Top > ブログ

2012年06月

アンマンの夕暮れ – Amman, Jordan

今日はパソコンの調子が良くないので、宿で朝食をいただきながら、ちょこちょこと作業をする。紅茶を飲みながら、ゆで卵、チーズ、それにパンとアプリコットジャムを塗ってほおばる。

夕方に街をぶらりと歩いて、ジャバル・アル・カラアの山頂にあるアンマン城を見に行く。エジプト人だという男性に道を教えてもらいながら、歩く。あちらこちらから「Welcome to Jordan」と声をかけられる。

そして今日も「6-0」。警察も同様だ。そう言って、にこりと笑う。この街で、物乞いを見かけることは、ほとんどない。

城は、古くから要塞とされてきた地に建てられたヘラクレス神殿の門と柱が、取り残されて、すっと空を向いている。門の前で、警察官も含めて男性が布を敷いて祈りを始める。そのそばで、水たばこを吸う少年たちがいる。

徐々に日が暮れて行き、モスクが緑色のライトをつけて、丘に点々と灯されていく。月が浮かび、飛行機が飛んでいく。人々はダウンタウンの夜景を眺めながら、夕暮れ時を過ごしている。反対側には、縦30m、横60mという巨大なヨルダン国旗が他を圧倒する高さで掲げられている。

眼下にはびっしりとつまった建物の合間に小規模なビルがところどころに建っている。ヨルダン最大のローマ劇場やローマ時代にコンサート会場などとして使われてたオデオンも近い。

640年にフィラデルフィア大聖堂を改築してできて、その後オスマン建築様式で修復されたアル・フセイン・モスクでは人々が祈りを捧げ、あるいは寝そべったりしている。

夕食は、お勧めをされた食堂、アンワール・アルコッズに行き、揚げたカリフラワーやジャガイモを鶏肉とご飯をスープで炊いたマグルーバ、それにコフタ・タッヒニーヤをオーダーする。ミンチ肉の練り物を焼いたコフタが隠れるほど、ゴマのペーストとポテトがシルバーの器にたっぷりと盛られている。それに、パンとピクルスがついてくる。

アラビア菓子の名店ハビーバには夜の10時を過ぎても人々が行列を成して、カナーフェを持ち帰り、もしくは店の外でほおばっている。

路上には、アドルフ・ヒトラーやチェ・ゲバラ、サダム・フセイン、カダフィ大佐を表紙にした書籍がずらりと並べて売られている。

夜に宿の外から、テレビでサッカーを観る人々の歓声が聞こえてくる。

パレスチナ難民キャンプの今 – Border with Israel & the Palestinian Territories / Amman, Jordan

ヨルダン側のイミグレーション・オフィスの天井には燕が巣を作っていた。ヨルダン国王の写真がでかでかと描かれた壁紙の横で荷物確認をして、窓口に並べば、入国となる。イスラエルに入った痕跡は、イスラエル入国時にパスポートに貼られた荷物確認用のシールだけだ。

そこからタクシーをチャーターして、首都アンマンの宿、マンスールホテルまで向かう。所要時間約50分、なんとも近い。イスラエル、パレスチナ自治区であまり見かけることのなかった全身を黒いアバヤで覆う女性も再び見られるようになった。

アンマンにはパレスチナ難民のみならず、1980年代にはレバノン内戦からの避難民、1990年、2000年代の湾岸戦争、イラク戦争からの数十万人ともいわれるイラク避難民も住んでいる。その他ロシアやアルメニア、シリアからの人々も少なくないという。

宿の近くにも2軒並んでイラク食堂屋がある。そのうちの一軒、ビファレストランで、茄子の炒め物と、オクラの入ったピリ辛のトマトスープ、それにチキンののったご飯のセットをオーダーする。合わせてマンゴージュースを飲む。メニューは日本語でも書かれて店頭に貼られ、テープを切り貼りした装飾は、日本のカフェふうだ。

ヨルダンには、パレスチナ難民が多く住んでいる。かつての難民キャンプ、ワヒダット・キャンプの市場が今日土曜日には特に賑わっているというので、バスに乗って訪ねてみることにする。ヨルダン内に住む170万人近い難民のうち16%ほどがこのような公認キャンプに住み、そのうち5万人がワヒダット・キャンプに登録している。

市内中心にあるアル・フセイン・モスク辺りからバスに乗ってワヒダット・キャンプに行きたいと言うと、降りるときに教えてあげるから前のほうに座りなさい、と言う。街角にはヨルダン国旗が大きくはためき、パレスチナ難民のための国連施設がある。

ワヒダット・キャンプに到着してバスを降りると、今度は大人から子どもまで次々と写真を撮って、とポーズを構え、一人を撮り終えると、次はこっちとリレーが始まる。わたしたちがイスラエルに行く前の日本との「6-0」のワールドカップ予選を、今でも笑いながら責められる。

道ばたの看板には、国連のロゴに「平和はここから始まる」と書かれ、アラビア語で説明が書かれている。壁にはヨルダン国王や王妃のポスターも貼られている。街中ではベドウィンの赤と白のカフィーヤをかぶっている男性もちらりほらりと見かける。

パレスチナ難民キャンプと「キャンプ」の名前がついているものの、そこに見えるのは建物だ。1948年と1967年に多くのパレスチナ人がヨルダンにやって来た。人々は既に親の世代からこの辺りに住んでいるようで、家族の歴史がここに刻まれつつある。

数多くあるこの辺りのドレス店の一軒でもまた写真を撮ってのリレーが始まった。写真を撮っていると、コーヒーをどうぞとスパイスの効いたコーヒーを出してくれた。そして小声で言う。この辺りの75%はパレスチナ人で、残りの25%がヨルダン人。僕の両親がパレスチナからヨルダンにやって来たから、僕はヨルダン生まれのヨルダン育ちなんだよ、と言う。ここから5キロほどいったところに家を買って、今はそこに住んでいる。これが僕の息子たちだよ、と隣の男の子を指す。

大きなナスからキャベツ、それにトマトやいんげんなどの野菜、平べったい桃に葡萄やさくらんぼやスイカ、パイナップルといったフルーツ、ぶら提げられた肉のかたまり、それにきらびやかなドレスが所狭しと並んでいる。

イスラエル側パレスチナ自治区ヘブロンの市場を歩いていて上を見上げると、そこには落とされたごみの引っかかった金網があった。

ここヨルダン側パレスチナ難民キャンプの市場を歩いていて上を見上げると、そこに少年があげた凧が鮮やかに舞っている。

ヘブロンのパレスチナ人も明るくフレンドリーだった。それでも、「手元の箱を動かしてもイスラエル軍はそれに気づく」くらい、監視された世界に住んでいる。それに比べると、ここ難民キャンプの人々は、パレスチナ人としての歴史を背負いながらも、今現在は穏やかな日常生活がほんの少し垣間見える。

難民のなかでも、パレスチナに戻りたいと思っている人と、ヨルダンを気に入っている人がいると言う。ビジネスに長けたパレスチナ人を妬むヨルダン人も少なくないと聞く。

パレスチナ人がヨルダンのパスポートを持っていることは珍しくない。そしてイスラエル人がイスラエルの他に別のパスポートを持つ二重国籍もまた少なくないという。イスラエルの他に米国やドイツやフランスなどのヨーロッパのパスポート。だから、ヨルダンに来た時はイスラエル国籍であることを隠すのだと言う。だから、警察も、人々も、持っているパスポートの国籍ではなく、ルーツがどこなのかを知りたがるのだと聞いた。

「イスラエルは賢いんだよ」と、アンマンのパレスチナ人は声をひそめて言った。ヨルダンとイスラエルの政府間は仲が良い、でも人の間は仲が良くないのだという。

夕食は、宿の名従業員ルアンさんが差し入れをしてくれた、ドーナツやチョコクッキーにオレンジジュースをいただくことにする。ルアンさんも、ヨルダン生まれのヨルダン育ち、自由なイスラム教徒パレスチナ人である。

イスラエル-ヨルダン国境情報

イスラエルのエルサレムから、ヨルダンのアンマンまで抜けるルートです。

1.エルサレムのダマスカス門近くから、キングフセイン橋行きのバスに乗る。
 (※所要1時間。NIS 38.00)
2.イスラエル側で出国手続。パスポート及び入国時にスタンプが押された別紙を提出。
3.ヨルダン側へ行くバスへ乗る。(※所要10分。JOD 5.30)
4.ヨルダン側にて、入国手続。パスポートを提出。
5.アンマン行きのタクシーに乗る。(※所要1時間。1台 JOD 25.00)

◎両替
 ヨルダン側に銀行があります。
 NIS 1.00 = JOD 0.15

イブラヒムさんの家を出る。 – Jerusalem / Border with Jordan, Israel & the Palestinian Territories

今日はイブラヒムさんの家を出て、ヨルダンへ戻る。

パンに苺ジャムやバターを塗り、じゃがいもスープやコーヒーと、定番になった冷えたアーモンドジュースをいただいて出発することにする。

オリーブ山の頂上付近にあるイブラヒムさん家の屋上からは、朝日に照らされた街並みが見える。家の壁にはイブラヒムさんについての新聞記事やイブラヒムさんを描いた肖像画、家族との写真などが貼られている。

名残惜しい。

バスに乗ってダマスカス門まで行き、Al Nijmeh Taxi Companyという会社のシェルートに乗ってヨルダン国境へ向かう。ぼくはパレスチナ人だよと、こちらが尋ねないうちに会社の男性は言った。滞在期間中、イスラエルという国名を口に出すのがなかなかに憚られるようになった。

この辺りの車の運転手たちは、よく歩行者に道を譲る。

シェルートに乗り込み、死海に近づくにつれ標高が下がり、再びペットボトルが凹む。乾いた土地を眺めること約50分ほどでヨルダンとの国境に到着する。パスポートを運転手に預けた後しばらくすると、乗り込んできた男性がそのパスポートを確認してそれぞれ乗客に「武器を持っていますか。」とあからさまな質問を投げかける。質問に答えれば、パスポートは返却される。

入国時とは違う建物で、入国時と比べて格段にスムーズな出国手続きが行われる。大きな荷物を預けて、出国税を支払えば、問題なく「別紙」に出国スタンプが押される。それから荷物検査を終えた大きな荷物をピックアップして、出国税の支払い確認が行われる。

そうすれば、あとはキング・フセイン橋を渡るバスに乗って、ボン・ボヤージュとうたわれながら、橋を渡るだけだ。

渡ったところでパスポートを回収され、下車前にバス料金を支払う。料金は既にヨルダン通貨しか受け取ってもらえない。ヨルダンに戻ってきたのである。

浮かぶ死海と、ユダヤ教ラビの家でのシャバット・ディナー – Jerusalem / Dead Sea, Israel & the Palestinian Territories

今日はコーヒーやアーモンドジュース、それにパンをいただいてから、死海に行く。家からダマスカス門までバスに乗り、そこからトラムに乗り継いで、死海行きバスの出ているセントラルバスステーションへ向かう。

新市街に位置するセントラルバスステーションの本屋にはアラビア語は見つからず、書籍はヘブライ語で埋めつくされ、トーラーも置かれている。

朝の9時ちょうどにきちんと出発したバスは、ユダヤ人住宅地を通り抜けて、死海へと向かう。

死海は海面下約420mに位置していて、塩分が通常の10倍、30パーセントほどあるという。死海から水の流れる出口がなく、高温で乾燥した気温によって水がどんどんと蒸発し、水の中の塩分が凝縮される。

標高マイナス300mと書かれた看板の横を通り過ぎる。窓の外に死海が見え、ペットボトルはぺこりと凹み、耳がつんとする。10時にはエン・ゲディ・パブリック・ビーチに到着する。アフリカのボツワナから来ているという3人も同じように降りた。

ここは整備されたリゾート地だった。ヘブライ語、英語、アラビア語で、注意書きが書かれている。飛び込むなといった他に、頭を沈めないように、水を自分や他人にとばさないように、水を飲みこまないように、といった注意がなされている。

すでに幾人かがぷかりぷかりと浮いている。

海は透明に輝き、海岸には塩がごつごつと塊をつくっている。

脚をそっと浸してみる。海との違いがまだ分からない。目に水が入るととんでもなく痛いというので、気をつけながらおそるおそる入ってみると、水がややとろりと重たいことが分かる。そして浮かんでみると、ひょいと身体が浮く。脚が自然に浮くものだから、平泳ぎができない。立ってみると、肩がちょうど出るくらいまで浮き、脚をくるくると回すこともできる。雑誌を手にしながら、読むことだってできる。

気づかなかったほどの小さな傷口がしみる。口の周りの水が、苦い。

全身を黒とグレーで覆った肌の白い初老の女性が、洋服と黒い靴のまま、じゃぶじゃぶと海に入っていく。そしてそのまま浮かび、波の向かうままに、流されていく。

パブリック・ビーチには、張られた金網の少し先に泥があるらしい。泥を探しに行くと、イスラエルの男性がビニール袋を手にやってきて、掘り始めた。そのうちに、泥があったと、わたしたちに差し出す。灰色でとろりとしていたその泥を肌に塗ると、泥は肌の上でよくすべった。

温度計は40度以上を示している。隣に座った男性が、西瓜をどうぞと差し出してくれる。パラソルの下でパンをつまむ。死海の向こうにはヨルダンが見えている。

この近くにはキブツの経営しているスパもある。キブツというのはイスラエルの集産主義的共同体のことだが、ここ10年でその姿を大きく変えたという。かつては集団生活をしていたものが、今では村のようになってしまったという。このスパも宿泊施設を併設し、一企業のようになっている。

今日は金曜日なので、日没から安息日シャバットが始まる。午後に向けて徐々にバスの便数が減っていく。14時45分の最終便をつかまえて、エルサレムに戻る。

16時15分ころにエルサレムのセントラルバスステーションに戻ってくる。安息日の間、ユダヤ人は家事も一切行わないこととしていて、その準備のために安息日前にみなどっさりと買い物を終わらせる。

先日は行き交う人で賑わっていたメア・シェアリームも、ほとんどの店は閉まっている。その中でも開いていたスーパーマーケット、Express Marketに立ち寄る。ワインが並び、アイスクリームもある。黒い帽子に黒い服を着た人々がちらほらと品選びをしている。店員の男性は日本人が好きだと言って、お菓子やチョコレートのアイスをわたしたちに持たせてくれた。

金曜日の夕方は先日と同じように嘆きの壁に向かう人々がいる。シャバットでは車を一切使わないというので、多くの人々が歩いていく。

先日はきらきらとしていたMamilla Mallも、店は閉まり、がらりとしている。太陽の沈む前、トランペットの音が街に響き渡る。シャバットが始まったことを意味するのだと言う。

メア・シェアリーム地区を抜けてアラブ人の多い地区に入ると、途端に道ばたに野菜や果物が売られ、賑やかになっていく。

安息日にいただく夕食をシャバット・ディナーと呼び、晩餐が行われる。イブラヒムさんもユダヤのラビに誘われ、シャバット・ディナーに出かけるという。わたしたちも、息子さんがユダヤ教徒に改宗したという友人に、息子さんが師事するラビの家で大きなシャバット・ディナーがあるからとお誘いをいただく。

そのラビの家では金曜日の夕食1回と土曜日に2回、無料でみなに食事をふるまっていて、だれにでもその門は開かれている。ラビには14人の子どもがいる。ラビの家を訪ねるにあたり、友人は、オランダでしか売っていないという髪の毛を覆う布をプレゼントしてくれた。

シャバット・シャロームと言って挨拶をし合う。

友人であるインドネシア出身の男性はキリスト教徒だ。スカルノの時代にインドネシアを逃れ、オランダへと渡った。一度の離婚を経て、インドネシア人の女性と再婚をする。そしてユダヤの血をひく前妻との間の息子さんである彼が、ユダヤ教に改宗して17歳にエルサレムに渡ってからYeshivaに通い始め、今もその生活が続いている。

現在、24歳。

47歳だというお父さんは、サッカーのコーチをしているともいい、見た目が若く、はつらつとしている。それに対して、恥ずかしがり屋だという息子は、おどおどとしているように最初見えた。

超正統派のユダヤ人は、仕事をしない。収入源は国からの補助金に頼ったり、サポーターをつけたりすることが多く、低所得者である人々も少なくないとも聞く。息子さんは今、世話人となってくれているユダヤ人一家の家に居候している。

「スポンサーの見つけられない息子はお金がなくて、先日も、新しいテフィリンのバンドを買うために500ユーロ必要だと言われたんだ。だから、僕はお金を送ったよ。でも、そろそろちゃんとサポーターを見つけないといけない。」父親である友人は、大好きなサッカーだけでなく、今は新聞配達もしているのだという。

父親はキリスト教だが、息子が突然にユダヤ教徒に改宗したいと言い出した。当初はずいぶんと反対をしたといい、最近でも息子さんと離れるのが寂しくて、ずっと泣いていたという。

21時半ころ、ラビの家の中からは食事の良い香りがしてくる。扉が開かれ、待っていた人々が次々と家の中に入っていく。中央の部屋にはテーブルとイスがぎっしりと配置され、それを囲うように本棚には本が並べられている。

男性と女性は分かれて席に着く。女性は男性と握手をしてはならない、目を合わせてはならないという決まりがあるので、それを守りながら、着席する。

キッチンでは女性たちがせっせと食事の準備をしている。そのうちにラビが葡萄酒とパンに祈りを捧げる。大きくふっくらとしたパンにラビがナイフをいれる。テーブルにはグレープジュースや、コカコーラなどの炭酸飲料、それにピーチティーなどのペットボトルが置かれている。

ラビが挨拶をして、食事が始まる。所狭しとテーブルを並べた部屋には、50人を超えている人々が席についている。ラビが話を続けながら、そのうちにAyshes Cha-yilといった歌を歌い、時に手拍子をつけ始める。

にんじんやきゅうり、ビーツ、ホムスとともに、切られたパンが回される。それからしばらくするとはんぺんのような魚のすり身、続いてスナックをのせる肉団子のスープ、それにチキンのトマト煮とトマトライス、最後にシナモンケーキやチョコパンにウエハースなどのスイーツが次々と出されてくる。

しばらくすると、ラビが、発言したい人に手を挙げて話をさせる。そのうちの一人に、息子さんがいた。そこにいた息子さんは、大きく自信のある声でユダヤ教についての話を語っていた。さきほどとは別人のようである。まず、父親が好きなサッカーは僕は嫌いです、と言って会場を笑わせる。

食事を終えて、友人は、息子さんと話をする機会を作ってくれた。いくつかの質問をすると、それに目を見開いてはきはきと答えてくれる。

ユダヤの教えを学ぶには最低120年必要だと言われているので学校には生涯通い続けること、トーラーは生きるための水のようなもので欠かせないものであること、祈りの際に前後左右に揺れるのはキャンドルが揺れるように神とつながるためであること、カールされたもみあげは自分たちのアイデンティティとして保っていること。

ユダヤ人は世界で一つなんです。だから、世界の裏側に住んでいるユダヤ人が悪いことをしたら自分に責任があるんです、と静かに、でも力強く言う。

友人は、お父さんと離れて寂しくないのかと、息子に問うた。息子はその問いにはっきりとは応えないまま、でも、神がここに自分を運んできたんです、と照れたように笑った。

キリスト教では十個の戒律があるが、ユダヤ教では613もの戒律があるという。大変なんだよ、と友人は言う。ユダヤ教にはカシュルートと呼ばれる食事規定が戒律としてある。それを完全にオランダで守ることは難しいし、息子はここにきて幸せそうにしているから、オランダに戻ることはないだろうとまた寂しそうに言った。

ユダヤ教の教えで、食事後6時間はミルクを飲まないように伝えられる。

こうしてすっかりお腹もいっぱいになり、お話を聞いている間に夜の12時半を回っていた。タクシーに乗って、家に帰ることにする。