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South Africa

ヨハネスブルグ豪邸の宿と、レンタカー Johannesburg / Nelspruit, South Africa

今回滞在している宿は、白人、Runelさんの自宅を改造した宿である。開業して、もうすぐ4年になろうとしている。大きな家を持つのは南アフリカでは普通のことなのだと明るい彼女は言った。

家族が独立して家を出ていき、大きな家をもてあまして、宿泊施設として提供するようになったという。壁をいくつか取り払い、家具やベッドを購入して宿をはじめた。

時間が拘束されるから、人好きじゃないとなかなかできないものよ、と言う。宿を始める人はたくさんいるけれど、多くの人が途中でギブアップしてしまうの。夜にお客さんと盛りあがってパーティーをして、でも朝早くに空港に迎えに行かなければならなかったりして、そういうときは大変。だから誰か手伝ってくれる人を探さないといけないと思っているんだけど、意欲のある人を探すのはなかなか大変なの。でも、人が好きだから、仕事はとても楽しい。

そしてRunelさんは続けて言う。でも、もうヨハネスブルグはいい。ヨハネスブルグはアフリカの経済の中心地でお金は集まっているけれど、ヨハネスブルグを好きな人なんて一人もいないの。近いうちにヨハネスブルグの宿は人に任せて、ケープタウンかダーバン近くに引っ越しをしたいと思っている。ケープタウンはもう宿がたくさんあるから、ダーバン近くに引っ越そうかとも考えているところなの。

Runelさんに空港まで車で送ってもらい、空港から出ている10時45分発Citybugのバンに乗り、クルーガー国立公園でサファリをする際の起点となる街、ネルスプリットまで向かう。

パンに苺や桃のジャムを塗り、チーズをつまみながら、バンはトタン屋根のバラックが並ぶスラム街を通り過ぎ、やがて短い草ばかりの生える草原へと変わっていく。

途中休憩のために立ち寄ったALZUのパーキングエリアは、清潔で新しい造りになっていて、ガラスの向こうにはミニサファリまである。お手洗いには、イスラム教のマークを貼った個室も1室あり、おしりを洗うための蛇口が備え付けられている。ガソリンスタンドには牛が積まれたトラックが停車していて、もーもーと声がする。

14時半にはネルスプリットの街へ到着する。この街からレンタカーをして、明日から車を走らせながらサファリ(ゲームドライブ)をしにクルーガー国立公園へ行くことにする。

まずは近くのスーパー、SPARに立ち寄り、食材を調達する。けん銃をもった男性ガードも女性ガードも、そこから少し離れたレンタカー屋AVIS社への行き方を丁寧に教えてくれる。そのうちにスーパーのお客も「そこまで連れていくわよ。」と話に交じり、バス待ちの女性たちもあれやこれやとアドバイスをし始める。みな、親切なことこの上ない。

結局、タクシーにお願いをして、連れて行ってもらうことにした。ドライバーは、ネルスプリット出身の男の子で、まだ若いように見える。タクシードライバーになったのは職業が他に見当たらなかったから、と言う。交際している彼女がいるようで、彼女のことを照れくさそうに、そして嬉しそうに話してくれた。

AVIS社の職員たちは、とても質の高い仕事をしていた。
「週末は、保証金の額が高いんです。カージャックが多いので。」と言う。
たいへんに恐ろしいことである。

Hyundaiのマニュアル車を借りて発車する準備をしていると、職員男性が窓の外から合図をする。
「道に問題ないですか、良かったら、私のナビをお貸しします。」と言った。
たいへんに有り難いことである。

夜は宿の近くでHANSAのビールを買い足し、マカロニにトマトと玉葱、チーズをかけて、パンとチーズペーストとともにいただく。

この宿には個室、ドミトリーからキャンプサイト、プールもある。お洒落なレストランといったつくりの家具で、すっかりくつろぐ。

ヨハネスブルグ旧黒人居住区、ソウェト – Soweto / Johannesburg, South Africa

朝はダイニングで、コーンフレークにミルクを注ぎ、トーストにピーナツバターやはちみつ、アプリコットのジャムなどを塗って、いただく。

今日は、南アフリカ最大のタウンシップ(旧黒人居住区)、ソウェト地区を訪ねる。アパルトヘイト時代、人種ごとに住み分けさせられていた黒人の居住地区のことだ。

案内をしてくれる黒人Ericさんが、宿まで車で迎えに来てくれる。ダウンタウンの方角に向かって車は進んでいく。

前方に高層ビルが並びたち、右手には、ヒルブローにある塔がそびえたつ。「あの辺りは危ないから近寄っちゃいけない。」Ericさんは言う。

道沿いの店には中国語で大きく「中国絨毯市場」と書かれている。

Ericさんは、ヨハネスブルグについて、ガイドブックやインターネットで調べたか、とわたしたちに尋ね、「調べていたら、ヨハネスブルグがひどくコワイ町だって思っただろう。」と続ける。

赤信号で車が停まるとカージャックにあうから車も停まらないという説についても、Ericさんは、「赤信号をつっぱしったら、他の車にぶつけられるよ。」と言って、赤信号でもきっちり停まる。窓も開け放したまま。

ワールドカップの会場となったサッカー・シティに立ち寄る。赤い塔にはコカコーラのロゴが描かれ、South Africa United 2010と書かれている。大きいスタジアムの周りは、ぽつりと鉄道の駅がある他は広大な空き地になっている。

ワールドカップの会場が南アフリカになることが決まった時、イギリスは、南アフリカには務まらないと思ったんだ、でもそれが間違いだってことを証明したんだよ、とEricさんは誇らしげだった。

「Welcome to SOWETO」という看板にたどりつく。

ソウェトの中でも裕福な地域と中間層、そして貧しい地域と分かれている。最初に、裕福なソウェトのエリアを走る。わたしたちが今回泊まっている、郊外の宿の周りの家には見られる有刺鉄線が、ここにはない。高い壁もなく、道に面した窓は開け放たれていさえする。Ericさんに理由を尋ねる。

「ソウェトは安全なんだ。(わたしたちの宿泊している付近の郊外住宅地で)犯罪を犯しているのはソウェトのやつらだが、彼らはソウェトには手をつけずに、他に手をつけるんだ。」と言った。

煉瓦造りの家は大きな間取りでゆったりとしていて、中にはB & Bの宿として家を提供しているところもある。

そのそばには、ホステルと呼ばれる日雇いの人々が住む地域もある。電気も水道もない。茶色や白の煉瓦がずらりと積まれ、小さな窓がぽつりぽつりと開けられ、トタン屋根が置かれているそのホステルには、服が干されている。

そこから、中間層の人々の住むエリアに入る。さきほどの裕福層のエリアの家よりも小さいものの、四角いマッチ箱のような家の裏手には、増設されたトイレがある。マンデラ・ネルソン氏がかつて住んでいた家も、このソウェト地区中間層の住むVilakazi通りにある。

前妻であったウィニー・マンデラさんが住んでいた家も近くにある。当時暗殺計画もあり、日々注意を払いながら暮らしていたのだという。

ヘクター・ピーターソン博物館に立ち寄る。政府が黒人の学生にアフリカーンス語を学ぶよう強制しようとしたため、1976年にそれに抗議した大規模な反アパルトヘイト暴動が起き、そこに警官隊が発砲して特に若い人々に多くの死者が出た。

その最初の被害者の一人が当時13歳だったヘクター・ピーターソンだった。庭に置かれた被害者の石には、ヘクター・ピーターソンの名のほかに、「不明」の石もある。

博物館では、TO HELL WITH AFRIKAANSと書かれたプラカードなどを持つ人々、白人軍人が黒人をひきずる写真、当時の新聞記事、かつてのソウェト、白人居住地区や黒人居住地区についてのビデオなどを見る。

反アパルトヘイトの集会もあった、ローマカトリックのRegina Mundi教会に立ち寄り、ソウェトの中でも最も貧しい地区にあるMotsoaledi地区を訪ねる。砂埃の舞う道沿いにトタンをつぎはぎした家が並ぶ。各家の前には小さな畑があり、野菜が栽培されている。この野菜は自分たちで食べるように育てているのだそう。

あちらこちらから挨拶をされ、子どもたちもこちらをはにかむように見つめている。

ある一軒の家にお邪魔する。

キッチンとベッドなど生活のすべてがその一室に入れられている。電球が天井からぶらさがっているので、電気が通っているのか尋ねると、かつて街灯から電気を違法でひいていたら、それが発覚して、街灯の電気ごと線が切られたという。だから、今は街に電気はつかず、部屋の片隅にはろうそくが置かれている。

孫を含めた家族がみな彼女の年金に頼っている。

街の一角にある非合法の居酒屋、Shebeenに立ち寄る。ここには食べものもワインも売っておらず、ビールだけが売られている。仕事後、帰宅する前にビールをひっかけて帰宅するのである。女性もビールを飲むのかと尋ねると、「男性よりも飲むよ」と答えが返ってきた。違法な店なので、外には看板もかかっていない。

トタンをはりあわせたような家の反対側には政府が無料で提供しているフリーハウスが並んでいる。煉瓦でできた新しい造りだ。ここには電気も水も通っていて、しかも無料なのだという。みな、フリーハウスへ入居の申請をしつつ、許可が得られるのを待つ。10年以上待つ人もいるらしい。

南アフリカは急激に変わったとみなが口をそろえていう。アパルトヘイト後、白人と黒人の関係は良好になったものの、失業率の高さ、不法移民を含む貧困層の流入など多くの問題を抱えている。

わたしたちが今回滞在している宿は、白人家族の自宅を少し改造した豪華宿だ。プールを備え、バーを備えたバンガローがあり、その後ろには、白いあひるがのんびりとしている湖を望める。

9部屋あるという宿(自宅)には、黒人女性がお手伝いとして働き、清潔に整えられている。

宿の周りの有刺鉄線には電気を通していたが、犬がそこを越えようとしてやけどをしたりするのだという。そして、この有刺鉄線も、犯罪者は毛布をかけて乗り越えてくるので意味をなしていない、と宿のオーナーであるRunelさんは言う。

ヨハネスブルグでは外食もままならないので、快適な宿のソファでテレビを見たり、手入れの行きとどいた広々としたキッチンで食事を作り、一席ずつ紫のテーブルクロスの敷かれた木のテーブルに腰掛けて、夕食を食べたりする。いわしとトマトやバジルのパスタにフレークを混ぜ合わせ、チーズをたっぷりかけて、トーストやグリーンレモンティーを合わせる。

白人と黒人は以前より関係が良くなったけれど、白人からの差別を今でもよく感じる。それでも、南アフリカ人でいられて、ほんとうに幸せなんだというEricさんの言葉を、思い出す。

ケープタウンの街を歩き、ヨハネスブルグへ降り立つ。 – Cape Town / Johannesburg, South Africa

朝はコッペパンをこんがりと焼いてバターを塗り、目玉焼きとチーズ、コーヒーミルクと合わせる。

今日は夕方にヨハネスブルグへ戻るフライトがあるので、それまで買い出しをしたり、街中を歩いたりすることにする。

今後必要になるマラリアの薬を買い求めに近くの薬局屋へ出向くと、「処方箋がないと販売できません。」と言われる。「でも、Travel Clinicなら、処方箋なしでも買えますよ。」

購入しようと思っていたメフロキンという薬は副作用が強いので、Doxycyclineという薬を勧められる。メフロキンは週に1度の服用で済むが、Doxycyclineは24時間ごとに服用しなければならない。両方ともに効果は90%程度だという。

でも、長期マラリア汚染地域にいるならば、Doxycyclineが良いです、と言う。メフロキンは、頭痛、抑うつ感、吐き気などなど、しまいには悪夢をみるといった強い副作用があると聞くから、恐ろしい。

とりあえずTabardという虫よけを購入し、Doxycyclineを買いに、Travel Clinicまで歩いていくことにする。

ケープタウンの街を囲む山々を眺めながらオレンジ通りを抜けて、ハット・フィールド通りにある南アフリカで最も古いユダヤ教のシナゴーグを眺め、南アフリカ国立美術館前の公園を歩き、南アフリカ最古の公園カンパニー・ガーデンズや図書館を左に見ながら進み、国会議事堂にたどり着く。

細い公園に面して入口をもつ国会議事堂は白と深い赤色に塗られ、付近の公園ではベンチに腰掛ける人や散歩を楽しむ人が溢れ、木々の合間から光が注ぎ、リスが駆け回り、子どもたちがはしゃいでいる。

近くの煉瓦造りの聖ジョージ大聖堂の前には、赤い服を着て「南アフリカ共産党」と旗を掲げた男性たちがのりのりに歌を歌いながら、行進していく。

かつてオランダ東インド会社の奴隷宿舎として建てられ、その後最高裁判所として使われていたスレイブ・ロッジの前を通り、銀行やブランドショップ、露店の立ち並ぶ道を過ぎて、ストランド通りのTravel Clinicにたどり着く。

ビルの11階まで上がると、洗練された受付がある。氏名、住所や連絡先、職業、誕生日と訪問予定エリアや健康に関する質問事項に関して用紙に記入する。パスポートを求められることもない。手慣れた様子でDoxycyclineが処方される。肌が敏感になるので、日焼け止めを適度に塗ってください、胃腸に刺激がある場合があるので、食事の後、たっぷりの水とともに薬を飲んでください、と指示される。

無事に薬を手に入れ、近くの「strictly halaal」と書かれたイスラム教フードの屋台、CRUSH CHILLIでBOEREWORSという太いソーセージとチーズやレタス、トマトをパンにはさんみ、こってりとしたソースのかかったサンドイッチを買い求めてほおばる。

そこから、ローズ通りとチャッピニ通りを中心とするマレー・クオーターを通り、宿まで歩く。ここは、オランダ統治時代にマレー人奴隷移住者の子孫が住んでいるエリアである。四角い箱の家がピンクや水色、黄色、紫、オレンジといったキャンディーカラーに塗られて、太陽の光を浴びている。街角にはイスラム教系商店もあり、頭をヒジャブで覆った女性などが買いものをしている。

カラフルな家の並ぶ道にはモスクもあり、目だけを出した黒い二カーブをかぶる女性の姿も見られる。

ヨハネスブルグは治安も悪く宿から出られない、という話も聞いていたので、スーパー、SPARで買い物を済ませて、宿から荷物を取り、MyCitiバスに乗ってシビックセンター経由空港へと向かう。

行きと同様、落書きのされたバラックの並ぶ道を通り、空港へと到着する。やや渋滞があったものの、シビックセンターから30分ほどで空港だ。

SAMSUNGの広告が全面的に貼られた空港でチェックインを済ませ、荷物検査を済ませて、搭乗口に進む。搭乗口にはHyundaiの広告がロゴとともに貼られている。

こうして予定通り、18時50分に南アフリカ航空の飛行機はケープタウンを発ち、「世界で一番危ない都市」とも言われるヨハネスブルグに向かう。

眼下に広がっていた街の灯りもやがてなくなり、黒い大地が広がり、時折灯りが集まっているのが見える程度になる。

飛行時間は約2時間。

ヨハネスブルグを目の前に、今回ばかりは遠慮がちにアルコールを控えて、おとなしく南アフリカ産コカコーラを飲む。にんじんとパイナップルにレーズンやきゅうりのサラダ、牛肉とカリフラワーやパプリカなどのスパイシーなトマト煮にパンやバター、キャラメルのスポンジケーキとチョコボールを食べていれば、あっという間だ。

全ての荷物をしゃんとまとめて、ゲートの外へと踏み出す。ゲートでは出迎えに来ている人々が数名、名前をもったカードを手にしている。

カージャックも多発しているヨハネスブルグでは、宿に空港からのピックアップをお願いしている人がたいていである。見習って、わたしたちもオンラインで宿を予約し、空港までのピックアップをお願いしていた。それでも、空港からダウンタウンをはさみ、その反対側に位置する宿を予約してしまったものだから、おそろしい。

赤信号で停まったら、やられてしまう。

ゲートを出て、はらはらと迎えがどこにいるかと見渡すと、わたしたちのカードを持った人は、見当たらない。

迎えに来ていないのであった。後から分かったことだが、どうやら別の空港に迎えにいってしまっていたらしい。

やれやれ、と思うと同時に、それなら気を取り直して、空港近くの宿を取ろうと少し安堵もする。

空港は思っていたよりも明るく、優しく声をかえてくれる女性やセキュリティの男性もいる。とりあえず、インフォメーション・デスクに行きなさい、と言われ、教えのままに、インフォメーション・デスクに向かい、気になっていた空港近くの宿、Lakeside View Hostelに電話をしてもらう。明るい声で、30分後に迎えに行きますよ、と応対があった。

インフォメーション・デスクには、15年柔道をしていたといい、柔道関連の日本語も知っている男性がいた。開業10年になる宿をもっていて、今から帰宅するのだという。

ヨハネスブルグはワールドカップで警察が数回掃討作戦を行い、500人の最重要犯罪者を逮捕してから、治安は比較的に良くなったという。

彼は、タケシ・キャッスル(「風雲!たけし城」)や日本女子サッカーの澤選手についても褒めたたえ、日本は素晴らしいと連発する。

しばらく待っていると、Lakeside View HostelのRunelさんが迎えに来てくれる。彼女はもう何千回とこの空港に送迎をしているのだという。

カージャックが多いっていうのは本当で、やっぱりヨハネスブルグではいろんな事件が起こっている。だから赤信号が見えたら、徐行するようにしているの。こうして今日も空港に3回迎えに行って、多いときには10往復もするけれど、怪我をしたことは一度もない。運転をしていて、一生何の事故に合わない人もいるから、運に任せるしかないの。そう考えないと、なにもできないから。

そういえば、ケープタウンの宿の女性もヨハネスブルグ出身で、家は2度強盗に入られたが、幸運なことに自身は強盗に襲われたことはない、と言っていた。

ヨハネスブルグの道路、22時半ころでも、他の車も走っていた。約15分ほどで、宿になっている彼女の豪邸に到着する。まずは、無事に宿にたどり着けたのだった。

空港からは、夜遅くまで飛行機の音がガーガーと聞こえてくる。ソファに腰掛けて眺めるテレビからは、日本語字幕 戸田奈津子と流れ、英語の映画に日本語字幕がついた映画が続いた。

黒人専用刑務所島と、ケープタウンの街並み – Robben island / Cape Town, South Africa

今日は、アパルトヘイト時代に黒人の、主に政治犯が収容されていた刑務所のある島、ロベン島に向かう。1959年から1991年の間に、ネルソン・マンデラ氏を含む約3000名の政治犯が収容されていた島だ。

朝に起きて急いで支度をしてから、ロング・ストリートをぐぐっとあがり、また左にぐぐっと曲がり、船乗り場へと向かう。朝の9時を過ぎても通りにはまだ人気は少なく、もくもくと急ぐ。時折若い男の子が手をぐいと差し伸ばして、金をくれ、とついてくる。

ウォーター・フロントの赤い時計台近くから、南アフリカの国旗をかざした船に乗り込み、島へと向かう。

中国人のカップル、インド人一家、裕福そうな黒人の家族、ケープタウンらしく、ゲイふうの白人男性。黒人家族の父親は、黄色と白のストライプのラガーシャツに赤いジャケットといったラフな服装で陽気に笑い、iPadを手にしている。その横で、きれいな身なりをした黒人の母親と子どもたちがいる。幸せの象徴のような家族だ。

ケープタウンが徐々に遠ざかっていく。ケープタウンの街の中心に高層ビルがあり、そこから右手にワールドカップ会場にもなったスタジアムがある。後ろには、上部がすっぱりと平らなテーブル・マウンテン、右後方に先の尖ったライオンズ・ヘッドと、平日正午に号砲を発する大砲があるシグナル・ヒルがそびえている。海には大きな船が何隻も浮かんでいる。

1時間ほど船に揺られたところで、建物がずらりと並ぶロベン島に到着する。空にはたくさんのカモメが飛んでいて、黒い水鳥が防波堤にとまっている。

島の入口の門には「ロベン島へようこそ。誇りをもってお迎えします。」と英語とアフリカーンス語で書かれている。最初にバスに乗って、島をぐるりと回る。

収容者は、英語かアフリカーンス語のみ話すことを許されたので、それが話せない人々は、ジェスチャーでコミュニケーションをとるしか仕方なかったという。

現在も220~250名が住んでいる島には、白いお墓の並ぶ墓地、れんがで作られた教会、テニスコート、若草色をした郵便局、石灰粉の採掘場、そしてイスラム教徒の政治犯も収容されていたことから緑の屋根をもつイスラム寺院Kramatもある。

1863年にできた灯台がたち、海辺には転覆した船が見える。かつてここに収容されていたネルソン・マンデラ氏は釈放後、14回この島に戻ったという。

Robert Sobukweという一人の男のための世界最小の刑務所も存在する。クリーム色の建物、オレンジ色の屋根に、わきには水のタンクが置いてある。

この島からアパルトヘイト時代に逃げ切った者は一人もいないという。逃亡を図った者も、監視軍から銃を奪って逃走したものの、48時間以内に捕まって戻されている。

この島に収容されていた多くは政治犯であるものの、互いに影響を与えることがないよう、一般の犯罪者とは分けられていたのだそう。”Each One Teach one”というスローガンが掲げられていた。

島をぐるりとバスで回った後、バスを降りて、かつてここで入所していたSipho Smosiさんが、刑務所を案内をしてくれる。刑務所はいくつかのセクションに分かれており、ネルソン・マンデラ氏はリーダー格の政治犯として独房の並ぶセクションBに、Siphoさんは幾人かで部屋をシェアするセクションDに収容されていた。

Siphoさんは、South African Security Officeに捕まり1984年から5年間ここに入所していたといい、当時の話を低い声でゆっくりと話していく。セクションDには30人が一部屋に収容され、3つのトイレとシャワーを兼用していたという。

コーヒーや紅茶にパンやおかゆなどが主な食事だった。Siphoさんの時代には、下着や寝具など基本的な権利は与えられており、ペンや紙も十分に与えられていた。

ただ、勉強をするということは権利ではなく特別の恩恵であり、勉強を許される収容者は限られていたという。収容所には勉強の許可を得るための部屋や、各人に番号とID書類、制服を配布した受付事務所も残されている。

1960年から1970年半ばまではマットを床に敷いて寝ていたものの、1970年代後半からは鉄のベッドが各自に与えられるようになった。格子扉を開けた先に、壁を白とグレーに塗られた部屋があり、白い小さな鉄の物入れと、二段ベッドに質素なマットが敷かれて並べられている。

収容所は明るく清潔だった。Siphoさんは、当時からここは清潔なんです、と言う。ただ届いた手紙は全て検閲のために開封され、不適切な個所ははさみで切り取られたものだから、手元に届く手紙は穴だらけだったという。

セクションごとに働くため、仲間同士の団結が強くなったという。収容期間中に収容者同士の暴行を見たのは2度(だけ)だったという。

ネルソン・マンデラ氏を含むリーダー格の政治犯が収容されるセクションBは、隔離され、訪問者との面会も手紙の受け取りも著しく限られ、1日30分だけ独房から離れることを許された。

白と淡い水色に塗られたマンデラ氏のかつての独房には、格子のついた小さな窓が備えられ、右にグレーのマット、そのわきにダークグリーンの小さなテーブルと、赤い缶が置かれている。刑務所にはそういった部屋がいくつも並び、それぞれの白い格子扉に、木の扉がついている。同じ棟に、簡単な共同トイレとシャワー室がある。

島に2時間ほど滞在して、また船に乗り、当時撮影された白黒写真が貼られている船着き場を離れ、ケープタウンへと戻る。

プランクトンが白い泡をたたせ、波の間にイルカが5匹ほど顔を出す。船の上では行きと同様、黒人男性スタッフが乗船者に向けて丁寧な挨拶をする。

船の到着したターミナルで更にアパルトヘイトの展示を見た後、ウォーターフロントを通り、テーブルマウンテンの中腹へと向かうことにする。

晴れ渡った祝日のウォーターフロントは明るく、昨日の曇り空のそれとは違った雰囲気だ。顔に白く模様を施した黒人男性たちが民族衣装を着てジャンべを鳴らし、南アフリカのサッカーユニフォームを着た男性が、サックスを吹き、木琴を鳴らしている。港に面する洒落たオープンカフェには、多くの人々が腰掛けて、昼のビールを楽しんでいる。

昨日も立ち寄ったビクトリア・ワーフ・ショッピング・センター内のPick n Pay内のイスラム料理を売る店、Halaalでフィッシュ・アンド・チップスを買った後、バスに乗る。

ウォーターフロントからテーブルマウンテンまで、MyCityのバスに乗り、そこからミニバスに乗り換えて向かうものの、ミニバス乗り場はケープタウンの治安の悪い地域にある。真新しいケープタウン駅を通り、マニキュア屋やブレードヘア屋を抜けると、殺伐とした雰囲気へと変わっていく。

ミニバス乗り場の雰囲気は芳しくないこと明らかなものの、最初無愛想だったバスの運転手のおじさんは話をしてみればとても親切な男性だった。おかげでぱくぱくとフィッシュ・アンド・チップスをほおばりながら、声のかすれたその運転手の話を聞く心持ちになる。

テーブルマウンテンからはケープタウンの街並みを一望することができる。緑がたっぷりと広がり、中央に高層ビルがそびえ、街全体は赤い屋根と白い壁の家が多く、その向こうにはテーブル湾が広がっている。上から眺めるその穏やかな雰囲気は、さきほどのミニバス乗り場からは想像できない。

そこから宿までどう帰ろうか考える。米国から移住してきて、南アフリカの女性と結婚したというツアーガイドの男性が丁度待ち時間だということで、宿まで送ってもらうことにする。ケープタウンが大好きだ、とその男性は言った。移り住んできたころとはずいぶん変わった。良くなったところもあれば、悪くなったところもある。

宿の周りも、昨夜の暗い雰囲気に比べて、今日はひどく明るい。昨夜と客層の違う、宿の近くのスーパーKWIKSPARに立ち寄り、食材を買う。明るい雰囲気にひかれて、チョコレートとバニラのアイスを買ってかじる。

夕食は宿でツナと卵とチーズのペンネにピタパン、ドリンクはCASTLEビールを合わせる。夜になかなか外を出歩けない分、宿でほろ酔いの日が増えている。

危ないって言われると外出したくなっちゃうのよね、とドレスを着て夜に出かけていった韓国人女性が外出先から戻ってきた。「外に出ても大丈夫だったわよ、でも音楽を聴きに行ったんだけど、ミュージシャンが下手でね。」と言って、着飾ったドレスをくるりと翻して、部屋に戻っていった。

びしょぬれの喜望峰 – Cape Town / The Cape Peninsula

今日は、バンに乗ってケープ半島をぐるりとまわることにする。半島のさきっぽには、アフリカ大陸最南西端の喜望峰と、ケープ半島最南端のケープ・ポイントがある。

喜望峰は最南端ではなく、最南西端にあったのだった。知らなかったです。

バンの上で、パンにバターを塗ったものをほおばりながら、半島を走る。曇り空に時折降る雨が、虹を作りだしている。

ケープタウンの郊外の道には高級住宅街が並び、家の玄関には”Armed Response”といった看板が貼られている。何かあれば武装した警備員がかけつける、ということである。

車はやがて、ハウト湾を高台から見る道を通る。湾に面してヤシの木が生え、森と家が落ち着いたふうに広がっている。

魚加工場と漁港の町であるハウト湾から、たくさんのオットセイとカモメがいるというドイカー島(シール島)へ向かう船に乗る。港には水色や緑色、白の船が並んでいる。

ここはピンポイントで中国からの旅行者であふれている。乗客の半数以上が中国人旅行客で、船の上で中国語が行き交っている。年を重ねた夫婦や若い女の子たち、カップルなどが乗り、船が大きく揺れると歓声があがり、みな、デジカメを片手にぱしゃぱしゃと写真を撮っている。

数匹のオットセイたちがのんびりと寝そべっている港付近を離れ、プランクトンがぶくぶくとクリーム色の泡をたてているそばを通り、ドイカー島に向けて進んでいくも、「目的地のドイカー島には波が荒くて近づけません。」というアナウンスが流れる。

結局そのまま引き返してきて、港近くのオットセイたちを再び眺める。オットセイは、口に食べ物を加えて、頭をぐるぐると振って波をたてている。その隣で黒い水鳥が大きな羽を広げている。

結局、船に乗っているよりも、港にいたほうがオットセイが見れた、ということだが、乗客はみなきゃぴきゃぴとしている。船から降りれば、濡れた床に置かれた手工芸品を売る黒人の男性たちとの買い物交渉が始まる。

高さ600mの岩山を通る、景色が良いことで名の知られていたドライブウェイ、チャップマンズ・ピーク・ドライブを走る。明るい青から深い青へと層を重ねる湾を、センチネル山をはじめとした険しい山々が囲んでいる。

そこから、さらに走り、ボルダーズ・ビーチに立ち寄る。

ここにはたくさんのアフリカペンギンがいる。「ペンギンが噛むので、触れたり、餌をやったり、邪魔をしたりしないでください。500ランドの罰金です。」と看板がたてられている。

しっぽを振ったり、羽を上にあげたり、よたよたと歩いた後にぐるりと辺りを見渡して、またよたよたと歩きだしたりする。ペタペタと海まで歩き、こてりと横に倒れて、波をあびながら、進んでいく。

前回プンタ・アレーナスでぺんぎんを見たときと同じように、のどをグワグワと鳴らしている。ただ、ここは単独でいるペンギンが多い。2匹のペンギンが両方向から向き合って近づいていくものだから、じゃれあうのかと思ったら、そのまま素通りしていく。そっけないものだ。

明るい水色の海を眺めながら、やがて喜望峰自然保護区に入ったころ、車に積んであった自転車で走ってみることにする。

背の低い、茶色や緑色の木々や淡く霞んだ山々を眺めながら、よいしょよいしょとこいでいると、ふいに雨が降ってきた。その雨はますます強くなる。自転車には泥除けがついていないものだから、身体の四方八方からびしょ濡れである。そしてしばらくすると、からりと晴れ渡る。ケープ半島の天気はほんとうにくるくると変わるのだった。

昼食は、BUFFERLSFONTEINビジターセンターでいただく。プレートにオリーブと卵のパスタ、パンにチーズやハム、きゅうりをはさみ、トマトやレタスのサラダ、チップスと合わせていただく。それにフルーツジュースをごくごくと飲み干す。

濡れた身体で寒いものの、お腹はすっかり満たされて、さらに半島の先端へと向かっていく。

脚が細く、羽をふわふわとさせただちょうが、荒れた波のたつ海を眺めている。

バンは、こうして雨が降ったり晴れたりする空の下を走り、喜望峰に到着する。波が岩にぶつかり、岸に近い海は白く色を変え、その向こうに澄んだ海が広がっている。

その後、半島の最南端ケープ・ポイントにある、かつての灯台まで歩いていく。道ばたにはヒヒがあちらこちらにいて、ぼんやりとしたヒヒもいれば、子ヒヒを掻く親ヒヒもいる。「ヒヒは危険です。食べ物に寄ってきます。」と書かれた看板がたてられている。その周りを、赤く大きく花弁を広げた花や白や黄色の花が咲いている。

最南端にしては、さほど寒くないものの、やはり天気はひょいひょいと移り変わっていく。

半島をぐるりと回って、半島のねもとにあるケープタウンの街へと戻る。途中、1960年代のアパルトヘイト時代、白人が住むために6万人の住民を強制移住させたDistrict Sixを通る。アパルトヘイト廃止後、かつての住民を戻したというが、それでも戻った人は少ないという。新しい家が立ち並ぶ場所だ。

宿に帰って夕食の支度をする。ケープ・マレー・カレーに目玉焼き、ピタパンとバターを添えて、南アフリカのワイン、STONECROSSとともにいただく。ケープタウンでは、だちょうやスプリングボック、ワニなどの肉のグリルの他に、こうしたマレー料理も名物になっている。オランダ統治時代に連れてこられたマレー系イスラム教徒の人々の料理である。

スパイスがほどよく効いて、ワインとともに身体がほんわかとする。