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国の中の国、ザンジバル - Dar es Salaam / Zanzibar, Tanzania

タンザニアの正式名称は、タンザニア連合共和国。タンガニーカ共和国とザンジバル共和国が併合して誕生した。

今日は、そのザンジバル、に行ってみることにする。

朝は宿のレストランで食事をとる。バターの塗られたトーストに薄いオムレツ、チャイ、それにマンゴージュースがついている。レセプションには、タンザニアの他に、イギリス、中国、南アフリカ、ルワンダの時間を刻む時計が掛けられている。
 
街の目印にもなるクロックタワーをまわり、港へと向かう。目印となるクロックタワー、というから、大層なものかと思っていたら、Panasonicの電池の広告が描かれたそれは古びていて、時刻の針がとんちんかんな方向を指している。

「笑顔がいっぱい 太陽号」「なかよし号」と書かれたバスに、地元の人たちが真剣な顔をして乗っている。あちらこちらから、挨拶が向けられる。

30分ほど歩いたところで、港に到着する。Fast Ferries社の9時発のチケットを購入する。ひよこがぴよぴよと敷き詰められた段ボールがいくつも運び出され、鶏の入れられた籠とともに次々と船に載せられていく。

地元の人々を乗せた船が、こうして9時に出港する。高いビルがいくつか並ぶダル・エス・サラームの町を離れ、朝方はせりが開かれ、漁から戻ったダウ船から魚が運ばれるという魚市場を通り過ぎていく。市場は大勢の人でにぎわい、何艘もの船が停泊している。

大型貨物船から、小型の手漕ぎ舟まで、海に浮かんでいる。

子どもを抱えた母親が、机につっぷし、あるいは床に寝そべって、じっとザンジバル島に到着することを待っている。

2時間半ほど走ったところで、水色の海にMAERSK社やNedlloyd社のコンテナが積まれた大型船も停泊する港へと到着する。大量に積まれてきたひよこも、ここで下船する。

ザンジバルには独自の大統領、政府が存在する。そんなわけで、ザンジバルに降り立てば、入国カードを記入し、パスポートを提示する必要がある。

船着き場からほど近いフングニ魚市場に行く。魚の青い匂いがぷんと鼻をつくその市場には、裸足になった男性が一様に暇そうなようすで足を投げ出している。オレンジに水色の魚や半分に切られた魚がそれぞれの男性の前にちょこりと一切れ二切れ置かれているだけだ。

市場の近くには中華系の人々が多く住む地域がある。言葉を交わした女性は、この近くには中国系家族が7家族くらい住んでいるのだといった。そばで、タンビ麺を香港の男性が干している。ベンチにはペンキで「HONGKONG」と書かれている。そこに乗りつけているのは「日本貨物急送」と書かれたトラックだ。

「岡田工務店」や「前橋市634号」のトラックはこの島で、バス、ダラダラに姿を変え、その荷台にはホロがかけられ、両わきに長いすが取り付けられ、ぎゅうぎゅう人気バスになっている。「よりなれ静閑荘」や「めがねのクラモト」のミニワゴンにも続々と人々が入っていく。

同時に「中国江蘇省人民政府寄贈」と大きな赤字で書かれた真新しい白いバスも走っていく。

ピラウという名前のピラフが街角でテーブルを広げていたので、座っていただくことにする。3つあるプラスチックの筒をそれぞれに開けて、じゃがいもとご飯、牛肉、トマトベースのソースをかけていく。わきにはピリピリと呼ばれるピリ辛ソースが置かれている。男性たちが同じテーブルに座り、もぐもぐとピラウをほおばる。ボリュームたっぷりのご飯である。

タンザニアコーラ、「azam cola」や揚げパンを道ばたから買う。甘い食べものにハエがたかり、売り人はみなパタパタと手をふり、それをはらいのけようとしている。

そこから、ダラダラ乗って、街から一番近いというビーチ、Mtoniマリンに向かう。プールもついたホテルの前のビーチだ。ホテルは緑に囲まれ、マッサージサービスもあるビーチリゾートで、先ほどまでの街の混沌とした雰囲気とは別の世界である。

浅瀬の温かい海はさほど波がなく、遠くには貨物船が停まっている。海には、麻の袋を肩に下げた男性二人が歩いていく。砂浜には、水鳥や白いカニが歩いていく。空には、飛行機が飛んでいく。

リゾートだ。

しばらく泳いだ後、またダラダラに乗って、混沌とした街へと帰ってくる。

屋台の並ぶ中で、マサイ族の人々が煙草の粉を売っている。マサイ族の人は背格好や服を見てそうだと検討がつくので、地元の人たちもわたしたちに「あの人たちはマサイだよ」と度々ささやくのである。

サモサを買ってつまんでいると、さとうきびジュースや牛肉の串をどうぞ、あげますと差し出された。

この島は、ポルトガルやアラブ人、オマーンのスルタン、イギリスの支配下にあった歴史をもち、アフリカとアラブの雰囲気が混じりあい、独特の雰囲気を漂わせている。

そんなわけで、両替店には、USドルの次にSAUDIARAB RIALと来て、それからEURO、そしてU.A.E.DirhamやOman Riyal、Indian Rupees、Kuwait Dinarからの両替レートがずらりと書かれている。日本円は、リストにない。

かつてアラブの奴隷商人が、東アフリカ地域からアフリカ人をここザンジバルに運び、奴隷市場を造っていた。その後、歴史を塗り替えるべく、そこに1873年から80年に教会が建てられている。

道で小さなカップに淹れられ売られているコーヒーをすする。砂糖もミルクもないというそのコーヒーは渋くて苦い。

やや落ち着いた地域にあるスルタンのプライベート・バスから持ってきたマイル・ストーン、1908年に建てられた最高裁判所、かつて日本人娼婦が経営していたジャパニーズ・バーの建物、ロマネスク様式のローマ・カトリック教会を、細い道を歩きながら、見て回る。

それから、QueenのボーカルFreddie Mercuryのかつて住んでいた家、アラブ人が要塞地としてポルトガル教会やポルトガル人住居のあった場所に建てたオールド・アラブ砦、1883年にスルタンが式典用に建てた宮殿、驚嘆の家と散歩を続ける。

あちらこちらで「ジャンボ」「マンボ」「ポア」と合言葉のようにスワヒリ語で挨拶を交わす。町の住民の多くが宿の仲介人になっているようで、あちらこちらで、宿はあるか、どこに行くのか、タクシーはいるか、と聞かれる。

黒い布を頭からかぶり、目だけを出した女性がいて、頭にイスラム帽をのせた男性もまた歩いていく。モスクが街のあちこちに点在し、男性が祈りをしに入っていく。

夕暮れ時、海に面したフォルダニ公園には、地元の男の子が洋服のまま次々と飛び込み、涼んでいる。「アーメン」「ハレルヤ」と叫んでは、また飛び込んでいく。

夜は、フォロダニ公園に開きだした屋台で食べることにする。海老や蛸、イカや貝といった海鮮類や牛肉、鶏肉の串などがテーブルいっぱいに広げられた屋台がいくつも並んでいる。
蛸とイカを頼むと、裏の炭火まで持っていき、焼いてくれ、そこにライムを添えてくれる。

地元の人々が集まっているのは、値段の高い海鮮類は置いていない肉の串の店だ。そこで牛肉と鶏肉やココナッツパン、サラダののったフライドポテトを頼む。これもまた後ろの炭火で焼きなおしてくれる。

ザンジバル・ピザ、という名前の、オムレツとお好み焼きの中間のような食べものもある。牛肉のピザを注文する。生地をひいて、野菜をのせ、牛肉をのせて、卵を入れる。

テーブルの隣に座っている男性は、イスラム教徒だといい、携帯電話を片手に話をしている。ザンジバル出身だというその男性は、ダル・エス・サラームよりザンジバルは落ち着いていて良い、と言った。

ここではアルコールの販売が法律で禁じられていて、イスラム教の影響もあって、売られていない。代わりにさとうきびをぎゅっと絞ったできたてのサトウキビジュースが売られているので、それを買い求める。冷えたジュースが美味しい。

ザンジバルからダル・エス・サラームまではFlying Horse社の22時発の夜行船で帰ることにする。出国カードを再び書いて、イミグレーション・オフィスに手渡す。オフィスには、ザンジバル大統領の写真が額に入れられて飾られている。

係の男性は、ザンジバルは、国の中の国だ、と言った。タンザニアとザンジバルの大統領は同じ党出身なので、仲が良いのだと付け加える。タンザニア人でもあり、ザンジバル人でもあることを誇りに思うよと笑った。

Flying Horse社の船の隣には「東海汽船 シーガル」が停泊し、人々が乗り込んでいく。

船内は、1階と2階に分かれ、グレードが異なる。柔らかいソファがいくつも置かれた2階に腰をかける。冷房ががんがんと効いていた。