Top > ブログ

日本語学校とどきどきの国境 – Rishton / Border with Kyrgyzstan, Uzbekistan

今朝はじゃがいもと肉の入ったウズベキスタンふうコロッケときゅうりにトマトソース、それにお母さんが作ったという桃のジャムにチャイとパン、そして庭でもいだばかりのぶどうを中庭の絨毯にすわっていただく。

家のお母さんは、旧ソ連の時代は海外にも自由に行けなかったから、今のほうが自由があって良いと言う。でも、物価の安かった旧ソ連時代に比べて、今はインフレで生活はやさしくはない、と柔らかな笑顔を顔にたたえて付け加える。旧ソ連時代もものはバザールや商店で買っていた。周りに座っている若い子どもたちは、もう旧ソ連時代のことは知らないんですと言った。

今朝は家からほど近いNORIKO学級に連れて行ってもらう。NORIKO学級とは、1994年にエンジニアとしてウズベキスタンに赴任された大崎重勝さんが、リシタン・ジャパンセンター所長のナジロフ・ガニシャル氏と出会って開いた日本語学校だ。

学校の前には、2005年に亡くなった大崎おじさん、そして心と大きく書かれた石碑がある。

9時から授業が始まるといい、8時半にならない学校は、まだ静かだった。それでも、学校には、ボランティアで先生をなさっている小池先生も、JICAで活動されている方もいらしていた。小池先生は、もともとドイツ国際平和村というNGO団体で活動されていて、そのNGO活動の一環でウズベキスタンに来て、そのままご縁でこの学校でボランティアをされている。

この学校は現在、亡くなった大崎さんとともに活動を始めたウズベキスタン人が自腹で運営をしているという。かつてはボランティアで賄えたこの学校も、インフレに悩まされて学校の継続が難しくなってきている。一時期ボランティアの先生がいなくて閉校をしたこともあり、これからも小池先生がいなければ、また閉校せざるをえない状況にある。

9時になるころ、元気な子どもたちが続々と教室にやってくる。教室の前にはウズベキスタンと日本の国旗の絵が掲げられ、壁にはハロー・キティの掛け軸や和人形にこいのぼりなどが飾られている。

生徒たちはこんにちは、と大きな声で、日本語の挨拶をする。先生の指導のもと、黒板に漢字やひらがなを書く。そしてわたしたちも交じって、例文をつくったり、一緒にカルタで遊んだりする。文章を作り終えたら、子どもたちはたたたと駆け寄ってきて、見てみてとノートを差し出す。侍、脇坂淡路守と漢字で書いて、その画を描く子どももいる。

13、14歳ほどまでの年齢も日本語のレベルもばらばらの子どもたちが一つの教室に集まるのだから、先生も大変だ。そのうちに、子どもたち同士のけんかだって始まる。先生もよくあることなんです、と言った。

学校には工房も併設されていて、中庭ではいくつもの陶器が積み重なり、ろくろの上で絵が描かれていく。

今日は、国境が開いているうちに、キルギスのオシュへと向かいたい。シャンプーやお茶を買い求めて、バスに乗り込み1時間ほどでフェルガナの町へ到着し、またミニバスに乗り換えてアンディジャンへと向かおうとするも、ミニバスはすぐに人々が殺到し、なかなかのカオスと化している。なにしろ便数が少ないのだ。暑いので、近くで桃の炭酸を飲みながら待つ。地元の人々も炭酸をよく飲んでいる。

ガイドになりたいという男の子がわたしたちと一緒にバスを待ち、なかなか交通手段が整っていないことをわたしたちに謝った。

ようやくやってきたミニバスに飛び乗り、1時間ほどでアンディジャンの町へと到着する。

ウズベキスタンでは町のあちらこちらでしゅわしゅわとした炭酸飲料が売られている。お腹の調子も回復してきたので、頼んでみる。透明の炭酸水を管からしゅわしゅわと泡をたてながら出して、それに原液を上からまたしゅわしゅわと入れる。それはまるでビールのような見かけだが、子どもたちも飲んでいる。甘い炭酸水の最後にほのかな苦みがふわりとする。

新しくてお洒落な雰囲気のアンディジャンから、国境まで乗り合いタクシーで向かうことにする。乗り合いタクシーを探しにてくてくと歩いていると、白い自家用車に声をかけられる。既に乗車していた他の二人のウズベキスタン人の乗客もオシュに向かうと言う。

アンディジャンから40分ほどでキルギスとの国境に到着する。もう夕焼けも近い。山羊や羊に馬が放たれている。

わたしたちは、昨日個人宅に泊まってしまったために、蓄積しておかなければならないともいう滞在登録、レギストラーツィアが一日分欠けている。出国の際に何か文句を言われかねない。この国の警察は悪名高いのである。

やや緊張の面持ちで建物に向かう。入口でパスポートチェックがあるものの、何かにつけてありがとうございます、と向こうから言われる。そして隣の担当者はパスポートをチェックする前に突然に、子どもはいるのか、と聞いてきた。

一つ目の建物を通り過ぎ、中庭を通って、次の建物へ入る。申告書を2枚書く。入国時にはロシア語しかなかったものの、出国時には英語のものもある。足元に荷物を置いて申告書を書いていると、職員に、盗まれないように気を付けてくださいね、と言われる。

申告書類をもって担当職員のところまで持っていくと、紙に目もやらないうちに、また子どもはいるのか、いつ子どもをつくるのか、ウズベキスタンをどう思うのか、と尋ねてくる。用紙に記入する、所有ドルの額は入国時より減らしておいた。すると特別な問題もなくスタンプが押される。

ここからイミグレーションの窓口へと移動する。まだ出国手続きは終わっていない。

この窓口にも入口と同じように地元の人たちの長蛇の列があるものの、先へどうぞと人々から勧められる。滞在登録の問題でどきどきとするも、結局レギストラーツィアの紙を出しなさいと言われ、一日分欠けたままの全ての紙切れを取り出して、窓口に渡す。すると、それを特別に見るわけでもなく、ただ回収されただけだった。

こうして無事に出国を果たす。

両替を済ませて、少し歩けばもうキルギスのイミグレーションだ。