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2011年12月

きらきらしているカンクン - Cancun, Mexico

ハバナから1時間半もしない内に、機体はメキシコ、カンクンに到着する。空港も、市内に向かうADOのバスターミナルも、いつの間にかクリスマスの飾りつけが施されて、ツリーが置かれている。

こんなにもきらきらとしている。

キューバにいる間荷物の一部を置かせてもらっていた宿のHostal Hainaに戻って挨拶をした後、パラパス公園に行って夕食をとることにする。公園のステージではユカタンの踊りが盛大なフィナーレを迎えている。

そばにあるCRISTO RAY教会ではミサが行われていた。淡い黄色のドレスで着飾った、15歳を迎えたという女性二人が真ん中に座っており、黄色いシャツに黒いスーツを着た男性が囲んで祝福されている。教会の前では、ローマ教皇が表紙になっているSagrada Familiaという新聞が配られ、わたしたちにも渡された。

公園のそばにあるArracheraと鶏肉のブリトーと、Cueritosという豚の酢漬けをチチャロンにのせたもの、それからしっとりとしたチョコレートケーキに、ピンクと白いクリームののったショートケーキを食べる。さまざまな種類の食べ物が、メキシコにはあった。

キューバを離れる前に。 - Havana, Cuba

今日もハバナでは雨が降っている。家に不在のClaraさんの代わりに、家の別の女性が朝ご飯を作ってくれた。カリカリのパンと卵と玉ねぎの炒め物、コーヒーに砂糖のたっぷり入った温かいミルクである。このミルク入れの取っ手はぐらつき、注ぐときにぽこりと外れてしまう。

傍目綺麗に見える洗面所も、手をついたらガタリと崩れてしまいそうで、ところどころに、ひんやりさせてくれる仕掛けが施されているのである。

メキシコへのフライトまでに少し時間があったので、大きな荷物をもって、タクシーで中華街周辺へ向かう。

タクシーを運転する若いかっこいい風男子は、若いかっこいい風音楽をかけつつも、大きな荷物をもって乗り込んだわたしたちをさりげなく迎え入れ、地元価格である一人10MNを提示し、中華街の奥まで連れて行ってくれた。

ハバナのタクシーの中で、かわいらしい古い車を使ったタクシーは、通常5人程度乗せられる乗合いタクシーであり、昼間であれば一人10MNで、ある程度の行き先まで連れて行ってくれるのである。

大きな荷物を抱えるわたしたちは余分なスペースをとってしまっていて、彼にとってはいかにも効率の悪い客なのであるが、彼は顔色一つ変えずに、ステレオのつまみを少しいじりつつ、道に立つ人々に対して、車がいっぱいだから乗せられないと手で合図をする。

わたしたちは、感激する。

昼間の中華街は、夜とは少し違って見えて、洋服や雑貨を売る商店では人だかりができている。中華街の周りには、フルーツや野菜、肉や金属部品を売る地元の市場や定番のハムやチーズをはさんだパンを売る店、小鳥を売る店が点々としている。外貨とCUC、MNに両替をするCADECAには、今日も行列ができている。

最後にパイナップルジュースと、カステラにクリームののった小さな菓子を買って、椅子の半分以上が壊れている店内でそれをいただく。店の主が、わたしたちに一輪の花と、似顔絵をプレゼントしてくれた。そして、最後に言う。「ペンをくれないだろうか。」

Danielさんというベテラン運転手のタクシーに乗り、空港へ向かう。Danielさんには既に孫がいて、以前はキューバを走るバスの運転手であったが、今はこうしてタクシー運転手になったのだそうだ。

家ではラム酒であるハバナ・クラブを飲むという。よく一般的に飲まれているMulataのラム酒はあまり好まないらしく、またビールは高いから、結果としてハバナ・クラブを飲んでいるらしい。

車は、キューバのタクシーとしてよく走っているシボレー車の1951年製。モーターは日産のものだという。松坂は素晴らしい選手だ、と言った。「日本の道路はこんなふうにポコポコしていないだろう?」そして最後に言う。「子どものために5CUCくれないだろうか。」

クバーナ航空は遅延が多いと聞いていた話にたがわず、予定時刻の13時45分を1時間程遅れてハバナを飛び立った。夢を抱えた稀有の国、キューバがどんどんと遠ざかっていく。

わたしたちは、またキューバリブレを飲むのである。

思いのほか、のキューバ - Havana, Cuba

今日は、朝から雨が降っていて、肌寒い。

キューバンアートをみられる国立美術館キューバ芸術館を訪ねる。

Antonio Gattornoの「Quires mas cafe, Don Ignacio?」 (1936)では、木の部屋の中に座っている薄い水色のワンピースを着て、首飾りを身につけ、頭には白い花をつけて微笑む女性の左手には煙草があるあたりがキューバらしい。

Augusto Oliva Blayの「El Malecon」(1929)やReni Portocarreroの「Homenaje a Trinidad」(1951)や「Paisaje de la Habana」(1961)を通して、キューバの街並みが当時とほぼ変わっていない様子を垣間見ることができる。

宗教画から現代アートまでを展示しているのだが、宗教画も含め西洋絵画の影響が色濃い。宗教画においては、十字にはりつけられたキリストが登場し、キューバの生活習慣や文化、街並みがいかに西欧諸国の影響を強く受けているのかが再認識することになる。ただそれも時代とともに、徐々に、変わっていく。

Marcelo PogolottiはFordismo o El acaparador. De la serie Nuestro Tiempo, 1930-31としてTHE FORD TIMESやFORDS STORE、FORD FACTORIESと書かれた店に人の集まっている絵を描く。

Rafael Zarzaは「El rapto de Europa」と題して1968年に牛とそれに乗った片腕の女性と薬の瓶を描く。

Manuel Mendiveが「Barco Negrero」と題した1976年の絵では、大きな船の下に首をつながれた黒人が詰めこまれ、その上に白人が立っている絵を描く。

Consuelo Castanedaは「Boticelli, Hokusai y lus tiburores」と題して1988年にボッティチェッリのヴィーナスの誕生と葛飾北斎の冨嶽三十六景、そして魚のオブジェをくっつける。

Jose Angel Toirac Batista, Tanya Angulo AlemanはCuba campeonと題して1991年にCubaのボクサーの手の位置にUSAとユニフォームに書かれたボクサーの頭を描く。

国立美術館からほど近い海に沿ったプエルト通りに、伊達政宗の家臣で、慶長遺欧使節として送り出され、日本人としてキューバに初めて降りたった支倉常長の像がある。宮城県に3つのお墓が残されており、シンプルな日本風庭園に佇む常長さんの足元には仙台まで11,850mと書かれている。

キューバの人たちは、思いのほか日本についてよく知っていた。マツザカ、イチローと名前を列挙したり、柔道マスターだという人たちもいる。いくども日本の「ヤギチャン」を連発されて、ほら、映画の、と言われるのだが、いまだにこの「ヤギチャン」は誰だか分からない。「ジャッキー・チェン」を日本人だと思っているのかもしれない、と勝手に想像する。

今日で残念ながら授業も終わり。図らずもいろいろな話を聞くことができた、おちゃめな先生だった。

Enriqueさんの家も自由な空気が流れていて大変に居心地が良かったけれど、授業も終わったので、先日道で声をかけられたMiguelさんに紹介されたClaraさんの家に今日は移動することにした。

Claraさんに会いに宿を変えたようなものだったが、到着してみると、いるはずのClaraさんは明日まで帰ってこないという。

夕食は23通りに面した1965年創業のEl Cochinitoで、「豚肉ステーキCochinitoスペシャル」をいただく。ハバナ・クラブにCarta Blanca、マラスキーノのリキュール、パイナップルジュースで作るカクテル、ハバナ・スペシャルと、周りの客がよく注文していたMalta Bucaneroをとあわせる。Malta Bucaneroは黒い色をしており、Bucaneroビールの黒ビール版かと思ったら、甘い甘いソフトドリンクであった。

大きな豚肉をそのまま焼き、ポテトと黄色いライスがついてくる、おおらかな料理で、いかにもキューバらしくて良い。最後にレシートを見てみると、金額が合わない。

キューバではレシートはよく確認すべきとアドバイスを聞いていたが、キューバのレストランでは、にっこり笑顔のウェイターさんが、軽やかにひともんちゃく起こしてくれるのである。

夜は、きんきんに冷えたモネダ・ナショナル系ビールCaciqueを飲みながら、眠ることにする。雨が強まり、先ほどまで家の周辺一帯に響き渡っていた爆音音楽もひっそりと音をひそめていた。

キューバは、思っていた以上に、人々が奥ゆかしくて、シャイで、礼儀正しくて、言い回しが少し遠まわしで、きれいずきな国だった。明日には、キューバを離れなければならない。

キューバ、ということ。 – Havana, Cuba

今日は午前中に革命博物館をめぐった後に、授業で先生からさまざまな話を聞く。

革命博物館では、チェ・ゲバラやフィデル・カストロの他にも、今の国家評議会議長であるフィデルの弟Raul CastroやFrank Pais Garcia、1890年代に第二次独立戦争を指導したホセ・マルティについても詳しく紹介されている。

そしてカストロがチェ・ゲバラとともに1956年11月25日にメキシコTuxpanから渡り、12月2日にキューバへ上陸したグランマ号も展示されている。

キューバで会った人たちに聞いたお話を、ここにそのまま書いてみたいと思います。見解や事実が違うこともあるかと思うけれど、これが会ったその人の考えかたと知ってること。

・今後ラテンアメリカでの結束強化は非常に重要な意味をもつ。キューバは現在中南米と良好な関係を築いているが、これは米国にとって好ましくない。キューバが経済発展を遂げることを米国はよく思わないのである。

・ベネズエラのチャベス大統領との関係は良好であり、ベネズエラの石油とキューバの医療や教育を相互協力している。

・インターネット回線もベネズエラの協力のもとベネズエラからキューバまでケーブルをつなげ、将来的にキューバ家庭でもインターネット利用が可能になるはずである。

・今年2011年は、キューバにとって大変に重要な年である。不動産売買、自動車売買を認可する法律が制定された他、銀行からの借金上限金額3000MNが解除され、利息2、3%で借りられるようになったという。ただし、娯楽のために使うのではなく、目的が家の修理や事業といったことである必要があり、収入がある者のみが対象である。

・給料は勤務年数によって若干上がったりはするが、基本的には上司であろうと新入りであろうとほぼ変わりない。医者や教師であっても給料は低い。政治家も同様である。

・1960年代多くのキューバ人が米国へボートで渡ろうと試みて、命を落としていた人もいる。

・キューバサイドは、米国との距離をより緊密なものにしたいと思っているが、米国が経済封鎖を解除しない。特に子どものために必要とされている薬が輸入できないのは大変な問題である。

・社会主義でもある中国とはビジネス面においても協力しあえるはずだが、物理的に遠い。物理的に近い米国と貿易できることが望ましいが、米国サイドがそれを良しとしない。これは不自然なことである。

・資本主義は人々を幸せにしない。ブッシュはひどい大統領であったし、オバマも同様である。資本主義により、人々はおカネにだけ執着するようになり、ストレスが増えるのである。1日8時間の労働がちょうど良いのである。

・米軍基地がグアンタナモにあることをキューバ人は快く思っていない。

・革命も社会主義も素晴らしいものであるが、今のキューバ経済は芳しくない。ただ経済不況は革命や社会主義、政府の問題ではなく、世界中各国共通の問題である。医療や教育が無料となった革命は支持されるべきである。

・一部キューバ人は革命や現政府に対して不満をもっているが、それを路上で声高に訴えはしない。それは、法律上問題があるからではなく、多くのキューバ市民からの反感を買うからである。

・キューバには宗教の自由がある。カトリック、Santeria、Reglo de Ochaといったアフロキューバンの宗教やPeinte Costal、エホバ、アドヴェンテスト派といった宗教があるが、若者の宗教信仰はうすれてきている。

ローマ法王が1997年にキューバお訪れるまではMartistaやLenisistaが多く、政府は宗教を禁じていないものの隠れて信仰されていた。しかし、ローマ法王の訪問を境にオープンなものになっていった。

・チェ・ゲバラはヨーロッパではあまり知られていない。

・現在、外資とビジネスを行うことができるが、100%外国資本の企業がキューバに進出することはできない。

・日本に行ったら、大きな街、高い建物、大きな店や公園を訪ねてみたい。また、ハイテク機械も見て回りたい。

・今、キューバでは結婚は重要でないと認識されている。結婚をしないままどちらかの両親と同居し、子どもを産んで育てることは一般的である。親も相手のことをよく知っているので、心配しない。大切なのは「愛」なのだ。

・キューバの氏名は「名前」「父親の苗字」「母親の苗字」として名づけられている。子どもは「名前」「父親の父親の苗字」「母親の父親の苗字」が付けられる。

・女性が外で働くのは一般的である。子どもを産んでも1年休職して同じ職場に復帰する。これは当然の権利である。

・外国人旅行者と話すことは違法ではない。(外国の友だちと話すのは問題ないが、旅行者と話すのは違法である、という人もいる。)

・収入がCUCでもMNでも納税の義務がある。

授業が終わり、街を散歩していると、柔道のマスターだという男性に話しかけられた。そして、「イチハタモトサムライ」とぺこりと頭を下げる。「座頭市」についてもファンのようだった。

ハバナ・リブレ向かいの公園にキューバ人の並ぶコッペリアという大きなアイスクリームの店舗がある。一階と二階があり、一階では薄暗いカウンターに向かって、もくもくとみながアイスクリームを食べている。

わたしたちも二階にあがり、バニラと苺のアイスクリームをそれぞれ頼む。キューバ人はアイスクリームをよく食べるのである。このコッペリアは映画「苺とチョコレート」にも登場する店であって、支店をよく見かける。

その後Pabellon Cubaでオープンに行われていたライブに顔を出す。ステージ前には踊れる場所が用意され、おじいちゃんも、おばちゃんおじちゃん、若い男女も音楽がなると、腰を動かし、踊り出す。

夕ご飯は、ミラマール地区にあるKasaltaというレストランでいただくことにする。ここでも大きなスクリーン上で野球中継が放映されている。メニューにある、ポテトフライに鶏肉、モロという豆ご飯、サラダにデザートのセット料理を頼もうとすると、「セット料理は全部無い。ロブスターや魚料理ならある。」と価格帯の高いメニュー一覧を指さす。

他の店員に目配せをし、明らかにおかしな仕草をしているので、よくよく話をしてみると、セット料理は、結局あった。高い料理を売り込もうとしたのである。そして、会計の際も余分なビールが足されていたので、指摘をする。そして最後にこう言った。「チップはもらえるか。」

なんとなく、愛らしいのである。

一日の終わりに、Casa de la Musicaというサルサライブのサルサテカに行く。
会場では身体にフィットした服装のミニスカートを身につけ、高いヒールの靴を履き、厚めの化粧をしている長髪の売春婦たちが闊歩している。男性は白い帽子に白いシャツ、白いパンツに黄色のベルトがおしゃれのシンボルのようだ。

ここでもステージ前にちょっとしたスペースが設けられていて、ライブ最初からみなが躍ることが前提となっている。キューバでよく飲まれているMulataのラム酒の瓶とコーラを買ってどんとテーブルの上に置き、各自でカクテルを作る。このラム酒がまれにHavana Clubにとって変わる程度である。

わたしたちはRon Collinsをオーダーして席に着く。23時からとあったステージは24時半から始まり、夜中の2時まで盛り上がり続ける。今日はElito Reve Y Su Charangonという、先生も知っていたほどの人気のあるグループのライブで、ほとんどがキューバの人たちのようであった。

おばあちゃんもノリノリとステージに向かっていき、ビールをステージに置きながら、踊りまくる。最後、みながサルサダンスを踊り狂う中、隣の白シャツ白パンツ系お洒落男子、Ramonくんが話しかけてきた。日本人にサルサを教えている先生だという。

夜中の2時、住宅地の真ん中にあるCasa de la Musicaの周りだけが熱気に包まれていた。

キューバの象徴 – Havana, Cuba

先生からスペイン語個人レッスンの天真爛漫なお誘いを受けていたので、今日から大学に行くのではなく、午後の個人レッスンに切り替えることにした。束の間の学生生活は、ハバナ大学という場所で輝いていたから、ほんのり名残惜しい。

先生はキューバ人に18年、外国人に20年間スペイン語を教えている64歳のベテラン先生である。

レッスンまでに時間があったので、窓の開けられた明るいハバナ大学の図書館でしばらく勉強をしてから、キューバ到着初日に見た革命広場の内務省の壁にあるチェ・ゲバラとカミーロ・シエンフエゴスのモニュメントを見に行く。

「Hasta la victoria siemple(常に勝利に向かって)」と書かれたチェ・ゲバラのモニュメントの前で、ゲバラの格好をまねたおじちゃんが記念写真を撮り、軍人が歩いている。隣の情報通信省の壁にはカミーロが「Vas Bien Fidel」という文字とともに広場のほうを向いている。そして、1996年に建てられた高さ109mのホセ・マルティ記念博物館がそびえたっている。

この「革命広場」というたいそう立派な名前の広場も、アスファルトのだだっぴろい空き地のようで、陥没している箇所さえある。そのあたりもキューバはどことなく良いのである。

裏手にグラウンドがあり、野球に励む大人たちの姿があった。わたしたちはNestleのCrocantyというチョコクランチアイスをほおばりながら、それを眺める。

キューバでは、日本の野球はよく知られている。レストランのテレビではよく野球試合の中継が流されていて、キューバでは野球が小学校から大学まで必修科目なのである。

個人レッスンを受けるにあたって、移動した「先生紹介物件」のお父さんは以前はエンジニアであり、その後ホテル・プラザのバーテンダーなど様々な仕事をこなした後に退職、今は家でカサ・パルティクラルを営んでいる。お母さんは障害のある子どもたちにカウンセリングなどを行っており、今大学院で勉強もしている。子どもは息子と娘がいて、息子さんはテレビで司会なども行う有名人なのである。

授業の後は中華街で夕食を食べるために古い形の乗合タクシーに乗り込む。ライトアップがほどこされた旧国会議事堂のそばにある「華人街」と書かれた大きな門をくぐると、右手に既に閉鎖されて久しいとみられるHOTEL NEW YORKと書かれたホテルがある。米国議事堂をモデルにした旧国会議事堂と、華人街の門、廃墟と化しているHOTEL NEW YORKが、同じ視界の中に入る。

ぐんぐんと進んでいくと、ようやく一角に中国語の書かれた看板をかかげる店が数件連なっているのが見えてくる。

キューバは食事がいまいちだと聞いていて、「困ったら、メキシコからもってきたカップラーメンか中華街に逃げ込むべき」 – 確かに、屋台があふれるような国では決してない。店に入ってもあるのは豚や鶏肉を炒めたものにご飯やサラダ、フルーツがついているものか、小さな商店でチーズやハムをパンにはさんだものやピザといったぐらいしか見当たらない。

それでも、思いのほか、中華街に逃げ込まずに済んできた。十分食事を満喫しているキューバである。

中華街では中国の人はあまり見かけず、店員もキューバの人が圧倒的に多い。
道を歩いていると、熱心に声がかかる。天壇公園という店が、中華街で唯一シェフが中国人であると店頭営業マンは言う。

中華街という名のつくその一角は子どもたちが踊ってみせたり、獅子舞が太鼓などと共に練り歩いて客をひきつける。いくつかのレストランと数軒の店があるほかは静かな場所である。

客引きはどこも熱心で、中華の他にピザやパスタなどのイタリアンを置いている店も多い。中華料理だけで一店舗を作るほどのメニューが揃えるのが大変らしい。わたしたちはLong Sai Liという店を選び、入る。

チャーハンに、お好み焼きのような味のする春巻き、揚げせんべい、酢豚という名の甘い豚肉のセットをオーダーする。キューバでよく食べる大きな肉とは違い、各食材が細かく切られている。フレンドリーな店員さんたちは、わいわいと野球観戦をしている。

そこからほど近い場所に、ヘミングウェイがかつて通ったフロリディータというバー&レストランがあるので、入ってみる。今日もライブがあり、今日も客であふれている。

ヘミングウェイが座っていた場所に、今は実物大の像が置かれている。木のカウンターに座り、ヘミングウェイが飲んでいたという、砂糖抜きのダイキリ、パパ・ヘミングウェイをオーダーする。

ラム酒のハバナクラブにグレープフルーツ、マラスキーノというリキュールをミキサーで混ぜるのだが、その音が見事に大きいのである。それが、少し湿気たバナナチップとともに提供されるのである。

格好をつけすぎない雰囲気や味が、かえって日常の酒という感じで具合が良い。ヘミングウェイが日常普段使いで飲んでいただろうことが容易に想像できる。

バーテンダーの後ろには「THE CRADLE OF THE DAIQUIRI」と書かれている。