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2012年06月

ユダヤ教徒の朝と、宗教を越えたハグ – Jerusalem, Israel & the Palestinian Territories

フルヴァ・シナゴーグで7時45分からミサが行われるというので、バナナストロベリージュースとピラフをいただいてから、オリーブ山を下って、旧市街ユダヤ人街にあるそのシナゴーグへと向かう。

男性は1階、女性は2階とに分かれ、それぞれ祈りを捧げる。圧倒的に男性のほうが多い。多くは黒いスーツに白いシャツ、黒い帽子といった服装で、タリートというショールを羽織ったりしいる。だが、中にはブルーのチェックのシャツやカラフルな帽子キッパを身につけている男性もいる。女性のほうは、黒い服装を着ている人もいれば、ピンクや水色といった服を着ている人もいて、さまざまだ。

各座席の後ろには聖書が置かれている。男性は、おでこに四角い黒い箱をのせて、腕に黒革を巻いている。この道具はテフィリンと呼ばれていて、13歳から男性が朝のお祈りのときに使うものだそう。箱の中にはトーラーの書かれた紙が入っていて、それをおでこにのせて、あるいは腕にのせて革ひもで巻く。巻き方にも細かい決まりがあるという。

聖書を手に前後左右にゆらゆらと身体を揺らしながら、祈り始める。子どもたちも同じように揺れる。それぞれにトーラーを読み、そして時折声を合わせて「アーメン」と言う。

8時を5分ほど過ぎたころ、テーブルが叩かれる。前方にいる聖職者が黙って斜めにおじぎをするようなかっこうで、身体を揺らす。そして各自が勝手に着席にする。子どもたちはおしゃべりを始めたりする。

また15分ほど経ったころ、ラビが現れ、みなが歌い始める。最初にばらばらだったのが、じょじょにそのうち一つになっていく。

ラビが、聖櫃に引かれていた幕を開き、観音開きの木の扉を開ける。そして中に納められていた丸まった大きなトーラーをおもむろに出す。銀の冠がつき、ビロードの布にくるまれている。それを囲むように人々が集まり、触れようと近づく。

中央にある聖所までトーラーを持っていき、冠や布をとってくるくると広げて、身体を揺らしながらそれを朗読する。5分もしたところで、トーラーを3方向に見せるように掲げる。そしてまたそれをバンドで巻き、ビロードの布にくるみ、銀の冠をつけ、集まる人々が触れ、あるいは口づけをしながら、再び聖櫃に戻される。

8時50分をまわるころ、人々はすくっと立ち、おでこにのせていたテフィリンや腕に巻いていたバンドを外し始める。ラビがテーブルを叩く音がすると、またみな静かに身体をゆさゆさと揺らし、トーラーを朗読する。

帰宅する人もちらりほらりと出たりしながら、9時過ぎに歌を歌ってミサが終わった。

そこから、シオン門を出たところにあるシオンの丘に赴く。細かなモザイクの残る聖母マリアを祀ったマリア永眠教会や、イエスが最後の晩餐を行ったといわれる部屋がここにある。

近くにはダビデ王の墓もあり、ここも入口が男女に分かれている。信者たちは入口にある大きなメズーザ―に手をあてて祈りながら中へと入っていく。内部のダビデ王のものと伝えられる柩に向かって、ユダヤ教徒が聖書の詩篇を唱えている。

また少し歩けば、ユダヤ人の虐殺に関するホロコースト博物館、メモリアルがある。そこには、血のついたトーラー、ユダヤ人を侮辱するためにナチスが着用していたトーラーから作ったジャケット、首つりや飢餓で亡くなった人々の白黒写真、裏地にトーラーが貼られたジャケットや鞄、手書きのトーラー、「1933年から1945年の間にドイツのナチスによって殺された600万人の殉死者へのメモリアル」が展示されていて、重々しい。

さらにその地区には、ユダヤ人1200人を虐殺から救ったオスカー・シンドラーの墓がある。墓には十字架が刻まれ、いくつかのコインが置かれていた。丘の上には鶏鳴教会がある。イエスが裁きを受ける前の最後の一晩を過ごした場所であり、ペテロがイエスのことを知らないと3度嘘をついたのもこの場所だといわれている。

ダビデの町とオリーブ山の間には、ケデロンの谷が広がっている。最後の審判の日にはここで死者がよみがえると信じられている。

夕方16時から、Jerusalem Hug 2012が始まった。Hutzot Hayotzerの芝生に人々が集まり、配られたハートを胸につける。

主催者の一人、イブラヒムさんは取材を受けていた。取材であろうと、相手が誰であろうと、イブラヒムさんはお構いなく、同じ調子で同じ声の大きさで同じことを伝えている。

人に愛を尽くすということは両親が教えてくれた。誰の額にもその人がユダヤなのかキリスト教徒なのかイスラム教徒なのかは書かれていない。わたしたちは一つである。だから、宗教や言葉の間にある壁を飛び越え、あるいは壁をうち壊せるように努力をする必要がある。アラブもユダヤも兄弟で、同じ種から生まれてきた。

いまだイスラエルが建設途中のパレスチナとの分離壁は過ちであり、すぐにでも壊されるだろうと言った。土地は神様のものだ。

隣人の赤ちゃんの口にはミルクを与えてやらないといけない。人には母親やマザー・テレサが必要なのだ。

イブラヒムさんは、頭にかぶっていたカフィーヤを取りはずして、続ける。もう私は髪の毛もないし、文字だって読みづらい。だから新しい世代のリーダー、土地を愛するリーダーが必要だ。

「家に遊びに来なさい。」そう言ってインタビューを終える。

配られた西瓜をかじりながら、そのうちに芝生に輪になって手をつなぎ始める。真ん中では音楽をゆるりと奏でる若者たちがいる。中にはイブラヒムさんもユダヤのラビもいる。時にその輪を二重にして、中と外にそれぞれ向かい合わせになり、一人一人の顔を見ながら、回っていく。

19時になるころ、ヤッフォ門に移動して、壁を囲うように手をつなぐ。その周りで人々は踊り、歌い始める。

この様子に黒帽子黒服の幾人かのユダヤ人もやや興味をもつようで、ちらりほらりと遠巻きに覘く人がいたかと思えば、全く眼中に入っていないようすのユダヤ人もいる。一緒に手をつなぐように声をかけられても、彼らは恥ずかしそうに散っていった。

20時を過ぎて日も暮れるころ、イベントは終わりに近づいていった。それでもイブラヒムさんは痛いという脚をひきづりながら、「わたしは主催者なんだから、みんなの世話をしなくちゃいけない」とつぶやきながら、出くわした友人とともにイベントへと戻っていく。周りが何か手伝いましょうか、と言っても、大丈夫だ、早く帰りなさい、と言うばかりだ。

キリスト教の鐘にイスラム教のアザーンが重なる。そして、帰りのバスの後ろの席の男性は、父親はキリスト教徒で母親がイスラム教徒だといった。全く問題ない、とそう言った。

家に帰って、じゃがいもや玉ねぎのトマト煮込みやピラフ、それにアーモンドジュースを合わせていただく。

さかいめ – Jerusalem, Israel & the Palestinian Territories

朝はたまねぎの炒め物にパンやコーヒー、それにお気に入りのアーモンドジュースをいただく。

昨日、ラマラという街の近くで、モスクがユダヤ人過激派によって放火されたという。

今日も、家の近くを通るUNのマークをでかでかとつけた車や、ファック・イスラエルと書かれたごみ箱を横目に、オリーブ山を下り、旧市街へと歩いていく。

岩のドームを出たところのムスリム地区で、イスラム教徒だという男性二人にイスラムに関する本を突然に手渡される。ピザ屋には、メッカの画像が流れている。

そんなムスリム地区で、ユダヤ人のおじさんがユダヤグッズ店を営んでいた。水色のポロシャツを着ている、笑顔のやわらかいおじさんだ。店頭にはイスラエルの国旗が並べられ、トーラを幾言語にも翻訳した小冊子などを土産物として売っている。

ユダヤ教徒であるその男性も、悲しみを表す黒い服を着て黒い帽子をかぶる超正統派の人々は、自分の文化とは違った考えをもっている、と言った。それでも同時に、神殿の丘にあった第一、第ニ神殿が破壊されたことを嘆き、そこに第三の神殿がいつの日にか建てられることを信じている。

日本からも新宗教、幕屋の人々がエルサレムに団体で訪ねて来るんだと言った。ユダヤ人を選ばれた民族だと信じて、特別な服を着て来てくれるんだ、と嬉しそうだ。

ムスリム地区にユダヤの店を開くというと、なにやら危ないような気がするが、その男性は、キリスト人街の半分くらいはイスラム教徒だったりするものだから、明確な区分けはないんだよ、と言った。土産物屋の品物は確かにどうにも混ざっていて、ダビデの星をあしらった帽子やユダヤのろうそく立ての横に十字架が売られていたりする。

そして猫は地区の境目をするりと抜けて出没する。

ユダヤ人地区にある、4つのシナゴーグが地下に建てられた集合体や女性トーラー協会を訪ねる。ユダヤ人地区は比較的もの静かなようすだった。でも、フルヴァ・シナゴーグの前に腰掛けていると、若い男性4人グループが黒スーツに黒帽子のいでたちでラップ風の音楽のPV撮影をし始めた。ノリノリにジャンプをして、手を前にかざしてカメラに寄っていく。そのうちに太鼓をたたいて歌を歌うユダヤ人の別の集団が通り過ぎて行った。

キリスト教アルメニア人地区の教会から鳴る鐘を聞き、カラフルなアルメニアの陶磁器、キリスト教用品を眺めつつ、西のヤッフォ門から城壁を抜ける。

辺りは静かな高級住宅地が広がり、赤や紫、オレンジ色の花が咲き乱れ、シナゴーグがある。

米国人がオーナーであるJerusalem Global Management,LLCは、その物件を貸し出してもいる。1軒家には、広々としたキッチンやリビング、ダイニングルームが備えられ、たいていテラスがついている。その上、ゴージャスな浴槽やビジネスルームが備えられていたりする家や、ガラスケースにトーラーが納められた家もあり、一日500ドルから1000ドル以上でレンタルしている。インドや中国、それからドイツなどのヨーロッパの家族などが借りることが多いという。

その他、エルサレムには、個人宅を改造して各部屋にキッチンをつけたような宿泊場所もある。向かいに旧市街のダビデの塔を望めたりする。

明日、エルサレムではJerusalem hug 2012というイベントが行われる。国籍や宗教を超えて人々がハグをし合い、手をつなぎ合う、というイベントだ。イブラヒムさんも主催者の一人として携わっていて、その前夜祭にお誘いをもらう。

一度イブラヒムさんの家に帰って、バナナストロベリージュースとピラフをいただいてから、会場へ向かう。手配をしてもらったワゴン車に乗り込み、30分ほど、一軒の家に到着する。イブラヒムさんは、携帯の着信音を消すにはどうしたら良いのかと3台の携帯をわたしたちに差し出す。

その家は、広くて清潔な家だった。部屋の真ん中に大きなグランドピアノが置かれ、ダライ・ラマの「Never Give Up」が壁にかかっている。庭の草むらにはプラスチックの椅子が並べられ、既に50人ほどの人々が集まっていた。前に立っている女性がパソコンをいじりながら、ゆったりとした音楽を流す。

ワン・トゥー・ワン・トゥー・ワン・トゥー。
チャクラを感じてください。
ジーザス。

女性のわきには車いすに座る男性がいる。音楽が進むにつれ、男性はある時は音楽に合わせて首を動かし、ある時は顔をゆがめ、ある時は笑いだす。そのうちに辺りが声をあげて大きな笑い声に包まれていく。

草の香りがして、風が吹き抜ける。

両手を上に挙げる人もいれば、口を大きく開けて空を見上げる人も、あー、あーと声を漏らす人もいて、それぞれに快楽状態に入っていく。イブラヒムさんは、時折首を動かしながら、観客席でそれを静かに眺めている。曲が終わるころ、前に座っていた女性は抱えられるように退場する。

最後に車いすに座った男性がイブラヒムさんを呼んで言う。彼にはお金の面で支援をしてもらっているんです。

そして、みなで手をつなぎ、そこここでハグが始まる。後は庭のわきにクッキーなどのスイーツやフルーツが広げられ、お茶を飲みながらの軽食時間になる。

22時を過ぎたころ、バンに乗って家に帰る。旧市街の空に花火があがった。

宗教の交じわる街 – Jerusalem, Israel & the Palestinian Territories

朝食は、たまねぎと卵でスクランブルエッグをつくり、それにご飯とお茶を合わせる。イブラヒムさんも大きな鍋にご飯をたっぷりと盛り、それをしゃもじでくるくるかき回している。

今日も岩のドームの前のオリーブ山の頂上付近に、イスラエル国旗がはためいている。

真っ暗としていて備え付けのろうそくに火を灯して歩く預言者の墓や、イエスがエルサレムの滅亡を予言し涙したという記述にもとづいて建てられた主の泣かれた教会、金色のドームをもつロシア正教マグダラのマリア教会に立ち寄りながら、旧市街へと下っていく。

今日は、神殿の丘の上に建つ岩のドームを訪ねる。岩のドームの内部には現在イスラム教徒しか入ることができず、その他の人々は外から眺めるばかりだ。

非イスラム教徒が岩のドームのある神殿の丘に入るゲートは、ユダヤ人の集まる嘆きの壁のわきにある通路からだけだ。ユダヤ教徒も入れると聞いたが、その場合は軍人の護衛がつくとも聞く。

神殿の丘は、イスラム教とユダヤ教の聖地だ。神殿の丘には、かつて第一神殿、第ニ神殿が建てられていたが、第ニ神殿はローマによって城壁の一部以外、破壊された。その残された壁が、ユダヤ教にとっての嘆きの壁だ。2000年にはシャロン党首が神殿の丘を強行訪問して、反発するパレスチナ市民によってセカンド・インティファーダが起きている。

荷物検査を受けてから、イスラエル国旗のぶらさがる木造の回廊をつたって、神殿の丘に入る。

右手にはイスラム教徒にとって重要な聖地でもあるアル・アクサー寺院、その手前に手足を清めるための水場があり、その向かいに丸い屋根が黄金にきらきらと光を放つ岩のドームがそそりたっている。そして紺や水色、緑や黄色などの鮮やかな装飾をほどこしたタイルが八面体を作りだしている。

一部では、イスラム教徒にとって聖なる岩のドームを取り除いて、ユダヤ教の第三神殿を建設する計画があるとかないとか、まことしやかにささやかれている。

イスラム教徒以外は、岩のドームに入ることはできず、入口で追い払われる。

嘆きの壁の前には今日もユダヤ教徒が集まり、祈りを捧げている。壁の周りにはぎっしりとイスラエル国旗がたてられている。壁の前では、グレーのスーツを着た新郎と真っ白なウェディングドレスを着た新婦が笑顔で記念撮影をしている。ユダヤ人街にあるラムバン・シナゴーグでは、黒いキッパをかぶった二人のユダヤ教徒が静かに書物を読んでいた。

世界で最も古い地図にも記されていたというエルサレムのメインストリート、カルドを通り、ムスリム地区へ入っていくと、途端に賑やかにものが売られるようになる。チョコレートアイスをかじりながら、歩く。

ユダヤ人もいくつかの派閥に分けられていて、その中でも厳しい宗教生活を送っている正統派のユダヤ人が住むメア・シェアリーム地区に向かう。

彼らは聖書の律法をかたく守りながら暮らしていて、普段はイーディッシュ語を話している。通りにはユダヤ教用品や本屋、食料品店もある。フランス系ユダヤ人住人も多いようで、フランス語の本屋もある。もみあげのついた帽子を売る店、黒い靴ばかりを置いた靴屋、メズーザやろうそく立て、グラスが並ぶ店。

道沿いにはずらりと貼り紙がしてあり、それを熱心に読む人々がいる。携帯電話をただ耳をあてて聞き入り、足早に歩いていく人々もいる。道ばたには思いのほかごみが散らかっている。

人々が歩いているにもかかわらず、辺りは静まりかえり、部外者を受け付けない雰囲気がただよっている。男性はもみあげを長くくるりと伸ばし、黒い帽子をかぶり、黒いフロックコートを着ている。女性も全身黒い服で歩いていく。彼らはテレビやパソコンなどとの情報を一切遮断して暮らしている。

子だくさんが奨励されていて、一家族10人以上であることも珍しくないというから、子どももたくさん町に歩いている。超正統派のユダヤ人には兵役の義務もなく、仕事をせずに生涯をトーラーの勉強にかける。だから、街には黒い服を着た男性が食料に買い出しに来ている姿も、ベビーカーをひいている姿もよく見かける。

子どもたちも長いもみあげに黒い帽子。最初にこりともしなかった子どもたちに、挨拶をしてみたら、ようやく少しの挨拶がかえってきた。そのうちにそんな男の子たちも店頭で売られているピンク色のビニールプールに興味をもちはじめた。

一軒の食料品店の男性は、黒に白のストライプの入ったカジュアルなポロシャツを着ていた。その男性は言う。「ここら辺に住んでいる超正統派ユダヤ人は変わっていて、頭がちょっとおかしいんだよ。」仕事をしない超正統派のユダヤ人がどう生活しているのかは秘密なんだよ、とやや声をひそめて言う。そういう男性もユダヤ教徒だ。今のテルアビブの状況はよくない、宗教もなにもかも忘れさられていると嘆いた。

そんな中、フランス系ユダヤ教徒だという女性が買い物にやってきた。

超正統派のユダヤ人女性は、結婚すると髪の毛を剃るのだという。女性のシンボルである髪の毛を人の目にさらさないようにするためで、頭に帽子やスカーフ、ウィッグなどをかぶっている。

店に来たフランス系ユダヤ教徒の女性はさらさらとした金色の髪の毛をしていて、それもウィッグだと言った。結婚をしているから、髪の毛を隠すのだという。髪の毛を剃っているのか尋ねると、わたしはフランス系だから髪の毛は剃っていないのだと言いながら、微笑んだ。

メア・シェアリームを抜けて南に位置する繁華街のほうへ出ると、とたんにカジュアルなふうに切り替わる。洗練されたバーやカフェにマクドナルド。屋外でお酒を楽しむ人々がいる。

JAFFA CENTER駅から、マハネー・イェフダー市場のあるHA-DAVIDKA駅までLRTのトラムに乗る。マハネー・イェフダー市場には、黒帽子、黒服を着た家族がカジュアルな人々に交じって買い物をしている。右手にビニール袋、左手にベビーカーといった具合に、男性も夕飯の支度に大忙しなのである。難しい顔をしてかわいらしいパッケージのスイーツを買っていく黒帽子黒服の男性もいる。

パンや肉、野菜に果物と並ぶ一大市場の中に、1947年創業の老舗ハルヴァ屋があるので、ゴマを90%、黒糖を10%使ったというコーヒー味のハルヴァをいただく。甘すぎず、ふんわりと口に入る。

夕日に街が照らされるころ、トラムやバスを乗り継いで帰り、家でご飯とトマト、それにお茶と林檎をいただく。

イスラエルとパレスチナが対立する街 – Jerusalem / Hebron, Israel & the Palestinian Territories Hebron,

イスラエルにいると、歴史と今がとても近いことを強く感じるようになる。過去から続いてきた対立が今なお進行している。そして、世界の力の不均衡に頭を抱えることになる。

イスラエル人の若者たちは義務である兵役を終えるとよく海外に旅に出る。だから、イスラエルの外で、イスラエルのバックパッカーたちに会う機会が少なくない。フレンドリーで、明るく、前向きな人たちだ。

その印象のままこの地に足を踏み入れると、その若者の印象とこの地で起きているギャップを目のあたりにすることになる。

近代化されたビル、明るい海、かたくユダヤの教えを守り続ける超正統派のユダヤ人たち、それにイスラエルとパレスチナを隔てる分離壁。周りのイスラム、アラブ諸国に徹底的に嫌われるイスラエルという国。

ここで起きている争いについて、イスラエル人のおおよそ60%の人々はもううんざりだと思っていると聞いた。そして、ここの女の子は海外で会うとオープンなのに国の中で会うと壁ができているものだから、世界の中でも口説くのが難しいらしい、とも聞く。

ダマスカス門からオリーブ山にかけてのアラブ人が多く住むエリアには、ユダヤ人は恐がって入ってこないともいう。新市街にはユダヤ人が多く、物価も高い。

今朝は、じゃがいもとにんじんやグリーンピースの煮込み、それにパンやコーヒー、アーモンドジュースをいただいてから、ヘブロンという街に出かけることにする。

ヘブロンはパレスチナヨルダン川西岸地区にある街で、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の祖、イブラヒムの墓がある。ユダヤ人入植者とパレスチナ人との間に今も激しい対立がある街でもある。ユダヤ人入植者がパレスチナ人を追い出そうとして、暴力や嫌がらせが連発していると聞く。

2、3日に一度は両者の間で対立が起き、イスラエル兵もそれをガス抜きだと思っているともいう。実際に、その様子を見た方が言っていた。両者の対立が起きたとき、イスラエル兵が15秒以内に撃つと脅したものだから、パレスチナ人たちが建物の2階の窓から1階へと飛び降りた。その時の様子をパレスチナ人たちは、そんなこともあったんだと笑いながら話をしてくれたのだそう。

エルサレムのダマスカス門からアラブバスと乗り合いタクシーを乗り継いで1時間ほどでヘブロンの町に到着する。 

ヘブロンのような西岸地区は、パレスチナ自治政府とイスラエル軍が管理する割合によって、エリアA、B、Cとに分かれている。パレスチナ自治政府が行政権をもち、イスラエル軍がときにパレスチナ自治政府と共同でセキュリティコントロールしている地域はエリアBと呼ばれている。

ヘブロンの町にあるエリアBは、イスラエル軍が自治権、警察権ともににぎるエリアCに混ざりながら囲まれているので、そのエリアをまたぐときにはイスラエル軍によるチェックポイントを通過しなければならない。チェックポイントの先にある学校や職場に行く場合には大変な時間がかかってしまうのである。

バスを降りると、パレスチナの旗がたち、街はアラビア語で溢れている。スパイスや香水を売る店もあれば、MANGOなどといったブランドものを売る店もあり、活気がある。そしてあちらこちらから、ようこそと陽気に声をかけられる。パレスチナ警察も穏やかな笑みをたたえている。「ガザを解放しろ」と書かれた壁の下で少年がわたしたちに笑いかける。同時にその横をヘブロン暫定国際監視団(TIPH)のワッペンをつけた人々が行き交っている。

バスターミナルから、イブラヒム・モスクまで歩く途中、両わきに店舗の並ぶ市場がある。
いくつかの店の鍵は溶接されて開かないようになっていた。ユダヤ人入植者たちが、アラブ人の営業を阻害し、いやがらせをしているのだという。閉じられた店の並ぶ場所はひっそりとしている。こんなふうに閉店に追いやられた店舗は2000軒以上にも及ぶという。

市場の上には金網が敷かれ、その上にごみが落ちている場所がある。上に住むユダヤ人がごみや汚水を投げつけてくるので、金網で防御をしているのだという。

市場を歩いていると、一人の男性に話しかけられた。その男性の弟の奥さんは、妊娠中に屋上の水タンクを確認しに行ったとき、隣の入植地に住んでいたユダヤ人に頭を5発撃たれて殺されたのだという。水タンクには銃痕を修復した跡がある。

それでもお腹の中の赤ちゃんは生き残った。ところが、その男の子も道で歩いていたところを突然目に毒物スプレーを浴びせられ、今は青いサングラスをかけている。国際団体の支援により、ヨルダンに手術を受けにも行っている。

殺された場所だという屋上に立つと、隣接して真新しいユダヤ人入植地がある。たいていユダヤ人の入植している建物は新しくなっていて、よく目立つ。すぐ隣のビルの屋上で、イスラエル軍が銃をもって、街を監視し、そのための部屋も設けられている。その奥には、イスラエル国旗をあしらった新しい水タンクがそそり立っている。

ユダヤ人の遊ぶバスケットボールコートからも、毎日パレスチナ人の通る道へごみが投げ捨てられるといった。

家に通されてお茶をいただきながら、話を更に聞く。市内に住むパレスチナ人は約20万人、そこにユダヤ人入植者が400人ほどいて、彼らを守る軍人が2000人いるのだという。かつて学校や病院だった建物も入植地と変わっていく。

また市場をてくてくと歩いていると、再び声をかけられた。家をあがっていくと、当時2歳と3歳の子どもが殺されたという部屋に通される。2007年にイスラエル軍がそこに火を放ったのだという。

部屋を出ると近くに修復された水のタンクが置かれている。そばに住むユダヤ人入植者が屋上に忍び込み、ナイフで水タンクに穴をあけたのだといった。

あるパレスチナ男性は「ユダヤ人は、パレスチナ人が長年住んできた場所に入りこんで国をつくり、僕たちの土地を奪っていったんだ」と言う。暴力をふるうことは違法だが、ユダヤ人入植者は捕まらないんだ、と別のパレスチナ人は吐き捨てるように言う。

チェック・ポイントを抜けてイブラヒム・モスクにたどり着く。すると、今日はアル・イスラ・ワル・ミラージュという特別な日だからイスラム教徒以外は入れないと言われる。通常はユダヤ教徒とイスラム教徒と分かれた入口を通り、中に入る。イスラム教徒には荷物検査があり、ユダヤ人すなわちユダヤ教徒には荷物検査はないのだとイスラム教徒の男性が言った。今日は全ての入口がイスラム教徒にのみ解放されている。

中に入れずどうしたものかと思っていると、パレスチナ人の男性がやってきた。監視していたイスラエルの若い軍人女性が、その男性を指して「この方はイスラム教徒の責任者なので、この男性がノーだと言えば、ごめんなさい、入ることはできません。」と付け加えた。

再び街を歩いていると、パレスチナ人だという中年男性に声をかけられる。パレスチナの医療系NGO、パレスチナ赤三日月社で働くというその男性は、自宅の屋上からイブラヒム・モスクが見えるから、立ち寄っていくと良いと言って、家に招き入れてくれた。

そこは築100年以上の、いくつもの部屋のある大きな家で、壁は1m以上もあるところもある。開け放たれた窓からは心地よい風が吹きこんでいた。仲の良いその夫婦には、7人のお子さんがいる。テレコミュニケーション企業やチャイルド・ケアで働く娘、会計を勉強している娘、結婚をした娘、それに3人の息子たち。学費が年間一人5万ドルかかるから、7人も子どもがいると大変なんだといいながら、父親はまた笑う。

15歳の息子はサッカーが得意で、イタリアとフランスに行き、来月はギリシャに行く。過去には有名政治家にも会ったという。家にはそれを称えたいくつものメダルがぶら下がっている。夏休みの今は、スーパーマーケットでアルバイトをしているとも言った。

パレスチナ人のその家族は、それぞれヨルダンのパスポートを持っている。それでも、先月家族でエルサレムにある、イスラム教にとって重要なアルアクサ寺院に行くことになった時は、まだ若くてIDを持たない息子は行くことがかなわなかったと父親は言った。

成人した娘たちは、父親に頬を寄せる。
父親は、息子と抱き合う。そして、がははと大声で笑う。
母親は、控えめながらも、カメラをいじってはしゃいだりする。

仲の良い幸せな家族が、平日の夕方、幸せな団らんの時間を過ごしている。

そのうちに、食事をしていきなさいと言われ、テラスで家族と夕食を囲むことになった。お母さんが作ったという、ズッキーニにご飯を詰めたキシュイーム・メムライームを姉妹がテーブルに並べる。食卓にはその他にトマトソースやパン、それにお父さんが庭で育てていて収穫したばかりだというチリやピクルス、それにパプリカが添えられた。

庭には花が植えられ、棚には先祖より受け継いだアンティークの壺や、息子がイタリアで買ってきたピサの斜塔の置物が置かれている。

この家族の気持ちには、余裕があった。そして、政治的なことにはあまり関心がないようだった。お父さんは、食事は家族で毎回とるんです、それが一番好きなんだと言った。

屋上に行くと、モスクが近くに見える。すぐそばに銃をもったイスラエル兵がいて、見張りをしている。お父さんは、周りのことを説明するのに、指をたてないように気をつけながら、説明をしてくれた。

お茶までいただきながら、次回は泊まっていきなさいと言われる。

スピーカーからは爆音のアザーンが流れてくる。壁には、ゴーストタウンと戦え、と書かれている。

すっかりと長居してしまい、20時を過ぎてから、乗り合いタクシーとバスを乗り継いでエルサレムへ向かう。乗り継いだバスにはイスラエルの旗が天井にはられて、バラがぶらさがっていた。わたしたち外国人を乗車させるのを渋るのか、チケットを渡すから別のバスに乗り換えるように勧められるも、結局そのまま乗せてもらうことにする。途中、個々の乗客に対するチェックポイントもなく、21時半にはエルサレムに戻ってきた。

宿に戻り、イブラハムさんが作ってくれたグリーンピースやにんじん、じゃがいも、たまねぎのスープ、それにご飯にお茶をいただく。

伝統と今のエルサレム – Jerusalem, Israel & the Palestinian Territories

朝はゆっくりと起きて、じゃがいもの煮物やご飯、野菜、パン、それに林檎、そしてコーヒーを合わせていただく。

家を出て旧市街まで歩いていると、家の近くの肉屋で、買い物をしながら友だちと話をしているイブラヒムさんに出くわす。ホワイトハウスにまで呼ばれるおじいちゃんは、こうして、よく買い物をし、よく料理をしている。

イエスが頻繁に祈りに来ていたという、オリーブの木が植えられたゲッセマネの園や、地下に聖マリアの墓があるマリアの墓の教会を訪ねる。エルサレムは観光客ふうの外国人で溢れている。でもここはユダヤ教、イスラム、キリスト教の聖地でもあり、多くの人々にとって、観光といえどもより宗教的な意味をもっている。

今日は、先日歩いたヴィア・ドロローサの14の祈祷所をもう一度じっくりと歩いてみる。イスラエルの宿にはいくつかの形態があって、普通のホテルやホステルから、巡礼客のためのクリスチャン・ホスピスやイスラエルの集産主義的共同体キブツのもつ宿泊施設にフィールド・スクールまである。

ヴィア・ドロローサの途中にオーストリアン・ホスピスがあるので、立ち寄ってみる。屋上にはオーストリアとバチカンの旗がはためている。併設されているカフェにはドイツ語のメニューがあり、ビールも置かれている。

屋上からは、岩のドームや聖墳墓教会など旧市街を眺めることができる。十字架がささっている建物もあれば、アザーン用のスピーカーが備えられているイスラム教ミナレットも、イスラエルの国旗を掲げるビルも、視界の中にある。

旧市街の土産物屋には、現在のイスラエルやパレスチナのようすを描いたTシャツが数多く売られている。「Don’t worry, Be Jewish」と書かれたもの、オバマ大統領がユダヤ帽やパレスチナ帽をかぶった合成写真をはったシャツ、戦闘機とともに「America, Don’t worry, Israel is behind you」、「Palestine in my facebook, twitter, YouTube and Gmail, AND MY heart」とロゴ付で書かれたもの、「War Good for few, Bad for most」と書かれたシャツ。ヴィア・ドロローサの道の途中にはHoly Rock Cafeもある。

イエスの墓があるとされる聖墳墓教会は今日もろうそくを片手に訪ねる信者が絶えない。聖職者たちもろうそくや聖書を手にもち、賛美歌を歌い、香炉を振る。地下の聖ヘレナ聖堂には大きなモザイク画が残されている。

すぐとなりの贖いの教会を眺めながら、旧市街の南、アルメニア人地区に位置する聖マルコ教会に向かう。ここは、福音書を書いたマルコの家だといわれる場所に建てられた教会で、シリア正教会によって管理されている。シリア正教会によると、ここの地下室にてイエスが最後の晩餐を行ったという。

既に閉館時間を過ぎていたようで、管理人の女性が、今お茶を飲んでるところだから、そこに腰掛けて待ちなさい、と言う。言われるがままに待つ。

そのうちに女性はお茶を飲み終え、すくりと立って、入りなさい、とばかりに扉を開ける。彼女は、かつて数学の教師だったものの、神の啓示により、ここで働くようになったのだと言う。

シリア正教会はアラム人を主とする人々が作った教会で、イエスが話した言葉もアラム語だったといわれている。教会の壁には、アラム語が彫られている。彼女も、100万人から200万人いると言われるアラム語話者の一人だ。どこか遠くを見ながら聖マルコ教会の説明をしたあと、目を閉じて、アラム語で歌い出した。

その後、イエスの12使徒のひとり、ヤコブが殉教したとされる場所に建てられた聖ヤコブ教会に立ち寄る。日の暮れた旧市街は、店も閉まりはじめ、ただ橙色の灯にともされた石畳の道に人々が時折歩いていくばかりだ。

そんな旧市街からヤッフォ門を抜けて、新市街に抜ける。そこには、Mamilla Mallというショッピング街が通っている。突然に辺りは、明るくモダンで、きらきらと輝き始める。Clarksやノースフェイス、ナイキ、アディダス、GAPにNine West、Rolexなど有名ブランドの店が並ぶ。

銃を背にもったカーキの軍服を着た若い女性軍人たちがファーストフード店でジュースを飲んできゃぴきゃぴしている。その横で、黒いとんがり帽子にもみあげをくりくりとしたユダヤ人男性や子どもたちが歩いていく。もみあげくりくりの黒帽子男性が、大道芸さえ繰り広げている。

夕食は家に戻って、じゃがいもや肉の煮物にご飯やサラダ、それに紅茶をいただく。