茶色い古い街 – Bukhara, Uzbekistan
朝は目玉焼きにソーセージ、それにフライドポテトとソバの実、グレーチカ。そしてパンにチェリージュースとグリーンティーと紅茶やすいかにメロン。
お腹の調子がまだ直っていないのに、すっかりたくさんいただく。宿に泊まっている他の旅人たちも、ウズベキスタンに入ってそのほとんどがお腹を壊しているようで、一致団結ふうだ。
宿の近くのアンバール通りをまっすぐに帽子市場、タキ・テルパクフルシャンへと向かう。唐辛子の模様をつけた角帽子ドッピやもわもわ帽子、コウノトリの形をしたはさみ、嫁入り道具ともいわれる刺繍のほどこされたスザニの布などが売られている。
土砂に埋もれていたのを1936年に掘り出されたマゴキ・アッタリ・モスクは、その周囲を掘り下げられて、穴の中に掘り出されたかたちになっている。このモスクは破壊されては建てられて、その壁面は3層に分かれているという。
1619年に建てられたナディール・ディヴァンベギ・ハナカや、イスラムの教義に反する顔が正面入り口の上に鳳凰の図とともに描かれているナディール・デイヴァンベキ・メドレセ、そして160の学生用の部屋フジュラがあるという大きなタカリダシュ・メドレセをそれぞれ訪れる。
街の中心にある池、ラビハウズに腰掛けて、ざくろジュースを飲む。この街の商店の冷蔵庫も中国製星星社の冷蔵庫が圧倒的だ。ウズベキスタンに入ってから中国製品がぐっとまた増えてくる。
それから、ウズベキスタンに入ってからよく見かけるエメラルドグリーンの色の青タイルでつくられたドームをかぶせた4本のミナレットがたつチャル・ミナルへと向かう。
この街の建築物はどれも外見で人を惹きつけるものがあるものの、一度中に入ると、どうにも手入れが行き届いていないふうで、さみしげな土産物屋がぽつんとあったりする。中には店員がいない土産物屋もあり、どこからともなく店員があわてて駆け寄ってくるという具合だ。
そこから住宅地をまた西へと戻る。小さな商店がところどころにあり、男性たちはおしゃべりを楽しみ、子どもたちは自分の丈より大きな自転車をこいでいく。道ばたである女性たちが立ち話をし、ある女性は木の椅子に腰かけて編み物をしている。
19世紀の家の博物館と題された看板を貼った家へ手招きするおじさんがいる。絨毯やら木材が乱雑に置かれた向こうに、ぎこちない風情の家が佇んでいる。ところどころが壊れ、そこに食器がぶらさげられている。おじさんは、かまどを見せては、パンをその中に広げる仕草を見せ、バジルをどこかからかもぎ取っては走ってわたしたちに差し出した。
また手招きをされて入った商店の中には、サイズの合わない大きなサンダルをはいた子どもが立ち、1964年のロシア製の車が置かれている。車は既に埃をかぶり、車体には銃の模様に落書きがほどこされ、壁にはモナリザが微笑んでいる。
またてくてくと歩いていき、イーワーンに赤や緑、黄色に青色といった細かな装飾がそれぞれに描かれているアブドゥールアジス・ハーン・メドレセ、その200年以上も前に建てられたシンプルな青を基調とする中央アジア最古の神学校、ウルグベク・メドレセを訪ねる。この神学校も中に入ると、どうにもものがなしい雰囲気で、イーワーンはぼこりと穴が開いている。
タキ・ザルガランを通るものの、宝石商と名付けられたこの市場も今となっては他の2つのタキと同じような土産物が並んでいる。近くには、青や緑をベースにした鮮やかな色の食器がずらりと並べられている。
1127年に建てられてから、お祈りの呼びかけや見張り、キャラバンへの道しるべ、それに死刑場としても使われたカラ―ン・ミナレットをはさむかたちで、それとつながっているカラ―ン・モスクがある。ここは旧ソ連時代には倉庫になっていたところを再び礼拝所として開かれたところなのだそう。
その向かいにはミル・アラブ・メドレセがある。山羊が一頭、紐を繋がれて、大人たちにむりやりに広場を引きずられて、メドレセの中へと連れられていく。山羊は身体を懸命に引き、フンを撒き散らしていく。こうして山羊の抵抗もむなしく、メドレセに押しやられた山羊は、そのままメドレセの奥へと消えて行く。
入口付近には、幾人かの男性と女性が座り、祈りが捧げられた。一人の、イスラム帽をかぶり、白髭をたっぷりとたくわえた男性が朗詠をし、他の人々は手のひらを上にして身体の前にかざした。
そのうちに、今度はウェディングドレスを着て白い日傘を手にした新婦と、黒のスーツを着てネクタイをしめた新郎が写真撮影を始める。時折キスをするものだから、周りの人々はカメラを片手に二人に近付いてパシャパシャとやるのである。
夕日を浴びるアルク城の向かいにはバラハウズ・モスクがある。かつてハーンが城から絨毯を歩いてここまでやってきたという。池には魚が泳ぎ、モスクには古びたクルミの柱が20本並ぶ趣のある佇まいに、中国製電光掲示板には赤い文字で時間などが示されている。中ではちょうど4人の男性が絨毯の端のほうで、祈りを捧げていた。旧ソ連時代はイスラム教が禁止されていた。旧ソ連圏であるトルクメニスタンに入ってから、祈りをこうして捧げる人を見るのは、ほとんどなかった。アザーンも聞こえてこない。
ピンク色に染められた空の下、旧約聖書に出てくる預言者ヨブが杖で地面を叩いたら泉が湧き出たという伝説のあるチャシュマ・アイユブやイスラム初期の建築様式の霊廟で注目されているというイスマイール・サーマーニ廟まで歩いていく。
近くには簡易遊園地もある。細いつくりの観覧車や、ただぐるぐると回り続ける類の乗り物がほんの少しのアレンジを聞かせて何種類もある。中国製もぐらたたきがあり、さびれたボーリング、スパイダーマンの遊戯物がある。綿あめには虫がついているものの、玩具屋には人が集まり、大人たちは飲食を楽しんでいる。
太陽が沈んでいくと、ぐっと気温も涼しくなり、イルミネーションがつけられた簡易遊園地に続々と人々が集まってくる。鳥がびいびいと鳴いていて、後ろのステージからは音楽が鳴っている。遊園地からは子どもたちのきゃあきゃあ言う声が聞こえてくる。
夜になってもまだお腹が空かないものだから、近くのWifiカフェのテラスで、ブハラ特有のお茶をいただく。甘いシナモンの香りがした。
2012/08/15 23:02 | カテゴリー:Uzbekistan