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2012年02月

車で連れて行ってもらう – Lima, Peru

シンプルなつくりのバスも、6時半ころにはリマのFlores社ターミナルに到着する。

売店で売られていた桃のジュースを飲んだあと、行こうと思っていたJesus Maria地区の宿に向かうことにする。ターミナル前から出ているバスに乗り約5分、下車をしてうろうろと探すものの、なかなか見つからない。

食料品店に入り、その場所を尋ねると、店の主人が何かつぶやいてから店を出ていき、そのうちにどこからともなく日本語を話すフランシスコさんが現れた。ブルーのシャツに黒いパンツをはいた、きれいな身なりをしている。

タクシー運転手をしているというフランシスコさんは、「車に乗ってください、探している宿まで連れて行ってあげます、大丈夫、タダだから。」と言った。会社所有のものだという、日産のタクシーに乗りこむ。

大学を卒業したその日に、日本で働く従兄から電話がかかってきて、日本で仕事をしないかと誘われたのだという。そのまま飛行機に飛び乗り、1991年から2001年までの10年間、日本のあちらこちらで仕事に励んだ。

その間に産まれた息子さんはもう16歳だという。現在スペインにいる奥さんとは別れ、息子と二人暮らし、リマでタクシーの運転手をしている。

ペルーの景気は上向きだと言う。よくペルーで耳にするフジモリ大統領について尋ねると、「それまでの大統領のときは経済はバラバラだったけれど、フジモリ大統領はそれをまとめあげた。それは良いこと。でも、わいろが問題で捕まっちゃったね。」

日本の料理は刺身も納豆もおいしいとお腹に手をあてる。

数軒の宿をあたるも、今バレンタインデーの連休中だというペルーはどこも満室が続いた。数時間休憩ができる宿もあるという。

いろいろとフランシスコさんの運転で宿をあたった果てに、以前に見たことがあったというホステル、Markawasiに連れてきてもらい、そこに部屋を見つけて、確保する。

昼食は、宿のテラスで、スーパーPlaza Veaで買ってきた林檎とグラノーラにtutti fruttiのヨーグルトをかけていただく。

ここペルーは日系移民者も多く、移民80周年を記念して1981年に建てられた日秘文化会館や日本人移住史資料館もリマにあるというので、訪ねてみることにする。

日秘文化会館行きバスに乗るためにバス停に向かっていると、再び日本語で話しかけられた。

酒屋で働いているというマウロさんは、日本語で言う。「前、群馬に住んで働いていたよ。」

少しだけの会話を交わした後、再びバス停に向かって歩き出す。すると、酒屋のトラックに乗ったマウロさんが追いかけてきて、連れて行きますからどうぞ乗っていってくださいと促す。同僚を電気のない荷台に閉じ込め、わたしたちを助手席に乗せて、日秘文化会館まで送る。

日秘シアターや日秘総合診療所がそばにある日秘文化会館に入ると、千羽鶴がずらりとぶら下がっている。

2階にある日本人移住史資料館では、1899年、佐倉丸に乗った最初の移民790人が横浜港を出港して34日間でペルーCallao港にたどり着いてから今日までの様子を中心に展示している。特に新潟、山口、広島、岡山、茨城、東京といった場所からの移民が多かったという。

初期移住者が過酷な環境の中ゴム園で働いていたこと、その約80年後の1980年代におきた日系ペルー人の「出稼ぎ現象」、1996年トゥパク・アマル革命運動の武装テロリストによる人質事件にも触れている。

調子の良くならない体調を抱えながら、1階の日本料理も出すレストランNakachiで、うどんをいただくことにする。

チャーシュー、鶏のささみに野菜、うどんの入った「Kake Udon」をオーダーする。ほどなくして運ばれてきたうどんのスープをすすり、しばらく目を閉じる。スープはぬるく、うどんもやや粉っぽい。それでも、久しぶりの日本食に浸る。レストランでは、日系らしい女性が多く、スペイン語と日本語が聞こえてくる。

会館を出るころには夕焼けが見え、バスに乗って宿に戻る。

夜の11時42分、マグニチュード4.8の地震があり、短い時間だが、ぐらりと揺れる。

こうしてペルーの大都会リマの初日は、日本を想う一日となった。

ナスカの地上絵は見に行く価値がありました。 – Nazca, Peru

今日は、セスナでナスカの地上絵を見に行く。このナスカの地上絵、見えづらくてがっかりするだけだ、セスナが揺れて絵を見ているどころではない、という話を聞いてきた。でも、巨大な絵がいくつも平原に書かれている、なんて不思議に過ぎる。

朝の9時にバンが宿へ迎えに来るころ、町は日曜市がたち始め、それによってもたらされた交通渋滞でクラクションがぶーぶーびーびーと鳴り響いている。

ナスカ空港まで約10分、ちょうど卒業旅行でペルーに昨日到着した東京からの男の子3人がバンに乗っていた。10日ほどペルーを回るのだという。今までほとんど見なかった日本人がナスカ空港にはいた。この時期のペルーの日本人宿は卒業旅行によるハイシーズンだとも聞く。

空港にはいくつかの航空会社のカウンターが並んでいるが、Nazca Travel Air社でチェックインをする。静かなカウンターもある一方、多くの旅行客がこのカウンターに集まっている。

氏名、パスポート番号、国籍、年齢、体重を改めて記入し、パスポートを提示し、鞄を置く。わきには体重計も置かれている。

1時間ほどしたところで名が呼ばれ、改めてパスポートを提示し、セキュリティチェックを受けて搭乗口へと向かう。エプロンには10機ほどのセスナが並んでいる。

機長から、フライトする地上絵の順番などに関する簡単な説明を受けてから乗り込む。操縦士2名、乗客4名である。

ヘッドフォンをつけてエンジンがかかると、すぐに離陸となり、ぐんぐんと150mほどまでその高度をあげていく。

乾いた大平原パンパ・インヘニオには、思いのほか、地上絵の地図として手渡されていた絵柄以外の数多くの直線やゆるやかな曲線が描かれていた。ところどころに茶けた丘が盛り上がり、はるかかなたに山々が連なっている。

1939年、ポール・コソック氏によりはっきりと地上絵の存在が確認される前に建設が進んでしまっていたパンアメリカン・ハイウェイが、大平原の真ん中にコンクリートの道をまっすぐに引いている。

ヘッドフォンを通して一つ一つ説明をされながら進んでいく。なかなかに聞き取りづらいが、それでも手元にある地図をみて確かめながら、進んでいく。

くじら、不等四辺形、宇宙飛行士、さる、犬、ハチドリ、コンドル、蜘蛛、フラミンゴ、オウム、木、手、小さなコンドル。

聞いていたよりも、ずっとその線ははっきりとしており、セスナも想像と比べて揺れは少ない。宇宙飛行士は茶色の丘に大きく描かれ、ハチドリも蜘蛛もは黒い砂の上に白く浮かび上がる。パンアメリカン・ハイウェイの脇にたてられたミラドールのそばに木と手が描かれている。

約30分のフライトはあまりにもあっという間だったが、忘れがたいフライトになった。

フライトが終わると、再びバンに乗ってナスカの町に送ってもらう。町のレストラン、La Kanadaで、紫とうもろこしをシナモンとグローブで煮て濾し、レモンを加えたチチャ・モラダを飲む。

Soyuz社のイカ行きのバスに乗り、40分ほどいったところにあるミラドールへと向かう。地上絵の解明と保存に貢献した故マリア・ライヘ女史の観察やぐらで、セスナからも見えたものだ。

やぐらに上がる前はただ荒涼とした平地であったものが、やぐらを一段一段と上がるごとに、地上絵が姿を現す。

その線を目で見てみると、ごしごしと力いっぱいに描かれているのが感じ取れる。時折セスナが頭上を通り過ぎていく。

ところどころで砂埃が舞い、そしてそのうちに小雨がぱらりと降ってくる。そんな場所に、深さが10cmほど幅は20cmほどしかない線による大きな絵が、存在している。

そこから、通り過ぎるバスを再びつかまえて、先を行ったところにあるマリア・ライヘ博物館に向かう。

マリア・ライヘ女史が地上図の横でほうきを持っている写真や各絵柄を入念に計測していた様子、細かく数字の書かれた計測図、三角定規やメジャーなどが展示されている。

庭には、マリア・ライヘ女史と夫レナーテ氏の墓が花に囲まれ、その横で、子どもが自転車に乗って遊んでいる。

研究室を再現した部屋には質素なシングルベッドやテーブルなどが置かれるのみで、壁には計測図がずらりと並んでいる。

いよいよ雨が激しくなるころ、CUEVA社のバスをつかまえてナスカの町へと戻る。宿のある、舗装されていないマリア・ライヘ通りはぬかるんでいる。日曜市はそろそろ終わりを迎えようとしていた。

リマ行きバスの出る22時半前、Flores社の窓口へ行く。指紋をとり、一人一人の顔をビデオカメラで撮っていく。

チケットに書かれていた41番と42番の指紋の欄には既に別の人の指紋が押されていたが、窓口の男性はさして気にしない様子で、その隣に押しなさい、と言う。

言われるままに指紋を押し、バスに乗り込むと、その座席には既に親子が座っていた。よくチケットを見返してみたら、わたしたちのチケットの日付が昨日の日付になっていたのであった。

満席のそのバスから降り、カウンターに交渉に行くとアレキパ発ナスカ経由リマ行きの最終バスが23時半に出るという。

その最終バスに空席がないかを調べてもらっている間も、既に扉の閉められた柵越しに幾人もの人がリマ行きのチケットはないかと尋ねてくる。その度に、バス会社の男性は首を横に振る。

アレキパ発のバスにちょうど二席分の空席があるというので、それに乗ることにする。そのバスは、今まで乗ってきたペルーの豪華バスとは異なり、シンプルなつくりのバスだった。

バスに乗車したとたんに、人々の匂いがむっとしてくる。多くの乗客がとうに深い眠りについていた。

デラックスバス – Lima / Nazca, Peru

夜中の1時を過ぎたころ、ターミナルでバスを待つのはわたしたちだけとなり、バス乗り場のほうを除いた全ての電気が消され、ターミナルに面した通りの灯を頼りにすることになる。

午前3時を過ぎたころ、ターミナルは再び明かりをつけ、またぽつりぽつりと乗客が集まってくる。

定刻の3時45分、今回は指紋ではなく、一人一人の顔がビデオカメラによって、いたって明るく、撮影される。

朝の7時半ころ、砂漠に伸びるまっすぐな道の先に、淡い水色をした海が見えてきた。そして多くの乗客が、そのPiscoで下車をする。

それからまもなく朝食のサービスがあり、チーズとハムのはさまったサンドイッチと林檎が配られ、コーヒーとともにいただく。

このバスでは、朝食があるので椅子をおこすように、という車内アナウンスまで流れる。続いてそのスペイン語が英語となって繰り返されるものだから、飛行機さながらのサービスである。英語が若干たどたどしいのが、なんとも良い。

その後、大きな砂丘をもつ、賑やかな町Icaを越え、バスは乾いた平地に伸びるパンアメリカンハイウェイを南へと下っていく。そして、11時半ころにナスカへと到着する。

少しの肌寒ささえ感じたリマの夜中とはうってかわり、ナスカは暑い砂漠の中の町だった。リマへ戻るバスチケットの予約をFlores社で済ませた後、ナスカの地上絵を観るためのセスナを予約しようと、Jr.Lima通りの数軒の旅行会社をあたる。

Condor Nazca社にて予約をすることにし、朝のほうが絵が見えやすいということなので、明日9時に宿に迎えに来てもらうことにする。

氏名、パスポート番号、国籍、年齢、体重を用紙に記入する。

サングラスをとると途端に柔和な顔つきになった窓口のペルー人男性が、一連の手続きをした後、望む宿までバギー車で送ってくれると言った。

宿をとり、部屋で休むも、どうにもお腹の調子が優れないので、とれる夕食を探しに外出することにする。

アルマス広場に面した教会で、結婚式が行われている。ナスカの教会で挙げる結婚式。神父の向かいに新郎新婦が立ち、多くの人がそれを祝福している。

スーパーRaulitoで、tutti fruttiのヨーグルトとGatoradeを買う。舗装されていない道はぬかるんでいる。

ビニール袋をぶら下げて帰る途中に、ガラスのケースにケーキやスイーツを積んだいくつかの屋台が並んでおり、思わずそこでアップルパイを買って帰ることにする。

宿では、オーナーのまだ小さな娘さんが、頭にちょこんとリボンをつけて、留守番役として、扉の開け閉めから電話応対、接客などをマイペースにこなしている。一通りの仕事を終えると、大きなパソコンの前に座り、YouTubeをじっと見ている。

太陽のワカ・月のワカと、ターミナルの夜 – Trujillo / Lima, Peru

朝早くに起きて太陽のワカ・月のワカを見に行くことにする。霞んだ空の下、海は太陽の光を浴びてうっすらと淡い。朝早くから海ではサーフィンをしている人もいれば、トトラ舟を漕ぐ人も、道でごみの回収をする人もいる。

8時半ころに宿を出て、トルヒーヨまでバスで45分ほど、そこから混雑するバンに乗り換える。

乗客が一人二人と降り、20分ほど走ると、フロントガラスの向こうに、険しい丘、セロ・ブランコが見えてくる。入口にある商店の女性が作ったというオレンジケーキを買い求め、それをほおばりながら見学をすることにする。

太陽のワカ・月のワカとは、約100ヘクタールにわたるモチェ王国の町の遺跡である。政治、行政の中心であった要塞、太陽のワカと、宗教儀式を行う場であった月のワカは向かい合って建っている。

その間500mにはかつてのエリートが住んでいたといい、建物跡が残っているのが見える。

月のワカには入ることができる。古い建築物を覆うように新しい建築物を建てる当時の習慣が、内部の保存を促し、赤や黄、黒のモチェの主神Ai Apaecなどのモチーフが色鮮やかに残っている。シンメトリーのモチーフ、繰り返しのパターン、動物や人、植物などが並ぶ壁面には圧倒される。ちょうどテレビ撮影まで入っていた。

月のワカの上にたつと、西に太陽のワカが見える。日干し煉瓦のアドべが1億4000万個ほど使われていたその要塞は今ではまるで泥の塊のようであるが、近づいてみると、その煉瓦がところどころに見えてくる。

今も発掘が続いているとのことで、遺跡は動きに包まれている。

首都リマまでのバスが12時ころにあるというので、LINEA社のバスターミナルまで、モチェ川を渡りながらタクシーで向かうことにする。タクシーの運転手の男性は、いとこ二人が東京の民芸品の店で働いていると嬉しそうに話してくれた。

11時59分発リマ行きのバスにただ二席空いていたので、そこに席をとる。

このバスも昨日のバスと同じかそれ以上にデラックス、なのであった。ゆったりととられた座席には大きなフットレストがついており、脚をぐっとのばし、肘もぐんと広げて肘掛けに置き、座席はぐいと倒すことができ、毛布も枕ももちろんついている。

発車後まもなく、昼食として、鶏肉とベーコン、じゃがいものクリーム煮にライスにキャラメルのかかったケーキがふるまわれる。ドリンクはコカコーラやインカコーラから選べ、今日もまた蛍光黄色のインカコーラにする。

昨日のバス以上にリクライニングが効くため、座席の後ろにテーブルを備えることができない。カップ置き場が座席の横に備えられ、食事は膝にかけられた毛布の上にプレートを敷いていただくという具合である。

茶けた乾いた山々が続き、ところどころに土や木でつくられた家々が並ぶ。時折、乗用車や、穀物やら野菜、藁などを積み込んだトラックとすれ違う。

3時ころにはポップコーンの袋まで配られる。本を読んだり、画面に流れる映画を観たり、うとうととしたりしていれば、18時半ころ、右手にオレンジ色の太陽が海に沈もうとしているのが見えてくる。

そろそろ日の暮れるころ、夕食のサンドイッチが配られる。やがて800万人近くが住む大都会リマへと入り、近代的な建物が並び始め、21時ころLinea社のバスターミナルへと到着する。

できればこのまま夜行のバスに乗ってナスカまで行きたいと、ナスカ行きバスを出している、Cruz del Sur社、Tepsa社、Ormeno社といったバス会社のターミナルが集まるAv. Javier Prado Esteに向かってタクシーに乗る。よく話をするタクシーのおじさんは、フジモリ大統領は良くないと語った。

4社のバス会社をあたるもどこも今夜の夜行バスは満席で、明後日まで満席だという会社もある。

大通りには、ふっくらとした大きな胸をもつ、長い金髪の男性が黒いタイトなミニスカートをはいて、上半身を露出している。

Cruz del Sur社の朝3時45分の便に二席だけ空いていた席を見つけ、ターミナルでその時間まで待つことにする。

国境からトルヒーヨ、チャンチャン遺跡とワンチャコ海岸 – Border with Ecuador / Piura / Trujillo / Chanchan / Huanchaco, Peru 

橋を渡ったところにあるペルーのイミグレーションオフィスもまた小さな建物があるのみだ。窓口に人はおらず、声を出して呼び出すと、眠そうにした普段着の男性が出てきた。パスポートを差し出すと、男性は奥にひっこみ、代わりに別の男性が出てきた。

こちらも一枚の紙に必要事項を記入すれば良いだけの簡単なものだった。目的地トルヒーヨまでのバスは何時に来ますかと尋ねると、トルヒーヨとの間のPiura行きまでのLoja発のバスが朝の4時に来る、と言う。結局、当初検討していたLojaからの夜行バスを待つ、ということになるのであった。

雨の降る暗闇に濁流が流れ、脚の悪い犬がそれをじっと眺めている。辺りは時折車が通っていくほかはしん、と静まり返り、たくさんの虫が飛んでいる。イミグレーションオフィスには「探しています」と書かれた長髪の女性の写真が貼られている。

イミグレーションオフィスの向かいにある、ぽつりと灯のついた別の小さな建物の外に椅子を置かせてもらい、バスを待つことにする。

2時間ほど待った4時過ぎにLojaから出発した夜行バスが国境まで到着したので、席を確保する。他の乗客の入国手続を待ち、バスは4時半を過ぎて、出発した。

バスが進んだ先には数軒の商店が並び、やがてそれは家にかわり、そしてそのうちに木々が生えるだけの土地になる。

国境を出発して1時間半ほど経ったころ、警察だという男性がバスに乗り込み、わたしたちだけにパスポートの提示を指示し、バスを一度降りなさい、と言う。指示に従い、バスを降りる。警察官たちはいくどもわたしたちの国籍を尋ね、そしてパスポートを持って、道のわきにある建物に消えていった。

前方にはまっすぐな道が続いている。右手には月が見え、左手は暗闇から深い青色の空へと変わりつつある。

わたしたちを置いて先を急ぎたがる運転手をなだめ、じっと警察官を待つこと5分ほど、行ってよいというので、バスに乗り込む。

それから2時間半ほど、ペルーに初めて降り立った街は、Piuraという街だった。

バスターミナルはバス会社ごとに分かれており、目的地トルヒーヨまでのバスを出すIttsa社のターミナルまで2ブロック歩くことにする。

Piuraの町の地面はぬれていて泥にまみれており、人や車ががやがやと行き交う、元気な街だった。こうしてようやくコロンビアとエクアドルの街が静かな落ち着きをもっていたことを知ることになる。

Ittsa社のターミナルに着いたのが8時50分、9時に出るバスがちょうどあるというので、それに乗ることにする。乗車時に指紋をとられるものの、ペルーのパンアメリカン・ハイウェイを通るバスは競合も多く、サービス抜群の快適バスなのであった。

バスは2階建てとなっており、冷房の効いたつくりになっている。そして出発してまもなく、かわいらしい添乗員の女性が、ソーセージとレタスのはさまったロールパンと、ガムが中に入ったグレープフルーツの飴を一人一人に配ってくれるのである。その後にはコーヒーやヨーグルト、ジュースなどをいただくこともできる。

そうとはいえ、立派に見える椅子のつくりはややがたつきが見られ、前の人が椅子の角度を変えると、わたしたちのテーブルに置かれたものがひっくり返る仕組みになっていることも、ある。

街から出ると、そこには平原が広がっており、田んぼやとうもろこし畑や水路がところどころに見られ、働く人々が点々としている。南へ向かうにつれ、辺りは乾燥していき、乾ききった白い土と草が混在し、そのうちに白い土と葉のない木が広がる平地となる。

さらに南へ向かうと、右手に穏やかな海が広がっているのが見える。そしてそのうちに、木も生えない乾燥地帯となる。ただまっすぐに南へと平地を向かうバスは、さほどゆれることもない。

3時間ほど経ったころ、チクライヨの町に到着する。2日ほど前に大雨が降ったとのことで、町の地面は凹んだところに水がたまり、深い水たまりになっている。そしてその向こうは、すぐに乾いた地面になっているという具合である。

チクライヨの町を出るとすぐに、今度は昼食が配られる。トレーに、チキンとユカ芋、アボガドとマヨネーズをからめたサラダ、そしてフルーツゼリーが乗ったセットである。ドリンクも朝食とはかわり、蛍光黄色のインカ・コーラなどが用意されている。

その後も時折田んぼやとうもろこし畑などが突然現れる他は、乾いた土地が続く。そのうちに遠くに大きな山の連なりが見え、その前に広がる砂漠にぽこぽこと砂の山があり、そこにだけもこもこと草が生えている。

そんな風景を眺めながら、16時ころにトルヒーヨのターミナルに到着する。チャンチャン遺跡の閉まるまでまだ時間があるので、タクシーに乗り、遺跡に向かう。

チャンチャン遺跡とは、1100年ころからインカに征服されるまで栄えていた、700kmにおよぶ地域を支配していた王国チムー王国時代の首都跡で、20kmにも広がる、世界遺産に登録されている遺跡である。  

タクシーの中からその広大な遺跡の様子が見えてくる。遺跡は平地に迷路のように入り組んでいる。当時と同じであろう、風が吹いている。

日干し煉瓦(アドべ)で造られている遺跡は、神殿、儀式を行う広場、墓地などに分かれ、それぞれに鳥や魚のモチーフや丸や網状のパターンが繰り返し施されている。中心部には大きな井戸があり、豊かな水をたたえている。

見学をしていると、ペルー人観光客の女性から一緒に写真をとってください、と言われる。

遺跡のほど近くにワンチャコ海岸という海岸があるので、そこに宿をとることにする。遺跡から、バスの走る通りまで砂道を歩いていると、ぺルー人観光客を乗せたバスが、乗っていきなさいと促してくれる。

家族連れでツアーに参加している人もいれば、男性一人参加している人もいる、その観光バスもワンチャコ海岸にこれから立ち寄るということで、乗せていってくれるという。

到着するころにはもうそろそろ日の入りの時間を迎えるころで、砂浜に座って、日の沈むのを待つことにする。波は高く、サーフィンをしている人もいれば、波打ち際できゃきゃとはしゃぐ子どもたちも、砂浜で本を読む男性もいる。砂浜にはモチェ期のころから使われているという葦でつくられたトトラ舟が幾隻も立てかけられている。

やがて太陽は、西の空の雲の中へと沈んでいった。

宿を探そうと地図があるという警察署を訪ねると、今度は警察が、望む宿まで送っていくから車に乗りなさい、と言う。言葉に甘えて荷物をパトカーにつめこみ、車の上でくるくるとライトを回すパトカーによって、宿まで連れて行ってもらう。こちらが日本人だと分かると、フジモリ大統領の話になり、フジモリ氏は良かったと、珍しく言った。

こうして宿にたどり着く。隣のレストランでは、愉快な音楽に合わせて、人々が踊っている。

身支度を整えた後、波の音が聞こえる海岸沿いを歩いて、開いている数軒のレストランから、Jungle Bar Restaurant Bilyを選び、夕食とする。

ぺルーは水産大国だといい、そのセビーチェもよく知られているというので、地元のビール、Trujilloビールに合わせてセビーチェをオーダーし、トトラ舟のたてかけられた暗くなった海を見ながら、いただくことにする。セビーチェには海老や貝、魚にとうもろこしやユカ芋も入っており、そこにレモンの味がきゅっとつまっている。

宿に戻るころには、隣のレストランも既に人気がなく、辺りは静まり返っていた。