Top > ブログ

ヨハネスブルグ旧黒人居住区、ソウェト – Soweto / Johannesburg, South Africa

朝はダイニングで、コーンフレークにミルクを注ぎ、トーストにピーナツバターやはちみつ、アプリコットのジャムなどを塗って、いただく。

今日は、南アフリカ最大のタウンシップ(旧黒人居住区)、ソウェト地区を訪ねる。アパルトヘイト時代、人種ごとに住み分けさせられていた黒人の居住地区のことだ。

案内をしてくれる黒人Ericさんが、宿まで車で迎えに来てくれる。ダウンタウンの方角に向かって車は進んでいく。

前方に高層ビルが並びたち、右手には、ヒルブローにある塔がそびえたつ。「あの辺りは危ないから近寄っちゃいけない。」Ericさんは言う。

道沿いの店には中国語で大きく「中国絨毯市場」と書かれている。

Ericさんは、ヨハネスブルグについて、ガイドブックやインターネットで調べたか、とわたしたちに尋ね、「調べていたら、ヨハネスブルグがひどくコワイ町だって思っただろう。」と続ける。

赤信号で車が停まるとカージャックにあうから車も停まらないという説についても、Ericさんは、「赤信号をつっぱしったら、他の車にぶつけられるよ。」と言って、赤信号でもきっちり停まる。窓も開け放したまま。

ワールドカップの会場となったサッカー・シティに立ち寄る。赤い塔にはコカコーラのロゴが描かれ、South Africa United 2010と書かれている。大きいスタジアムの周りは、ぽつりと鉄道の駅がある他は広大な空き地になっている。

ワールドカップの会場が南アフリカになることが決まった時、イギリスは、南アフリカには務まらないと思ったんだ、でもそれが間違いだってことを証明したんだよ、とEricさんは誇らしげだった。

「Welcome to SOWETO」という看板にたどりつく。

ソウェトの中でも裕福な地域と中間層、そして貧しい地域と分かれている。最初に、裕福なソウェトのエリアを走る。わたしたちが今回泊まっている、郊外の宿の周りの家には見られる有刺鉄線が、ここにはない。高い壁もなく、道に面した窓は開け放たれていさえする。Ericさんに理由を尋ねる。

「ソウェトは安全なんだ。(わたしたちの宿泊している付近の郊外住宅地で)犯罪を犯しているのはソウェトのやつらだが、彼らはソウェトには手をつけずに、他に手をつけるんだ。」と言った。

煉瓦造りの家は大きな間取りでゆったりとしていて、中にはB & Bの宿として家を提供しているところもある。

そのそばには、ホステルと呼ばれる日雇いの人々が住む地域もある。電気も水道もない。茶色や白の煉瓦がずらりと積まれ、小さな窓がぽつりぽつりと開けられ、トタン屋根が置かれているそのホステルには、服が干されている。

そこから、中間層の人々の住むエリアに入る。さきほどの裕福層のエリアの家よりも小さいものの、四角いマッチ箱のような家の裏手には、増設されたトイレがある。マンデラ・ネルソン氏がかつて住んでいた家も、このソウェト地区中間層の住むVilakazi通りにある。

前妻であったウィニー・マンデラさんが住んでいた家も近くにある。当時暗殺計画もあり、日々注意を払いながら暮らしていたのだという。

ヘクター・ピーターソン博物館に立ち寄る。政府が黒人の学生にアフリカーンス語を学ぶよう強制しようとしたため、1976年にそれに抗議した大規模な反アパルトヘイト暴動が起き、そこに警官隊が発砲して特に若い人々に多くの死者が出た。

その最初の被害者の一人が当時13歳だったヘクター・ピーターソンだった。庭に置かれた被害者の石には、ヘクター・ピーターソンの名のほかに、「不明」の石もある。

博物館では、TO HELL WITH AFRIKAANSと書かれたプラカードなどを持つ人々、白人軍人が黒人をひきずる写真、当時の新聞記事、かつてのソウェト、白人居住地区や黒人居住地区についてのビデオなどを見る。

反アパルトヘイトの集会もあった、ローマカトリックのRegina Mundi教会に立ち寄り、ソウェトの中でも最も貧しい地区にあるMotsoaledi地区を訪ねる。砂埃の舞う道沿いにトタンをつぎはぎした家が並ぶ。各家の前には小さな畑があり、野菜が栽培されている。この野菜は自分たちで食べるように育てているのだそう。

あちらこちらから挨拶をされ、子どもたちもこちらをはにかむように見つめている。

ある一軒の家にお邪魔する。

キッチンとベッドなど生活のすべてがその一室に入れられている。電球が天井からぶらさがっているので、電気が通っているのか尋ねると、かつて街灯から電気を違法でひいていたら、それが発覚して、街灯の電気ごと線が切られたという。だから、今は街に電気はつかず、部屋の片隅にはろうそくが置かれている。

孫を含めた家族がみな彼女の年金に頼っている。

街の一角にある非合法の居酒屋、Shebeenに立ち寄る。ここには食べものもワインも売っておらず、ビールだけが売られている。仕事後、帰宅する前にビールをひっかけて帰宅するのである。女性もビールを飲むのかと尋ねると、「男性よりも飲むよ」と答えが返ってきた。違法な店なので、外には看板もかかっていない。

トタンをはりあわせたような家の反対側には政府が無料で提供しているフリーハウスが並んでいる。煉瓦でできた新しい造りだ。ここには電気も水も通っていて、しかも無料なのだという。みな、フリーハウスへ入居の申請をしつつ、許可が得られるのを待つ。10年以上待つ人もいるらしい。

南アフリカは急激に変わったとみなが口をそろえていう。アパルトヘイト後、白人と黒人の関係は良好になったものの、失業率の高さ、不法移民を含む貧困層の流入など多くの問題を抱えている。

わたしたちが今回滞在している宿は、白人家族の自宅を少し改造した豪華宿だ。プールを備え、バーを備えたバンガローがあり、その後ろには、白いあひるがのんびりとしている湖を望める。

9部屋あるという宿(自宅)には、黒人女性がお手伝いとして働き、清潔に整えられている。

宿の周りの有刺鉄線には電気を通していたが、犬がそこを越えようとしてやけどをしたりするのだという。そして、この有刺鉄線も、犯罪者は毛布をかけて乗り越えてくるので意味をなしていない、と宿のオーナーであるRunelさんは言う。

ヨハネスブルグでは外食もままならないので、快適な宿のソファでテレビを見たり、手入れの行きとどいた広々としたキッチンで食事を作り、一席ずつ紫のテーブルクロスの敷かれた木のテーブルに腰掛けて、夕食を食べたりする。いわしとトマトやバジルのパスタにフレークを混ぜ合わせ、チーズをたっぷりかけて、トーストやグリーンレモンティーを合わせる。

白人と黒人は以前より関係が良くなったけれど、白人からの差別を今でもよく感じる。それでも、南アフリカ人でいられて、ほんとうに幸せなんだというEricさんの言葉を、思い出す。