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のんびりタクシーと陶芸家族と地元ごはん – Tashkent / Rishton, Uzbekistan

朝に宿の中庭の絨毯で目覚めると、宿のオーナーは既に朝食の準備をしていた。空には久しぶりに雲が浮かんでいる。チャイにパンにスモークチーズ、それにゆで卵が運ばれてくる。オーナーのMirzoさんは、代々受け継いでいる、弦が二本の楽器Dutarを弾きながら、謡いあげてくれる。

今日はタシケントからフェルガナ盆地のリシタンまで向かうことにする。バスが走っていないので、乗り合いタクシーを利用することになる。

宿を出て、乗り合いタクシー乗り場へ向かうためのバスが出ているクカルダシュ・メドレセ前まで歩いていく。道ばたでは朝から焼きたてのパンが売られ、建物の裏ではペットボトルの山を仕分けする人々、大声で叫びながらお金をせびる男性などがいる中、てくてくと歩いてチョルスー・バザール裏のバス停留所へと到着する。

鮮やかなタイルに彩られたタカルダシュ・メドレセや、銀色のドームにしゅっと月のマークがたっているジュマ・モスクの近くに、旧ソ連ふうの四角くて味気のない建物が並んでいる。

バスに乗りながら眺める街には、スワロフスキーやBang & Olufsen、それにモンブランなどが煉瓦づくりに並び、ZARAの看板も見えてくる。駅を通り過ぎ、コンテナの積まれている脇を通り、銀色のドームの輝くモスクの前を走っていく。時折古びた無機質なマンションが1990年とカラフルに書かれた数字とともにクリーム色や水色で彩られている。

タクシー乗り場に到着すると、運転手たちは、いつもと変わらず平然と相場の10倍ほどの値段をぶつけてくる。それに応じずにいても、値引こうとする様子がない。やっと交渉が成立したところで、近くの売店で梨の炭酸飲料を買い求めて、タクシーに乗り込む。他二つの座席は、黒いムスリム帽をかぶった友だち同士のおじいちゃんたちが座っている。

山間の道をタクシーは走っていく。1時間ほど走ったところで、ガソリンスタンドに入るから車を降りるように言われ、それから30分ほど走ったところで、運転手は急にタクシーを停めて今度は眠いから寝る、といった具合で、てっぷりと出たお腹を見せながら、ぐーすかと眠りだした。

運転手が眠りから覚めて運転すること30分、今度はパスポートチェックで一度下車をして、警察のいるブースでパスポートを見せて、紙になにやらいろいろと記入される。

窓の外には列車が通り、あるいは、エメラルドグリーンの色をした川が流れていく。運転席からつばを吐けば、後部座席のこちらにかかる。トンネルでは写真撮影が禁止されていて、カメラを隠すように言われる。トンネルの出口には銃を持った軍人が立っている。

それにしても涼しい風が吹いていく。

岩肌の見える道を走ること30分ほどでタクシーは再び停車する。

運転手がご飯を食べたいから、車を降りなさい、と手で合図をする。招かれるままに、運転手と乗客とともにテーブルを囲む。運転手は羊肉やパンと生たまねぎ、それに緑茶をオーダーして、パンに羊肉をはさみ、わたしたちも食べろとまたジェスチャーをする。そして乗客のおじいさんも手にもったパンを袋に入れて、どうぞ食べなさいとわたしたちに差し出す。食事を終えて運転をし始めると、運転手と二人の乗客は一様に顔に手を拭うようにして祈りを捧げる。

くねくねと峠を進んでタクシーは進んでいく。ちょいちょいと停車していたものだから、3時間ほどで着くはずのところを4時間半ほどかかってコーカンドの町に到着した。他の二人の乗客はそれを気に留めるようすもない。新しい建物ばかりの並ぶコーカンドから、さらにバスに乗ってBagdad、そこからミニバンに乗り換えて、リシタンへと向かう。乗客たちは、おしん、ひろしま、ながさき、と知っている言葉を並べる。

リシタンでは、有名な陶芸家であるRustam Usmanovさんの工房を訪ねる。

かつて近くに2000人を雇用する繊維工場があったものの、そこが倒産し、ご家族をはじめ、多くの人々が失業をした。そして1996年から97年にかけて工房などを開設したのだという。

ろくろの上でリシタンでとれる赤土を練り上げ、1日置いて底を切り、1週間を置く。そして、カオリンやクオーツ、それに水からできたアンゴップにつけて、窯に入れる。すると、灰色だったアンゴップが、赤土の陶器の上で白い色に変化する。この地域では白い磁器の土がとれないため、こうして赤土にアンゴップをぬることで、白い下地づくりを実現しているのだそう。

窯は950度ほどにあげ24時間高温を保ち、そこからまた24時間気温を下げていく。そして絵付けをして、透明の釉薬にくぐらせて再度窯へと入れて960度程度まであげていく。

釉薬は、植物をスモークしてその灰をクオーツとともに特別な窯に入れて1300度で8時間ほど熱してつくる。そしてクリスタル調の緑石に変わったら、挽いて白い粉へと変える。それが透明な釉薬となる。

この工房では足蹴りろくろから電動ろくろへと切り替え、薪窯からも、経済的なプロパンガスの窯へと一年ほど前に切り替えた。新しい窯のグラスファイバーの部分は中国製だが、その他の部分は地元のものを使っている。

絵付けの色にしてもイランのラピスラズリやロシアのコバルトなどを使っていたものを、半分ほどの値段で買える中国のものに切り替えていったのだという。それでも、緑色を出す銅やマグネシウムは地元の材料を極力使っている。 

ギジュドゥバンでは器を逆さまに窯に入れていたが、ここでは器の表面を上にしている。ギジュドゥバンのように逆さまに入れると、数を多く一度に焚けるので、結婚式のための器などはこうして焚くのだそう。Rustamさんは、先日わたしたちが訪ねたギジュドゥバンのアブドゥッロさんとも友だちで、お互いの場所にない材料などを送り合ったりしている。

若い人で陶芸家を目指すのはそれほど多くない。みなお金の儲からない芸術家よりも、ビジネスマンになりたがるのだ。冬は寒いので、絵付けをメインに行っているという。

建物内には、9世紀のころからのリシタン付近で発掘された陶器が飾られ、13世紀のころに青く絵付けをされた器もある。

Rustamさんは、1996年と昨年に日本で展示会を開くために来日したことがある。カラオケにも行き、ウイスキーや熱燗を飲んだよ、それも毎日、と冗談めいて言う。白髪で上品なRustamさんは、名の知られている陶芸家であるのに、ゆったりとして、お茶まで注いでくれる。工房を説明してくれた息子さんともとても仲が良い。

そのうちにRustamさんと息子さん、それに冗談をよく言うお友だちと一緒にご飯をどうぞとお誘いをいただく。テーブルにはお茶にぶどう、ナッツにドライフルーツ、パン、りんごにチョコレートにケーキなどが並べられている。

息子さんのお友だちは、グルジア人は鼻がにょきりと高い、とか女性を紹介してくれ、とか、その冗談のつぼが日本人のそれと似ていて、みなで大笑いをする。食事を終えると、さきほどまで騒がしくがはがは笑っていたみなをお父さんが導いて、手のひらを上にして、それから顔をぬぐうようにする。旅がスムーズに進むように祈ってくれた。

最後には、魚や鳥が描かれていた陶器をどうぞ、とご本人が梱包して持たせてくれる。

わたしたちが宿をまだとっていないと伝えると、お知り合いを紹介してくれるという。ここウズベキスタンでは滞在登録の問題があって、基本的にはそのレギストラーツィアという紙切れを発行できないところには泊まれないことになっているけれど、テント泊や車中泊だと言えば許されることもあるとか、1か所に3日以上滞在しない場合は法律上は本当は必要ないとか、とにもかくにも宿は他にないので、そこにお邪魔させていただくことにする。

そして、そこまで車で送っていただいた。

このご家族は日本語が達者だ。近くにある日本語学校でかつて学んだ同級生同士が結婚をして日本で仕事をはじめ、そのうちに妊娠をして出産のために帰ってきていた女性もいる。日本にいる間は、ウズベキスタンの家族やナンやフルーツを恋しく思うことももちろんありますよ、と言う。

陶芸工房の社長でもあるというお父さんは、ラマダンを実行し、日の出から日の入りまでは飲食を控えていたという。それでも、ラマダンは素晴らしいものだと言った。

部屋は靴を脱いだ絨毯にふとんがしかれ、壁には埼玉県鳶・土木工業会のカレンダーや着物に富士山、桜の描かれた布がかかり、棚にはリシタンの陶器とともに雛人形が置かれている。

Patriotビールを出してくれ、じゃがいもや肉の入ったラグマンやトマトやきゅうりのサラダをいただく。それにパンやチャイ、熟したメロン、そして揚げたお菓子などがテーブルに並べられる。

外からアザーンが聞こえてくる。