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ハバナに住んでいた人と、住んでいる人。 - Havana, Cuba

朝、朝食をとっていると、眼科医であるお母さんがきちんとした格好をして出勤していく。

今日はハバナ大学スペイン語コース初日である。ハバナではバスも走っているが、そのサービスは地元の人も閉口するものなので、我慢してバスに乗るか、歩くか、タクシーに乗るかという選択肢となる。

そもそもそんなバスには乗らずに10MNで乗れるタクシーに乗るという地元の人もいれば、1時間ほどバスを待って挙句の果てにバスが停まらずに通り過ぎて行ってしまっても次のバスを待つという地元の人もいる。

同じ家に住んでいるカリフォルニア出身でベルリン在住経験のある、歌手のジェシーちゃんも今日から大学に行くというので、一緒に歩き始める。家のお母さんは20分ほどで到着すると笑っていたので、甘く見ていたら徒歩で1時間ほどかかった。ハバナは、やはり大都市。大きいのである。

午前中はコースの説明と試験だけである。その試験の途中に、お誘い先生たちが現れた。大学でも教えている先生たちが、「大学は高いからわたしのプライベートレッスンを安くで受けないか」という売り出し文句を天真爛漫に提示してくれるのである。

ハバナ大学は1728年設立のキューバで最も歴史のある大学で、法学部、心理学部、経済学部などがあり6,000名がハバナのキャンパスで学んでいるのだという。医学部は6年間、その他は5年間のコース。Acula Magnaと書かれた建物にはショートパンツをはいた学生は出入り禁止ということで、何やら重々しい建物も、ある。

一通り大学の案内を受けた後、また1時間程歩き、旧市街にあるパルタガス葉巻工場へ向かう。工場に入ることはできなかったが、葉巻ショップには入ることができた。葉巻の他、湿度計のついた葉巻ボックスや灰皿なども売られている。

そして片隅で、赤くマニキュアをほどこしたふっくらとした女性が葉巻を巻いている。比較的大きな葉を広げ、小さく切った葉を細く数本まとめて、丸めこむ。太い刃で片方を切り揃え、木の型に入れて、形を作る。型ができたら、また葉で包み直し、口のあたる箇所も含めて滑らかに整えていく。

1929年建築の米国国会議事堂をモデルに作られたという旧国会議事堂やキューバ・クラシックバレエの本部であるガルシア・ロルカ劇場を見た後、屋台で焼肉ハンバーガーを食べる。

加えて、周りのおじちゃんたちが揃って飲んでいたモネダ・ナショナル系(MNで購入する)Polarビールをまねて、いただく。フルーティーな甘みがふわっと口に広がるも一瞬にしてそのふわりが消えていくビールだった。

そのうちに、日本語を勉強していて、今はCubanacanという国営旅行エージェンシーで働くライネルくんに声をかけられる。以前はNacional de Cubaホテルで庭師をしていたと言う。

キューバは「仕事を選ばなければ、仕事はある」と言った。ガイドとしてもキューバ各地を回っていて、仕事は楽しいのだそう。現在、キューバではCUCを得られる観光業が一番所得が高く、それは医者以上だったりもする、と話してくれた。医者や弁護士のお給料が高いということは、キューバでは、ないのだ。

キューバは人が優しくて好きだと笑う。結婚をしてもすぐに離婚をする周りの人々を見て、最近は結婚をしないキューバ人が増えてきたのだという。31歳のライネルくんも、女の子には不自由しない様子で、女の子からもナンパされるらしい。

配給制度は今もあり、毎月1度、地域特定の店で米(3kg)、油、塩、砂糖、豆、スパゲティ、コーヒー、卵(10個)、鶏肉(0.5kg、 70センターボ)が格安の合計70MN程度で買えるが、石鹸などの配給は今は無いのだと言った。卵は割れやすいので卵以外は1か月に1回まとめて買ってしまうので、重くなるのだそう。

ライネルくんと別れた後、セントラル公園のホセ・マルティ像を通り、オビスポ通りを抜ける。お友だちに教えてもらっていたカヒータという紙箱に入ったランチボックス、他の都市では見つけにくかったが、ここでは簡単に見つけることができる。頼んだカヒータにはチャーハンが入っている。ハバナはやっぱり他の街とは、違う。

オビスポ通りにあるヘミングウェイの常宿だったホテル・アンボス・ムンドス、511号室に入る。エレベーターの扉は手動式である。1925年開業のオレンジ色のホテルで、ヘミングウェイは1928年に初めてここを訪ね、1932年から39年の間、アフリカを含めた他の国とこのホテルを行き来していた。 

「Green Hills of Africa」と「A death in the afternoon」はこの部屋で執筆された。ちょうど良い大きさの部屋にシングルベッドが置かれており、ヘミングウェイの使っていたタイプライターや釣りざお、ルイ・ヴィトンのカバンが展示されている。

このホテルは彼のお気に入りの場所へのアクセスも良い。そして、この部屋の窓からは要塞群が見える。テラスもあり、一つ一つが気取らずに、洒落ている。

アルマス広場、ギリシャスタイルの寺院El Templete、1704年建立のカテドラルや1720年に建てられたコロニアルアート博物館を見て回り、ヘミングウェイの通ったというラ・ボデギータ・デル・メディオに入る。レストランはがらりとしているが、バーは音楽もかかり、大変な盛り上がりをみせている。Nat King ColeやNicolas Guillenがかつて座ったテーブルも保存されている。

夜ご飯は豚焼肉とチャーハン、サラダセットとクロワッサンにハムとチーズをのせてあたためてもらったものをいただき、タクシーで帰ることにする。

タクシーは、1955年のフォード車、モーターは韓国のヒュンダイ製だという真っ赤な車で、ハバナを東から西へと飛ばしていく。運転席には、友だちがいるというカナダの国旗が置かれていた。

バラデロというビーチとハバナという大都会 – Varadero / Havana, Cuba

宿の旦那のLazaroさんは朝には家に帰ってきており、いつもは2、300羽とれるところを今回は15羽しかとれなかったと言う。ただ洋服が汚れて疲れただけだよと笑った。

今日のバラデロは昨日よりもこころなしか暖かい。それでも日差しあふれるテラスで目玉焼きとパンにマヨネーズ、バナナにトマトとコーヒーをいただいていると、晴れた空からぱらりと雨が降ってきた。

家の近くのビーチには、やはり人は少なく、地元のおじさんが網を下げて服を着たままじゃぶじゃぶと海に入っていき、ぱっとその網を広げる。1分もしないうちに網をしまい、浜にあがると、アフリカチヌという小さな魚が3匹ほどと蟹が入っていた。そして、わたしたちに食べられるからと魚を差し出した。

そのまま浜辺を歩いていると、昨日会ったカナダ人Ronさん、Billさんペアと、待ち合わせをするといっていた女性マロニーさんが3人ちょこりと座っていた。キューバでは米国ドルを換金する際に10%の手数料が上乗せされる。ユーロかもしくは「カナダドル」が「最強」だと言われる所以である。キューバとカナダは仲が良いのだ。

15時半のハバナ行きViazulバスに乗ろうとバスターミナルに向かっていると、タクシーの客引きさんが現れ、バスと同額でハバナまで連れて行ってくれるという。こういったことがキューバでは多々起きる。

バスの時刻を狙ってタクシー客引きさんの顧客横取り獲得作戦が繰り広げられるのである。そして客引きさんとホテルやタクシー運転手は別人であることも多く、それぞれの言い分が異なることもある。タクシーは乗合いのことも多いので、客の人数を集めなければ出発できない、さもなければ客一人の負担が高くなってしまうのである。

こうして乗合いタクシーに無事に乗り、ハバナの宿に着く。ハバナではハバナ大学でスペイン語コースをとることにしており、大学が紹介してくれた家がある。

そのお家は脳外科医のお父さんのMarceloさん、眼科医のお母さんのDulceさんと、娘、そのボーイフレンドという4人で暮らしている大きなお家だった。ゆったりとしたソファに大きなテレビ、シンプルな家具の中にセンスを感じる。さすがお医者さんのお家だと、そう感心したのだ。

娘さんはハバナ大学でジャーナリズムを勉強しており、明日の大切な試験のための猛勉強中なのだという。だからボーイフレンド、ホセくんが専ら家の雑務を担当していて、わたしたちをお勧めのレストラン、El Pavo Realへ車で連れて行ってくれた。ホセくんも大学でコンピューターサイエンスを勉強している、好青年である。

そのレストランは地元の人々が多いレストランであった。わたしたちは、セットメニューのご飯の炒め物、Vianda(芋の揚げ物)、鶏と野菜の炒め物にBucaneroビールをオーダーする。味は、中華であった。

ハバナには中華街があり、ハバナに着いた途端にご飯といえばチャーハンのようになってくるのである。そして街では「Chino/China(中国人)」と声をかけられることが圧倒的に増える。自分の名前がChino(a)かと思えてくるほどだ。こうして、中国人も多い大都会へ来たのだった。

荒削りなビーチとひっそり巨大リゾート、バラデロ – Varadero, Cuba

MarlenさんとLazaro夫婦のカサ・パルティクラルのテラスで目玉焼きにパン、ヨーグルト、サラダ、ハムにバナナにチョコレートドーナツにコーヒーという贅沢な朝食をいただく。そこにMarlenさんが14歳の息子を連れて来て、自分より背が高いのよと照れたように笑う。どこか奥ゆかしい可愛らしさをもったお母さんなのである。

旦那のLazaroさんは大きく恰幅の良いお父さんで、今日はサンタ・クララ付近まで猟に出かけるから明日家にいられるのなら、鳥を食べようと言って、車で出かけて行った。バラデロのほとんどのホテルのコーヒーメーカーを管理する仕事をしているのだという。週末は休みなのかと尋ねると、キューバ人はほとんどの曜日が休みだと豪快に笑った。

バスターミナル付近を歩いていると、カナダのバンクーバーから来たという、Ronという名の66歳の男性に声をかけられた。15日しか誕生日の違わない同じ歳のBillという名の友だちは、これが初めて海外旅行であり、Ronさんに連れられてキューバに来たのだという。

Ronさんは少し座って話をしようと芝生にわたしたちを導いた。キューバは二度目の訪問だが、長期で滞在しているらしい。以前にフィリピンを訪ねた際、汚職と経済格差、貧困といった現状を目の当たりにして、歴史的に同じようにヨーロッパや米国の影響を受けてきたキューバにそれが少ないことにひどく感動をしたようだった。

キューバは医療を中南米に輸出をしている。武器や軍隊ではない。これは素晴らしいことなんだと強調する。そしてキューバについて語る。「キューバはインターネットをプライベートで利用することが禁じられており、政府のサーバーにログインをしたうえで1時間に6、7CUCを支払って利用する必要がある。革命以前から私的に所有されていた土地は今も私有である。」

タバコやお酒といった嗜好品を買うときは左ポケットに入ったCUC、屋台でご飯を買うときは右ポケットに入ったMNを使うんだよとそれぞれのポケットを指さす。最後に手助けできることはないかとわたしたちに尋ねた。手助けをするために、ここにいるんだから、とRonさんは付け加えた。

そのそばで子どもたちが野球の練習をしていた。フェンス越しに眺めていると、Rafael Vidalという男性が、食べるものがないからお金がほしいと声をかけてきた。

言葉を交わすうちに、彼も詩を書いているのだと詩をしたためたノートを広げて見せた。犬と一緒の写真を撮って欲しいと言い、またわたしたちの前でノートにやしの木やボート、ハートがついた絵を描いた。

そして、その広場の脇にある物置きのような彼の家に招かれた。バナナやグアバの葉、ビールの空き缶や昔の雑誌が乱雑に放置された、質素な部屋だった。

MUCHACHAという雑誌の束をもってきて、一冊くれるとわたしたちに差し出した。古い雑誌の女性を指さし、その子が可愛いと口に指をあてる。帰り際、空き地で育てているというバナナやグアバを嬉しそうに見せてくれ、わたしたちが去っていくのをずっと見ていた。

バラデロというところは「キューバ最大のリゾート」であり、カリブ海の、きらきらとした場所であるに違いない場所であった。

でも、天気のすぐれない今日、ここは寒かった。
宿の近くのバラデロ市街のビーチで海に入ると、思わず怯んでしまう冷たさだった。きれいな色をしているが、波も高く泳げない。人もほとんどおらず、カンクンリゾートを見た後では、リゾートとしての荒削りな感じが伝わってくる。

Celle62まで歩いてオムレツパンを食べた後、ヒカコス半島の先端まで「バラデロ・ビーチ・ツアー」という周遊バスに乗ってぐるりと回る。このバスの乗客は、総じて観光客で、肌の色が白い。肌の色が、まるで階級を決めているかのようだ。

ビーチには空の雲にも覆われてどうも哀愁が漂っているのである。米国資本のホテルはなく、ヨーロッパ資本の高級ホテルが大きな建物としてぽつりぽつりとあるが、ひっそりとしている。

先端にあるBarcelo Marina Palaceのビーチも風強く、肌寒い。近くでも建設中のクレーンが乱立しており、バラデロで最高級ホテルの一つであるパラディスス・プリンセサ・デル・マール・リゾート&スパの素敵にライトアップされたホテル内のプールテラスでも、その向こうには明るく輝くクレーンがそびえたっている。

天気もさえず、夕刻という時間もあって、どこか寂しげな感じが漂う。イメージにあった、ビーチにあふれるラテン音楽は一切聞こえてこず、大きなホテルの周りは静まり返り、工事中か荒地といった具合が、どことなく愛らしいのである。

朝と同じ雨がまたぱらついてくる。肌寒くて思わず上着を3枚も着る。

夜は宿のMarlenさんに教えてもらった地元のレストランRanchon 29 y 3raで豚肉のフライであるMasa Cerdoとキューバリブレにモヒート、ピーニャ・コラーダをいただく。ここのオーナーだという男性は一流ホテルマンのごとくサービスをしている。その見事な接客ぶりを褒めると、15年間観光業に従事してきて、英語、ロシア語、フランス語、スペイン語が話せるのだと言った。テレビからは、バラード調のミュージックビデオが流れている。

バラデロの10年後は、どうなっているのだろうか。

チェ・ゲバラの足元で。 – Santa Clara, Cuba

キューバでは大みそかを重視していて、ハバナのような大都市ではイベントごとが行われるが、トリニダーは小さな街なので、多くは家族で過ごすという。人々が集まり、豚を焼いたり、さまざまな家庭料理を作ったりして、ビールやラム、ワインなどを飲み明かすので、お正月にはすっかりぐったりしているのだとNeryさんは、いつもの通りにウインクをしながら話す。

だから大みそかに家に戻ってきなさい。Neryさんはそう言いながら、朝早く家を出るわたしたちを見送ってくれた。少し涼しいトリニダーはNeryさんにとってはずいぶんと寒そうで、寒い寒いと言っていた。

トリニダーでは、街ですれ違う人々や家から道を眺めている人々に呼び止められ、石鹸、シャンプーやボディクリーム、子どものための洋服やペン、お金をよく欲された。石鹸は、ここでは大変な人気者だ。

Viazulのバスは、FulioさんとNeryさんの住むトリニダーを離れる。バスターミナルにはチェ・ゲバラの写真が数多く貼られ、チケット窓口にはREVOLUCION:UNIDADと書かれたカストロのポスターが貼られている。

朝の7時に出たバスは2時間半ほどでサンタ・クララに到着した。ここにはチェ・ゲバラ霊廟がある。バスターミナル近くにあった小さな店でハムとチーズをはさんだパンを買ってほおばり、キューバの絶妙客引き連携プレーの結果、Elioさんの運転する馬車に乗って、霊廟に連れて行ってもらうことにする。

馬の名前はLuceroくん。Elioさんには息子と娘が一人ずついるのだといい、知り合いの家を通過するときに子どものためだとミルクを買う。

霊廟には「HASTA LA VICTORIA SIEMPRE(常に勝利に向かって)」と書かれた台座の上に66m以上の大きなチェ・ゲバラ像が立っている。その像を前にして、わたしたちはこれからのことを決めて、ノートに綴る。

チェ・ゲバラ像の足元には博物館もあり、ゲバラが使ったパイプやベレー帽、洋服、ピストル、医者としての医療機器、辞書やラジオに加え、手紙や写真も展示されている。その中に1959年に日本を訪ねたチェ・ゲバラが耕うん機を使っている写真もある。

チェ・ゲバラの遺骨は、チェと書かれた石の中におさめられ、同様にボリビアでのボリビア政府軍との戦いで亡くなった38人の顔がそれぞれ彫られている。

そして、1958年にチェ・ゲバラ率いる革命軍がバティスタ政権の装甲車を襲撃して武器を奪取したトレン・ブリンダード記念碑も訪れ、サンタ・クララの市内に戻る。

街の中心には「アシスのサンタ・クララ」という教会があり、アシスのサンタ・クララ像やサン・ホセ像、キューバの守護神であるコブレの聖母に囲まれて、十字架にはりつけられたキリスト像がある。教会内にあまり人はいない。

サンタ・クララは、明るく清潔なイメージの町であった。街には、馬車とBICI TAXIという自転車タクシーと自動車が同等に走っている。

グアバの羊羹のようなものをパンにのせたものとチーズののったピザを食べた後、広場に面した図書館に入ってのんびりとする。扉も窓も大きく開け放たれた館内は風がよく通り、涼しく、オープンだ。チェ・ゲバラに関する書籍もあり、古い本に囲まれながら、街の人々もときに雑談をしながら、それでも静かに本を読んでいる。

街の中心からViazulのターミナルまで40分ほど歩く。途中、川のほとりには掘立小屋が並んでいる。

青い壁面には、先住民族から選出された初のメキシコ大統領であり、メキシコで最も尊敬されているベニート・フアレスの「El Respeto al Drecho Ajeno es la Paz(他者の権利の尊重こそが平和である) 」という言葉を引用し、戦争とテロに反対する漫画が壁いっぱいに描かれている。

米軍が銃をもち、ベトナムやユーゴスラビア、アフガニスタン、イラク、リビアを走る絵などが描かれ風刺されている。バスターミナルの向かいにもチェ・ゲバラの像と「プロパガンダ サンタクララ市」と看板の掲げられた支社もある。

こんなキューバ色の強い街を18時頃に発ったバスは、3時間程で、キューバのリゾート地バラデロに到着をする。高級ホテルの多いこの町には客引きも一人しかおらず、その客引きおじちゃんのお世話になり、Marlenさん一家の台所つきカサ・パルティクラルに泊まらせてもらうことにする。

夜遅い時間に向かったレストランは既に飲み物だけしか提供していないところが多いものの、カルチャーセンターLos Coralesは地元の歌手らしき人たちが小さな舞台に次々とあがり、地域の人たちで溢れかえっている。

食事はないが、歌は、ある。
こうして、メキシコでアドバイスをもらってスーパーで買ってきておいたMARUCHANえびカップラーメンが待望の登場となるのである。

賢いタクシー運転手詩人おじさんと、キューバ事情 - Trinidad, Cuba

宿のテラスでいつものとおりに朝食をいただく。定番のパンやハム、オレンジジュースにコーヒー、パパイヤにパイナップルに加えて、きょうはオムレツを作ってくれた。

マヨール広場の近くの、屋内にTEMPLO Yemallaという旗のかかった家があったので、入ってみる。部屋の壁面には大きく太陽や月、海、魚の絵が青い色で書かれており、その前に真珠の耳飾りとネックレスをつけた白い服の黒人女性の人形がちょこんと椅子に腰かけている。

キューバはカトリックとアフリカ宗教が中心で無宗教の人も多いが、このYemallaというのはアフロキューバンの海の神なのだという。さらに奥の部屋にはいると、海の波が大きく壁面に描かれ、月や錨がその上に塗られている。青い服を着た黒人女性の像が、白人の小さな人形を抱いている。その黒人女性は岩の上に立ち、足元には錨や網や貝、花にキャンドル、そしてマラカスが置かれている。そのななめ向かいには水のたっぷり入ったガラス瓶と花、十字架が置かれている。

マヨール広場のサンティシマ教会の前で、TAXI LUIS 001という木の札を貼った台車に座っているおじちゃんに話しかけられた。わたしたちが東京から来たのだと伝えると、昔は東京は江戸という町であり、1868年から東京になったのだと言い当て、日本の人口や面積を数字で的確に言い加えた。

このLUISさんは詩を書いているのだと5冊のノートを鞄から取り出して見せてくれた。既に1600もの世界各国についての詩を作ったといい、ページ数をきちんと振り分けているノートであった。そして、わたしたちの名前の入った詩をさらさらと書いてプレゼントをしてくれた。

話をしているうちに米国人旅行者の男性が話に加わった。米国は今年の9月からキューバ旅行の規制が以前に比べて緩くなり、来年にかけて更に緩めていくのだという。ただ未だ貿易取引はないため、キューバにある米国製の品物は別ルートを経て入ってきたのだろうと言った。

そんな彼とLUISさんが話をしていると、LUISさんが彼が住む米国ジョージア州の地元についての詩も書いていたことが分かり、わいわいと盛り上がる。

わたしたちは簡易の窯で焼かれたふっくらしたパンにたっぷりとチーズがのった、細いソーセージ、サルチチャのピザやほんのりと甘いプディングをつまみ食いしながら歩く。

途中、道行くおじちゃんに話しかけられ、自宅にあるという葉巻を見せてもらう。カストロが吸っているというCOHIBA、ゲバラの吸っていたというMONTE CRISTO、ROMEO Y JULIETAが無造作に置かれている。もちろんおじちゃんは、わたしたちに葉巻を買ってほしいのである。

トリニダーの街でもトップホテルの中の一つ国営Las Cuevasホテルは一昨日に行ったDisco Ayalaも運営している巨大国営ホテルであり、敷地内にいくつかの洞窟をもっている。そのうちの一つの洞窟、La Maravillosaは以前ディスコとして使われていたところである。

担当のYordanくんが流暢な英語でガイドをする。1851年に考古学者によって洞窟が発見され、80年から90年にかけてディスコとして利用されていた。中にはインディアンの使っていた魚、鳥、葉の文字が壁面にレプリカとして描かれている。そして当時のテーブルや椅子やバーカウンターやダンスフロアが今でも残り、石灰でおおわれている、ここもまたクレイジーなわくわくエンターテイメント会場であるのだ。

彼は自分がトリニダーの中では給料の良いほうであり、700~800CUCを一月に稼ぐことができたら理想だと言った。このホテルに泊まるキューバ人の数はホテル顧客数の1%に満たないという。そして、国の制度は複雑だともつぶやいた。その流暢な英語は地元キューバ人に教えてもらったのだというが、ネイティブ並みであった。

ギャラリーなどに立ち寄つつマヨール広場に戻ってくると、以前Las Cuevasホテルで演奏をしていたという、その名もLas CuevasというバンドがCasa de la Musicaの前のステージで演奏をしていた。

どのバンドマンもまるで普通のおじさんで、洋服もよれよれで立ち方もぴしりとしていなかったりする。その普通のおじさん集団が、以前一流ホテルで演奏し、今もこうして最高に格好よくのりのり音楽を平然と聴かせてくれるのがキューバだ。

しかもだれしもがそれを聞くことができ、子どもたちもそばで腰を振りながら踊る。営業精神はなく、持ち時間の半分以上は休憩時間で、ステージの上でおしゃべりをしたり、携帯をみたりしている。それでも、演奏が始まると、とたんに格好良すぎるのだ。

夕食は宿でJulioさんの作ってくれた鶏と南瓜のトマト煮にご飯、サラダにパイナップルとオレンジをいただく。この宿、カサ・パルティクラルの家はNeryさんの家であり、月150CUCを政府に支払っているという。この額はカサ・パルティクラルによって異なるそうなのだが、11月から3月までのハイシーズンを終えると、旅行者も減り、経営が大変なのだという。それでも来年からはさらに大きなお部屋を宿部屋にする計画なのだそう。

インターネットは高くて使えない、いつか家で使えるようになったら良いという。トリニダーでは外国人観光客を対象としているような価格の総じて高い店舗の片隅で、インターネットができる場所がある。経済がなかなかうまくまわらない国の現状が、ここにある。

地元の人と話をしても、観光業に従事している人々は生活必需品用に月に10CUCを政府から支給されるというが、全く足りないと聞く。金持ちもいれば、そうでない人もいる。車や家がある人もいれば、そうでない人もいて、それはどこの国でも同じだとつぶやく人もいる。

トリニダーの平均月収は200~300MNだといい、政府に満足をしていない人も多いと教えてくれた人もいて、そして一様に、そうつぶやいていることを政府に知られるのを恐れている様子であった。

わたしたちは夕食後にラン・カンチャンチャラという、サトウキビの蒸留酒であるアグラルデンテにレモン、蜂蜜、水を加えて氷を入れたカクテルを飲みに店に行く。24時間営業と看板が書かれたその店は昼間は混雑していたようであるが、23時を過ぎてわたしたちが訪ねたときには既に他に客はいなかった。

政治的見解は人によってさまざまであるが、経済的に厳しいと感じている人が多く、今年の市場経済の部分導入に関わる法改正がキューバを変えていくだろうということは確かなのである。