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イスラム教の聖地と陶芸の工房 – Bukhara / Bakhautdin / Gijduvan, Uzbekistan

朝ごはんは今日も宿のテラスでいただく。屋上に寝ているものだから、夜は涼しい風でブランケットにくるまらなくては寒いほどなのに、朝になって太陽があがれば気温は見事にぐんぐん上がっていく。

卵焼きにグレーチカ、それにソーセージにメロンにぶどう、チェリージュースに緑茶と紅茶がずらりとテーブルに並べられる。

今日は、中央アジアで大きな影響力をもつイスラム神秘主義ナクシュバンディ教団の開祖、バハウッディン・ナクシュバンドを祀った廟を訪ねる。ブハラ市内から、なかなか来ないバンをつかまえて走ること20分ほどで到着する。

中に入るとそこには蛇口が並んでいて、人々はそばにおかれている青い茶碗に水を入れて口にふくみ、清める。やや傾いたミナレットがあり、そばには小さな入口の奥に店もあって、数珠や帽子に壁掛け、ブレスレット、靴、それにNikeやAdidasバンドなどが売られている。

一角では、聖職者を囲むように人々が座り、やがて聖職者が詠唱し、人々はそれに合わせて手のひらを上にして胸の前におき、最後に手のひらで顔をなでるようにする。それからすくりと人々は立って、聖職者のわきに置いてある箱に金銭を入れて去っていく。

木陰でも若いカップルが佇み、女性は墓のほうを向いて祈りを捧げている。男女に分かれたモスクがあり、男性のモスクでは数人が祈りを捧げている一方、女性のほうはしん、としている。

敷地内にはハウズと呼ばれる池があり、そのそばの桑の古木の周りをみながぐるぐると回っている。そっと木の上にお札を置いていく人もいる。願い事がかなうといわれている木だ。

バハウッディンを出てから、バンをつかまえて20分ほどかけてターミナルに行き、そこからまたバスに乗りついで50分、陶器で知られる町ギジュドゥヴァンに向かう。

ギジュドゥヴァンには代々陶芸を営み、現在6代目となるアブドゥッロさんがいるので、工房と博物館を訪ねる。

静かな一軒の家にそろりと入ると、ご本人が迎えてくれ、博物館や工房を案内してくれた。

ギジュドゥヴァンでは、地元で採れる土に緑や茶色、黄色といった釉薬を主に使っていて、青い釉薬をよく使うリシタンの陶器とはまた異なる特徴があるという。ここで作っている作品の他にも、ヒヴァやウルゲンチ、アンディジャン、サマルカンドなど各地方の陶器やタジキスタン、それにアフガニスタンの陶器まで展示されている。

玩具にもなる動物の形をした笛もつくっている。イスラム教では、活きたものの偶像をつくることは禁じられているので、各人形の喉元にはカッターで切り傷がつけられている。これで、この動物は死んだもの、ということになるからだ。

博物館にはヒラリー夫人、そして在ウズベキスタン特命全権大使であり、政治家でもある中川恭子氏などとの写真も飾られ、その著作本「ウズベキスタンの桜」も棚から出して見せてもらう。

ウズベキスタンで嫁入り道具にもなっているスザニという刺繍がほどこされた布も、アブドゥッロさん一家で天然素材を使って作られている。布は100パーセント綿のものもあれば、絹を半分ほど混ぜることもあるといい、フックや糸で刺繍をしていく。

自宅には、石臼も置かれていて、ろばがそれを回していたという。イスラム教ではろばは穢れた動物とされていて、たいていこういった作業は馬やらくだを使うというが、月に一度しか挽かせないため問題ないんです、と言った。

陶器の窯は960度程度で2度焼くという。焼成のときには、器を逆さまにして、十字に尖った針のついたものをのせて、その上にまた器を逆さまにしてのせる。こうすることで、溶けた釉薬が器の口に溜まって、特徴のある器ができあがる。

作業場にはいくつかのろくろがあり、作陶のためのろくろは脚で蹴るろくろ、絵付けのためのろくろは手で回す小さめのろくろを使っている。日本にもオーダーベースで作って出荷しているのだそう。

アブドゥッロさんも数年前は断食もしたが、今年は暑くて日も長いからラマダンはしていないと言った。数年前はアザーンもあったが、今はもう聞かない、と言う。それでも人々は自宅や職場やモスクでそれぞれに祈りを捧げている。

ラマダンを実行していない今年のアブドゥッロさんと、緑茶やアプリコット、ピーナッツ、ナッツにレーズンなどをいただきながら、さらに話をする。

農業を主な産業とする今のウズベキスタンの経済は良いと言った。大統領が元経済家で、アブドゥッロさんのような芸術家は税金を払わなくて良い政策がとられている。対して旧ソ連時代は芸術家としての表現も制限されて、お父さまはとても苦労されたという。そもそも国営の商店しかなく個人ビジネスは許されなかったものだから、お父さまは時折大きな問題にぶつかっていた。展示会をするのも大変だったという。そしてまた当時は祝いの場でも宗教活動が許されない。

まわりでは甥たちが土をいじっている。冬はこの辺りもマイナス20度くらいまで下がることもあるらしく、二か月ほどは作陶もお休みすると言った。でも今は主な買い手となる旅行者も多い季節。

アブドゥッロさんは、バスターミナルまで送っていきますよと言いながら車庫に停めてあった渋い車を出してくれた。旧ソ連車、ラーダである。このあたりでは韓国の大宇かシボレー車を見かけることがとても多い。どうやら、かつてフェルガナ谷にあった大宇の工場がシボレー車に変わったのだそうで、とにもかくにも多い。そんな中でのラーダ車。

送ってもらったターミナルからもまた苦労をして乗り合いバンとバスを乗り継いでブハラの街に戻ってくる。

ブハラで泊まっている宿のオーナー夫妻の奥さんは、日本の国際協力機構が運営しているブハラ大学内の日本センターで日本語を勉強している。使っている教科書をひっぱりだしてくると、そこには東芝国際交流財団恵贈というシールが貼られていた。

夜は宿のオーナーの旦那さん、イリオスさんに勧められてウズベキスタンとロシアの白ワインをいただく。やや薄くて水っぽいものの、お腹の痛い中でもくくくと飲めてしまう。

夜は再び、青いライトの照らされたWifiカフェで涼しい風を受けながら、地元のお茶をいただく。甘さの中にシナモンの風味。