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ビザ申請とイスタンブール – Istanbul, Turkey

トルコから東へと中央アジアの国々を訪ねながら日本に近づいていくとなると、中央アジアのビザ問題にぶちあたる。トルクメニスタンのトランジット・ビザをイランで申請するには、その次の国ウズベキスタンのビザが必要、とのことで、ウズベキスタンといってもまだ遠い気がするが、イスタンブールで先にウズベキスタンのビザを取ってしまうことにする。

領事館に向かう途中、イスタンブールでよく見かける店、simit sarayiでスィミットをオーダーする。温めて出してくれるものだから、スタンドで買った昨日のそれよりも美味しい。

タクスィム広場からバスに乗ってボスポラス海峡沿いに40分ほど走ったIstinyeの丘の上に、ウズベキスタン領事館がある。穏やかな海辺から階段を上がり、ぜいぜいと息を切らしながらたどり着く。

10時から開いているはずだが、領事館にたどり着いた10時10分ほど、門の前には人だかりができている。門番に尋ねても英語を話さない。近くの待ち人も「問題ないから待ちなさい」としか言わないので、とりあえず待つ。

10時を20分ほど過ぎたところで、門が開き、みなががやがやと集まる。門番はそこから2、3人ずつ中へと通していく。重い鉄の扉を開いて中に入ると、真っ白な建物があり、階段を下りた小さな窓口がビザの申請窓口になっている。

窓口に近づくと、中の男性職員が、「ビザね、急いで急いで」と急かす。必要書類と聞いてパソコンから印刷して持ってきたビザ申請用紙と、パスポートや写真を手渡す。申請用紙には入国予定日を記入しているが、この日付けは受け取りの際に変更することもできるという。

いつビザを受け取れますか、と尋ねると、「来週」とだけ断言する。

来週というと、いつでしょうか、とあくまで低姿勢で尋ねると、「同じ日の同じ時間にはできているよ、もういいですね、ではさようなら」と窓をぴしゃりと閉めた。

とにもかくにも来週の金曜日に取りにくれば良いというので、一安心し、再びバスに乗ってタクスィム広場へと戻る。

トルコにはロカンタという大衆食堂があって、ショーケースに煮込みやらを並べてそれを選んで皿に盛ってもらう。トレイにのせてお会計する場所へ持っていくこともあって、学生食堂ふうなのだ。

今日はバルカン・ロカンタに入って、ナスにひき肉を詰めたカルヌヤルクをトマトやペッパーと煮込んだものに、バター風味のピラウ、それに挽き割り小麦のピラウ、ブルグル・ピラウを注文する。エキメッキは容器から取って自分で盛る。

イスティクラール通りを歩き、ガラタ橋を渡って旧市街へと向かう。黒いアバヤで全身を覆った女性が白くてきらきらした鞄を片手に、赤いTシャツに黒い帽子、チノパンツにサングラスといったカジュアル男子と腕を組んで歩く姿がある。こうした全身アバヤで覆う女子とカジュアル男子のカップルが数組、繁華街を歩いていく。

オスマン朝君主の居城トプカプ宮殿、ビザンツ建築の最高傑作ともいわれるアヤソフィア、それにブルーモスクの名で知られるスルタンアフメット・ジャーミーは、それぞれ近い位置にある。

トプカプ宮殿の入口は1478年に建てられた皇帝の門で、それをくぐると庭があり、アヤ・イリニ教会が建っている。そこからは金角湾を眺めることのできる芝生もあり、銃を持った軍人の横でアバヤを着た女性たちもおしゃべりを楽しみ、iPadを手にのんびりとしている。その先の送迎門も、皇帝門の前にある1728年建造のアフメット3世の泉も、金をあしらった細かな装飾がほどこされている。

ブルーモスクは、6本のミナレットと大ドーム、4つの副ドームに30の小ドームをもっている。背の低い通路を渡ると、大ドームの空間が広がっている。その名の通りに青いステンドグラスからは淡い光が入り込み、ドームには、青や赤の模様があしらわれている。いくつものランプが円形状にぶらさがり、赤い絨毯の上で、祈りを捧げる人々がいる。

ブルーモスクのそばには、スュレイマン大帝の妻、ヒュッレム・スルタンが16世紀に建てさせたというオスマンスタイルの高級ハマムもある。落ち着いた噴水を真ん中に構える内部で、てっぷりとした男性が腰にタオルを巻いてくつろいでいる。

近くにある1920年創業の老舗キョフテ店、セリム・ウスタで、牛肉のミートボール、キョフテをオーダーする。肉汁がじわりと口の中で広がっていく。その余韻を楽しみながら、添えられたエキメッキをほおばる。

ガラタ橋では、夜も釣りをする人たちが連なり、遠くのボスポラス大橋は青く繊細なイルミネーションを灯している。そんな中、そばを歩いていた靴磨き道具を持つ男性がブラシを落としたので、それを拾ってその男性に駆け寄り、手渡した。そしてそのまま歩き進んでいると、背後からその男性が声をかけてきた。

トルコでこうした流れの犯行が流行っているとも聞いていたが、その男性がその後犯行を犯そうと思っていたのかどうかは今となっては知ることもない。