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Guatemala

グアテマラにおける田園風景と温泉と日本料理 – Quetzaltenango / Zunil / Aguas Amargas, Guatemala

今日はBAKE SHOPで買っておいたグラノーラとミルクを頂いた後、タカさんが、鄙びていて好きだと教えてくれた、アグアス・アマルカスという温泉に行くことにする。ただ、アグアス・アマルカス、土砂崩れの影響で営業を停止していて1か月前から営業再開をしたとか、しないとか、タカさんが3社の旅行会社に問い合わせをしてくれたものの、どうにも真実は分からないままだ。

とにもかくにも、わたしたちはアグアス・アマルカス行きのバスが出ているスニルという村まで、まずはバスで向かう。温泉街であるロス・バーニョスを通り、バスが走ること、30分程。アグアス・アマルカスに到着して、街の中心であるカテドラルを目指す。ちょうど集会が行われており、色鮮やかな民族衣装を着た人々が列を成している。

そこでは、とうもろこしの粉を練り牛肉をのせて葉で包んだタマルと、大きな壺に入った「コーヒー」だという甘い紅茶のような味のドリンクを配っていて、わたしたちも有り難くいただくことにする。

スニルで行き交う人々はみな口をそろえて、「アグアス・アマルカスは今開いていないよ。」と言う。でも、とりあえず、行ってみることにする。マサテナンゴ行きのバスに乗り、グアテマラ唯一で日本が造ったという短いトンネルをくぐり、アグアス・アマルカスの最寄りの場所で降ろしてもらう。

そこから順調にいけば、50分程で温泉に着くはずだ。温泉までの道のりには、山々の間に田畑がおだやかに広がっている。
キャベツや玉葱、とうもろこし、菊などが植えられ、ビニールハウスやスプリンクラーもところどころに見られ、鮮やかな民族衣装を着た女性が水をまいている。大きな石を削っている人々がいて、石がいくつも積まれているところがある。Jose Poz Chayと書かれた小さな十字架やカラフルなお墓もある。

村の車の大半を占めているだろうTOYOTAのHilux車が、荷台に人を乗せて砂埃をまきあげながら、砂利道を走っていく。

途中に川が流れており、橋の部分がそのまま崩れ、道がぷつりと分断されていた。やはり、アグアス・アマルカスは土砂崩れの中に埋もれたままなのかと半ば諦め、近くの民家に尋ねてみると、小さい風呂は、ある、と言う。「橋が崩れているのはずっと前からだよ。アグアス・アマルカスは、小さな風呂だったら、やってるよ。川にぶつかったら、それを右に行くと別の橋が見つかるから、大丈夫。」と地図を描いてみせる。

いよいよ川にぶつかって、教えてもらった右側を見てみると、道らしき道がなにもない。左側には人が通ったような砂道が見えたものだから、川岸に沿ったその砂道を左に進むことにする。なんとか川を渡れそうな場所で石をぽんぽんと飛び渡ると、向こう岸にたどり着いた。

LOURDESホテルと書かれた廃墟の近くで牛がもーもーとなき、そのまま道なりに進んでいくと、Aguas Amargasと書かれた看板が無残にも斜めに草に埋もれ、入口のゲートにも最後の2文字「as」しか残されていない状況だった。ゲートをくぐり、中に入るものの、アスファルトの道は崩れ、砂利と化しており、また川の石をぴょんぴょんと飛び越える。

現地の人々が道端に座りこんでお昼を食べている傍を通ると、公共の温泉だという小さな小さな水汲み場が見つかった。温泉プールや個室風呂もあったとタカさんから聞いてきたが、それは廃墟のままであり、ただ、地元の人々がお湯を汲みに来たり、ときに身体をあたためるための水汲み場だけが、無事に残されている、といった具合である。

脚を浸す。遠くのほうに、山々が見え、お湯は熱くて心地よい。地元の人々がお湯を汲みに来て、言葉を交わす。「レモンの味がするんだよ」と教えてもらったとおり、お湯は、ほんのりとレモンの味がした。

スニルまでは乗合荷台トラックに乗って戻る。色鮮やかな衣装を作る織り機を見せてもらった後、カトリックと土着宗教が融合した密教というサン・シモンの家を訪ねることにする。

サン・シモンさんは、ぴしりとスーツを着てサングラスをかけ、黒いハットをかぶり、口を黒いマスクで覆い、手には黒い手袋をはめ、ピンク色のひざ掛けをして、椅子にどしりと座っている。毎年スニル村の家々を点々と回るのだという。彼の口にはラム酒がふるまわれ、その受け皿としてのおけも足元に置かれている。サン・シモンさんの前には花や、それぞれ意味を持つさまざまな色のキャンドル、砂糖が置かれ、家の裏では火に向かって祈りが捧げられていた。

帰り際にホセ、マリア像が置かれた家も拝見する。

スニルからケツァルテナンゴまで、バスに乗り込んだもののふいに途中で降ろされ、再び乗合荷台トラックをつかまえて乗り込んで帰ることになる。

ケツァルテナンゴのカテドラルは新旧二つの教会が合体したような形になっている。その前の中央公園ではライブや鼓笛隊のパレードが行われ、クリスマスツリーも飾られている。

夜ご飯は宿でいただくことにする。茄子の味噌煮込みとじゃがいものスープにほうれん草、ご飯。茄子は、こちらではなかなか売れずに残っていることが多いのだという。醤油もみりんも出汁も、値段は高いがグアテマラでも手に入るらしい。

田園風景と温泉と日本料理の一日だ。

かちんこちんのグアテマラ。 - Guatemala City / Quetzaltenango, Guatemala

グアテマラ・シティ及びバスターミナルは、グアテマラに長く住んでいる人々やグアテマラ国民をもってしても治安が悪いと言わしめる、悪名高き場所である。

そんなものだから、そのまま温泉のあるケツァルテナンゴに向かうことにする。悪名高き場所を目の前にわたしたちの動きはかちんこちんとなるものの、ターミナルで出会ったのは、優しくケツァルテナンゴ行きがあるバス会社の一つ、Galgos社のターミナルを教えてくれるおじさんであった。歩いてすぐだから、と指さしてくれる。

Galgos社のターミナルにはメキシコ行き国際バスの利用者のためにファーストクラス用のスペースを設けており、温かなコーヒーとサンドイッチが用意されている。ケツァルテナンゴに向かうわたしたちはもちろんその対象外なのだが、それとは気づかずにちゃっかりとコーヒーとサンドイッチをいただいていた。

隣に座った、グアテマラ・シティで9年間仕事をしているというメキシコ人夫婦に声をかけられた。これから休暇でメキシコに戻るのだという。メキシコ料理が恋しい、と奥さんが言った。旦那さんは言う。「グアテマラはタクシーに気をつけなさい。イエローキャブ、Amarillo社のタクシーを使うと良い。」

Galgos社のケツァルテナンゴ行き始発が8時半だったので、おとなしくターミナルで待つ。バスは定刻3分前、なぜか急いで乗客を乗せ、みなが席についていない内からぶおおおと音を立てて、出発した。急いで勢いよく出発したものの、人も商店も車も、新しい建物も古い建物も溢れる大都会、グアテマラ・シティをところどころで止まり、ゆっくりと走っていく。

途中、時計や雑誌、クリームやトルティーヤを売りに来るおじちゃん、おばちゃんが車内に乗り込んで、各乗客の手にとりあえずその商品を握らせる。そして、不要な人はその後、丁重に返却をしていくのである。

そんな風にして林檎を持ってきたおばちゃんからQ1(1ケツァール)のそれを買おうとしたところ、Q10の紙幣しかないことに気づき、おばちゃんはお釣りがない、と言った。どうしたものかと思っていたら、隣のグアテマラ人家族の男性が、Q1をそっと差し出してくれたのだった。かちんこちんのわたしたちは、こうしてグアテマラ人ご家族に、林檎をごちそうになってしまう。

途中に長い間の不定期な休憩があったり、物売りの人々や乗客を乗せたり降ろしたりしていたものの、なぜかものの見事に予定到着時刻の13時半、2分前に到着した。

バスを降りると、道に通りがかったロナルドさんという米国人に「ぼくはタカハウスの近くに住んでいる。近いから、場所を教えてあげる。」と声をかけられる。

グアテマラでよく見かけるPollolandiaというチェーン店でフライドチキンを買いながら、日本人のタカさんが経営しているという宿、タカハウスに向かう。1998年からグアテマラにいるタカさんは、グアテマラは悪くなることはあっても、良くなることはない、と言った。

お勧めをしてもらった米国人の経営するパン屋、BAKE SHOPでグラノーラとおやつ用の木苺のパンを買う。おいしいパンがまだ少ない街においしいパン屋さんを作ると、成功するのである。このパン屋も月曜日と金曜日だけのオープンであるが、名が知られているのである。

そして近くのウエウエテカスというレストランで、グアテマラ料理である牛タン(Lengua)とマッシュルームの煮込みを、Galloビールとともに早めの夕食としていただく。牛タンは厚く、とろとろとしていて口の中でとけていく。

夜食にいただいた木苺のパンも、ずっしりとボリュームがあるものの、甘すぎず、もぐもぐと食べてしまうのである。

■BAKE SHOP
18 Avenida 1-40 Zone 3, Quetzaltenango

ティカル遺跡の、ルイス先生講座 – Tikal / Flores, Guatemala

将来結婚をするなら、奥さんとティカル遺跡の日の出を見たい – とメキシコで会った旅人キムさんが言っていたので、日の出を見ようと思っていた。

マヤ最大の神殿都市遺跡であるティカル遺跡の通常営業時間は6時から18時までだが、日の出を見るためには6時前に入らないとならない。昨晩暗闇のキャンプ場を歩いていたわたしたちにルイス・ラミレスさんが声をかけてきた。

ルイスさんから、6時前に遺跡に入るにはガイドをつけなければならない。ぼくは明日ガイドをするので、良かったら一緒にどうですか。ブラジル人の3人が既に一緒に行くことになっています、とお誘いを受ける。お願いを、する。

ルイスさんはUniversidad Rural de Guatemalaで環境エンジニアリングを学びながら、フランス語、ドイツ語、英語を教える先生でもある。そんなルイス先生と、朝の4時に待ち合わせをした。

4時。外は大雨が降っている。日の出を見るのは無理だろう。ルイス先生が寝ている蚊帳のはられたハンモックでも、先生が起きている気配がない。諦めかけた4時半頃、ルイス先生が突如わたしたちのテントへやって来て、朝に雨が降っているのは普通のこと。日の出は必ず見られる、と断言した。

わたしたちはブラジル人3人と、雨の降り続ける暗闇のティカル遺跡をルイス先生の引率にしたがって、ジャングルの中に入っていく。

コンプレッホと呼ばれる4つの建物が一組になっているプラットフォームで、ルイス先生の熱心にこやかマヤ講座を受けながら、ジャングルの中を懐中電灯と月の明かりを頼りに進んでいると、ルイス先生の言ったとおりに雨がやみ、そして、辺りが明るくなっていった。

こうして、キムさん絶賛日の出は、天候というより、ルイス先生の熱心にこやかマヤ講義によって、あえなく見逃すこととなった。

それでも、コロンブス以前のアメリカ大陸では最も高い建築物であったⅣ号神殿にのぼると、ジャングルの中にうもれた遺跡が霧に包まれているのを見渡すことができる。そして次第に霧がうすれ、Ⅰ号、Ⅱ号、Ⅲ号神殿がぼんやりと浮かび上がってくるのである。オオハシやオウムがビービービービーと鳴いている。

ジャングルの中にある遺跡、とティカル遺跡が説明されるが、ティカルが大都市であった当時はジャングルはなかった。ジャングルは、まだ若いんだよとルイス先生は言う。

先生は、博学であった。マヤ語の分類や分布について、マヤ語と日本語には複数形や冠詞の用いられ方に共通する点があるということについて、マヤ文字である象形文字を書きながら説明をしてくれる。モパン川の「モ」は鳥を意味し、パンは「山」を意味するという。

ハナグマの群れが現れた。プクプクと音を立てながら、食べることに熱中しているが、相当に凶暴らしく、しっぽが切れているものや、ひっかき傷を負っているものも多い。喧嘩をしているハナグマもいる。

「しろありを食べます」。ルイス先生はそう言う。途中、ギーという大きな叫び声が聞こえ、一匹のハナグマが疾走していった。「へびに噛まれたのかもしれません。」ルイス先生が付け加える。

Old Spiceという名の香り高い葉をちぎって、頭痛や虫さされに効果的であることを教えてくれる。

続けて、ルイス先生は、教えてくれる。端がこうもりに噛まれたヤシの葉を拾い上げ、こうもりが「テント・ビルダー」と呼ばれていること。こうもりがヤシを使って家を作る様子をマヤの人々が見て、その曲線を真似てマヤ・アーチを作り出したこと。

Breadnutという木にTree Earと呼ばれるキノコがはえていること。マヤの人々は赤い石を水銀として加工していたこと。石を採掘した後は、その穴を貯水池や貯蓄所、お手洗いなどとして利用していたこと。

加えて、参考文献を教えてくれた。
*”Breaking the Mayan Code” by Michael D. Coe
*”The Mexican Dream: Or, The Interrupted Thought of Amerindian Civilizations” by J. M. G. Le Clezio

そして言う。「Nature does everything. You just have to find it.」

約16平方キロメートルに80のプラザ、3000もの建築物がある巨大なティカル遺跡を見て回り、Comedor Tikalで、焼いた鶏に玉葱をのせたものにライスとフライドポテトを合わせたものを食べてから、最寄りの街、フローレスへ向かう。

16時に発つバスが見つかったので、それに乗り込む。

フローレスはペテン・イツァ湖に浮かぶフローレス島を中心とした町である。グアテマラ・シティに向かう夜行バスが、23時に出るので、それまで夕食を食べにいくことにする。

既に日が暮れたバスターミナルからトゥクトゥクに乗って、湖に向かう。暗い湖の向こうに橙色の灯りがぽつりぽつりと見え、ほとりにはおしゃれなレストランが並んでいる。

わたしたちはその内の一軒、San Telmo Bar & Restaurantに入り、「Crazy Brritos Chapin」という名の野菜と牛肉にのブリトーをオーダーする。飲み物はGalloビールと、Dorada Draft。店の奥では誕生日会が行われているのか、ノリノリ音楽に合わせてキャーキャー、ホイホイと大賑わいである。

トゥクトゥクは20時までしか走っていないので、食事を終えたらタクシーでターミナルに向かう。

グアテマラでは、治安上の問題から、バスはプルマンと呼ばれる1等車を使ったほうが良い。ルイス先生も普段使いしているというプルマン、Rapidos Del Surバスは、内装がシック、かつご丁寧に極度に車内を冷やして、グアテマラ・シティへと向かうのである。

国境からティカル遺跡までの道。 Border / Puente Ixlu / Tikal, Guatemala

ベリーズ国境の建物を抜けると、歩いてすぐのところにグアテマラの出入国管理局の建物がある。両替屋男性が、こぞって道案内をしてくれる。

今日はグアテマラの国境からティカル遺跡まで行って、キャンプをしたい。国境から直接ティカルまで行けるバスは、ない。だからフローレス行きのバスに乗り、Puente Ixlu (El Cruce)という分岐点で途中下車をして、後は自力で行くしかない。

フローレスへは、国境からほど近いMelchor de Mencosの市場から出るバスが多いものの、ちょうど国境からフローレス行きのバスが出るということで、それに乗せてもらうことにする。

国境近くに並ぶ商店で買ったジャムパンを食べながら、バスが走ること1時間半、Puente Ixluに到着する。グアテマラは近頃危ないと、いろいろな具体的被害状況とともに聞いていたものの、雨の降るその場所はいたってのどかで、今晩のキャンプのための食材を買いに売店に入る。

赤過ぎるほどに赤いパンがあったり、黄色と赤色のはではでしい線のひかれたパンがあって、その色が何かを尋ねると、店のおばちゃんも分からないようで、照れたように肩をすくめて、ふふふと笑った。店の前にはおばちゃんの他に子どももお兄さんお姉さんもいて、雑談をしている。わたしたちが店を出るとき、大きく手を振り続けていた。

わたしたちはヒッチハイクをする。最初に乗せてくれた男性がペテン・イツァ湖のほとりのEl Remoteまで行くというので連れて行ってくれた。そこからまたヒッチハイクを試みて、今度はティカル遺跡に一泊するというグアテマラ、ウエウエテナンゴ出身の家族の車をつかまえることができたのだった。

家族がティカルで一泊するだけの食材がたっぷりと積まれた荷台に乗せてもらって、道をぐんぐんと猛スピードで進んでいき、後方に夕陽を眺めながら、ティカル公園のゲートを越えて、さらに奥へと進んでいく。道には「PRECAUTION ANIMAL CROSSING」の標識がところどころに置かれている。

日がちょうど沈むころ、家族と荷台にわたしたちを乗せたトヨタ車はティカル遺跡の入口へと到着する。

ティカル遺跡のキャンプ場にテントを張り、先ほど商店で買ってきたLA SIRENAというイワシのトマト缶と、Ducalというフリホーレスのペースト、Perryというハム、甘いパンに、ティカルの店に置いてあるGalloビールを合わせて夕食にすることにする。

外は雨が降りしきり、さきほどキャンプ場のおじちゃんがつけてくれた火も消えてしまった。さきほど点々と明かりをつけていた蛍も、どこかに消えてしまった。ただここには、藁ぶきの屋根がついていて、テントが濡れずに済む。

思いのほか、他にキャンプをしている人は5人もいない程度で、外はまっくら、静かなティカル遺跡の夜である。

ベリーズからティカル遺跡への行き方

ベリーズ―グアテマラ間の国境を越えた後、ティカル遺跡へ行く方法です。
※ツアーやシャトルバスを使わない場合。

1.国境からフローレス行きのバスが出ているので、乗る。
  →国境からティカル行きのバスは、ほとんど無いようです。
   運転手・車掌にティカルへ行く旨を伝えると、
   RUENTE IXLUで降りるように言われます。
2.RUENTE IXLUで降りる。
  ※私たちの場合は、Q50.00でした。
3.ここから、考えられる方法は、下記↓
①ティカル遺跡行きのバスが通れば、停まってもらい、乗車
(ティカルへ行くバスは、ほぼ全て午前中に通るので、午後は厳しいと思います。)
②ヒッチハイク
③RUENTE IXLUからティカルの間の街、EL REMATEからコレクティーボが出ている
 (最終14時)ので、EL REMATEまでTAXI又はヒッチハイクで行って、コレクティーボに乗る。
(午後は、ティカル方面へ行く車が少ないので、ヒッチハイクができる可能性は低くなります。)