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黒人専用刑務所島と、ケープタウンの街並み – Robben island / Cape Town, South Africa

今日は、アパルトヘイト時代に黒人の、主に政治犯が収容されていた刑務所のある島、ロベン島に向かう。1959年から1991年の間に、ネルソン・マンデラ氏を含む約3000名の政治犯が収容されていた島だ。

朝に起きて急いで支度をしてから、ロング・ストリートをぐぐっとあがり、また左にぐぐっと曲がり、船乗り場へと向かう。朝の9時を過ぎても通りにはまだ人気は少なく、もくもくと急ぐ。時折若い男の子が手をぐいと差し伸ばして、金をくれ、とついてくる。

ウォーター・フロントの赤い時計台近くから、南アフリカの国旗をかざした船に乗り込み、島へと向かう。

中国人のカップル、インド人一家、裕福そうな黒人の家族、ケープタウンらしく、ゲイふうの白人男性。黒人家族の父親は、黄色と白のストライプのラガーシャツに赤いジャケットといったラフな服装で陽気に笑い、iPadを手にしている。その横で、きれいな身なりをした黒人の母親と子どもたちがいる。幸せの象徴のような家族だ。

ケープタウンが徐々に遠ざかっていく。ケープタウンの街の中心に高層ビルがあり、そこから右手にワールドカップ会場にもなったスタジアムがある。後ろには、上部がすっぱりと平らなテーブル・マウンテン、右後方に先の尖ったライオンズ・ヘッドと、平日正午に号砲を発する大砲があるシグナル・ヒルがそびえている。海には大きな船が何隻も浮かんでいる。

1時間ほど船に揺られたところで、建物がずらりと並ぶロベン島に到着する。空にはたくさんのカモメが飛んでいて、黒い水鳥が防波堤にとまっている。

島の入口の門には「ロベン島へようこそ。誇りをもってお迎えします。」と英語とアフリカーンス語で書かれている。最初にバスに乗って、島をぐるりと回る。

収容者は、英語かアフリカーンス語のみ話すことを許されたので、それが話せない人々は、ジェスチャーでコミュニケーションをとるしか仕方なかったという。

現在も220~250名が住んでいる島には、白いお墓の並ぶ墓地、れんがで作られた教会、テニスコート、若草色をした郵便局、石灰粉の採掘場、そしてイスラム教徒の政治犯も収容されていたことから緑の屋根をもつイスラム寺院Kramatもある。

1863年にできた灯台がたち、海辺には転覆した船が見える。かつてここに収容されていたネルソン・マンデラ氏は釈放後、14回この島に戻ったという。

Robert Sobukweという一人の男のための世界最小の刑務所も存在する。クリーム色の建物、オレンジ色の屋根に、わきには水のタンクが置いてある。

この島からアパルトヘイト時代に逃げ切った者は一人もいないという。逃亡を図った者も、監視軍から銃を奪って逃走したものの、48時間以内に捕まって戻されている。

この島に収容されていた多くは政治犯であるものの、互いに影響を与えることがないよう、一般の犯罪者とは分けられていたのだそう。”Each One Teach one”というスローガンが掲げられていた。

島をぐるりとバスで回った後、バスを降りて、かつてここで入所していたSipho Smosiさんが、刑務所を案内をしてくれる。刑務所はいくつかのセクションに分かれており、ネルソン・マンデラ氏はリーダー格の政治犯として独房の並ぶセクションBに、Siphoさんは幾人かで部屋をシェアするセクションDに収容されていた。

Siphoさんは、South African Security Officeに捕まり1984年から5年間ここに入所していたといい、当時の話を低い声でゆっくりと話していく。セクションDには30人が一部屋に収容され、3つのトイレとシャワーを兼用していたという。

コーヒーや紅茶にパンやおかゆなどが主な食事だった。Siphoさんの時代には、下着や寝具など基本的な権利は与えられており、ペンや紙も十分に与えられていた。

ただ、勉強をするということは権利ではなく特別の恩恵であり、勉強を許される収容者は限られていたという。収容所には勉強の許可を得るための部屋や、各人に番号とID書類、制服を配布した受付事務所も残されている。

1960年から1970年半ばまではマットを床に敷いて寝ていたものの、1970年代後半からは鉄のベッドが各自に与えられるようになった。格子扉を開けた先に、壁を白とグレーに塗られた部屋があり、白い小さな鉄の物入れと、二段ベッドに質素なマットが敷かれて並べられている。

収容所は明るく清潔だった。Siphoさんは、当時からここは清潔なんです、と言う。ただ届いた手紙は全て検閲のために開封され、不適切な個所ははさみで切り取られたものだから、手元に届く手紙は穴だらけだったという。

セクションごとに働くため、仲間同士の団結が強くなったという。収容期間中に収容者同士の暴行を見たのは2度(だけ)だったという。

ネルソン・マンデラ氏を含むリーダー格の政治犯が収容されるセクションBは、隔離され、訪問者との面会も手紙の受け取りも著しく限られ、1日30分だけ独房から離れることを許された。

白と淡い水色に塗られたマンデラ氏のかつての独房には、格子のついた小さな窓が備えられ、右にグレーのマット、そのわきにダークグリーンの小さなテーブルと、赤い缶が置かれている。刑務所にはそういった部屋がいくつも並び、それぞれの白い格子扉に、木の扉がついている。同じ棟に、簡単な共同トイレとシャワー室がある。

島に2時間ほど滞在して、また船に乗り、当時撮影された白黒写真が貼られている船着き場を離れ、ケープタウンへと戻る。

プランクトンが白い泡をたたせ、波の間にイルカが5匹ほど顔を出す。船の上では行きと同様、黒人男性スタッフが乗船者に向けて丁寧な挨拶をする。

船の到着したターミナルで更にアパルトヘイトの展示を見た後、ウォーターフロントを通り、テーブルマウンテンの中腹へと向かうことにする。

晴れ渡った祝日のウォーターフロントは明るく、昨日の曇り空のそれとは違った雰囲気だ。顔に白く模様を施した黒人男性たちが民族衣装を着てジャンべを鳴らし、南アフリカのサッカーユニフォームを着た男性が、サックスを吹き、木琴を鳴らしている。港に面する洒落たオープンカフェには、多くの人々が腰掛けて、昼のビールを楽しんでいる。

昨日も立ち寄ったビクトリア・ワーフ・ショッピング・センター内のPick n Pay内のイスラム料理を売る店、Halaalでフィッシュ・アンド・チップスを買った後、バスに乗る。

ウォーターフロントからテーブルマウンテンまで、MyCityのバスに乗り、そこからミニバスに乗り換えて向かうものの、ミニバス乗り場はケープタウンの治安の悪い地域にある。真新しいケープタウン駅を通り、マニキュア屋やブレードヘア屋を抜けると、殺伐とした雰囲気へと変わっていく。

ミニバス乗り場の雰囲気は芳しくないこと明らかなものの、最初無愛想だったバスの運転手のおじさんは話をしてみればとても親切な男性だった。おかげでぱくぱくとフィッシュ・アンド・チップスをほおばりながら、声のかすれたその運転手の話を聞く心持ちになる。

テーブルマウンテンからはケープタウンの街並みを一望することができる。緑がたっぷりと広がり、中央に高層ビルがそびえ、街全体は赤い屋根と白い壁の家が多く、その向こうにはテーブル湾が広がっている。上から眺めるその穏やかな雰囲気は、さきほどのミニバス乗り場からは想像できない。

そこから宿までどう帰ろうか考える。米国から移住してきて、南アフリカの女性と結婚したというツアーガイドの男性が丁度待ち時間だということで、宿まで送ってもらうことにする。ケープタウンが大好きだ、とその男性は言った。移り住んできたころとはずいぶん変わった。良くなったところもあれば、悪くなったところもある。

宿の周りも、昨夜の暗い雰囲気に比べて、今日はひどく明るい。昨夜と客層の違う、宿の近くのスーパーKWIKSPARに立ち寄り、食材を買う。明るい雰囲気にひかれて、チョコレートとバニラのアイスを買ってかじる。

夕食は宿でツナと卵とチーズのペンネにピタパン、ドリンクはCASTLEビールを合わせる。夜になかなか外を出歩けない分、宿でほろ酔いの日が増えている。

危ないって言われると外出したくなっちゃうのよね、とドレスを着て夜に出かけていった韓国人女性が外出先から戻ってきた。「外に出ても大丈夫だったわよ、でも音楽を聴きに行ったんだけど、ミュージシャンが下手でね。」と言って、着飾ったドレスをくるりと翻して、部屋に戻っていった。