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エスファハーンは世界の半分。 – Esfahan, Iran

朝は宿の部屋で棗に木イチゴ、ナンにバターとクリームチーズやにんじんジャム。それに紅茶を淹れていただく。そしてしばらくのんびりしてから、昼過ぎに今度は中庭で、ナンにバターやクリームチーズ、それににんじんジャム、チャイやさくらんぼうのジュースを中庭でほおばる。イラン定番の朝ごはんだ。

今日も「エスファハーンは世界の半分」と賞賛された街を歩く。

イスラム教色の強いこのイランにも、アルメニア人居住区のジョルファー地区があるそうで、そこには教会がいくつもあるらしい。街の中心から離れているので、ヒッチハイクを試みる。乗せてくれた若い男性は、車を停めるなり、一緒に行こうよ、友だちでしょう、とノリノリだ。運転をしながら、この街の「エマーム広場」の呼び名を、イスラム革命前の呼び名である「王の広場」の名前で呼んでほしい、と彼は言った。イスラム革命の指導者であるエマーム・ホメイニは良くない人物だから、その名を広場につけるのは嫌なんだ。でもムッラーのほうが更に良くない、独裁者なんだとアリ・ハメネイを名指しする。

エンゲラーブ広場まで連れて行ってもらい、そこで下車してザーヤンデ川にかかるスィー・オ・セ橋を渡る。33のアーチを連ねる橋の川幅は広いのに、川は既に干からびて、水がない。

橋を渡って、そこからまたジョルファー地区までヒッチハイクをすると、恋人の二人組がわたしたちを乗せていってくれた。ヒッチハイクをすると、女性の運転手が一人で運転しているときに乗せてくれることはまずないが、男性運転手や男の友だち同士、それに男女のペアなどが乗せてくれることが多い。彼女はフランス語を勉強しているといい、二人は遠距離恋愛中だと言った。

ジョルファー地区が近づくと、マスジェドのような土色のドームが見えてくるが、よく見ると、その上にちょこりと小さな十字架がついているので、それが教会だということが分かる。1600年代に建てられたというヴァーンク教会を訪ねる。時計台があり、アルメニア語の書かれた入口から中に入ると庭があって、そこに建つ鐘楼のとがった屋根にもまた十字架が伸びている。

それでも、この教会にもホメイニ師とアリ・ハメネイのポスターが貼られている。二人ともイスラム教シーア派の最高権威、アヤトラでもある。そして、併設されている店舗では、アルメニア磁器のほかに絵葉書なども売られていて、そこには、キリストが十字に磔にされている絵もあれば、モスクのムカルナスや鮮やかな壁面を描いた葉書も売られている。

アルメニア人地区で教会の多い地区、といっても、ラマダン中のそのエリアの商店も大方閉まっている。見つけた商店に入り、冷たい水を買う。そこに買い物に来ていたイスラム教徒の男性は、かつてUAEのアブダビに住んでいた。イランではアルメニア人でもキリスト教徒でもユダヤ教徒でもヒジャブやチャドルを身につけなければならないから、外見から違いは分からない、と言った。

そして、エスファハーン在住でラマダン中も断食をしていないというイラン人は、お酒を買うときにはこの辺に来るのだと言った。

続いて「王の広場」を訪ねるためにヒッチハイクをして乗せてくれたおじさんは、観光地をぐるりと廻ってくれながら、断食もしないし、ウォッカもウイスキーも飲むよ、と笑う。

マスジェデ・エマームを訪ねる。広場に向いた装飾用正面のエイヴァーンから入り、回廊を抜けて中庭に出ると、今度は45度斜めのメッカの方角を向いたエイヴァーンが現れる。礼拝堂のドームは、きめ細かく装飾された彩色タイルでびっしりと埋めつくされている。

ラマダン中は、毎日18時半からコーラン・タイムがあり、壇上にあがった4人のコーラン読みの有名人がコーランを読み上げ、それをずらりと腰をかけた男性聴衆者たちが、コーランを前に聞き入る。誰もがコーランの聴衆者になれるというが、彼らはみな断食をしているのだという。ラマダン中は、コーランの一部を読むだけで、コーランの全てを読んだことになると聞く。

エスファハーンのテレビ局もライブでそれを放映している。このコーラン・タイムが終わると、礼拝が始まる。1日5回の礼拝を行うスンニ派に対して、シーア派はそのうちの2回を合わせて礼拝することがあるらしい。

ぼんやりとその様子を眺めていると、日本語のできる男性が話しかけてきた。その男性もラマダン中だった。エスファハーンの半分くらいの人々は断食をしているといい、していない人々もやむを得ない理由がある人々が多い、と彼は言う。

ラマダン中は午後早いうちに仕事を切り上げる人も多いというが、その男性はいつもと変わらず朝の9時半から夜の9時まで働いているという。そのうちに男性が経営している絨毯屋でチャイを飲んでいきませんか、と誘われる。その男性もまたエマーム・ホセインもアリ・ハメネイも良くない、そもそもイスラム革命は良くない、と言う。

絨毯屋は、マスジェデ・エマームのすぐ隣にあり、最高の立地だった。今はあまり景気がよくないが、世界各国に顧客がいる。かつてはバザールの端のほうに店を構えていたが、マスジェデ・エマームの横の物件が空いていたので、移動してきた。1ヵ月の賃料は1000ドルで二年間の契約。絨毯は投資の対象にもなる品物らしい。

毎年1ヶ国語を学ぶというイラン人男性の店員は、周りの若者の8割はもう断食などしていない、と言った。本人も断食をしていない。

絨毯屋を出ると今度は、少し話しても良いですか、と流暢な英語で話しかけてくる男性がいた。マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーを裏から眺め、シャヒード・ラジャーイー公園の中にあるハシュト・ベヘシュト宮殿まで、ゆるりと一緒に散歩をする。

父親が米国人、母親がイラン人のハーフで、現在ニューヨークのマンハッタンに恋人と住んでいる。2年ほど前までカメラマンになるべく勉強をしていたが、方向転換をして、現在はハーバード大学で心臓医になるための勉強をしているのだそう。将来は、1年に3カ月ほどはイランに戻って、心臓に病をかかえる人々を助けたい、と言った。

こんな優秀で才能のある人々も、イラン政府は無視するのだという。今の政府はダメだ、とこの男性も言う。

それでも、彼も敬虔なイスラム教シーア派の信者で、旅行中の今は断食をしないが、米国に戻れば、ラマダンを実行する。それでもイランは自由もなく、アメリカのお酒もクラブも恋しいと、クリスティーナ・アギレラの音楽をiPadでならしながら、身体を揺らす。

親戚がイランにいるので1年に1度はイランを訪ねてくるのだという。今回恋人も同行するように誘ったものの、イラン人はこわいから、と断られ、彼はとても残念に思ったと言った。そしてフランスのパリに行ったとき、国籍を尋ねられて米国人とは言わずにイラン人だと答えると、その相手は逃げていったという話も聞いた。

夕食をとりに、ノウバハールという食堂に入る。牛肉や豆の入った煮込み、ホレシュテ・ゴルメサブズィーをいただく。パンやサフランライスやゼレシュクののったご飯、生たまねぎにライムがついてくる。店内はがらんとしている。ラマダン中の日没後もさしてお祭りムードになる雰囲気はない。

宿に一度戻ってタクシーに乗り込み、テヘランに戻るため、夜のバスターミナルへと向かう。今回もHamsafar社のバスをおさえた。きんきんに効いたクーラーの中、バスは舗装道をぐんぐん進む。

やがてウォルナッツクッキーやビスケットの入った箱とピーチジュースが配られる。