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2011年12月

カサ・パルティクラル営業マンと、お医者さんの生活 – Havana, Cuba

ハバナ大学は毎月最初の月曜日からコースを開始している。12月は5日からで、昨日はクラス分けテストとコースや大学の説明で、授業は今日からである。

今朝も同居歌手ジェシーちゃんと家からてくてく歩いていく。米国人がキューバに入国するのにキューバ政府側は拒否をしないが、米国政府のほうが難色を示すらしい。たとえば米国人が第三国を経由してキューバに入国することに対して、キューバ政府のほうはダメだとは言わないのである。

ジェシーちゃんの腕には「混乱」、脚にはアニメのキャラクターがほられている。背中にはカリフォルニアで彫られた日本語の「道程なくして目的地は有り得ず」。

わたしたちが入ったクラスにはデンマーク、スリランカ、カナダ、ノルウェー、米国人などがいて、中には既にぺらぺらのクラスメートもいる。数年キューバに住む予定の人や留学、大学入学までの休みの人など、背景はばらばらだ。9時から12時半まで30分の休憩の他は頭フル活用である。大学は、日差しが降り注ぎ、キラキラしている。

午後は大学の先生から個人的に紹介された別のカサ・パルティクラル(宿)、「先生紹介物件」を見学しに行こうと思っていた。

授業が終わり、キャンパス近くにあるカフェテリアCachaでチーズののったピザをかじり、Batidoという麦とチョコにミルクを合わせたようなスムージードリンクを飲みながら歩いていると、ハバナ大学で心理学を勉強しているというAlbertoくんに声をかけられてた。近くのカサ・パルティクラルを紹介するから見に行かないかというお誘いである。

一軒は細長い作りの家の二階にリビング、キッチン、ベッドルーム、バスルーム、テレビに電話などがついていて、煙草の匂いがぷんぷんするおじいさんがオーナーであった。

もう一軒も細長く、壁中に絵の掛けられたカラフルな部屋とバスルームがついている、ポップなお部屋である。こういった紹介をして成立すると、一日に例えば5CUCほどが紹介人の懐に入る、と聞いたこともある。街を歩ければ、あちらこちらでカサ・パルティクラルの紹介営業人に話しかけられるのだ。

それでも、Albertoくんは誠実な男性だった。「キューバでモノを買うときに値段を聞いちゃいけない。必ず旅行者価格を提示されるから。キューバの友だちを作って、現地の価格を知って、買わなきゃいけないよ。」

よくキューバの人が買っているコッペパンのような太く長いパンは、1つ15センターボで買えるんだよと言って、わたしたちに買ってくれた。

キューバでは、声をかけてきた道行く人についていくと、果てに飲み物をごちそうするようねだられたりすることも多い、と聞いていた。Albertoくんは最後の最後に本当に申し訳なさそうに言った。

「大学で論文を書くためにUSBが必要なんだけれど、持っていない?キューバで買うと20CUCするんだけど、手元に10CUCしかなくてどうしても買えない。USBがないと、先がないんだ」と首の前に手で直線をひく。そして加えて言う。「ダメならいいんだ。こんなこと聞いちゃってごめんね。」キューバ人の平均月収は240MN=10CUCなのである。

その後、わたしたちが身の回りの必要品を買いにCUCの商店に立ち寄ると「お母さんの誕生日が近づいているから、石鹸を買ってもらえないか?ダメならいいんだ。」彼のお財布にはCUCもあるが、家に帰るだけのお金しか入っていないのだと言う。商店で、わたしたちは石鹸をプレゼントすることにした。

彼がこうしてお願いをする中にも、いくばくかの恥じらいと多くの遠慮を感じた。

Albertoくんとお別れをした後に、「先生紹介物件」を見に行こうとまたてくてくと歩いていると、Salon Rojoというクラブのチラシを配っている男性、Miguelくんがいて、弟が大使館で働いていて日本人女性と結婚して博多に住んでいるという。そしてMiguelくんは言う。「カサ・パルティクラルを探しているなら、友だちの家を紹介するよ。」

Miguelくんについて、その物件を見せてもらう。Claraさんという女性のその家は、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」も撮影された大きな空き地の近くにある。その空き地には有事のための避難防空壕トンネルもあるが、子どもたちが入り込んで問題になったこともあり、今は閉じられているのだという。

大きな庭のついた家がならぶ落ち着きあるVedado地区において、Claraさんの家のまわりは少し違った雰囲気に囲まれている。大きな道から狭い路地を通り、吠える犬を通り過ぎ、開け放たれた窓から爆音音楽が流れ、家で話す人々の声がもれ出る場所の一角に、ある。

Claraさんはわたしたちが思い描くいわゆるキューバ人といった外見の肌の色の濃い女性で、歯の抜けた笑顔のかわらしい女性だ。家の2階だけカサ・パルティクラル用に改修をしたような新しさで、Claraさんがテレビやベッドなどをまさに準備をしているようなところだった。

でも、わたしたちは、もともと約束をしていた「先生紹介物件」になんとか辿り着かなければならない。

Miguelくんに別れを告げるとこういった。「子どもに買うミルクはCUCでないと買えない。5CUCほどで買えるから、買ってくれないか。キューバ人がMNからCUCに換金できるのは9時から15時までだから、もう時間が遅くて換えられないんだ。」

キューバ人は外国人旅行者と話をするのは禁じられているが、警察に聞かれても友だちだと答えれば問題ない、と言う人もいる。一方で、外国人旅行者と話すのは違法でもなんでもない、と言う人もいる。

さて、今度こそ「先生紹介物件」に辿り着こう。またてくてくと歩いていると、道行く男性に話しかけられ、言われる。「食べるものを買いたいから1ペソください。」

「先生紹介物件」である、Enriqueさんとマルタさんの家は心地よいものであった。そして言う。「他のカサ・パルティクラルと比べたかったら、慌てなくて大丈夫だからね。」

今住まわせてもらっているカサ・パルティクラルは、大きな家に選ばれた古き良き家具が置かれており、申し分ない。ランドリーサービスまでつき、毎日ベッドメイキングまでしてくれる。

今のカサ・パルティクラルは、月金の週に2日は家の掃除にお手伝いをつけているが、その他はお父さんのMarceloとお母さんのDulceさんによって手作業で行われている、という。ランドリーサービスは、お父さんが自ら洗濯機をかけ、丁寧に折りたたみ、洒落た棚に整然と並べられていたりする。ベッドメイキングもホテル並みの美しさである。

それでも明日は「先生紹介物件」に移ってみることにした。

今日の夜はDulceさんの夕ご飯をいただくことにする。牛肉の煮込みに白いごはん、ポターヘ・デ・フリホーレス(黒豆のスープ)、プラタノ・フリート(バナナのフライ)、に野菜の炒め物。通常キューバ人は牛肉よりも豚肉を食べるというが、ご馳走を出してくれた。キューバの人は、このスープをご飯にかけて食べている。

Dulceさんは、夫のMarceloさんと仲良く支度をしてくれた。このカサ・パルティクラルを始めて3年。医者としての収入では少なすぎるので始めることにしたのだという。月金の週二日、朝9時から2時頃まで働くお手伝いさんに払う給料が、Dulceさんがフルタイムで眼科医として働く全給料と同じだというから、経済システムがおかしなことになっているのだ。

お手伝いさんに払う給料はその仕事の相場だという。キューバで医者として働く給料がひどく低いのだ。

ハバナ大学でジャーナリズムを勉強しているという英語がネイティブ並みの娘さんも言う。ジャーナリズムを勉強したら新聞社やテレビ局などで働くと言うが、その給料は、高校を卒業して中古家具の修理をして再販売をしている友人の3分の1程になるだろうと言う。でも収入は関係ないと今は思っているから、と幼い頃1年インターナショナルスクールに通った他は独学で学んだという流暢な英語で言う。

この家はもともとMarceloさんの持ち家である。今年秋から住宅や自動車の売買も解禁された。テレビではベネズエラのニュースが流され、ブラジルのメロドラマが人気を博す。
キューバが、変わっていく。

ハバナに住んでいた人と、住んでいる人。 - Havana, Cuba

朝、朝食をとっていると、眼科医であるお母さんがきちんとした格好をして出勤していく。

今日はハバナ大学スペイン語コース初日である。ハバナではバスも走っているが、そのサービスは地元の人も閉口するものなので、我慢してバスに乗るか、歩くか、タクシーに乗るかという選択肢となる。

そもそもそんなバスには乗らずに10MNで乗れるタクシーに乗るという地元の人もいれば、1時間ほどバスを待って挙句の果てにバスが停まらずに通り過ぎて行ってしまっても次のバスを待つという地元の人もいる。

同じ家に住んでいるカリフォルニア出身でベルリン在住経験のある、歌手のジェシーちゃんも今日から大学に行くというので、一緒に歩き始める。家のお母さんは20分ほどで到着すると笑っていたので、甘く見ていたら徒歩で1時間ほどかかった。ハバナは、やはり大都市。大きいのである。

午前中はコースの説明と試験だけである。その試験の途中に、お誘い先生たちが現れた。大学でも教えている先生たちが、「大学は高いからわたしのプライベートレッスンを安くで受けないか」という売り出し文句を天真爛漫に提示してくれるのである。

ハバナ大学は1728年設立のキューバで最も歴史のある大学で、法学部、心理学部、経済学部などがあり6,000名がハバナのキャンパスで学んでいるのだという。医学部は6年間、その他は5年間のコース。Acula Magnaと書かれた建物にはショートパンツをはいた学生は出入り禁止ということで、何やら重々しい建物も、ある。

一通り大学の案内を受けた後、また1時間程歩き、旧市街にあるパルタガス葉巻工場へ向かう。工場に入ることはできなかったが、葉巻ショップには入ることができた。葉巻の他、湿度計のついた葉巻ボックスや灰皿なども売られている。

そして片隅で、赤くマニキュアをほどこしたふっくらとした女性が葉巻を巻いている。比較的大きな葉を広げ、小さく切った葉を細く数本まとめて、丸めこむ。太い刃で片方を切り揃え、木の型に入れて、形を作る。型ができたら、また葉で包み直し、口のあたる箇所も含めて滑らかに整えていく。

1929年建築の米国国会議事堂をモデルに作られたという旧国会議事堂やキューバ・クラシックバレエの本部であるガルシア・ロルカ劇場を見た後、屋台で焼肉ハンバーガーを食べる。

加えて、周りのおじちゃんたちが揃って飲んでいたモネダ・ナショナル系(MNで購入する)Polarビールをまねて、いただく。フルーティーな甘みがふわっと口に広がるも一瞬にしてそのふわりが消えていくビールだった。

そのうちに、日本語を勉強していて、今はCubanacanという国営旅行エージェンシーで働くライネルくんに声をかけられる。以前はNacional de Cubaホテルで庭師をしていたと言う。

キューバは「仕事を選ばなければ、仕事はある」と言った。ガイドとしてもキューバ各地を回っていて、仕事は楽しいのだそう。現在、キューバではCUCを得られる観光業が一番所得が高く、それは医者以上だったりもする、と話してくれた。医者や弁護士のお給料が高いということは、キューバでは、ないのだ。

キューバは人が優しくて好きだと笑う。結婚をしてもすぐに離婚をする周りの人々を見て、最近は結婚をしないキューバ人が増えてきたのだという。31歳のライネルくんも、女の子には不自由しない様子で、女の子からもナンパされるらしい。

配給制度は今もあり、毎月1度、地域特定の店で米(3kg)、油、塩、砂糖、豆、スパゲティ、コーヒー、卵(10個)、鶏肉(0.5kg、 70センターボ)が格安の合計70MN程度で買えるが、石鹸などの配給は今は無いのだと言った。卵は割れやすいので卵以外は1か月に1回まとめて買ってしまうので、重くなるのだそう。

ライネルくんと別れた後、セントラル公園のホセ・マルティ像を通り、オビスポ通りを抜ける。お友だちに教えてもらっていたカヒータという紙箱に入ったランチボックス、他の都市では見つけにくかったが、ここでは簡単に見つけることができる。頼んだカヒータにはチャーハンが入っている。ハバナはやっぱり他の街とは、違う。

オビスポ通りにあるヘミングウェイの常宿だったホテル・アンボス・ムンドス、511号室に入る。エレベーターの扉は手動式である。1925年開業のオレンジ色のホテルで、ヘミングウェイは1928年に初めてここを訪ね、1932年から39年の間、アフリカを含めた他の国とこのホテルを行き来していた。 

「Green Hills of Africa」と「A death in the afternoon」はこの部屋で執筆された。ちょうど良い大きさの部屋にシングルベッドが置かれており、ヘミングウェイの使っていたタイプライターや釣りざお、ルイ・ヴィトンのカバンが展示されている。

このホテルは彼のお気に入りの場所へのアクセスも良い。そして、この部屋の窓からは要塞群が見える。テラスもあり、一つ一つが気取らずに、洒落ている。

アルマス広場、ギリシャスタイルの寺院El Templete、1704年建立のカテドラルや1720年に建てられたコロニアルアート博物館を見て回り、ヘミングウェイの通ったというラ・ボデギータ・デル・メディオに入る。レストランはがらりとしているが、バーは音楽もかかり、大変な盛り上がりをみせている。Nat King ColeやNicolas Guillenがかつて座ったテーブルも保存されている。

夜ご飯は豚焼肉とチャーハン、サラダセットとクロワッサンにハムとチーズをのせてあたためてもらったものをいただき、タクシーで帰ることにする。

タクシーは、1955年のフォード車、モーターは韓国のヒュンダイ製だという真っ赤な車で、ハバナを東から西へと飛ばしていく。運転席には、友だちがいるというカナダの国旗が置かれていた。

バラデロというビーチとハバナという大都会 – Varadero / Havana, Cuba

宿の旦那のLazaroさんは朝には家に帰ってきており、いつもは2、300羽とれるところを今回は15羽しかとれなかったと言う。ただ洋服が汚れて疲れただけだよと笑った。

今日のバラデロは昨日よりもこころなしか暖かい。それでも日差しあふれるテラスで目玉焼きとパンにマヨネーズ、バナナにトマトとコーヒーをいただいていると、晴れた空からぱらりと雨が降ってきた。

家の近くのビーチには、やはり人は少なく、地元のおじさんが網を下げて服を着たままじゃぶじゃぶと海に入っていき、ぱっとその網を広げる。1分もしないうちに網をしまい、浜にあがると、アフリカチヌという小さな魚が3匹ほどと蟹が入っていた。そして、わたしたちに食べられるからと魚を差し出した。

そのまま浜辺を歩いていると、昨日会ったカナダ人Ronさん、Billさんペアと、待ち合わせをするといっていた女性マロニーさんが3人ちょこりと座っていた。キューバでは米国ドルを換金する際に10%の手数料が上乗せされる。ユーロかもしくは「カナダドル」が「最強」だと言われる所以である。キューバとカナダは仲が良いのだ。

15時半のハバナ行きViazulバスに乗ろうとバスターミナルに向かっていると、タクシーの客引きさんが現れ、バスと同額でハバナまで連れて行ってくれるという。こういったことがキューバでは多々起きる。

バスの時刻を狙ってタクシー客引きさんの顧客横取り獲得作戦が繰り広げられるのである。そして客引きさんとホテルやタクシー運転手は別人であることも多く、それぞれの言い分が異なることもある。タクシーは乗合いのことも多いので、客の人数を集めなければ出発できない、さもなければ客一人の負担が高くなってしまうのである。

こうして乗合いタクシーに無事に乗り、ハバナの宿に着く。ハバナではハバナ大学でスペイン語コースをとることにしており、大学が紹介してくれた家がある。

そのお家は脳外科医のお父さんのMarceloさん、眼科医のお母さんのDulceさんと、娘、そのボーイフレンドという4人で暮らしている大きなお家だった。ゆったりとしたソファに大きなテレビ、シンプルな家具の中にセンスを感じる。さすがお医者さんのお家だと、そう感心したのだ。

娘さんはハバナ大学でジャーナリズムを勉強しており、明日の大切な試験のための猛勉強中なのだという。だからボーイフレンド、ホセくんが専ら家の雑務を担当していて、わたしたちをお勧めのレストラン、El Pavo Realへ車で連れて行ってくれた。ホセくんも大学でコンピューターサイエンスを勉強している、好青年である。

そのレストランは地元の人々が多いレストランであった。わたしたちは、セットメニューのご飯の炒め物、Vianda(芋の揚げ物)、鶏と野菜の炒め物にBucaneroビールをオーダーする。味は、中華であった。

ハバナには中華街があり、ハバナに着いた途端にご飯といえばチャーハンのようになってくるのである。そして街では「Chino/China(中国人)」と声をかけられることが圧倒的に増える。自分の名前がChino(a)かと思えてくるほどだ。こうして、中国人も多い大都会へ来たのだった。

荒削りなビーチとひっそり巨大リゾート、バラデロ – Varadero, Cuba

MarlenさんとLazaro夫婦のカサ・パルティクラルのテラスで目玉焼きにパン、ヨーグルト、サラダ、ハムにバナナにチョコレートドーナツにコーヒーという贅沢な朝食をいただく。そこにMarlenさんが14歳の息子を連れて来て、自分より背が高いのよと照れたように笑う。どこか奥ゆかしい可愛らしさをもったお母さんなのである。

旦那のLazaroさんは大きく恰幅の良いお父さんで、今日はサンタ・クララ付近まで猟に出かけるから明日家にいられるのなら、鳥を食べようと言って、車で出かけて行った。バラデロのほとんどのホテルのコーヒーメーカーを管理する仕事をしているのだという。週末は休みなのかと尋ねると、キューバ人はほとんどの曜日が休みだと豪快に笑った。

バスターミナル付近を歩いていると、カナダのバンクーバーから来たという、Ronという名の66歳の男性に声をかけられた。15日しか誕生日の違わない同じ歳のBillという名の友だちは、これが初めて海外旅行であり、Ronさんに連れられてキューバに来たのだという。

Ronさんは少し座って話をしようと芝生にわたしたちを導いた。キューバは二度目の訪問だが、長期で滞在しているらしい。以前にフィリピンを訪ねた際、汚職と経済格差、貧困といった現状を目の当たりにして、歴史的に同じようにヨーロッパや米国の影響を受けてきたキューバにそれが少ないことにひどく感動をしたようだった。

キューバは医療を中南米に輸出をしている。武器や軍隊ではない。これは素晴らしいことなんだと強調する。そしてキューバについて語る。「キューバはインターネットをプライベートで利用することが禁じられており、政府のサーバーにログインをしたうえで1時間に6、7CUCを支払って利用する必要がある。革命以前から私的に所有されていた土地は今も私有である。」

タバコやお酒といった嗜好品を買うときは左ポケットに入ったCUC、屋台でご飯を買うときは右ポケットに入ったMNを使うんだよとそれぞれのポケットを指さす。最後に手助けできることはないかとわたしたちに尋ねた。手助けをするために、ここにいるんだから、とRonさんは付け加えた。

そのそばで子どもたちが野球の練習をしていた。フェンス越しに眺めていると、Rafael Vidalという男性が、食べるものがないからお金がほしいと声をかけてきた。

言葉を交わすうちに、彼も詩を書いているのだと詩をしたためたノートを広げて見せた。犬と一緒の写真を撮って欲しいと言い、またわたしたちの前でノートにやしの木やボート、ハートがついた絵を描いた。

そして、その広場の脇にある物置きのような彼の家に招かれた。バナナやグアバの葉、ビールの空き缶や昔の雑誌が乱雑に放置された、質素な部屋だった。

MUCHACHAという雑誌の束をもってきて、一冊くれるとわたしたちに差し出した。古い雑誌の女性を指さし、その子が可愛いと口に指をあてる。帰り際、空き地で育てているというバナナやグアバを嬉しそうに見せてくれ、わたしたちが去っていくのをずっと見ていた。

バラデロというところは「キューバ最大のリゾート」であり、カリブ海の、きらきらとした場所であるに違いない場所であった。

でも、天気のすぐれない今日、ここは寒かった。
宿の近くのバラデロ市街のビーチで海に入ると、思わず怯んでしまう冷たさだった。きれいな色をしているが、波も高く泳げない。人もほとんどおらず、カンクンリゾートを見た後では、リゾートとしての荒削りな感じが伝わってくる。

Celle62まで歩いてオムレツパンを食べた後、ヒカコス半島の先端まで「バラデロ・ビーチ・ツアー」という周遊バスに乗ってぐるりと回る。このバスの乗客は、総じて観光客で、肌の色が白い。肌の色が、まるで階級を決めているかのようだ。

ビーチには空の雲にも覆われてどうも哀愁が漂っているのである。米国資本のホテルはなく、ヨーロッパ資本の高級ホテルが大きな建物としてぽつりぽつりとあるが、ひっそりとしている。

先端にあるBarcelo Marina Palaceのビーチも風強く、肌寒い。近くでも建設中のクレーンが乱立しており、バラデロで最高級ホテルの一つであるパラディスス・プリンセサ・デル・マール・リゾート&スパの素敵にライトアップされたホテル内のプールテラスでも、その向こうには明るく輝くクレーンがそびえたっている。

天気もさえず、夕刻という時間もあって、どこか寂しげな感じが漂う。イメージにあった、ビーチにあふれるラテン音楽は一切聞こえてこず、大きなホテルの周りは静まり返り、工事中か荒地といった具合が、どことなく愛らしいのである。

朝と同じ雨がまたぱらついてくる。肌寒くて思わず上着を3枚も着る。

夜は宿のMarlenさんに教えてもらった地元のレストランRanchon 29 y 3raで豚肉のフライであるMasa Cerdoとキューバリブレにモヒート、ピーニャ・コラーダをいただく。ここのオーナーだという男性は一流ホテルマンのごとくサービスをしている。その見事な接客ぶりを褒めると、15年間観光業に従事してきて、英語、ロシア語、フランス語、スペイン語が話せるのだと言った。テレビからは、バラード調のミュージックビデオが流れている。

バラデロの10年後は、どうなっているのだろうか。

チェ・ゲバラの足元で。 – Santa Clara, Cuba

キューバでは大みそかを重視していて、ハバナのような大都市ではイベントごとが行われるが、トリニダーは小さな街なので、多くは家族で過ごすという。人々が集まり、豚を焼いたり、さまざまな家庭料理を作ったりして、ビールやラム、ワインなどを飲み明かすので、お正月にはすっかりぐったりしているのだとNeryさんは、いつもの通りにウインクをしながら話す。

だから大みそかに家に戻ってきなさい。Neryさんはそう言いながら、朝早く家を出るわたしたちを見送ってくれた。少し涼しいトリニダーはNeryさんにとってはずいぶんと寒そうで、寒い寒いと言っていた。

トリニダーでは、街ですれ違う人々や家から道を眺めている人々に呼び止められ、石鹸、シャンプーやボディクリーム、子どものための洋服やペン、お金をよく欲された。石鹸は、ここでは大変な人気者だ。

Viazulのバスは、FulioさんとNeryさんの住むトリニダーを離れる。バスターミナルにはチェ・ゲバラの写真が数多く貼られ、チケット窓口にはREVOLUCION:UNIDADと書かれたカストロのポスターが貼られている。

朝の7時に出たバスは2時間半ほどでサンタ・クララに到着した。ここにはチェ・ゲバラ霊廟がある。バスターミナル近くにあった小さな店でハムとチーズをはさんだパンを買ってほおばり、キューバの絶妙客引き連携プレーの結果、Elioさんの運転する馬車に乗って、霊廟に連れて行ってもらうことにする。

馬の名前はLuceroくん。Elioさんには息子と娘が一人ずついるのだといい、知り合いの家を通過するときに子どものためだとミルクを買う。

霊廟には「HASTA LA VICTORIA SIEMPRE(常に勝利に向かって)」と書かれた台座の上に66m以上の大きなチェ・ゲバラ像が立っている。その像を前にして、わたしたちはこれからのことを決めて、ノートに綴る。

チェ・ゲバラ像の足元には博物館もあり、ゲバラが使ったパイプやベレー帽、洋服、ピストル、医者としての医療機器、辞書やラジオに加え、手紙や写真も展示されている。その中に1959年に日本を訪ねたチェ・ゲバラが耕うん機を使っている写真もある。

チェ・ゲバラの遺骨は、チェと書かれた石の中におさめられ、同様にボリビアでのボリビア政府軍との戦いで亡くなった38人の顔がそれぞれ彫られている。

そして、1958年にチェ・ゲバラ率いる革命軍がバティスタ政権の装甲車を襲撃して武器を奪取したトレン・ブリンダード記念碑も訪れ、サンタ・クララの市内に戻る。

街の中心には「アシスのサンタ・クララ」という教会があり、アシスのサンタ・クララ像やサン・ホセ像、キューバの守護神であるコブレの聖母に囲まれて、十字架にはりつけられたキリスト像がある。教会内にあまり人はいない。

サンタ・クララは、明るく清潔なイメージの町であった。街には、馬車とBICI TAXIという自転車タクシーと自動車が同等に走っている。

グアバの羊羹のようなものをパンにのせたものとチーズののったピザを食べた後、広場に面した図書館に入ってのんびりとする。扉も窓も大きく開け放たれた館内は風がよく通り、涼しく、オープンだ。チェ・ゲバラに関する書籍もあり、古い本に囲まれながら、街の人々もときに雑談をしながら、それでも静かに本を読んでいる。

街の中心からViazulのターミナルまで40分ほど歩く。途中、川のほとりには掘立小屋が並んでいる。

青い壁面には、先住民族から選出された初のメキシコ大統領であり、メキシコで最も尊敬されているベニート・フアレスの「El Respeto al Drecho Ajeno es la Paz(他者の権利の尊重こそが平和である) 」という言葉を引用し、戦争とテロに反対する漫画が壁いっぱいに描かれている。

米軍が銃をもち、ベトナムやユーゴスラビア、アフガニスタン、イラク、リビアを走る絵などが描かれ風刺されている。バスターミナルの向かいにもチェ・ゲバラの像と「プロパガンダ サンタクララ市」と看板の掲げられた支社もある。

こんなキューバ色の強い街を18時頃に発ったバスは、3時間程で、キューバのリゾート地バラデロに到着をする。高級ホテルの多いこの町には客引きも一人しかおらず、その客引きおじちゃんのお世話になり、Marlenさん一家の台所つきカサ・パルティクラルに泊まらせてもらうことにする。

夜遅い時間に向かったレストランは既に飲み物だけしか提供していないところが多いものの、カルチャーセンターLos Coralesは地元の歌手らしき人たちが小さな舞台に次々とあがり、地域の人たちで溢れかえっている。

食事はないが、歌は、ある。
こうして、メキシコでアドバイスをもらってスーパーで買ってきておいたMARUCHANえびカップラーメンが待望の登場となるのである。