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Ecuador

キトを眺めて、歩く。 – Quito, Ecuador

キトのいくつもの場所から、パネシージョの丘の上にたつマリア像を見ることができる。

今日は、そのパネシージョの丘の上に向かうことにする。人通りも少なく、強盗が出ることもあると聞いていたので、タクシーに乗って向かう。土曜日夜にはあれほど賑わっていたRonda通りも昼は静かなものだ。

高くそびえたつマリア像の足元まで上ることもできる。露天でカップケーキを買って、マリア像の足元まで階段をあがっていく。内部では、マリア像に手や頭部を足していった当時の白黒写真などが展示されている。

そこからは、キトの町を見渡すことができる。サン・フランシスコ広場やサント・ドミンゴ広場、高くそびえるBasilica教会にまっすぐと伸びる道。淡い黄色やオレンジ、青色の、四角い家が立ち並び、同じ色の家々は、寄せ合うように集まっている地域もある。比較的観光スポットの多い北側だけでなく、南側にもずうっと家々が広がっている。中には昨日見たような新興住宅地もある。

丘の上では羊もいれば、花を摘む女性もいる。今朝は曇っていて、火山の山々をみることは叶わなかったが、晴れていれば5,790mのCayambe山や5,897mのCotopaxi山を望むことができる。

丘まで送ってもらったタクシーの運転手は、かつてはこのあたりの治安も悪かったが、今は歩いて市内と行き来しても問題ないと言う。昨日Museo Solar Inti-Nanで知り合った米国人男性とも偶然再会し、彼もまた歩いてここへ来たというので、帰りは気をつけながら、歩いて丘を下ることにする。

町へ向かう階段をそそくさと下がっていく。途中、階段を新しくする工事が行われ、何人もの男性が黄色のヘルメットをかぶって埃まみれになりながら作業をしている。

「この辺りは危ないから気をつけていきなさいね。」

お礼を言って、またそそくさと階段を下る。裕福とはいえない家々が立ち並ぶが、途中には学校もあり、子どもたちが遊びまわり、家の台所では女性が料理をしていて、共同洗濯所では人々が服を洗い、服を背中の籠に入れて担いでいく。

通りすがりのまだ小学生であろう男の子が階段を上がっていく途中、わたしたちに「この辺りは強盗も出るから気をつけてね。」と声をかけていく。

アドバイスに従って、気をつけながら、てくてくと階段を下がること20分、警察も町のあちらこちらにいる平地に戻ってきた。町は明るく、制服を着た女の子や男の子が友だちと楽しげに歩いて行く。

昼食は、Mejia通りにあるレストラン、Frutas Picadasでチョクロ・コン・ケソを食べる。ごろりとしたじゃがいもとアボガドの入った、チーズがたっぷりのスープである。ファーストフード風の店内では、商談をしているのか、スーツを着た男性が6人ほどテーブルについている。

グランデ広場のカテドラル横にあるEl Sagrario教会を拝見する。17世紀に建てられた教会は祭壇に金、内装に鮮やかな水色の装飾をあしらっている。

そこから近い、7トンもの金を使ってメッキし、1605年から163年もの年月をかけて建てられたLa Compania de Jesusを訪ねる。祭壇から天井、後部に至るまで細緻な装飾のほどこされた金の壁面は、内部に入ると、そのずっしりとした金の重さを感じる。更に後方には1,104ものパイプからなるオルガンが備えつけられている。

そこからグランデ広場に行き、エクアドルを独立へと導いたという英雄ホセ・スクレ将軍の家を見て回る。休憩をしに1858年創業の有名店、Heladeria San Agustinに入り、アイスクリームをつまむ。落ち着いた店内で売られる伝統あるその味は、シンプルな味でしゃりしゃりとしている。そこで隣のアイスクリーム屋に入り、チョコチップといったやや凝ったつくりのアイスクリームも食べてみる。

道ばたの露天で売られていたチョコクッキーを買ってかじりながら、キト散歩を続けることにする。

扉の閉じられたサン・オーグスティン教会の前を通って坂を下ったところにテアトロ広場があり、そこではライブが行われている。

広場に面したスクレ劇場では”Ecuador tiene talento”と題したオーディションが行われていて、3人の審査員がスーツや背中の開いたドレスを着て座っている。3歳から42歳がギターやバイオリン、チェロやドラム、ピアニカなどを演奏する。それぞれの親も観客席に座っていて、中には民族衣装を着た親もいる。ばらばらの、でも必死の演奏を、それぞれの家族がじっと聴いている。演奏が終われば、大きな歓声があがる。

更に北へ進んだところで旧市街が新市街へと切り替わる、その合間にサン・ブラス教会がある。18時半、徐々に空が暗くなり街の灯がつき始めるころ、人々はその教会に集まっていく。

そこから坂を上がったところに、街かどからも度々見え、パネシージョの丘の上からもひときわ目立って見えたBasilica教会に向かう。12時25分と10時45分という二つの異なる時間をさした時計台の上には、半分になった月が浮かんでいる。

高台に位置するBasilica教会から一度坂を下がって、またパネシージョの丘に向かって上がっていくGarcia Moreno通りを歩いていく。石畳の小道には橙色の灯が点々とつき、教会は白くライトアップされている。一度坂を下がりきったところからまた上がった先にあるパネシージョの丘の上で、マリア像は光を放っている。

La Compania de Jesusの前で緑やピンク、青や黄色といった色鮮やかな民族衣装を着た女性たちがろうそくを持って円を描き、その周りにぴしりとスーツを着てマフラーを巻いた男性や、着飾ったドレスを着た女性がいる。

女性たちが一列を成してサン・フランシスコ広場へと歩いていくうちに、子どもたちも衣装を着てろうそくを持って列をつくり、加えて、羽を頭に乗せて網で顔を隠し鮮やかな布を前後にはりつけた人々や、紫色の布に目だけを出してとんがり帽子を被った人々、茶色の修道女ふうの女性たちが続いて歩き、音楽に合わせて踊り出す。

どうやらJacchiguaという国立バレー団300名が、Museo Ciudadでショーを行う前置きに、セマナ・サンタ(聖週間)を模して町を練り歩いていたのだという。スーツやドレスを着ていた人々は、キト市から招待された人々だったという。

ちょうど近くにRonda通りがあったので、夕食をとることにする。レストラン、Las Autenticas Empanadas de morochoに入り、専門メニューであるEmpanada de morochoとPilsenerビールをオーダーする。

Empanada de morochoとは、ひき肉、お米やみどり豆、セロリにコリアンダー、バジルやにんにくを、とうもろこしでつくった皮で包んで揚げたもので、ぴりりと辛いクリームソースをつけていただく。さくっとした皮に中はほくほくとしていて、ビールとよく合う。Ronda通りがキトに出現して約4年、この店は既にに開業3年目だという。

それから、数軒隣のレストランで小麦粉でできた揚げパンにチーズの入れて砂糖をふった、巨大Empanada con quesoをオーダーする。すっかりと冷えているので、ドリンクに温かな木いちごのCanelazoをいただくことにする。

昼間に静かだったRonda通りは平日は夜まで静かなままであった。

ふたつの赤道 - Mitad del Mundo / Quito, Ecuador

オタバロからキトに来るバスの中で、赤道を通ってきていた。そこには、キトの北22kmに位置するオフィシャル赤道モニュメントと、少しずれたホントウの赤道があるというので、訪ねてみることにする。赤道という名のイメージに反して、この辺りは標高が高く、朝晩は特に冷え込んでいる。

屋台からバナナ・チップを買ってサント・ドミンゴ駅からトロリーバスに乗り、それをつまみながら乗り換え駅であるEstacion La “Y”に向かう。

メトロバスのLa “Y”駅に乗り換える道の途中、La Estacion de los Motesというレストラン前で男性たちがつまんでいたMote con fritadaがなにやらおいしそうなのでのぞき込むと、男性たちもおいしいから食べなさいというので、倣ってそれをいただくことにする。

このMote con fritadaとは、Moteという白くて大きいコーン、Chocloというとうもろこし、ローストされたとうもろこし、そしてアボガド、バナナフライ(maduro)、豚肉揚げにたまねぎ、じゃがいもが白い容器にボリュームたっぷりに盛られ、それにチリソースをかけていただくのである。

La “Y”駅からバスに乗って30分ほどでEstacion Ofelia駅に到着し、再び赤道行きバスバスに乗り換える。霧のかかった山々が連なり、そして数多くの新興住宅地が同じ形をして並んでいる中を走ること約30分で赤道モニュメントに到着する。

1979年から1982年にかけて作られた高さ30m、上に直径4.5mの球が乗っかったこのたいそう立派な赤道のモニュメント、どうやら後にGPSで計測したらホントウの赤道と240mずれていたのだという。

立派なオフィシャル赤道モニュメントは、東から西へとまっすぐな線が引かれ、看板には「緯度:0°-0′ -0”」とある。そして観光客はその線にまたいで立ち、手を広げてみせたりする。周辺には立派な銅像がいくつも置かれ、アルパカも数頭放たれている。

モニュメントの脇の砂利道を歩いて入るホントウの赤道には、およそこのモニュメントには及ばない、サボテンやらが植わっている手作り感あふれるMuseo Solar Inti-Nanがある。看板には「緯度:”GPS”で計測された00°-00′ -00”」とある。この博物館というよりは施設が、赤道の他にも興味深いものをみせてくれるのであった。

まずはアマゾン地域周辺でも行われていた首狩りと収縮頭(Tzantza)についての展示である。戦利品として、また宗教儀式用として、そしてまた武器などとの取引上に使用されていた首狩りが、色鮮やかな絵画付きで説明されるのである。

切り取った頭から骸骨だけを抜き出し、煮込んで乾燥させ、こぶしサイズへと縮ませるのである。12歳だったという男の子やナマケモノの小さくなった頭が展示されている。ガイドの女性が、木の箱に入れられた、シャーマンだったという男性の頭を持ち出し、これは特別です、大切にしなければ村の人々に殺されてしまうんです、と冗談めかして言う。

1875年に建てられたという泥と藁でできた家には、かつて使用されていた土器などが置かれ、隅にはモルモットが数匹飼われている。墓の展示もしてあり、旦那が亡くなると奥さんは生き埋めにされたのだそうだ。そして今も裸で暮らしている部族の中で外界との接触があるというWuaorani族の説明もなされる。

赤道には赤い線が引かれ、いくつかの実験道具が置かれている。水の栓を抜けば、そのまま渦をまくことなく下に流れていく実験、卵の黄身が真下にくるので釘の上に立てやすくなる実験、人差し指と親指をとじた手を他人が開きやすくなる実験、手を組んで上向きに押し上げるのを他人が下向きに抑えやすくなる実験などが用意されている。

再びバスに乗り、Estacion Ofelia駅、La “Y”駅経由で市内へと戻る。

キトで夜に外食となると、新市街かRonda通り位しかレストランが開いていないものだから、キトに数店舗あるスーパーマーケット、TIAの閉店間際に入り込み、トマトとアボガド、チーズに合わせてペンネを買い、チーズペンネとサラダを作る。飲み物はあっさりとしたClubビールにする。

夜中をとうに過ぎても、教会からたびたび鐘のなる音が聞こえてくる。

ひっそりと賑やかなキト – Quito, Ecuador

朝のキトは晴れていて、日曜昼の旧市街は多くの人々で賑わい、教会ではミサが行われている。

旧市街にある宿からほど近いサン・フランシスコ広場では集まる人々の頭上を鳥が飛んでいく。サン・フランシスコ教会は、スペインによる征服後まもない1530年代から70年ほどかけて建てられた教会で、中はきらびやかに装飾され、数々の像が祭壇に置かれている。茶色い服装をした聖職者たちが教会の周りを歩いている。

そこから1ブロック歩いた角にはメルセー教会があり、真っ白な塔には、イギリス製の時計がそなえつけられ、内部はまた金箔塗りの木彫刻に、天井はオレンジと白の装飾がほどこされている。

そこからグランデ広場を抜けて、Plaza del teatro駅に行き、トロリーバスに乗る。

キトは世界遺産登録第一号の町であり、旧市街と新市街に分かれている。それを貫くようにトロリーバスやメトロバス、エコビアバスなどが走っている。切符を窓口で買い、改札口を通って、駅に入る、さながら電車のようである。

だいたいにおいて大層混んでいるトロリーバスはこの日も例外ではなく、ぎゅうぎゅうと多くの人が乗っている。

日曜市の開かれているエル・エヒド公園で降りる。公園では、踊る若者がいて、家族が憩い、子どもたちが遊んでいる。小道に沿って露天が並び、民族衣装や手工芸品が売られている。公園中央に煙をたてている串焼き屋さんから、チョリソとじゃがいも、バナナの刺さった串、ピンチョを買い、少し湿った芝生に座って、ほおばる。串は炭で焼かれていて香ばしい。

公園前には、地元の作家による絵の展示があり、宗教画から風刺画、風景画など様々である。

日本大使館の入ったビルもほど近い。そこからマリスカル・スクレの一角は「短距離でもタクシーに乗るべき」と言われる、なにやら物騒らしい一角があるのだが、そのすぐそばに比較的治安の良い宿やレストランの集まる新市街エリアがある。

途中に先住民族のマーケット「La Marisca」がある。このマーケットは建物内にそれぞれ仕切りがひかれている。山積みにされた洋服や敷き詰められた小物、ドラえもんが描かれた楽器、どの店もオタバロよりも手狭で、商品の山の中で、商売が行われている。

立派なロシア大使館やホステルを通り、いよいよ新市街の中心にたどり着くものの、旧市街の賑やかさと反して、新市街の日曜日の昼間はぴたりと店のシャッターが閉まっている。その中でも営業をしていたカフェ、The Magic Beanに入り、苺と、「木のトマト」という名の果物Tomate de Arbolのミルクシェイクをオーダーする。カフェではサッカーやゴルフの試合が流れ、あたたかな暖炉がたかれ、店内はスペイン語ではなく、英語が聞こえてくる。

店を出る夕暮れ時には周辺の店も開き始め、ようやく活気にあふれてきた。SUBWAYやらバーやレストランがネオンをつけて旅行客でにぎわっている。この辺りで夜も開いている店というのはたいていハンバーガーといったファストフードやバーといった具合になる。日本料理店もあるが、閉まっている。

エクアドル料理がいただけるというレストランMama Clorindaで、Seco de chivoをオーダーする。玉葱とにんにく、こしょうとトマトやハーブ、スパイスで煮込んだエクアドルの山羊肉にライスやアボガドのサラダがそえられている。日曜日は法律上アルコール販売が禁止されているとのことで、ドリンクはお勧めをされた、主にとうもろこしでできたChicha de Morochoをいただく。

キトで夜に営業しているエクアドル料理店となると、外国人観光客がメインターゲットとなる洗練された店に限られる。この店もその通り、ウェイターも早口の英語をしゃべる。ハープの演奏をかなでるおじさんも、そそくさとお小遣いを稼いでひっこんでいく。

夕食を終えて外に出る。ホテルがあちらこちらに見られるエリアを抜けると、途端にひっそりとして人気がなくなる。やや前のめりで最寄りのバス駅であるManuela Canizales駅に行ったもののちょうど最終バスが出てしまうところで、隣のGalo Plaza駅ならまだあると聞いて、再び前のめりで隣駅まで歩いていく。

ぽつりとたたずむGalo Plaza駅にはマフラーを口までもってきている駅員男性が二名がいるのみである。乗り換え駅のSimon Bolivar駅でわたしたちが降りると、がらがらりと駅の出口は閉められた。どうやら最終バスだったようだ。

近くのAlameda駅までアラメダ公園を突き抜け向うも、ここもやはり人がいなくて、しんとしている。それでもそのうちにトロリーバスがやってきたので、宿から最寄りのサント・ドミンゴ駅まで向かう。

昼には人々が集まっていた広場も静まり返り、橙色のライトをつけた家の2階にお決まりのようにキトの旗がかかげられているのみだ。

ちょこんとした口をこちらに向けたモルモット – Otavalo / Quito, Ecuador

オタバロの土曜市は、食料品、衣料品、手工芸品の他、動物マーケットもあり、朝の6時ころからお昼ころまで盛り上がりをみせるようなのである。

まだ夜が明けて間もない6時半ころ、既に宿の前の道にも店を組み立てる人々が集まり始めている。まずはTejar川を渡って1kmほど歩いた丘の上の広場で開かれている、朝の早い動物マーケットを見に行く。

小さな食堂ではすでに軒先で湯気をたて、人々が朝食をとっている。

7時をまわるころに丘の上に到着すると、そこには既に人と動物が大勢集まり、ぶひぶひ、めえめえ、ぐほぐほ、とさまざまな鳴き声が入り乱れていた。

ある女性は、何羽もの鶏の脚を束ねて両手にぶらさげ、ある女性は羊をひき、ある女性は豚をひく。ある男性はアルパカの値段交渉に励み、ある男の子は大人同様の取引をし、ある女の子は手慣れたふうに動物をひいていく。檻の中には、犬も猫も兎もひよこもモルモットもいる。

それぞれの動物の初めの言い値はこんな具合なのだ。

赤ちゃん牛:75ドル
子牛:150~160ドル
牛:250~380ドル

赤ちゃん豚:15ドル
子豚:35~40ドル
大黒豚、大茶豚、大白豚:100~210ドル

子羊:40ドル
羊:60~100ドル
子山羊:40ドル

ひよこ:1.3ドル
鶏:9.5~18ドル

鳩:2ドル
あひる:20ドル

子犬:2~7ドル
大犬:25~30ドル
子猫:2ドル
子うさぎ:25ドル

アルパカ:85ドル
モルモット:5~7ドル

先住民族であるオタバロ族の人々は色鮮やかなブルーの羽織りをはおったり、黒い布を頭に巻いたり、黒髪を三つ編みにしたり、金のネックレスを巻いたりしている。

ある豚は死んでいるかのように地面に寝そべり、ある豚は狂ったように暴れ出し、ある豚は震え、ある数匹の豚は耳を同時にそばだて、ある豚は他の豚に覆いかぶさり、ある豚は高台にある屋台で丸焼けにされて食べられていく。豚それぞれなのである。

広場では動物をつなげる色鮮やかな練り紐も、動物を入れる布袋も売られている。牛や羊などを購入した人々は、地元政府に税金を納めるための手続をしに、丘の上に動物を連れて行く。列に並んだ後、売り手、買い手の名前と購入した動物や種類と値段、次にどこに連れて行くのかなどを申し出る。

ぱらぱらと雨が降ってきたので、屋台に腰かけ、ごろりとしたじゃがいもの入った出汁のきいたチキンスープに、香草の入ったぴりりと辛い赤いソースをぽとりとかけて、揚げパンに砂糖をふりかけた朝食を食べる。動物をみながら、それをいただくのである。

その内にざあざあと本降りになるものの、傘をさしているのは一組だけ、他は、雨も気にならない様子である。市場にはSound of Silenceが流れている。

ポンチョス広場に戻る道にも、多くの露天が並び、衣服や靴、貝や食料用の虫、コカの飴、手工芸品や食料品などが売られている。

オタバロのインフォメーションセンターで働くJosueくんは、現在石油エンジニアリングをキトで学んでおり、卒業後はCoca近くで就職するのだという。メスティソである彼は、洋服を着ている。

ポンチョス広場に面したパイの有名店Shenandoah Pie Shopで、木いちごのパイをオーダーする。さして愛想のない店員が、それでも大きく切り分けられたパイを皿にのせて運んでくる。中には木いちごがたっぷりと入っていて、甘すぎずに素材の味がぎゅっと詰まっている。ぱくりぱくりとたいらげてしまう。

ボリバール広場に面したサンルイス教会や、そばの24 de Mayo市場、サンフランシスコ教会を見て回る。

道端で、コーンにふんわりとしたメレンゲをのっけて、アイスクリームのように見立てているものが所々で売られている。木いちご、ココナッツ、マンゴーなどある味の中から、木いちごとココナッツを選ぶものの、そもそもが甘い甘いメレンゲなので、二つの味に違いはほとんど、ない。

台車に山積みになって売られていたGuabasというフルーツも買ってみる。細くて太い緑の皮は固く、割いてみると、中にはふわふわと白い毛のついた粒がならんでいる。さながら、うさぎのようだ。

おそるおそる口の放り込んでみると、ふわりと毛の触感がして、ぞわりとするものの、中にはココナッツのような実があり、その中には大きくつるりとした種が入っている。

オタバロで泊っている宿のTAMIA TAKIという名はケチュア語で「雨踊り」を意味するのだという。そこで働いているパトリシオくんは、大学でコンピューターサイエンスを勉強中だという。この辺りの平均月収は300ドルでとても低いのだと、それでもさほど大変ではなさそうに、言った。

宿から荷物を取り、エクアドルの首都キトへと向かう16時ころには、多くの露天が店をたたみはじめていた。ターミナルに着くと、キト、キトと大声をかける男性がいて、さあさあとバスの方へと誘導される。

キトへ向かうバスは、大きな山々の連なる道を駆け抜けていく。山の上の平らな部分には家々が整列して並び、ゆるやかな丘には木が直線上に植えられ、山肌のみえる谷には霧がかかっている。

18時半ころにバスは新しいCarcelenバスターミナルに到着し、そのまま誘導されたバスに乗り換えてEstacion La “Y”にたどり着き、そこからトロリーバスに乗り換えて町の中心へと向かう。バスに乗るたびに運転手やチケット売りの女性に尋ね、あちらだこちらだと親切に教えてもらうのである。

宿をとった旧市街は、夜になると一律にそのシャッターを閉じて、ひっそりとしている。開いているレストランがあるか尋ねたところ、Rondaという通りでは、夜もレストランが開いているという。

雨の降る中訪ねてみると、確かに石のゲートをくぐると途端に音楽のなり響くレストランが軒を並べ、灯のともった一本の石畳の通りに、多くの人が集まっている。

レストラン、Lena Quitenaに入り、勧められたモルモットの炭火焼をオーダーする。頭をとられてこんがり焼かれたモルモットには、ピーナツソースのかかったじゃがいもに、アボガド、トマトとレタスのサラダがそえられている。

こちらは今朝市場で見たモルモットがちらりと頭によぎるのを消し去るのに必死だ。ちょこんとした口をこちらに向けて、首のうしろをむぎゅりと捕まれて連れられていった。皮はもっちりとしていて、肉はやわらかく、まるで良質のチキンだ。骨は細くて、繊細なのである。

標高2850mの雨降るキトは肌寒く、宿に戻る道すがら、Canaのブランデーをほんの少しとシナモンの入ったナランヒージャのCanelazoというお酒をいただいて身体を温める。

Avenida 24 de Mayoでは、黒のスカートに色鮮やかな布を身体に巻いた女性と毛の長いパンツをはき、ストライプ模様の布を上半身にかけた男性によるフォルクローレのダンスや、白いドレスに青や緑、赤といった布を腰に巻いた女性によるボンバ・ダンスが披露され、はだしで踊っている女性もいる。

丘に灯る家々の灯りが霧にぼんやりと浮かんでいる。夜12時を過ぎても辺りは音楽が鳴り響いていた。

エクアドル入国と、オタバロに住む人々 – Tulcan / Otavalo, Ecuador

コロンビアとエクアドルを隔てる、車が列を成している橋を渡る。細い川は茶色く濁り、緑におおわれ、白やピンク色の家が脇にたっている。

「ようこそエクアドルへ」と書かれた看板をくぐり、そばのイミグレーションオフィスに向かう。裏の山では、牛が草を食んでいる。

入国に時間がかかることもあると聞いていた入国審査では、警察と書かれた蛍光の黄色いジャケットをはおった男性に、エクアドルは初めてですか、と聞かれただけでスムーズに終了する。

イミグレーションオフィスのすぐそばに数台のバンが停まっていて、国内各地に向かうバスのターミナルがあるTulcanへと向かう。ぶつぶつと何かをつぶやいているおじさん運転手に誘われて、バンに乗り込む。次々と人が乗り込みバンが満席になるころ、ふわふわと白い鶏のような動物が、網に入れられて置かれた。犬だった。

運転手は、地元の若者にも、各国の乗客にも、ふと笑われてしまう、愛嬌のあるおじさんだった。ぶっきらぼうに運転するおじさんは、乗客のザックを後ろの地面にひっかけたまま三菱のバンを吹かして前進させようとする。そして、さして用もないのに、掌を広げてクラクションをバンバンと勢いよくふりたたく。やがてぶつぶつと何かをつぶやいたかと思えば、にんまりと笑ってみせる。

国境を越えてからは、ひなびたホテルが一軒あるのみで、山々が続いている。明るい緑の芝生のところどころに、深い色をたたえた緑の木々がすっとラインをつくっている。観覧車もある遊園地を通り過ぎ、褐色の制服や緑のジャージを着た学生たちが町を明るく歩いていくのが見える。

おじさん運転手の様子を乗客は興味深く凝視しながら、それでも20分ほどすると、確かにTulcanに到着した。 

バンを降りるとすぐに目的地であるオタバロの名前を挙げる二人が集まる。
「すぐにバスは発車します。」

コロンビアとエクアドルの国境は治安が悪いはずであるにもかかわらず、手続きはこれほどまでにスムーズに進み、バスの乗継ぎは快適甚だしい。

バスのそばで売っていたチーズにはちみつをかけたものを買って乗り込む。チーズはくせのあるコロンビアのものと違って、あっさりとした味だった。それからバスに乗り込んできたコロンビア人の男性から買ったエンパナーダと合わせて食べることにする。

バスの乗客に、前方から紙切れが回され、名前の記入を求められる。進むこと20分、バスが停車し、わたしたちの荷物を確認するから下車するようにエクアドルの軍人から指示を受ける。

その指示に従い、バスを降りて粛々と荷物確認を受けようとしていたところ、わたしたちの大きな荷物を目の前に面倒だと感じたのか、鞄を開けることもなく、もう良いです、ということになった。

ゆるやかな緑の丘に木々がいくつもの線を描き、家はところどころに点在している。パンアメリカン・ハイウェイ沿いに3時間半ほど揺られて辿り着いたオタバロ近くから、別のバスに乗り換えて、町の中心へと向かう。

乗り換えたバスには、途端に先住民族である肌の色の少し濃く、長い髪を後ろで三つ編みにまとめた男性や、首に金色のネックレスを幾重にも巻き、民族衣装を身につけたオタバロ族の人々がちらりほらりと席に座っている。バスはぴょんぴょんと飛びはね、その勢いにすってんころりんと尻もちをつく。乗客たちは一様に、はっとなる。

10分もたたない内に町の中心に到着する。さほど大きくないオタバロの町の電線には、コケの種子がはりついて、それが電線の上で成長をして、もこもことした影をつくっている。

インターネットカフェにも、黒髪を後ろで三つ編みにしてピンク色の布を巻いたオタバロ族の女性がヘッドフォンをつけながらパソコンに向かっている。金色のネックレスを身につけながらも米国国旗のセーターを着た女性がいる。

オタバロは、先住民族であるオタバロ族が集まる土曜市でその名を知られているものの、町は思いのほか新しく、舗装もされている。Wifiバーやレストランも開いていて、若者たちが通りに出て、楽しげにしている。

夕食は、レストランMi Otavalitoで、トルティージャ・デ・パパス、目玉焼き、チョクロにスパイスの効いた豚肉焼き、アボガドにバナナフライ、マリネのついたLlapingachos a la Otavalitoをオーダーする。レストランの従業員は、白いブラウスに刺繍をほどこした民族衣装を身につけている。

ポンチョス広場には屋台が並び、人々が思い思いに食事を楽しんでいる。この町は、4609mのインバブラ山と、4939mのコタカチ山にはさまれた標高2550mの盆地で、相当に冷え込み、吐く息も白いほどである。

そこで1993年創業とい広場に面したうレストラン、Inty-Huasiに入り、ホットチョコレートをオーダーする。身体を温めて23時頃外に出ると、数軒のバー以外は閉まっており、ひっそりとした町になっていた。