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Peru

インカ帝国の首都、クスコ歩き。 – Cuzco, Peru

ペルーの農業物産フェアがサン・フランシスコ広場で開かれていた。キヌアという、アンデス地方原産の穀物を温かく甘いドリンクにして、シナモンをふったものを買って飲む。ティティカカ湖周辺でとれたコーヒーも横に置かれており、少しいただくことにする。

そこから朝食を食べに中央市場へと向かう。サンタ・クララ教会とサン・ペドロ教会の間に位置する市場には、100%ジューススタンドも豚の頭もあれば、パンもチーズも野菜も果物も漢方ドリンクスタンドも土産物屋もある。

数ある食堂の中で、客が2列になって朝から山盛りのライスに目玉焼きやフライドポテトに肉をのせてがつがつと食べている食堂を選び、席につく。

そして、Salchipapasをオーダーする。炒めたソーセージとフライドポテトに、ケチャップとマスタード、そしてマヨネーズをぐるぐるとかけたジャンクフードの王道である。

市場の外で、このあたりでよく売られている平たなパンを買い、それをかじりながら、メルセー教会やカテドラルを訪ねるものの、教会が開いている時間は限られており、開いている時間に再度行くことにして、散歩をしながら昼食をとりにいく。

急な坂をあがりながら、Quintas Eulaliaというレストランに向かう。ここは、1941年創業の老舗レストランで、 外から見るとレストランだと分からないが、中に入ると地元の人たちが食事をしている。

ペルーでもよく食べられているモルモットのフライをいただくことにして、クイ・チャクタードを注文をする。昼夜の気温差の激しいクスコの昼はぽかぽかと暖かい。クスコに大きな工場を持つクスケーニャビールを合わせてオーダーすることにする。

今回のモルモットは、前回と違って頭がついている。モルモットの優しい顔が凶暴な顔へと変わり、尖った歯がむき出しになり、細いひげはそのままに頬につき、小さな耳が二つついている。フライをされたモルモットの身体にわずかに毛が残っている。皮はやはりもっちりとしていて、肉は柔らかく、あばら骨は細く、小さな内臓は固い。

そんなモルモットのフライが、さほど辛くない唐辛子にひき肉やグリーンピース、人参を詰めたロコト・レジェーノやじゃがいもと共に、皿にのっている。

食後は近くの売店でナッツのついたチョコバニラアイス、Dolcettoを買ってほおばりながら、さらに坂や階段をあがったところにあるサン・クリストバル教会へと向かう。

クスコでは、民族衣装を着た女性や子どもが観光客用アルパカやリャマを抱えて日本語で「シャシン、トッテ」と声をかけてくることが多々ある。仕事である。

ここにもそんな人たちがいた。11歳の男の子が「アミーゴ(友だち)」と繰り返しながら、リャマの頭をくるくるとなで、写真を撮らないか、という。月曜日から金曜日までは学校に行き、土曜日はこうして働いているのだという。

サン・クリストバル教会のある丘の上からは、連なる丘に囲まれた茶色の屋根と白い壁のクスコの町を見渡すことができる。アルマス広場はすぐ眼の前にある。

サン・ブラス教会もまた閉まっていたので、また明日訪ねることにして、アトゥンルミヨク通り沿いの「12角の石」やその近くの「14角の石」を見に行くことにする。インカの礎石の中では、こうした角の多い石もまたぴったりと隙間なく隣の石と接している。

明日のプーノまでのバスチケットを購入しに、バスターミナルへと1時間ほど歩く。無事にチケットを買い求め、タクシーで町の中心へと戻るころには各教会が扉を開ける時間になっていた。

メルセー教会、サン・フランシスコ教会、サン・ペドロ教会、訪ねる全ての教会で結婚式が行われていた。誰もが入れる教会で、それでもまとまりのある式が進行していき、式が終わると、車体に花をつけた車が迎えにくる。

明日の食事を市場で買うついでにチョクロ・コン・ケソという、茹でたチョクロ(とうもろこし)にチーズの塊をつけたものを買い求め、つまみながら、サント・ドミンゴ教会に向かう。

ここでも結婚式が行われていた。列席者は、時に両手をかざし、時に祈りをささげ、時に周りの人たちと握手をしあって祝福する。小さな子どもは教会の椅子の下のスペースで自由にぐるぐると遊んでいる。

新郎新婦は、神父の前に揃って着席をしている。そして、時にろうそくを手にし、時に列席者の前でマイクを片手に挨拶をし、スピーチの最後にふふふと笑ってみせた。

米粒がピンクのリボンのかかった袋に入れられて渡され、ライスシャワーとなる。作り物の馬を先頭にのせて馬車風にみたてたものに新郎新婦が乗り、駆け抜けていく。

再び街を歩く。古い神学校兼修道院を改装したモナステリオ・デル・クスコも、17世紀の建物を改装したノボテルホテルも、歴史ある建物をうまく活用したモダンなつくりになっていて、良い。

夕食は宿の近くまで戻り、レストランEl Mordisc’oに入る。牛肉にパスタの入ったスープ、牛肉の煮込みにフライドポテト、目玉焼きにライス、そしてデザートには紫とうもろこしのMazamorraで、ドリンクはチチャ・モラダにする。

はく息が白い。コカ茶で身体を温めようにも、夜はやはり芯から冷え込む。アルマス広場では今日も若者たちがフォルクローレの踊りの練習をしている。そして道端では絵を描く人がいて、人々が集まっている。

マチュピチュの行き方

マチュピチュ村から、マチュピチュへの行き方です。

1.マチュピチュへの入場用チケットを、マチュピチュ村で購入。
(※アルマス広場の近くに窓口があります。オンライン又はクスコでも購入可能です。)
チケットは、
①マチュピチュ入場のみ
②マチュピチュ入場+ワイナピチュ登山→1日400人の入場制限あり
 s/. 152.00
(※ワイナピチュ登山時間が7時と10時に分けられています。)
③マチュピチュ入場+マチュピチュ山登山→入場制限なし。

※前日の夕方、②のワイナピチュ登山つきのチケットを購入しに窓口に
行ったところ、人数がいっぱいになったので、売り切れと言われました。
③のマチュピチュ山を勧められましたが、しばらく窓口前で思案していたところ、
10:00入場の空きが出たので、購入できると言われました。
(※オンラインで予約し、期限内に支払いをしなかった人がいたようです。)
ただ、その日は、窓口のネットの状態が悪いため、自分のコンピュータからオンラインで
購入してほしいと言われました。
アルマス広場に24時間営業のカフェがあり、そこでWI-FIが入るため、そこからオンラインで手続をしました。
ただ、チケットをプリントアウトする必要があるため、窓口にその旨伝えたところ、
プリントアウトはしてくれました。

2.当日、マチュピチュ村からマチュピチュ行きのバスに乗る。
市場の裏の川沿いにバスが数台停まっている。
バスのチケットは、川沿いを少し上ったところで購入。
往復と片道の料金あり。往復 s/. 45.75

マチュピチュを見に行く。 – Machu Picchu / Ollantaytambo / Cuzco, Peru

マチュピチュ遺跡のふもとにある村、マチュピチュ村(アグアス・カリエンテス)から遺跡行きの始発バスが5時半だというので、それに合わせて宿を出る。夜遅くまで賑やかだったPachacutec通りの坂もひっそりとしている。

それでも坂を下って、バス停に着いてみると既に行列ができていた。バスの中で苺のヨーグルトを飲み、パンをかじる。くねりくねりと山を上がるバスに乗っている最中に雨が降り出し、夜が明けたばかりの辺りの山はすっかり霧に包まれている。

約30分ほどでマチュピチュ遺跡の入口に到着すると、またここでも行列ができていた。パスポートを提示して中に入る。

入口から歩いてほどなくすると、早速に「農地管理人住居跡」に行き着く。そこからさらに奥に入ると段々畑が広がり、やがて総面積5km2だというマチュピチュの大きさを知ることになる。段々畑ではかつてとうもろこしやじゃがいも、コカの葉やキヌア、ユカ芋などが栽培されていたのだという。

そこから市街地への入り口、と言われる門を通り、庶民の住居区をみながら、石切り場へと向かう。大きく尖った石がそのままごろりと置かれている。

階段を下り、「17の水汲み場」に向かう。もともとの水路はインカ以前からあったもので、それをインカ帝国は拡充し、徹底的に水を管理し、発展を遂げたのだという。はるかかなたの山の上からくねりくねりと石の溝を通り、水が流れていく。

すぐそばには壁がゆるやかなカーブを描いている「太陽の神殿」、ミイラの安置所だったとされる「陵墓」、隣には2階建ての「王女の宮殿」がある。太陽の神殿の下のほうにあけられた穴は「毒蛇の通路」と言われているそうで、石の中で穴の向きを変えて反対側へと抜けているのだという。

不揃いの石を積み重ねていた庶民の住居区と比べて、神聖な場所、高貴な場所であるこれらの石積みは、ぴしりと石が揃い、隙間がない。

そこから聖職者の居住区を通り、「コンドルの神殿と牢獄」にたどり着く。インカ帝国では、盗まない、怠けない、だまさない(アマスア、アマケア、アマユア)の掟を破ったものには重い刑がくだされた。儀式に使われたというコンドルの石が置かれ、大きな石のそそり立つコンドルの神殿の半地下にある薄暗い牢獄の中には、体罰に使われたという椅子も残っており、ひんやりとしている。

近くの技術者の居住区には、マチュピチュの発見者であるハイラム・ビンガムを連れていた少年が石臼として使用していたという直径60cmほどのまん丸の石があり、さらに奥には3つの入り口の家のある貴族の居住区がある。石でできた家々の跡には窓もあり、先のとがった壁も、でっぱりもそのままに残されている。

雨も止んできたので、段々畑わきの階段をぐっと上がり、高台にある見張り小屋に向かう。

眼下にマチュピチュと、その向こうにワイナピチュの山を眺める。霧が山の下のほうからもくもくと、わきたっては流れていく。ほどなくして霧が晴れ始め、マチュピチュ遺跡の姿が現れた。

裏手には、生贄をロープでつないだともいわれる葬儀の石や、数多くのミイラが見つかった墓地がある。

クッキーをかじったりしながら、いよいよワイナピチュへと登る。晴れたワイナピチュの山肌には、山頂のほうにもまた段々畑があるのが見える。入り口でノートに氏名、年齢、性別、国籍とサイン、入山時間を記載する。戻ってこない人を確認するためなのだという。

急な傾斜を描く標高2690mのワイナピチュは登るのは、やはり急な道を上がっていくのであった。最初に若干下ってからは、ロープなどを頼りに、高さのある段差をひたすらに上へとあがっていく。

1時間ほどで狭い山頂に到着する。上から眺めると、マチュピチュ遺跡が、マチュピチュ山の中腹に位置しているのが分かる。そして遺跡の下は崖となり、下にはウルバンバ川が山に沿って流れている。山の下のほうにまでところどころに段々畑がつらなっているのが見える。

こうしてみてみると、遺跡の多くが段々畑であることが見て取れる。そして山の奥のインティプンクの遺跡のほうへとインカ道が伸びていく。

洞窟などを通りながら、山を下りて、先ほどのノートに、下山時間を記載し、再度サインをする。

マチュピチュの最も高い地点に日時計が置かれているインティワタナや主神殿、3つの窓の神殿、神官の館や神聖な広場を見て、さきほどワイナピチュから見えていたインカ道を歩くことにする。

プライム・ぺルビアン・ミルク・チョコレートを口に放りいれる。クスコは南米で初めてカカオの生産が行われた場所で、ペルー・アンデスのカカオは世界的にも有名だとパッケージに書かれている。

インカ道を歩いていくと徐々にマチュピチュ遺跡が小さくなっていき、石の門(太陽の門)を通り抜け、40分ほどでインティプンクの遺跡に到着する。切り立った山のふもとを流れる濁流のウルバンバ川のほとりには、アグアス・カリエンテスの村が小さく見える。

帰るころには遺跡の閉まる17時ころとなり、人気のないマチュピチュを静かに眺める。
「空中都市」には風が吹いていた。

名残惜しさを感じながらバスに乗ってアグアス・カリエンテスの村へと戻る。宿に鞄を取りに行き、市場で昨日と同じ女性からパンを買い、そのほかにチーズとハムを買い足して、オリャンタイタンボ行き電車に乗り込む。列車ではインカ・コーラに豆のスナックが配られる。

外はすでに暗闇で、途中からぱらぱらと雨が降り始める。がたりごとりと大きな揺れをみせながら、列車は1時間半ほどでオリャンタイタンボの駅へと到着する。はく息が白い。

数いるクスコ行きバスの客引きの内、小学生ほどの男の子に連れられて、バスへと乗り込む。バスの中では少年が歌い、チップを乗客に求める。

2時間ほどバスは走り、ひんやりとしているクスコに到着する。雨は降り続け、地面を濡らしている。心なしか空気が薄い。

あたたかなコカ茶を飲んで、休むことにする。

織る女性たち – Patacancha / Ollantaytambo / Pueblo de Machu Picchu (Aguas Calientes), Peru

今日は、2009年に設立され、ペルーの地方で活動するNGO、AWAMAKIが織物や保健衛生プロジェクトなどを立ち上げているパタカンチャ(Patacancha)村へ行くことにする。

朝の8時ころ、道には野良犬が寝そべっている。市場に立ち寄り、朝食の全粒粉パンを買う。さほど大きくない市場でも、野菜やフルーツ、肉などが一通り売られている。

8時にスタッフの方々たちと合流し、バンに乗り込む。舗装されていない泥道を、1時間ほどパタカンチャの村まで上がっていく。オリャンタイタンボから村までの公共交通手段はなく、1日2回朝と夕方に教師が村へ行くための車両があるだけだという。村には電話が一つあるだけで、その電話も応答されるときとされないときがあるのだという。

山々には、とうもろこしが植えられ、鮮やかな色の民族衣装を着た人々が馬をひき、豚が通り過ぎ、牛が通り過ぎ、羊が通り過ぎる。

牛が道を遮るときもあれば、泥道にバンが立ち往生して幾人かが降りてバンを押すこともある。

いよいよバンは動かなくなり、村の人々が男性も女性もどこからともなく鍬をもって出てきて、水のたまる道に土や石を敷き詰め始める。そしてわたしたちはバンを降りて、パタカンチャの村まで歩くことにする。向こうの山の家の煙突から煙があがっている。

この村では、男性の幾人かと子どもたちはスペイン語を理解できるものの、女性はスペイン語をほとんど話さず、インカの公用語であったケチュア語を話す。

女性はオレンジ色のスカートをはき、色とりどりのボタンなどで装飾された赤い上着を着て、そしてその上にまた鮮やかな色の布をかけている。頭には刺繍がほどこされた帽子をのせて、ビーズの帯をあごにかけている。

AWAMAKI所有の一画に、次々と女性たちが集まってくる。そして織物についての説明がなされる。

以前はアルパカかリャマの毛を使っていたところを、スペインによる征服16世紀以後に羊が入ってきたのだという。アルパカの毛は、羊のそれと比べて柔らかくて温かく、ラノリンを含まないので敏感肌の人にも良いのだそう。

羊の毛で織る場合は、毛を刈り、ラノリンをおとすために一度洗ってから、ph’uskaという道具を用いて紡いで糸にする一方、アルパカやリャマの毛はラノリンを含まないので、紡いで糸にした後、織る前に洗うのみだという。

現在ペルーの地方では、ほとんどが化学物質によって染色された糸を使っており、自然染料を使う知識が失われる危機に面しているのだという。

Awamakiでは、地元の人々に昆虫や植物などといった自然染料を使うワークショップを行い、商品には全て自然の染料が使われている。

イサベラという女性から、伝統的なケチュアの織り方を実際に教えてもらう。

三色の毛糸を選ぶと、木の棒を拾ってきて、身体全体を使って土の地面にぐっと突き刺す。それから指先だけを器用に使って、見事に織っていく。途中から腰に毛糸を巻きつけ、時に身体を動かして糸を緩めたり、ぴんと張ったりしながら、一本一本織りすすめる。

昼食は、特別なときにだけ使うという石のオーブンを使い、伝統的な手法で焼かれた食事をいただく。家の裏手にある土を掘り起こすと、そこには藁が敷かれていて、ライマメが置かれている。さらにその藁をわきによけると、熱々の石が埋められており、その中にじゃがいもやにんじん、アルミホイルに包まれたチキンがごろりごろりと置かれていた。

炭で焼かれたほくほくとしたじゃがいもに、甘いにんじん、旨みのつまったチキンをいただく。ときおり、地元でよく食べられているというチーズソースHuancainaやチリソースをかけてみる。

最後に地元の伝統的なお家へとお邪魔する。

壁は日干し煉瓦アドべに藁と泥を塗ったもので、屋根には藁をかぶせている。
床は土のままで、壁にそって置かれたベンチには、羊の毛でできた敷物がおかれている。片隅にガスがひかれている。木を切ってきて火をおこすことがたいていであるが、雨が降っていたりしてそれがかなわないときは、ガスを使うのだという。

仕切りのビニールの向こう側には、モルモットが数多く飼われている。特別な日に自分たちで食べるためと、食料としてそれを売るためである。

そのそばには、野菜を蓄えておくスペースがある。じゃがいもを蓄えているスペースは、芽がにょきにょきと天井いっぱいにまで生え、スペース一面、芽だらけでじゃがいも自体が見えないほどである。ちょうど今の時期は食糧の貯蓄が少なくなる時期であり、収穫期にはそのスペースは野菜でいっぱいになるという。

ご主人は、政府関連の道路工事の仕事をしている。この地域の男性は、たいてい時間制で働いており、土木業や観光業、まれに商店をもって商いをする人々がいるのだという。そして農業は家族全員で行う。

AWAMAKIが成功した大きな要因について、ボランティアのキリさんはこう言う。
・商品の質にこだわっているので、誰しもが参加できるというわけではない。
・寄付だけに頼らず、自ら利益を生み出す構造を作り出せているため、寄付があった際にはプログラムの向上にそれを活用することができる。
・米国人と地元のプロの連携がうまくいっている。

現在、リマやクスコの他米国でも商品を販売しているのだという。そしてしばらく不具合があって閉じられていたオンライン・ショッピングも近く再開するという。

帰りも行きと同じ道を帰る。再び泥道でバンが停まると、下車をして、後ろから押して進む。道ばたでは大きな織物をしている女性や子どもたちの姿もあり、ロバや馬や豚や牛がときおり通り過ぎる。Marcacochaの遺跡や100段もの畑の連なるPumamarcaの遺跡が窓の外に見える。  

最後は道路工事中で水が道に溜まり、もう少しのところでバンを降りて、オリャンタイタンボの村へと歩いて戻ってくることになる。

村の坂を下がったところにあるペルー・レイルのオリャンタイタンボ駅に行き、マチュピチュ遺跡のふもとにある村、マチュピチュ村(アグアス・カリエンテス)まで電車で向かう。

駅にはとたんに多くの日本人がいて、日本語があちらこちらに聞こえてくる。定刻の15時37分、カンカンという鐘の音とともに列車は走り出した。

駅のそばには段々畑があり、しばらくすると、とうもろこし畑が広がり、またしばらくすると段々畑が見えてくる。線路の横を流れるウルバンバ川は濁流が勢いよく水しぶきをあげている。

今回乗車したビスタ・ドームではハムとチーズのはさまったミニパンと、チョコロールが軽食として配られた。思わず、ビール、Tres Crucesをオーダーする。久しぶりのビールとやや高い標高のせいか、ほろ酔いになり、インカ・コーラで落ち着かせる。

約1時間半ほどでアグアス・カリエンテスの駅に到着する。日本の温泉街にあるような橋を渡り、洒落たレストランやカフェの並ぶPachacutec通りの坂を登ったところにあるHostal&Restaurant Pakarinaに部屋をとる。

マチュピチュ遺跡のチケットは、事前に購入しておく必要があるので、アルマス広場近くのチケットオフィスへと出向く。そこで、マチュピチュ遺跡の横にそびえたつワイナピチュへの入場チケットとセットのものを買おうとすると、1日の入場制限人数400人を超えたので、ワイナピチュは登れません、という。

どうしたものかとしばらく思いあぐねていると、先ほどまで難しい顔をしていたオフィスの男性職員が、「10時入場のチケットに2名分空きが出ました。オフィスでは手配できないのですが、ご自身でオンラインで注文することができます」と言う。

すぐそばのWi-Fiカフェ、Cafe 24に入り、調べてみると、確かに初回の8時は一杯のままだが、10時に3名の空きが出たと表示されている。こうして無事にワイナピチュへのチケットを手にすることができた。

夕食は部屋で、先ほど市場や商店で買ってきたアボガド、トマトとチーズ、すももと酸っぱいスターフルーツをいただくことにする。

聖なる谷を望む遺跡 – Cuzco / Ollantaytambo, Peru

今日はクスコからマチュピチュへのインカ道の途中にあるオリャンタイタンボまで向かうことにする。静かな朝のクスコの町で、パン屋から買った細長いスティックのパンをかじりながら、オリャンタイタンボ行きバスのターミナルへと向かう。

ターミナル付近で集客をしていたバンの運転手がいたので、そのままそのバン、コレクティーボに乗りこむ。運転手の見事な客引きでじきに満席になり出発となる。

コレクティーボは、インカ帝国の重要拠点となった村々や遺跡の残る聖なる谷を走っていく。グアナバナのヨーグルトとバナナチップ、ソフトキャンディーを口に入れながら、窓の外を眺める。

鉄道の駅のあるポロイ、かつてインカ帝国の要塞があったチンチェーロ、クスコ市民にとっての保養地ウルバンバを経由してオリャンタイタンボへと駆け抜ける。

丘に囲まれた道は常にゆるやかで、カブの黄色い花があちらこちらで緑の畑に色を添えている。

運転手さんの高速運転により、1時間半ほどでオリャンタイタンボに到着する。町の中心へ向かう川沿いの道から、オリャンタイタンボの遺跡の段々畑が見えてくる。道沿いにはさぼてんやすすきが並んでいる。

訪ねようと思っていたオリャンタイタンボを主な拠点とするNGO、AWAMAKIのショップがまだ閉まっていたので、まずは遺跡に足を向ける。

オリャンタイタンボは、マンコ・インカがインカ軍を率いて潜み、スペインの征服者たちを撃退した場所であり、インカ帝国時代の要塞とも宿とも言われている。

300段の階段をあがりきると、村を一望できる広場に出る。こうしてみると、村が谷の間に作られていることがよく分かる。

そこには巨大な褐色の石が6個並べられており、幅が全部で10m、高さ4m、奥行き1mもある。中には菱型がいくつもつらなっているように表面が削られている石もあり、これはティティカカ湖畔のティワナク遺跡に見られる模様と同じなのだそう。

この巨大な石をどうやってここまでもってきたのか、今も謎のまま。近くには大きな石がごろりと置かれたままだ。

対岸には、見張り小屋だといわれている建物が見える。

プレ・インカの遺跡から、太陽の神殿、水の神殿、儀式に使われる泉、斜面にたてられた穀物倉庫などを回り、村へと戻る。

AWAMAKIのオフィスが開いていたので、明日の朝、団体が織物プロジェクトを繰り広げているパタカンチャの村へと連れて行ってもらうことにする。

そのためにオリャンタイタンボの駅へ行き、予約をしていた明日のマチュピチュまでの電車、ペルー・レイルの時刻を変更する。座席指定のできないペルー・レイルであっても、列車の変更はスムーズに進み、そのままトゥクトゥクに乗って、村の中心アルマス広場へと戻る。

市場の近くにあるレストラン、Dona Evaで昼食をとる。今日のメニューは、麺や野菜の入ったスープと緑ソースのかかったチキンのシチュー、野菜にじゃがいも、ライスにハーブティーのセットだという。

そのうちに雨が降り出し、村で今も使われているインカ時代の水路に、水が勢いよく流れている。

宿をとったあと、AWAMAKIのインフォメーション・センターに立ち寄る。グーグル社などで働き、その後もアフリカなどを渡り歩いてきた米国人ブライアンをはじめ、オランダ、イギリス、中国など各国の若者がボランティアで来ているのだという。

すっかりと身体が冷えたので、近くのカフェ、Markaqechaに立ち寄り、Te Piteadoをオーダーする。 紅茶に蒸留酒であるピスコと蜂蜜を加えた大きなカップが運ばれてくる。久しぶりに飲むお酒の入ったドリンクは、身体の芯からぽかぽかと温めてくれる。

宿へ戻る途中、夕食をとりにピッツェリアGoyo’sに立ち寄る。このオリャンタイタンボはインカ道の途中の村でもあり、旅行者をターゲットにしたピッツェリアが多いのである。地元の人たちは、外食はまだ高価であり、夕食はほとんど家でとるという。朝食、昼食にきちんと食べ、夜は簡単に済ませる家庭も多いのだそう。

チキンカツにフライドポテト、トマトとライスが皿に盛られたMilaneza Polloを注文する。チキンは柔らかく、フライドポテトはじゃがいもの甘い味がしっかりとしている。

ひんやりとした静かな村の夜で、ぽかりぽかりと温かい。