Peru
朝は昨日パン屋で買った、チーズパンや桃のドーナツと餡の入ったパンにヨーグルトとコカ茶を合わせていただく。
外の通りから太鼓やラッパの音が鳴り響いているので外に出てみると、スーツを着た男性が、Justo Juez像をみこしにのせて担いでいる。そしてその前には、カラフルな民族衣装を着た男女が踊りをみせている。
クスコからマチュピチュへ行くには、インカ道を歩くか、オリャンタイタンボまでバスで行き、そこから鉄道に乗る、ということになる。このインカ道は2月はメンテナンスのために封鎖されているので、鉄道に乗ることにする。
宿からサン・フランシスコ広場を通り、裁判所、銀行や旅行会社などが軒をつらねるEl Sol通りを歩き、町の南東にあるペルー・レイルの駅、ワンチャック駅に向かう。
小さくも新しい駅で、パスポートを提示し、Eメールや滞在ホテル名を記載し、無事にオリャンタイタンボからマチュピチュまでの往復チケットを手にする。
近くのパン兼ケーキ屋、Panymasで、ベリーソースのかかった豆の入ったプディングを食べ、明日の朝食用にパンを買っていく。
近くの山々にはペルーの国旗模様やVIVA EL PERUと文字が描かれている。
そこから小道を歩いて、サント・ドミンゴ教会/コリカンチャへと向かう。現在教会であるこの場所は、かつてインカ帝国時代、コリカンチャという太陽の神殿だった。征服者であるスペイン人は、神殿に溢れていた黄金を思うがままに取り除き、土台だけを残して神殿を壊し、教会を建てたという。
その後、大地震が起きると、上の教会は崩れ落ちたものの、土台の石組みはびくともしなかったのだそう。それほど「かみそりの刃1枚すら通さない」と言われるインカの石組み技術は、優れていたのである。
クスコは、かつてのインカ帝国の首都であった場所である。その重いインカの石材の上にスペインのコロニアル建築が建てられ、今では国民の95%がローマ・カトリック、というふうになっている。
接合剤も使わず、ただ重ねられただけの石は、見事にぴったりとかみあっている。そんなインカからの土台が町のあちらこちらで見られる。
VicunaやアルパカのいるクシカンチャKusikancha遺跡横の道も、ロレト通りも、両脇にぴったりと寄せ合う石組みの土台がある。ロレト通りにはにょろりと蛇が石の上に描かれているところもある。
そこからアルマス広場へと出て、ミサが行われていたラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会に入る。この教会は、インカの皇帝ワイナ・カパックの宮殿があった場所に建てられている。黄金の祭壇に、マルコス・サパタによって描かれた壁画に囲まれて、人々は祈りをささげている。
日の暮れたアルマス広場はライトアップで照らされ、丘に広がる家々にも灯がともされる。ここでは、スターバックスもマクドナルドも、黒い文字でロゴが描かれる。
アルパカ料理を食べようと、広場に面したレストラン、ラ・レタマに入る。洒落た雰囲気のレストランには、西洋人の観光客が数名と日本人の観光客がいる。どうやらアルパカというのは、その毛のほうが貴重であるから、現地の人々が食べることはあまりないのだという。だから、アルパカ料理は一部のレストランでしかメニューに載せられていない。
地元のレストランに入れば、たいていセットメニューでスープとメインとドリンク、場合によってはデザートもついてくる。そしてメインの多くはシンプルなチキンやビーフの料理にフリホーレスやサラダ、フライドポテトなどがついているといった具合になる。
メニューも気が利いていて、アルパカのグリルと炒めたたまねぎにホワイトワインとはちみつにチョコレートソースがかけられている。そして野菜と甘いマッシュポテトと花が上品に添えられている。
ややぱさつきがちなアルパカの肉にソースがまろやかにからまり、なめらかに仕立て上げている。デザートには、チョコレートケーキとアップルパイ、ココナッツケーキとレモンのムースをセットにしていただく。
20時半からはフォルクローレのダンスも始った。小型のギター、チャランゴを弾く男性、管楽器であるケーナやサンポーニャを吹く男性、そして大太鼓、ボンボを叩く男性が、客を楽しませる。
そのうちに踊りも加えられる。コカ茶を持ちあげて、ときには口をつけてみせたり、白いマスクを被って踊ったり、踊りながら客のお尻を鞭でたたいてみせたりする。
外に出る頃には昨日と同じようにぐっと冷え込み、雨が降り出した。こごえるように、宿に戻る。近くの広場では若者たちが雨も寒さも気にせずに、普段着でフォルクローレの踊りの練習をしている。
宿のソファでいつもかわいらしい顔で寝ていた猫が夜に何やら元気に飛び回っていると思ったら、どうやらネズミを捕まえたようだった。しばらくして、くちゃりくちゃりと音がする。その音と、それをかき消そうとする必死の鼻歌と、屋根にあたる雨の音とが混ざって響きわたる。
ほどなくして、ネズミは姿を消していった。
2012/02/21 23:46 |
カテゴリー:Peru
朝の4時ころに目を覚まし、暗闇のバスの鞄からAcetazolamidaの薬を取り出し、1錠を口に放りこむ。
そのまま再び眠りにつき、6時半ころ目を覚ましたときには、時計の標高は既に4300mあたりをさしている。頭が重く、呼吸も心なしか苦しい。前の座席の赤ちゃんは、泣き続ける。
窓の外は冷たく、結露をしている。厚い雲が覆う荒涼とした大地にゆるやかな丘が広がり、土の上にうっすらと雪がかかっている。ところどころに水の溜まる場所があり、ひんやりとした静かな朝だ。
そこからバスは徐々に高度を上げていき、時計は4500m辺りを示していく。
この冷えきった大地にもそのうちに家が1軒、2軒とたたずみ、足の白く細い茶色の動物たちが雪の上を歩いていく。
しばらくその高度を保ちながらバスが走っていくと、屋根に雪をかぶった集落もあり、人々が歩いているのが見える。
薬の副作用だと思われる、手足の先にぴりぴりとした痺れを感じる。身体が重く、1階にあるお手洗いへ行くための足取りも、たどたどしい。
バスはやがて高度を少し下げていき、日も明るくなってきた1時間半後には、緑の山に囲まれた川沿いの道を進んでいく。古い煉瓦づくりの家の屋根にももう雪はない。
3100mほどまで下ってきたところで、朝食が配られる。チーズのはさまったパンに、アップルとレーズンのパイ、そして砂糖の入ったコーヒーを、山沿いに走る揺れるバスの中で、器用な添乗員の女性がやはり無表情で配っていく。
川が増水して茶色く濁った水が道を浸していることがあるも、バスはがしがしとすすんでいく。
Chalhuancaのターミナルで一度休憩をとる。バスの外は、さして寒くない。そしてバスはまたクスコへと向かっていく。
昼ごろには、坂道に家々が建ち並ぶ大きな町、アバンカイを過ぎ、昼食が配られる。「爆丸 BAKUGAN」とキャラクターの書かれた桃のジュースのパックに、バナナチップ、ミルクのシリアルバー、そしてソフトキャンディーのセットである。二度目の薬を、半分にして、口にする。
道のわきにはサボテンが見られ、濁流に沿ってバスは走り、川を渡って走り続ける。緑の山の向こうには、草も生えない茶色く険しい岩山が雪をのせている。
そのうちに牛が草をはみ、とうもろこしや黄色いカブの花が広がる景色へと変わっていく。
テレビ画面には『ハチ公物語』の米国リメイク作品、”Hachiko:A Dog’s Story”が流れ、リチャード・ギアがスペイン語でハチに話しかけている。最後、ほろり、である。ペルー人乗客もくぎづけだ。
感動に包まれたバスは、やがて山の先に広がるクスコの町に突然行き当たり、徐々に町へと降りて行き、17:45にはクスコのターミナルに停車する。
こうしてバスは、リマ発アバンカイ経由クスコ行きという「ハードな道のりで、雨季である時期には甚大な遅延が生じる可能性がある」というふれこみにもめげず、障害物に停車することもなく、バスは予定の15時半到着を2時間ほど遅れる程度で到着する。
ターミナルには幾人かの宿の客引きがおり、その中で紹介された宿、Hospedaje “Emanuel”にタクシーに乗って向かう。
標高3399mほどのクスコで、やや頭が重く、手の先は痺れたままだ。
先生からもらった薬Acetazolamidaも切らしてしまったので、サンフランシスコ広場に面した薬局に行って高山病の薬を買い求める。宿の人も薬局の人も良いと勧めていたSorojchiを今回は購入して試してみることにする。
夕食は、宿からほど近いレストラン、Don Pimientoで、夕食セットをオーダーする。麺や野菜の入ったチキンスープに、細切りにした牛肉をトマトや玉ねぎ、ピーマンやフライドポテトと炒めたペルーを代表する料理の一つ、ロモ・サルタード、デザートに小麦粉のMazamorra、そして、ドリンクは高山病に効くと聞いたコカ茶を注文する。
すっかり満腹になってしまった。
2012/02/20 23:21 |
カテゴリー:Peru
朝食は、グラノーラに、昨日商店で買ったGuanabanaのヨーグルトをかけ、温かいカモミールティーを淹れていただく。
16時半にはナスカ、アバンカイ経由クスコ行きのバスが出る。4000mを超える峠を越すこのルートは「ハードな道のりで、雨季である時期には甚大な遅延が生じる可能性がある」となかなかに手厳しい言葉があちらこちらで見られるルートである。
宿の周りの薬局で、フアン先生に教えてもらった高山病に効く薬、Acetazolamidaを求めるも見つからなかったので、先生からいただいた4錠のその薬を握りしめて、いつもの通りにブラジル通りからバスに乗り、CIVA社バスターミナルへと向かう。
高山病には水分を多くとるのが良いので、乗車前に大きな水のペットボトルを買う。
食事つきのデラックスバスであっても、飲み物はコカコーラやインカ・コーラといった元気のある炭酸飲料だけのこともあって、その元気な飲み物を身体が受けつけ続けられないかもしれない。
一人一人乗客の顔をビデオで撮影し、車内案内をする映像がテレビ画面から流れ、バスは発車する。
鉄道が走る高架のそばを抜けていく。町はやや荒んできて、乾いた山にぎっしりと古い家が並んでいる。
やがて夕日に照らされた茶色の山々が連なる光景へと変わっていく。右手に海を見ながら、パン・アメリカン・ハイウェイをナスカのほうへと南下していく。看板に人がぶらさがっているのが見える。
夕食は、小さなチキンににんじん、グリーンピースに蒸かしたじゃがいも、ご飯、そしてMazamorraが、口をぎゅっと横に結んだままの、それでもきれいな女性によって配られる。
その後に林檎の炭酸ジュースが続いてまた配られる。
左手の遠くのほうに小さな橙色の灯がぽつりぽつりと見え、あとは時折車とすれ違うばかりだ。
2012/02/19 23:00 |
カテゴリー:Peru
ほんの少しずつ体調が回復してきたので、ブラジル通りからバスに乗り、バス会社のCIVA社で明日のクスコ行きチケットを購入する。
そして、旧市街へと向かう。アルマス広場まで行くと、カテドラルの大きいほうの教会は昨日と同じように扉が閉められていたが、その横の小さなほうの教会では今日も結婚式が行われていた。
リムジンから白く長いウェディングドレスを着た花嫁が出てきて、父親の腕に手をかけ、赤いカーペットを上がり、教会へと入場していく。その様子を多くの人がのぞきこんでいる。
そこからほど近いサン・フランシスコ教会に行くと、そこでもまた結婚式が行われている。傍の店でシュガーパウダーとごまのかかった、チョコチップの入ったバナナパンケーキを買って、教会前で食べる。
1546年から100年以上をかけて建てられたサン・フランシスコ教会の外にも新郎新婦がおり、その頭上を多くの鳩がいっせいに飛びまわっている。
この教会には、15のチャペルに地下墓地であるカタコンベ、修道院、宗教芸術博物館がある。
聖職者が使っていた図書室には、16世紀から18世紀にかけての書籍がずらりと本棚に並んでいる。中央にらせん状の階段があり、天井にはシンプルなシャンデリアがぶらさがっている。室内には穏やかな外の光が差し込んでいる。
回廊を通り、銀のみこしが置かれた部屋や最後の晩餐を描いた宗教画のある部屋などに通された後、教会の地下に位置するカタコンベに入っていく。
煉瓦で覆われたうす暗い地下室に仕切りが敷かれ、それぞれに骨やシャレコウベが丁寧に積み重ねられている。筒状の大きな円の中には、渦を描くように骨や頭蓋骨が敷き詰められている。
カタコンベは地下3階まであり、植民地時代の市民など約25,000名が葬られている。ここに埋葬してもらうために金を積んだといい、それだけ名誉のあることであったのである。
低い天井の格子からは教会がのぞけるものだから、この墓地が教会の地下に位置していることが分かる。そしてその上では結婚式が挙げられ、白い服装をした子どもたちもはしゃいでいる。
教会を出るころには既に夕焼けが見え始めていた。近くのチュロス・サンフランシスコで、クリームの入った大きなチュロスを買ってつまみながら、歩く。体調がまだ完全ではないのに、チュロスは外がかりっと中がもっちりとして、とろりとしたクリームが入っているものだから、ぱくりとたいらげてしまう。
先生に怒られそうだ。
そこからラ・ウニオン通りを通り、ラ・メルセー教会の前を通ると、ここでも結婚式が行われていた。近くのJr. de la Union駅からMetropolitanoに乗る。Metropolitanoというのも、ボゴタやキトであったのと同じように、真新しい改札とプラットフォームがあるバスであり、専用道路が設けられている。
磁気カードを購入して乗車し、ウェスティンホテルなどの集まるサン・イシドロ付近を通り、一気に南へと下ること30分ほど、新市街のミラフローレスにほど近いバランコ地区のBulevar駅に到着する。
降りたってすぐにクラブや洒落たレストランが並び、ムニシパル公園へ出るとスターバックスや教会が見えてくる。さらに海のほうへ階段をくだっていくと、ライトに照らされた「愛のため息橋」という名の橋へと続いていく。「愛のため息橋」なんていうたいそうな名前をもつ橋には、薔薇の花を手にした女性もいる。
この辺りは、牛の心臓の串焼き、アンティクーチョが有名な地区である。勧められたレストラン、Tio Marioに入り、アンティクーチョとじゃがいものセットをオーダーする。
おおぶりの肉を串刺しにして網焼きにしたもので、独特のかみごたえがあるが、味にくせはない。それを時折備え付けのスパイスにつけていただく。
串焼きにビールというのは、お決まりの組み合わせだと信じていたのだが、ここにはアルコール類が置いていない。まだビールに手が出される状態ではないので、おとなしくアニス茶をいただくことにする。
窓から、橋や渡ったところにあるエルミタ教会が見える。レストランを出るころには既に21時半をまわろうとしているのに、入口に長い列ができていた。
帰りは、ムニシパル公園からバスに乗り、ミラフローレス地区のラルコ・マル付近に向かい、それからラルコ通りやアレキパ通りを北上して、サン・イシドロ地区の中心を通り、宿に戻る。
旧市街のがやがやとした元気のある雰囲気と新市街のしっとりと落ち着いた雰囲気が同じ街、リマにある。
2012/02/18 23:11 |
カテゴリー:Peru
朝食は、全粒粉パンにマルメロのジャムをつけ、ペピーノメロンを切ったものとカモミールティー、温かなミルクといただく。
今日も宿からほど近いブラジル通りからバスに乗り、旧市街へ行くことにする。リマのバスの車体には、行き先の通り名が書かれているので、旧市街を通る”Abancay”という文字を、過ぎ行くバスの車体の上に探すことになる。
旧市街は変わらずに賑やかで、巨大アボガドを売る男性や、子犬を売る男性たちが町に立っている。
昼食は、中央市場の食堂で、Aji de Gallinaをいただくことにする。玉ねぎを炒めてスパイスを入れたものに、やわらかくほぐした鶏肉やユカ芋を入れて、最後にゆで卵をのせてパセリを散らしてある。それに、牛肉の入ったスープとレモネードがセットになっている。
入った食堂は、既に開業8年目だといい、そのカウンターは混み合っている。わたしたちが席についた15時ころには既に店じまいへと徐々に進んでいるところで、最後にはカウンターで店の女性たちと共に食事をする、ということになる。
そこから歩いてすぐの宗教裁判所博物館を訪ねる。中南米のキリスト教の浸透ぶりは確かなものだ。この博物館は1820年まで異端者への追求が続いた場所でもある。スペイン植民地下で異教徒と疑われた者は、拷問を受け、キリスト教への改宗を迫られるか殺されたのである。
手足を縛られ、黒い覆面をした男性に四方向に引っ張られている様子や手を縛られぶら下げられる様子、身体を固定されて水を飲まされる様子、首を木枠にはめている様子が人形を使って再現され、拷問に使われた錆びれた道具も展示されている。地下通路もあり、掘られた穴の奥底に人が閉じ込められている。
博物館を出ると、その隣にある消防署から赤くて大きな消防車がうーうーとサイレンをならしながら、出ていった。
アルマス広場を通り、ラ・ウニオン通りのsaga falabellaでSDカードを買い、木材で作られたバルコニーがせり出しているセビリア風のトーレ・タグレ宮殿を通り、サン・ペドロ教会へ行く間も、空の向こうにもくもくと黒い煙があがり、多くの人がそちらの方を見ている。
数台の消防車がサイレンをならしながら駆け抜けていき、ヘリコプターの飛ぶ音が聞こえてくる。町全体が落ち着かない。
サン・ペドロ教会は、イエズス会派によって、1625年から1638年にかけて建てられた教会である。人々が祭壇を前に、あるいは告解室で膝まづいている。
アルマス広場へ戻ると、カテドラルの中の小さな部屋の教会では、結婚式が行われていた。ブルーのネクタイをした花婿と白く長いウェディング姿の花嫁が教会から出てきて、友人たちと写真撮影をする。そのころには先ほど広場を覆っていた黒い煙も薄らいでいた。
そこからピロリ菌検査の結果を聞きに、バスに乗り、フアン先生を再び訪ねる。
「陰性でしたよ。」
変わらずに流暢な日本語でそう言う。薬を飲んで、食事に気をつけていれば2、3日で良くなると思います。
生魚、生野菜のほかに、たとえば町で売られているアイスクリームやかき氷も注意が必要です。アイスクリームは、夜に冷凍庫の電源を切り、朝にまた電源を入れ直していることもありますし、かき氷には水道水が使われていることもあるからです。それから、作り置きのものをレストランで出されてそれを食べたときには今回のようになる場合もあります。
先生も生野菜は自分で買ったものしか食べないし、かき氷も我慢をするという。
でもね、口から採れる栄養は口から採ったほうが良いんです。それができないときは、仕方なく点滴で栄養をとるわけです。
わたしたちが礼を言うと、先生は言う。
とんでもありません。
近くの商店でオレンジ、マンダリンに林檎と梨を買って帰ることにする。夜は林檎を切ったものに、マンダリン、そしてカモミールティーをいただいておしまいにする。
2012/02/17 23:39 |
カテゴリー:Peru
« Older Entries
Newer Entries »