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テヘランに住む人たちの本音 – Tehran, Iran

朝の5時にはテヘランのベイハギー・ターミナルへ到着する。やがて日も上がった駐車場には、女性専用タクシーが停車している。

Hamsafar社のオフィスに荷物を置かせてもらい、できあがっているはずのトルクメニスタン・ビザを取りに、メトロに乗って大使館へ向かう。開館時間の9時をやや過ぎて大使館に到着すると、2人ほどの男性が窓口のところに立っていた。やはり、前回訪ねたときの、休館日の金土に続く日曜日よりもずいぶんと空いている。

しばらく待って小さな窓口に立つ順番が回ってきた。担当者は、一番初めに大使館を訪ねてきたときに会話を交わした大使館員の男性だった。物腰がやわらかだ。

わたしたちのことを覚えていたようで、顔を見るなり、「まだテヘランにいたんですか。トルクメニスタンに行く準備はできましたか。」とにこにこしながら言う。独裁国家といわれるトルクメニスタンの印象とはかけ離れた笑顔だ。

そこで申請書を受け取り、各項目を記入していく。基本的な項目に、職業やトルクメニスタン側の招待団体の有無、滞在費用の支払者と支払い方法などを埋めていく。個人旅行では5日間のトランジット・ビザしかおりないので、入国日、出国日をきちりと計算して記入する。そして、写真1枚とパスポートコピーとともに手渡す。パスポートコピーはしばらく奥で事務手続きが行われたあと、返却された。

それから、またしばらく待つ。周りにはビザ取得業者もいるようで、わたしたちの手にしていたドル札に折り目がついていたのをもぎ取り、その折り目をわんやわんやと伸ばし始める。どうやら大使館にある紙幣検査機は、お札に折り目がついているとはじいてしまうらしい。

こうしてビザ取得業者さんたちに伸ばしてもらったお札で支払いを済ませる。どうやら大使館では一人の男性だけですべての手続きを行っているようで、どうにも忙しそうなのだ。しばらく小さな窓が開けば、またぴしゃりとその窓は閉められて、人々はただじっと待つ。

ほどなくして開いた窓から、トルクメニスタンのビザが貼られたパスポートが返却された。
無事に、トルクメニスタンのビザが取れたのだった。

お手洗いを探していると、買物を終えた男性が、家にどうぞと誘ってくれる。お言葉に甘えてついていく。マンションのようなつくりのその家は、美術品やロココ調の家具が溢れた豪邸だった。

ガラス棚には各国のアンティークの人形や器が飾られ、艶やかだ。アルコール禁止のイランなのに、テーブルにはスコットランドをはじめ、各種ウイスキーが並べられている。67歳だという男性は、既に断食を止めている。テレビでは、イランで活動できずに米国に渡って活動しているイラン女性歌手が、ヒジャブもかぶらず、肌を露出したセクシーな格好で歌っている。

奥さんも、家の中ではヒジャブもかぶらず、肌も露出した格好だ。

ゆっくりとさせてもらった後、近くの商店でPrimaのチョコナッツアイスクリームを買い求めてほおばる。濃厚なチョコレートがおいしい。

それからメトロの最寄り駅、Tajrish駅までヒッチハイクをする。英語の先生だという女性二人がわたしたちを乗せてくれた。この辺りは交通渋滞が激しいんです、と言いながら、たどたどしい運転ながらも女性は車を飛ばす。

メトロに乗ってフェルドウスィー駅まで行き、近くにある両替商に立ち寄る。ホメイニ師やアリ・ハメネイに反感をもつ国民は少なくないが、両替商やホテルなどにその肖像画が飾られていたりする。わたしたちがイランに来た当初は1ドル19000リアル程度だったのが、もう20000リアルを超えている。これもアリ・ハメネイがおこした問題なんです、と両替商の男性は言う。

ラマダンの大変なところは、こうした暑い昼間に、ゆっくりと座ってくつろげるお茶屋やレストランなどが全面的に閉まっていることだ。開いているのは商店やテイクアウトの店ばかりなので、冷房の効いたどこかの店内でくつろげるということは、まずない。

そんなわけで、冷房の効いた両替商でしばらくのんびりとする。すると、両替商の男性が、店の奥から冷たい水を汲んで、箱詰めのバクラヴァとともにどうぞと差し出してくれる。その男性も、ご両親は断食をしていたが、彼はもう断食はしないのだという。

両替を済ませて、バスに乗り、荷物を取りにベイハギー・ターミナルへ向かう。ターミナルに到着すると、バスの運転手が手招きして、1990年からの2年間日本にいたといて今はバスの管理をしているロテフトさんのところへわたしたちを導く。

彼はラマダンでも営業をしている、布で入口を隠されたカフェに連れて行ってくれ、どうぞとコーラをごちそうしてくれた。

2007 Coca-Cola Company、Made in Iran
Carbonated Soft Drink with Cola Flavour(コーラ味の炭酸飲料)

ロゴもオリジナルそのままに、わきには英語でORIGINALと書かれている。

ロテフトさんは水戸や蒲田、横浜で働いていた。水戸では三菱自動車の下請け工場で7時から16時まで部品をつくっていたという。仕事が終われば、ボーリングやカラオケに仲間と行っていた。当時は、日本に4万人ほどのイラン人がいて、他にブラジル人もコロンビア人もパキスタン人もたくさん働いていた、という。イランではボーリングは1時間10万リアルととても高いので、なかなか行くことができない。

2年働いて、観光ビザの延長もできなくなり、イランに戻ってきたという。大阪には人種差別が存在していたというから、行けなかったという。今は17歳と12歳の子どもがいるお父さんだ。カレーも寿司も好きだったなあと忘れてしまったかのような日本語で言う。

今となっては、日本への観光ビザを取ることがとても難しくなっている。そんなわけで、イラン人はトルコやUAEに出向くことが増えている。イラクには、同じシーア派の多い国として巡礼の意味もこめて行くのだという。米国も勉学の理由では入国ができるが、そのほかではなかなか入国することはかなわない。

政府機関の公務員として月に600ドルほどを稼いでいる。ただ物価が1年に24パーセントインフレをおこしているのにもかかわらず、給料は6パーセントしかあがらず、人々の生活は困窮している。それも経済制裁のためだ。

彼もイスラム教徒として、基本的に断食をしている。お金があるときのラマダンは嫌だけど、お金がないときはラマダンはいいよ、と言う。

わたしたちは今夜、夜行列車でテヘランからマシュハドまで向かう。

ロテフトさんは、18時に仕事が終わったら駅まで送ります、と申し出てくれる。ここでのガソリンは1リットル7000リアル。プジョーの車を乗りこなすロテフトさんは、パンやらクリームチーズ、クッキーやらカプチーノ味チョコバーや棗にバナナのパック、それにミルクなどをわたしたちに持たせた。そして駅の構内でどうぞとフローズンオレンジジュースをごちそうしてくれる。ロテフトさんは、そのジュースを駅のど真ん中で飲み始めたものだから、ラマダンなのに大丈夫ですかと尋ねると、ああそうだった、忘れてたと笑いながら構内のはしのほうへと移動する。

公務員は駅のホームまで入れるんですといってIDを見せながら、列車の発車するまで見送ってくれた。駅にもホメイニ師やアリ・ハメネイがセットで描かれている。わきには大きなコーラン像がある。わたしたちもパスポートを見せて、改札口を入る。

一つのコンパートメントは4人、二段ベッドが二列並んでいる。座席には苺ジャムをはさんだスポンジケーキやチョコバーが詰められた箱にパイナップルジュースパックと水のボトルが置かれている。

こうして列車は19時半ころにごとりと動き出す。テヘランを抜けて、茶色い家々の並ぶ大地を列車は走る。やがて乾いた大地に、大きく赤い月が浮かぶ。今夜は満月、ラマダン月も折り返し地点にきている。

20時半を過ぎたころに列車は停まる。礼拝の時間がやってきたのだった。ぞろぞろと乗客がプラットフォームへと降りて行き、手洗いを済ませ、プラットフォームにある礼拝堂で祈りを捧げる。20分ほど過ぎたころ、列車は再び走りだした。

断食も終わり、乗客もあちらこちらで弁当を取り出し、もぐもぐと食べだす。わたしたちもパンにクリームチーズをぬったり、バナナや棗にカプチーノ味チョコバー、それにウォルナッツクッキーなどをもぐもぐとする。