浮かぶ死海と、ユダヤ教ラビの家でのシャバット・ディナー – Jerusalem / Dead Sea, Israel & the Palestinian Territories
今日はコーヒーやアーモンドジュース、それにパンをいただいてから、死海に行く。家からダマスカス門までバスに乗り、そこからトラムに乗り継いで、死海行きバスの出ているセントラルバスステーションへ向かう。
新市街に位置するセントラルバスステーションの本屋にはアラビア語は見つからず、書籍はヘブライ語で埋めつくされ、トーラーも置かれている。
朝の9時ちょうどにきちんと出発したバスは、ユダヤ人住宅地を通り抜けて、死海へと向かう。
死海は海面下約420mに位置していて、塩分が通常の10倍、30パーセントほどあるという。死海から水の流れる出口がなく、高温で乾燥した気温によって水がどんどんと蒸発し、水の中の塩分が凝縮される。
標高マイナス300mと書かれた看板の横を通り過ぎる。窓の外に死海が見え、ペットボトルはぺこりと凹み、耳がつんとする。10時にはエン・ゲディ・パブリック・ビーチに到着する。アフリカのボツワナから来ているという3人も同じように降りた。
ここは整備されたリゾート地だった。ヘブライ語、英語、アラビア語で、注意書きが書かれている。飛び込むなといった他に、頭を沈めないように、水を自分や他人にとばさないように、水を飲みこまないように、といった注意がなされている。
すでに幾人かがぷかりぷかりと浮いている。
海は透明に輝き、海岸には塩がごつごつと塊をつくっている。
脚をそっと浸してみる。海との違いがまだ分からない。目に水が入るととんでもなく痛いというので、気をつけながらおそるおそる入ってみると、水がややとろりと重たいことが分かる。そして浮かんでみると、ひょいと身体が浮く。脚が自然に浮くものだから、平泳ぎができない。立ってみると、肩がちょうど出るくらいまで浮き、脚をくるくると回すこともできる。雑誌を手にしながら、読むことだってできる。
気づかなかったほどの小さな傷口がしみる。口の周りの水が、苦い。
全身を黒とグレーで覆った肌の白い初老の女性が、洋服と黒い靴のまま、じゃぶじゃぶと海に入っていく。そしてそのまま浮かび、波の向かうままに、流されていく。
パブリック・ビーチには、張られた金網の少し先に泥があるらしい。泥を探しに行くと、イスラエルの男性がビニール袋を手にやってきて、掘り始めた。そのうちに、泥があったと、わたしたちに差し出す。灰色でとろりとしていたその泥を肌に塗ると、泥は肌の上でよくすべった。
温度計は40度以上を示している。隣に座った男性が、西瓜をどうぞと差し出してくれる。パラソルの下でパンをつまむ。死海の向こうにはヨルダンが見えている。
この近くにはキブツの経営しているスパもある。キブツというのはイスラエルの集産主義的共同体のことだが、ここ10年でその姿を大きく変えたという。かつては集団生活をしていたものが、今では村のようになってしまったという。このスパも宿泊施設を併設し、一企業のようになっている。
今日は金曜日なので、日没から安息日シャバットが始まる。午後に向けて徐々にバスの便数が減っていく。14時45分の最終便をつかまえて、エルサレムに戻る。
16時15分ころにエルサレムのセントラルバスステーションに戻ってくる。安息日の間、ユダヤ人は家事も一切行わないこととしていて、その準備のために安息日前にみなどっさりと買い物を終わらせる。
先日は行き交う人で賑わっていたメア・シェアリームも、ほとんどの店は閉まっている。その中でも開いていたスーパーマーケット、Express Marketに立ち寄る。ワインが並び、アイスクリームもある。黒い帽子に黒い服を着た人々がちらほらと品選びをしている。店員の男性は日本人が好きだと言って、お菓子やチョコレートのアイスをわたしたちに持たせてくれた。
金曜日の夕方は先日と同じように嘆きの壁に向かう人々がいる。シャバットでは車を一切使わないというので、多くの人々が歩いていく。
先日はきらきらとしていたMamilla Mallも、店は閉まり、がらりとしている。太陽の沈む前、トランペットの音が街に響き渡る。シャバットが始まったことを意味するのだと言う。
メア・シェアリーム地区を抜けてアラブ人の多い地区に入ると、途端に道ばたに野菜や果物が売られ、賑やかになっていく。
安息日にいただく夕食をシャバット・ディナーと呼び、晩餐が行われる。イブラヒムさんもユダヤのラビに誘われ、シャバット・ディナーに出かけるという。わたしたちも、息子さんがユダヤ教徒に改宗したという友人に、息子さんが師事するラビの家で大きなシャバット・ディナーがあるからとお誘いをいただく。
そのラビの家では金曜日の夕食1回と土曜日に2回、無料でみなに食事をふるまっていて、だれにでもその門は開かれている。ラビには14人の子どもがいる。ラビの家を訪ねるにあたり、友人は、オランダでしか売っていないという髪の毛を覆う布をプレゼントしてくれた。
シャバット・シャロームと言って挨拶をし合う。
友人であるインドネシア出身の男性はキリスト教徒だ。スカルノの時代にインドネシアを逃れ、オランダへと渡った。一度の離婚を経て、インドネシア人の女性と再婚をする。そしてユダヤの血をひく前妻との間の息子さんである彼が、ユダヤ教に改宗して17歳にエルサレムに渡ってからYeshivaに通い始め、今もその生活が続いている。
現在、24歳。
47歳だというお父さんは、サッカーのコーチをしているともいい、見た目が若く、はつらつとしている。それに対して、恥ずかしがり屋だという息子は、おどおどとしているように最初見えた。
超正統派のユダヤ人は、仕事をしない。収入源は国からの補助金に頼ったり、サポーターをつけたりすることが多く、低所得者である人々も少なくないとも聞く。息子さんは今、世話人となってくれているユダヤ人一家の家に居候している。
「スポンサーの見つけられない息子はお金がなくて、先日も、新しいテフィリンのバンドを買うために500ユーロ必要だと言われたんだ。だから、僕はお金を送ったよ。でも、そろそろちゃんとサポーターを見つけないといけない。」父親である友人は、大好きなサッカーだけでなく、今は新聞配達もしているのだという。
父親はキリスト教だが、息子が突然にユダヤ教徒に改宗したいと言い出した。当初はずいぶんと反対をしたといい、最近でも息子さんと離れるのが寂しくて、ずっと泣いていたという。
21時半ころ、ラビの家の中からは食事の良い香りがしてくる。扉が開かれ、待っていた人々が次々と家の中に入っていく。中央の部屋にはテーブルとイスがぎっしりと配置され、それを囲うように本棚には本が並べられている。
男性と女性は分かれて席に着く。女性は男性と握手をしてはならない、目を合わせてはならないという決まりがあるので、それを守りながら、着席する。
キッチンでは女性たちがせっせと食事の準備をしている。そのうちにラビが葡萄酒とパンに祈りを捧げる。大きくふっくらとしたパンにラビがナイフをいれる。テーブルにはグレープジュースや、コカコーラなどの炭酸飲料、それにピーチティーなどのペットボトルが置かれている。
ラビが挨拶をして、食事が始まる。所狭しとテーブルを並べた部屋には、50人を超えている人々が席についている。ラビが話を続けながら、そのうちにAyshes Cha-yilといった歌を歌い、時に手拍子をつけ始める。
にんじんやきゅうり、ビーツ、ホムスとともに、切られたパンが回される。それからしばらくするとはんぺんのような魚のすり身、続いてスナックをのせる肉団子のスープ、それにチキンのトマト煮とトマトライス、最後にシナモンケーキやチョコパンにウエハースなどのスイーツが次々と出されてくる。
しばらくすると、ラビが、発言したい人に手を挙げて話をさせる。そのうちの一人に、息子さんがいた。そこにいた息子さんは、大きく自信のある声でユダヤ教についての話を語っていた。さきほどとは別人のようである。まず、父親が好きなサッカーは僕は嫌いです、と言って会場を笑わせる。
食事を終えて、友人は、息子さんと話をする機会を作ってくれた。いくつかの質問をすると、それに目を見開いてはきはきと答えてくれる。
ユダヤの教えを学ぶには最低120年必要だと言われているので学校には生涯通い続けること、トーラーは生きるための水のようなもので欠かせないものであること、祈りの際に前後左右に揺れるのはキャンドルが揺れるように神とつながるためであること、カールされたもみあげは自分たちのアイデンティティとして保っていること。
ユダヤ人は世界で一つなんです。だから、世界の裏側に住んでいるユダヤ人が悪いことをしたら自分に責任があるんです、と静かに、でも力強く言う。
友人は、お父さんと離れて寂しくないのかと、息子に問うた。息子はその問いにはっきりとは応えないまま、でも、神がここに自分を運んできたんです、と照れたように笑った。
キリスト教では十個の戒律があるが、ユダヤ教では613もの戒律があるという。大変なんだよ、と友人は言う。ユダヤ教にはカシュルートと呼ばれる食事規定が戒律としてある。それを完全にオランダで守ることは難しいし、息子はここにきて幸せそうにしているから、オランダに戻ることはないだろうとまた寂しそうに言った。
ユダヤ教の教えで、食事後6時間はミルクを飲まないように伝えられる。
こうしてすっかりお腹もいっぱいになり、お話を聞いている間に夜の12時半を回っていた。タクシーに乗って、家に帰ることにする。
2012/06/22 23:39 | カテゴリー:Israel & the Palestinian Territories