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動物とマサイの人 - Masai Mara National Reserve, Kenya

朝食も、食堂で外の景色を眺めながらいただく。トーストにバターと苺ジャムをぬり、パンケーキとソーセージ、豆のトマト煮とともにほおばり、それにミルクコーヒーをすする。

今日もマサイ族の人々は朝から牛を追っている。

ヌー、トピが群れをなして時にじゃれあいながら、朝日に照らされている。しまうまは背中にちょこんと鳥をとめている。

2頭のチーターがそのしなやかな身体で草むらに佇んでいた。くるりとしっぽを振るその様子もまたネコのようだ。あくびをしたり、草むらにぺとりと横たわったり、脚で顔をかいたりする。

一頭がすくっと起きあがるともう一頭も起きあがり、一頭が一方向を向くと、もう一頭も同じ方向を眺める。

その後も走り回るハーテビースト、トピ、ゆたりゆたりと歩く象を見ながら、進む。

ホロホロチョウやテリムクドリが道ばたを歩いていく。

ぬかるんだ泥道に一台のサファリ・カーが立ち往生すると、わたしたちの車も含めて助けに向かう。

「誰か一人にでもトラブルが起きたら、必ず助けにいかなければならないんだ。そうでなければ、自分たちがトラブルにあっても誰も助けにこない。」
マイケルさんは言う。

サファリは、自然と対峙する命がけの仕事なのである。

今度は草むらを歩く3頭の雌ライオンがいた。遠くのほうをぐるぐると顔を回して眺め、そのうちに茂みに寝そべり、休み始める。

7頭のマサイキリンが草原に長い首を伸ばし、その周りにはインパラが駆け回っている。
ワシが木にとまり、クワクワと高い声で鳴いている。

このマサイ・マラ国立保護区は、タンザニアのセレンゲティ国立公園と国境線で隣り合っている。

タンザニアとの国境を示す石碑が立っている。石には真ん中に線がひかれ、「T 21、K 2」と書かれている。ケニア側にいる人はタンザニア側に21m入ることができ、タンザニア側にいる人はケニア側に2m入れるという意味らしい。

昼食は、マラ川のほとりでとる。配られたランチボックスには、きゅうりやトマトのぶ厚いサンドイッチにチキン、カップケーキ、バナナ、パイナップルがつめられている。それに白ぶどうジュースを飲み干す。周りには、サバンナモンキーがうろうろとしていて、ランチボックスを狙っている。

一匹がバナナをぬすみとり、それに目を向けている間に、もう一匹が今度は林檎を奪っていく、といった具合で、グループ犯罪を犯す。とても賢いのである。

マラ川には、ヒッポ・プールという、かばの浮かぶエリアがある。わにもいるので、銃をもったレンジャーつきでないと、そこを歩くことは許されない。

レンジャーとともに 泥道を歩いていく。草むらではバファローがこちらに顔を向けている。その角がところどころに落ちている。

涼しくなる夕方に、かばは水から出て陸にあがり草を食べるといい、道にはその足跡やインパラの足跡などがついている。そのうちに、かばがンゴンゴと鳴いているのが聞こえる。口を開けて水をしゅーと吹き出しながら、水面から目だけを出したり、そのうちに身体を出したり、あるいは身体を沈めたりしている。

対岸には、わにが身体の半分を地上に出して寝そべっている。尖った歯が少し見える。

7月から8月にかけてはヌーの大群がセレンゲティ国立公園から、この川を渡ってマサイ・マラへとやって来る。10月ころには、共に渡ってきたしまうまと再び草を求めてセレンゲティへと帰っていく。

川岸にはヌーやしまうまの通る道の跡がみられる。

マイケルさんは12年ガイドをしているという。1年8か月、ツアーガイドになるための学校に通っていた。そこではサファリのガイドになるだけでなく、どのように顧客満足度をあげるか、なんていうことも勉強するらしい。

みんな一生懸命お金を貯めてこのサファリに来てくれているんだから、お客さんの夢をかなえることが、僕の仕事なんだ。この仕事をしていると、危ない目にもたくさんあうけれど、僕は仕事が大好きなんだよ、と大きな目を見開いて言う。

マサイ・マラ国立保護区の隣には、マサイ族の住む村、Ngorelo村がある。16時半ころからその村を訪ねてみる。

案内をしてくれたのは、200人いる村の村長の息子、センギュラくん。8人兄弟がいる27歳、奥さんと一人の娘さんがいる。他のマサイ族のコミュニティとも携帯電話で頻繁にやりとりをしている。村で携帯電話をもっているのは、数人だけらしい。

山羊のミルクをしぼる子どもがいれば、コカコーラのラックを持ち運ぶ男性もいる。
マサイ語でハローは「ソパ」、ありがとうは「アシェ」、バイバイは「オレセレ」という。

センギュラくんの家に連れて行ってくれた。家は、木と牛糞と泥をこねたものでできている。  

電気がないので夜はろうそくを使うのだが、外はまだ明るいこの時間でも家の中は暗い。

家の真ん中に、炭をおこすキッチンがあり、その左に木の枝を重ねたベッドが一つ置いてある。ここにセンギュラくん家族3人と、奥さんのお母さん、弟、その奥さんの6人が暮らしている。
センギュラくんと奥さんは、同じ学校に通っていて、恋におちた。

食事は、羊や牛のミルク、山羊の肉、それにウガリが主で、米やチャパティはあまり食べないという。

飲む水は近くの川から汲んできて、お手洗いは茂みで済ませるという。

今日はちょうど35歳や40歳、45歳といった節目にあたる歳を迎えた男性を祝う儀式が行われていた。

特別な牛を殺し、それをみなで食べ、その後牛を火にかけて、夜は踊るのだという。赤い布をまとった男性が、煙のたつ火を囲み、夜のセレモニーの支度をしている。足元には、牛の頭がごろりと転がっている。

ちょうどこの日に節目の誕生日を迎えた男性の奥さんも、家から出てきていた。 赤や緑の鮮やかな衣装を身につけ、耳にはじゃらりとビーズなどでできたイヤリングをしている。

耳に大きな穴が開き、垂れ下がっている男性や女性がいる。これはファッションでもあり、踊りの際にも使うのだというが、学校に行く人々は危ないという理由で、開けないことも多いらしい。

マサイ族の人々は、羊の毛でできたオレンジや赤の格子の布、ウキチや色鮮やかな布を身にまとい、手にはウリンガという先が丸まった木の棒を持っている。この布を巻きつけられるのは12歳からなのだそうで、子どもたちは、どうりで、洋服を着ている。

時折身体に巻きつけているコットンの布は、マサイの布ではなく、買ってきたものだという。

マサイの布は男性が作るのだという。女性はアクセサリーをつくったりすることはあるが、家事をするという役割を果たす。

この村には、5歳から16歳までの子どもたちが通う学校がある。英語、スワヒリ語、科学、 ソーシャル・スタディ、キリスト教を教えているといい、話されているマサイ語は特に教えられていない。ここでは、教師に払うための費用以外は、無料で教育を提供している。大学まで行く生徒もたまにいるらしい。

マサイ族の主な収入源は牛や山羊。その他、町に出ていく人はホテルや観光業で働く人が多い。政府からマサイ族に対して特別な支援があったりすることはないと言った。

誰がマサイ族かというのは、服だけなく、身体の特徴からすぐに見分けがつくという。

宿に戻って夕食にする。牛肉に野菜の炒め物、チャパティにパンやご飯、マンゴーにすいか、それにスープがつく。サファリの食事は、地元の食事とは、かけ離れているのだろう。

まんまるの月が明るく輝いていた。