームを訪ねる。広場に向いた装飾用正面のエイヴァーンから入り、回廊を抜けて中庭に出ると、今度は45度斜めのメッカの方角を向いたエイヴァーンが現れる。礼拝堂のドームは、きめ細かく装飾された彩色タイルでびっしりと埋めつくされている。

ラマダン中は、毎日18時半からコーラン・タイムがあり、壇上にあがった4人のコーラン読みの有名人がコーランを読み上げ、それをずらりと腰をかけた男性聴衆者たちが、コーランを前に聞き入る。誰もがコーランの聴衆者になれるというが、彼らはみな断食をしているのだという。ラマダン中は、コーランの一部を読むだけで、コーランの全てを読んだことになると聞く。

エスファハーンのテレビ局もライブでそれを放映している。このコーラン・タイムが終わると、礼拝が始まる。1日5回の礼拝を行うスンニ派に対して、シーア派はそのうちの2回を合わせて礼拝することがあるらしい。

ぼんやりとその様子を眺めていると、日本語のできる男性が話しかけてきた。その男性もラマダン中だった。エスファハーンの半分くらいの人々は断食をしているといい、していない人々もやむを得ない理由がある人々が多い、と彼は言う。

ラマダン中は午後早いうちに仕事を切り上げる人も多いというが、その男性はいつもと変わらず朝の9時半から夜の9時まで働いているという。そのうちに男性が経営している絨毯屋でチャイを飲んでいきませんか、と誘われる。その男性もまたエマーム・ホセインもアリ・ハメネイも良くない、そもそもイスラム革命は良くない、と言う。

絨毯屋は、マスジェデ・エマームのすぐ隣にあり、最高の立地だった。今はあまり景気がよくないが、世界各国に顧客がいる。かつてはバザールの端のほうに店を構えていたが、マスジェデ・エマームの横の物件が空いていたので、移動してきた。1ヵ月の賃料は1000ドルで二年間の契約。絨毯は投資の対象にもなる品物らしい。

毎年1ヶ国語を学ぶというイラン人男性の店員は、周りの若者の8割はもう断食などしていない、と言った。本人も断食をしていない。

絨毯屋を出ると今度は、少し話しても良いですか、と流暢な英語で話しかけてくる男性がいた。マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーを裏から眺め、シャヒード・ラジャーイー公園の中にあるハシュト・ベヘシュト宮殿まで、ゆるりと一緒に散歩をする。

父親が米国人、母親がイラン人のハーフで、現在ニューヨークのマンハッタンに恋人と住んでいる。2年ほど前までカメラマンになるべく勉強をしていたが、方向転換をして、現在はハーバード大学で心臓医になるための勉強をしているのだそう。将来は、1年に3カ月ほどはイランに戻って、心臓に病をかかえる人々を助けたい、と言った。

こんな優秀で才能のある人々も、イラン政府は無視するのだという。今の政府はダメだ、とこの男性も言う。

それでも、彼も敬虔なイスラム教シーア派の信者で、旅行中の今は断食をしないが、米国に戻れば、ラマダンを実行する。それでもイランは自由もなく、アメリカのお酒もクラブも恋しいと、クリスティーナ・アギレラの音楽をiPadでならしながら、身体を揺らす。

親戚がイランにいるので1年に1度はイランを訪ねてくるのだという。今回恋人も同行するように誘ったものの、イラン人はこわいから、と断られ、彼はとても残念に思ったと言った。そしてフランスのパリに行ったとき、国籍を尋ねられて米国人とは言わずにイラン人だと答えると、その相手は逃げていったという話も聞いた。

夕食をとりに、ノウバハールという食堂に入る。牛肉や豆の入った煮込み、ホレシュテ・ゴルメサブズィーをいただく。パンやサフランライスやゼレシュクののったご飯、生たまねぎにライムがついてくる。店内はがらんとしている。ラマダン中の日没後もさしてお祭りムードになる雰囲気はない。

宿に一度戻ってタクシーに乗り込み、テヘランに戻るため、夜のバスターミナルへと向かう。今回もHamsafar社のバスをおさえた。きんきんに効いたクーラーの中、バスは舗装道をぐんぐん進む。

やがてウォルナッツクッキーやビスケットの入った箱とピーチジュースが配られる。

古都エスファハーン歩き – Esfahan, Iran

朝の5時半ころにはバスがエスファハーンに到着する。タクシーに乗って宿まで向かい、朝食に紅茶や棗、それにナンにクリームチーズやはちみつ、にんじんジャムをつけてほおばる。

近くの商店で、植物の黒い種がぶつぶつと浮かんだ飲み物トフメ・シャルバティーの瓶を買い求めてラマダンらしく遠慮がちにぐびぐびする。

ジャマール・オッディーン通りをてくてくと歩いていくと、左手にエスファハーン名物のギャズの老舗ブランド、Gaz Kermaniの店舗があったので、立ち寄る。ピスタチオやアーモンドの入ったギャズをつまむ。ねっとりと甘い。地元の人々がいくつも箱買いをしていく。

更に通りを歩いていくと、右手にエスファハーンで最も高いメナ―レ・マスジェデ・アリーが高くそびえたっているのが見える。このメナーレは、礼拝の呼びかけだけに使われたのではなく、かつては砂漠を旅する隊商にとって大切な道しるべになっていたという。

バザールに入り、細い道を歩いていく。石造りのアーチに、木製の格子がかかるようすは日本を想わせ、とうとうアジアに入っていることに改めて気づく。カラフルで艶やかなドレス、スーツを着させられたファンキーキャラクター、幾層にも色を重ねたスパイス、真っ黒なチャドルの仕立て屋を眺め、Kashkという名前のしょっぱいミルクでできたボールをつまみながら、マスジェデ・ジャーメにたどり着く。

門の前では初老の男性が、炭をおこしている。このマスジェドの創建は8世紀までさかのぼり、エスファハーンで最も古い。礼拝堂は、いくつものドームが連続して天井をつくりあげ、それをつなげるようにアーチからつらなる柱が林立している。

四方にエイヴァーンが構えられている中庭を歩いていると、現在17歳の高校生で数学専攻だという男の子に話しかけられる。イランが海外のメディアでどう伝えられているのかと尋ねられる。答えを知っていながら、質問をしているふうだ。

イランでは、大学に入らない男性は高校のあとすぐに入隊し、大学に入った人々は卒業後に軍隊に入る。17歳に見えないその風貌で、大学に行くのは当然だというようすだった。断食を実行しているようで、暑さを感じて喉がかわくときは、クーラーの前に立つ、という。

男女分かれて入る聖廟には、多くの人々がコーランを手に腰をかけ、あるいは聖廟に身を寄せている。ある女性に、ようこそ、ようこそ、とペルシア語で言われて、幾度も顔をなでられる。礼拝の時間が近づいてきているようで、中庭のあちらこちらに丸められていた絨毯が、先の尖った金属で一面に広げられる。

もうすぐ日の暮れようとしているバザールは商売どころではないようで、多くの店がそのシャッターを閉めている。そこに相当なスピードのバイクが走り去っていく。バイクのひったくりが多くなっているから気をつけなさい、と声をかけられる。

すっかりしんとしたバザールを30分ほど歩いて、ゲイサリーイェ門をくぐると、縦510m、横163mの巨大なエマーム広場が目の前に突然に広がる。

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラやマスジェデ・エマーム、アーリー・ガープー宮殿が広場を囲い、いくつものアーチがライトアップして照らされている。

家族連れが草むらに座り、あちらこちらに輪をつくって、コンロやグラスのコップにティーポットなどを持ち込んで、夏のラマダンの夜を楽しんでいる。マスジェデ・エマームからは、ちょうど日没をむかえて祈りを捧げ終えた人々が、水を片手に出てくる。

月は白く夜空に浮かび、噴水が暑かった一日の火照りを冷ましていく。

夕食は、エスファハーン名物だというベルヤーニーを食べに、ハーフェズ通りの食堂へ入る。ゴマのナンに、トマトのスライスや生たまねぎ、それに羊肉を敷いて丸めて食べる。レモン汁をぽとりぽとりと垂らせば、まるでハンバーガーのようだ。

アイスクリームも有名だというので、エマーム広場に面した老舗ふうスイーツ屋で、チョコレートとバニラのアイスクリームがコーンカップに入ったものを買い求める。

エスファハーンのラマダンの夜、人々の食欲は衰えない。

そこからヒッチハイクで宿まで戻る。乗せてくれた男性は、ウォッカだってウイスキーだって飲むよ。アルコール禁止だって、ムッラー(ここではアリ・ハメネイのこと)だって、必要ないよと手をはらった。

イスラム教とゾロアスター教の街から聞こえる言葉 – Yazd, Iran

朝食に棗や木苺のドライフルーツ、ゆで卵にコーヒーやパンを宿の中庭でいただていると、ケルマーンシャーという町で医者をしているというイラン人男性に話しかけられた。英語がほとんどできないが、気さくにペルシア語で話しかけてくれる。

今日は地元からヤズドまで訪ねてきているので断食はしなくて良いが、明日地元に帰った後は飲食はしないと口に手をあてて示した。そして、イランのアリ・ハメネイはダメだ。日本は良い、とまた手と表情で伝えてくる。

昼のヤズドは、砂漠都市らしく、からりと暑い。

イランで最も高いメナ―レをもつマスジェデ・ジャーメを昨晩に続いて訪ねる。二本のメナ―レがにょっきりと天に向かって伸びている。礼拝用の敷物の上にコーランと石が置かれているが、人気はない。中庭には地下のガナートに続く階段が伸びている。

ラマダン中は日中に飲み物を飲めないので、そんな中を歩く人はあまりなく、住宅街の迷路のような旧市街にいたっては、まるでひっそりとして物音ひとつしない。ただひたすらに乾いた茶色の家が続き、時折広場に出るくらいだ。ある広場には、ぽつりと山車のような木造のナフルが置かれている。そんな中でもパンを引き延ばして窯にぺとりとくっつけて焼く男性がいて、黒いチャドルを着た女性がふいに現れる。

街の中のところどころにバードギールという風採り塔が立ち、ひんやりと暗い貯水池アーブ・アンバールへと続く階段がある。

旧市街には、土色の住居やアレクサンダーの牢獄や十二エマーム霊廟がある。築200年近い邸宅を改装したというファハダーン・ホテルを訪ねてみる。家族用と来客用の玄関が二つに分かれ、中庭もそれに合わせて分けられている。玄関の扉には、左右で違うノッカーが取り付けられて、これは客が男女どちらであるかを示すためだといい、低音で鳴るほうが男性、高音で鳴るほうが女性の来客であることを示した。

矢を入れる容器やカレンダー、卵入れにミシンなどのアンティークの調度品が部屋や廊下のあちらこちらに置かれている。台所は、女性が他の人の目に触れないようにするため、地下に設けられている。天井にいくつかあるドームに赤や緑、青といったカラフルな色が並ぶのは蚊よけだといい、その色をみた蚊は、くらくらとしてしまうのだそう。

地下にはかつて山の水を流したガナートがある。階段を下っていくと、水路があり、飲み水に使っていた。上に革からできたバケツがちょこりとぶらさがっている。かつてはそのバケツでガナートの水を汲み上げ、地上にもっていき、洗濯などに利用していた。

風採り塔のバードギールもある。かつてはその下に水を溜め、塔から入ってきた風がその下の水にあたり冷たい風として部屋に吹き込んでいたのだそう。

その後、迷路のような旧市街をくねくねと歩き、聖廟に立ち寄ったりしながら、大きな通りに出る。商店でマンゴージュースを買い求めて、ぐびぐびと飲み、そこから、ゾロアスター教寺院であるアーテシュキャデまでヒッチハイクをして行くことにする。

バスを貸切状態でヒッチハイクした後、ベヘシュティー広場で降ろしてもらい、別の車をヒッチハイクする。

乗せてくれた男性は、テヘラン大学で公共経営について学んでいるという男性だった。彼は、わたしたちを寺院まで送ってくれた果てに、そのチケットまで買って手に持たせてくれた。
そして言う。

「イランの国民を、政府と切り離してとらえてほしい。世界が、ニュースの中でみるようなイランは、問題だらけの政府のイメージであって、国民は良い人々だということをどうか周りの人に伝えてほしい。」

公共経営を専攻する男性は、イランが今最悪の状況にあることを心から嘆いていた。そして、国を変えたいと願っていた。アリ・ハメネイは、問題だ。国を変えたいが、政治家になることは、そちら側の勢力に加担することになるので、望むところではない、と言う。嘘をつかないと政治家にはなれないんです、と言った。それでもイランを変えたいと、その男性は続けた。

建物の入口正面には、ゾロアスター教の善の神、アフラ・マズダの像があり、寺院内では、火が灯され続けていて、煙の香りがする。軍人やイスラム教徒もその場所を訪ねてやってくる。

隣の建物では、外壁のアフラ・マズダの像が作り途中にある。中では、ゾロアスター教徒の白シャツに黒チョッキを着た男性や、白や緑の服装を着た女性の像などが展示され、聖典アヴェスターからの引用が掲げられていた。

前のベンチに腰かけていたイスラム教徒一家が、隣のベンチに座っていたわたしたちににんじんアイスクリームをどうぞと瓶ごと差し出す。にんじんはイランではスイーツにもよく使われ、にんじんジュース、にんじんアイスクリーム、にんじんジャムなどは定番なのだ。

そこからまたヒッチハイクをしてアミール・チャグマーグ広場まで戻る。ちょうど良い街の規模とイラン人の優しさで、またすぐに一台の車が停まってくれる。バザールには、金色のジュエリーがきらきらと売られている。それでも日没が近づいてくると、店はバタバタと扉を閉め始める。

かつて英語の先生で、退職をしてからは奥さんに仕えているという男性から話かけられた。イラン・イラク戦争では兵隊として戦地に赴き、イラクに捕えられ5年間拘束されていたという。それでもイスラム教徒として旅行者を厚くおもてなしするのがイラン人です、と言った。

ヤズドにはゾロアスター教徒も多数住んでいて、イスラム教徒であるその先生も、ゾロアスター教徒の先生とともに授業を組んで教えていて、良い仲間なんです、と言った。マスジェデ・ジャーメの近くにはユダヤ人地区もあります。国籍も宗教も関係ないんです、と外国人を自宅に招いたりして観光協会から注意を受けたこともあるという先生はそう言った。

緑のタイを首につけた男性がそばを歩いていく。ムハンマドの子孫であるセイイェドだといった。

バザールを抜けて、ユネスコからも表彰されたという、伝統的建築を改装したメフル・ホテルを訪ねる。ここも他ホテルと同様に中庭を囲むように部屋が並び、半地下にも部屋をもつ。そして公的なスペースと私的なスペースは分かれていて、まるで迷路のように入り組んでいた。

外に出ると、ふっくらとふくらんできた月の下で絨毯を敷き、ホテルの前で祈りを捧げる従業員がいた。

既にバザールの扉は閉まり、ひっそりとしていたものの、その中のモスクからは発砲の白い容器を手にした人々が続々と出てきている。ラマダン中、日没8時ころの祈りを終えると、モスクがこうして人々に無料で弁当を提供しているのである。多くの人々が待ちきれないかのように殺到し、時にどなり合い、あるいはモスクの周りの地べたに座り込んで、ご飯をかきこんでいる。

わたしたちも列に並んで弁当をいただき、アミール・チャグマーグのタキーイェの前の芝生に座ってそれをいただくことにする。シンプルなピラフの上にパンがのっている。周りでは、バーナーを持ってきて家族でピクニックをするかのように夜を楽しんでいる人々がいる。目の前には、高さ8.5メートルあるというナフルが置かれている。

イランには軍といっても、共和国軍とイスラム革命防衛軍という2種類の軍があるのだそう。今日は街に軍人の姿がよく目につく。

タキーイェの下をくぐったところに美味しいアーブ・グーシュトを食べさせてくれる店があるとお勧めをもらったので、訪ねてみる。羊肉やじゃがいも、豆の入ったスープの入った壺がお盆にのって絨毯の席に置かれる。絨毯にビニールを敷き、壺に入ったスープを銀の器に出して、共に出された重みのある銀の棒でそれをすりつぶし、ナンをちぎってそれに入れていただく。ナンはスープを吸いあげる。生たまねぎをかじりながら、ほおばる。

日の暮れたヤズドは、昼よりも人通りが増える。マスジェデ・ハズィーレには、白や黒のターバンを頭にのせた聖職者たちが続々と入っていく。

夜はエスファハーンに向かう。タクシーに乗ってターミナルへ向かい、チケットを買う。VIP車ということで、横は3列の座席でゆったりとしている。リクライニングも完ぺきだ。定刻の12時を30分ほど過ぎて出発し、冷たく凍ったいちごジュースにココナッツクッキーやバナナウエハースの入ったお菓子箱が配られる。

イランのお家ごはんとゾロアスター教徒の墓場 – Yazd, Iran

朝の5時半ころにヤズドのターミナルに到着すると、宿のドライバーが迎えに来てくれていた。途中にガソリンスタンドに立ち寄り、イランのガソリンは安い、1リットルレギュラー4000リアルで、ハイオクでも7000リアルだよと嬉しそうだ。

朝食は、宿の中庭で、チーズや棗、トマトやきゅうりにオムレツとパンにメロン、それからコーヒーをいただく。

暑い日差しの照りつける昼のヤズドの町は、商店のシャッターもぴしゃりと閉められ、ひっそりとしている。時折現れるモスクの周りに礼拝を終えた人々が集まっている程度だ。

そんなシャッター通りを歩いて、ゾロアスター教徒の墓場、沈黙の塔まで足を運ぶことにする。

ゾロアスター教徒は、イスラム教徒の服装規定とは異なり髪を覆う必要もないというが、イラン国民としてイスラム教の規則を守らなければならないため、みな髪をヒジャブで隠している。だからヤズドの住民の1割がゾロアスター教徒だというが、誰がゾロアスター教徒なのかは傍からは判らない。

沈黙の塔へ向かうバスを探しに歩いていると、全身を黒いチャドルで覆った若い女の子とそのお母さんに話しかけられた。その女の子は、全身を覆う黒いチャドルも暑くはない、むしろイスラム教徒としてとても好きなのだと言った。

近くにいた男性が、沈黙の塔へ行くなら送っていくよと言い、さらに昼は暑いからまずは家で涼んでから行けば良いと言う。男性が乗っていた車は、大きくて長年使われてきたメルセデス・ベンツの大型トラックだった。

大きなそのトラックによっこらしょと飛び乗り、運転席の隣に座らせてもらう。トラックには日本製のテーププレーヤーが取り付けられ、イラン音楽を流す。食べなさいともらった棗をほおばり、右手に伝統的な貯水施設、Ab Anbar Rostam Givを見つつ、沈黙の塔にほど近い男性の家に招いてもらう。

日差しの強い外から、真っ白なそのご自宅に靴を脱いであがると途端にひんやりとして涼しい。棚にはカラフルな磁器が並べられ、アンティークのランプも置かれている。そしてそこにはふんわりとした笑顔を白に花柄のチャドルで包んだ奥さんと、18歳のお姉さん、15歳の妹、13歳の弟の3人の子どもがいた。

見知らぬ者同士だったというお父さんとお母さんが結婚して20年、お姉さんは大学生で、職が得やすいという会計を勉強し、妹は将来心臓医を目指し、弟はサッカー選手を夢見ている。イスラム教徒の一家だ。

今は夏休み中だが、ラマダンの間は特に外は暑いので、外出もせずに室内にいて水分をとらずにすむように心がけていた。

そのうちに親戚のお母さんと女の子も入ってソファに腰をかける。女の子はグラフィック・デザイナーとしてアトリエで働いていて、iPadを取り出し、Google Translateを見事に使いこなし始めた。VPNを使って、政府のフィルターなどお構いなく、facebookを駆使している。

ひんやりと冷たいぶどうジュース、それにZoolbia、Bamieh、象の耳という名のGoosh-e Feelといったスイーツから始まり、ぶどうやメロンにスイカ、レンズ豆のシチュー、ホレシュテ・ゲイメとライス、トマトや棗のシロップ漬けにいちじく、チャイ、そして庭からとった木苺などが次から次へとわたしたちの前に運ばれてくる。ラマダン中の家族はみな、ぱくぱくと食べるわたしたちを囲み、何も飲食をせずにおしゃべりをする。

子どもたちはラマダンはつらいとも言うが、わたしたちには食べろ食べろと勧めてくる。

イランでは男の子は15歳から、女の子は9歳からイスラム教の教えに則るのだといい、断食や女の子のヒジャブ着用もその年齢から。女の子のほうが男の子よりも成熟が早いので、これほどの年齢の開きがあるのだそう。これほど男女の年齢に差があって不公平だと思わないかとお姉ちゃんに尋ねると、鼻をくしゃりとさせて、少しねとしぐさをしてみせた。それでも、ヒジャブ着用は慣れていて、暑いと感じたりはしないという。

休みの日には、勉強をしたりテレビを見たり、パソコンでゲームをしたり、家族旅行をしたり、ピクニックをしたり、映画を観たり。好きな食べものはみな口を揃えてファースト・フード。ハンバーガーやサンドイッチ、ピザは大好き。

お父さんはわたしたちにどっさりと棗を持たせ、また大きなメルセデス・ベンツのトラックに乗ってわたしたちを沈黙の塔まで送ってくれた。ラマダン中は仕事はほとんどしないのだと言った。

今のアフムード・アフマディーネジャード大統領がだめだからイランの景気も良くない、子どもたちを大学に行かせるのはとても大変だと運転をしながらペルシア語とわずかな英語でつぶやいた。

ゾロアスター教は、火、水、土を神聖化しており、それを穢すことになる火葬や土葬を嫌って遺体を鳥葬場に安置し鳥に喰いつくさせた。沈黙の塔はその跡だ。1930年代にレザー・シャ―が鳥葬を禁止してから、イスラム教徒と同様に土葬するようになったという。

ゾロアスター教徒の墓場である沈黙の塔は、イスラム教徒のお父さんにとっては興味がない場所だった。

近所の若者たちがその広がる砂地でバイクをふかしている。鳥葬が行われていた場所というが、そこは夕焼けを眺める若者たちが集まる場所になっていた。塔の上にはぽかりと白い月が浮かび始めた。

二つの丘にはそれぞれその頂上に鳥葬場があり、麓には通夜などに使われた集会場や貯水池、アーブ・アンバール、それに現在のゾロアスター教の土葬墓地も点在している。

帰りはヤズドの中心部までバスの本数も少ないようだったので、ヒッチハイクを試みる。日産車に乗った工場帰りの男性と、イランのラップを爆音で流しながら日本大好きと叫ぶ若い男性二人組に乗せてもらいながら、夜のマスジェデ・ジャーメに連れて行ってもらう。

すでに日も暮れて集まってイフタールを食べる人々がいる。

周りの旧市街を散策していると、一つのモスクの中から食事をしている男性たちが手招きをした。中に入ると、チャイや砂糖水や砂糖菓子、それにゆで卵をどうぞと差し出された。ラマダン中はこうして、日が暮れるとモスクで食事が振舞われたりする。聖職者だという男性が、奥のほうから聖職衣を取り出しぱっと着てみせて写真をどうぞ撮ってくださいとにこにこ笑いながら言った。

明るく輝く月が、イスラム教とゾロアスター教の町を照らしている。