2012年01月
宿でトーストとバナナとコーヒーを食べてから、パナマ運河の水門の一つ、ミラフローレス水門に向かう。
パナマ運河は長さ80kmに及ぶ閘門式の運河で、その間に存在する海抜26mのガトゥン湖など標高差のある湖を利用するために、運河は高さの異なる水路を設けている。3つある、水位を調整するための開閉式水門を通り、船は進んでいくのである。
宿からは5月5日広場に行ってバスに乗り、ターミナルでCOOP SACA行きのバスへ乗り換えをする。
コンテナの並ぶバルボア港を見ながらバスに揺られていると、隣に座った男性がプレゼントだといって、ターラ・ブランカ像の描かれた紙をわたしたちに差し出した。裏には「ターラ・ブランカ、長寿の仏」と書かれている。そしてまた周りの若いカップルに、ミラフローレスに到着したら、わたしたちに知らせるように告げてくれる。
到着したミラフローレス水門近くの駐車場には、ワニが出没するかもしれないので気をつけるようにという看板がたてられている。
ボーイスカウトの子どもたちが乗った船や、「NO SMOKING DANGEROUS CARGO」とうたうMEKONG STARと名の船、HOEGH KOBEと書かれたシンガポール籍の大型船、WALLENIUS WILHELMSENの船、コンテナ船などが次々と水門を通っていく。
船の上からは乗船者がこちらに向って手を振り、時折こちらから拍手が沸き起こる。
水路幅ぎりぎりのとてつもなく巨大な鉄の塊である船が、両端を走る車両にロープでつながれながら、徐々に水位の下がる水面とともにその姿を下げていき、水路の高さが同じになった後に水門が開かれ、次へと進んでいくのである。
この一連の作業が約1時間ほどかかる。船の中の人々は飲み物を飲んだり、話をしたり、それぞれにそのゆっくりとした時間を過ごしている。
時折大雨がざっと降り、そしてまたすぐに晴れる。鳥はかまわず、辺りを飛んでいる。
帰り際に、こちらが日本人だと知ったミラフローレス水門の従業員は、日本の野球は強い、と親指をたてた。
豚の皮を揚げたチチャロンやチョコレートアイスクリームをつまみながら、宿に向かう。
バスで宿へと戻ってくる最中に、国旗のかけられた棺が、オレンジ色の消防車に乗せられて運ばれていくのを見る。赤い花でつくられた大きな十字架がたてかけられ、多くの人々が後を追って歩いている。
3度パナマの大統領を務めたArnulfo Arias Madrid氏の国葬を行うため、棺が旧市街のカテドラルへと運ばれていた。警察官がカテドラルを取り囲み、一般市民も数多く参列している。町のあちらこちらに赤白青の旗が掲げられている。
こうして宿に戻る。
コロンビアへのボート手配をお願いしようとしていたRaffaさんが、Ingrid夫妻が自分に無断で他の客の予約を受け付けてしまったため、席を確保できなくなったと語気を強めて言った。
ボートを所有するというのは豊かな人の成せることだと言い、船のオーナーはドイツ、フランス、スペイン、オーストラリアなどの人々が多いのだという。自分も大したことのないボートを持っているが、いつかもっと良いボートを買いたい、と言った。
今は、チュバスコという波が荒い時期であり、カタルヘナまでは行く船は少ないが、他のボートを紹介すると続ける。
わたしたちは9日に出港予定のボートをもつCaptain Jackに手配をお願いすることにした。
夜ご飯を食べに、再びレストラン・コカコーラを訪れる。先日と同じように近くの店でアトラス・ビールを買って飲む。このビールもまた、味の軽いビールである。
注文をしたAlbondigasは、トマトソースのかかったミートボールであり、セットであるナポリタンふうのパスタはぷよぷよとしている。それにお決まりのポテトフライがついている。
店の付近で警官に呼び止められ、パスポートの提示を求められ、そしてまたこの辺りは危険だから気をつけるよう忠告を受ける。世界遺産にも登録されている旧市街で、何人にも危ないから気をつけるよう言われる。この街には、拳銃をもった警察があちらこちらに大勢いる。
国葬が行われ、警察が行き交い、大音量のディスコテカもある、パナマシティの一日である。
2012/01/06 23:40 |
カテゴリー:Panama
黄金の祭壇をもつサン・ホセ教会で、かつてイギリスの海賊ヘンリー・モーガンが古都パナマを破壊した際に、しっくいを塗ってその祭壇が守られたという話を聞く。
パナマ・シティのメイン通りであるセントラル大通りを旧市街であるカスコ・ビエホから新市街へと歩くことにする。
エレーラ広場では、男性たちがボードゲームにいそしんでいる。
道には、多くの靴屋や品揃え豊富なスーパー、インド、中国、パナマのテイストがごちゃまぜになって売られているSol de la India、「痛い」「楽しみ」「気楽」「復讐」「葬儀屋」といった日本語をほる刺青屋、金色の招き猫などが街を賑やかにしている。
小さな噴水には鳩が集まり、時折、オレンジや黄色、紺色といった鮮やかな民族衣装を着たクナ族の人々が行き交う。
5月5日広場を過ぎ、ガンジー広場を見た後辺りから、切り花や野菜、果物が売られている市場が立ち並ぶ。周辺には「上海市場」という名の市場もある通り、中華系の人々が営む店も多い。
5月5日広場からまっすぐに歩いていけば、新市街の中心と言われる、エル・パナマホテルやクラウン・プラザ付近に出るはずだったが、ところどころで道をはずしていて、どうにも治安の悪い雰囲気に包まれる。
幾度か方向修正をしながら、3時間程歩いてクラウン・プラザとそのそばのカルメン教会にたどり着く。
パナマ・シティの新市街といえば、旧市街からその高層ビルが見えるエリアであるが、その中心にいたっても、人よりも車が多い場所であって、車のヘッドライトが光る以外、ひっそりとしている。
それでも更に進んでいくと、ようやく店やレストランが並ぶ一角にたどり着き、ニコス・カフェで夕ご飯を食べることにする。
お勧めをしてもらったこのカフェは、カウンターに並んでいる食べものを選んでいくという形式をとっている。
骨付きの雌鶏肉や芋の入ったパナマのスープ、サンコーチョに、チーズパスタ、ガーリックトーストとライスをオーダーする。このレストランにもビールは置かれていなかった。
この付近は治安が良いが、旧市街であり世界遺産にも登録されているカスコ・ビエホには地元の人も夜には行かないよと言われる。
そこで帰りはタクシーをつかまえて帰ることにする。運転手は、朝は水道関係の仕事をし、夜はタクシーの運転手をしていて、朝の5時から夜の11時まで毎日働いているのだという。
道すがら、現在建設中だという地下鉄を指さした。パナマでは、たくさん働かないと、収入が少ないんだ、と運転手は言った。
2012/01/05 23:19 |
カテゴリー:Panama
2階だての大型バスは、清潔で、満席で、そして冷房が効きすぎている。
12時を10分程過ぎて出発したバスは、東のパナマ・シティへと夜を駆け抜ける。
6時半には、パナマ・シティにある、到着ロビーと出発ロビーの分かれた巨大ターミナルへと到着する。向こうには、うっすらと明るくなった空に高層ビル群が広がっている。
ターミナルから、旧市街の歴史地区、カスコ・ビエホに向かうバスに乗る。みな、よく道を教えてくれる。
古い町並みの続く坂道の先には、パナマ湾があり、そして摩天楼がそびえたつ。その景色にみとれていたら、またここでもすってんと転ぶ。周りの人々に助けられながら、近くの宿へと向かう。
どうやら今はハイシーズンのようで、どのホステルも一杯のところが多いのだという。宿によっては5週間ほど満室が続いているということだったが、運よくHospedaje Casco Viejoに部屋をとることができた。
中庭で朝食をいただく。パンにバターやブルーベリージャム、シナモンアップルジャム、ピーナツバター、そしてバナナとコーヒーが揃っている。パンがなくなると、宿泊客は手慣れたように、バナナを輪切りにして、そのうえにジャムやピーナツバターを乗せて食べている。
パナマ・シティから、コロンビアまでの陸路での移動は事実上不可能だ。国境付近はジャングルであり、そしてまた治安も悪い。そこで、飛行機かボートでの国境越えとなるわけである。できればボートで行きたい。今日は、そのための調べものをする。
パナマ・シティやパナマの港にあるいくつかのホステルには、お抱えの船長というのがいる。宿泊しているHospedaje Casco Viejoの受付のお兄さんにボートでコロンビアに行きたいと伝えると、友だちがその手配をしているから話をしてみる、と言った。
1時間ほどしてその友だちというRaffaさんが宿にやってきた。既に10年以上ヨットの手配をしていて、色々な船長とのコネクションがある、と言った。最近では新しいホステルがヨット手配を始めることもあるが、お金儲けのことも多い、自分には船長との強い絆があるかるのだと、誇りをもって言う。
「次のヨットは7日にパナマ・シティを発ちます、船長はBrunoさんで、その奥さんIngridさんと二人でコロンビアのZapzurroという港に連れて行ってくれます。」
しばらくすると、Ingridさんが宿にやってきた。これから二人で他の客との交渉に行くのだとバルボアビールを片手に、言う。Ingridさんは、食料の買い出しなどの手配があるから、船が出るのは一番早くて9日です、と言った。
多くのヨットはサン・ブラス諸島を訪ねながら、コロンビアへと渡る。日にちの近いヨットはすでにいっぱいで、取れるヨットはたいてい5日以上後のヨットである。天候や客の集まりによって、出発日や港は変更されることも多々ある。Ingridさんも、今日の他の客との交渉によって実際の出発日と港を決めます、と言った。しかも、今は波が荒い時期であり、本来コロンビアのCartagenaまで行けるところが、パナマとの国境近くのコロンビアの港Zapzurroまでとしているヨットも多いのである。
フライトで飛べば1時間半のコロンビアがヨットだとなかなかに手ごわいのである。
夜ご飯は、お勧めをしてもらったパナマで一番歴史があるというカフェ、コカコーラに行く。1673年に建設されたバロック様式のメルセー教会に立ち寄りながら向かう途中、朝に道で転んだときに助けてもらった男性とまたすれ違い、心配をされた。そして、この辺りは治安があまり良くないから、貴重品は鞄にしまったほうが良い、とアドバイスを受ける。
レストランでは、中米の沖合でとれるニベ科の白身魚、コルビナをニンニクで焼いたCorvina Al Ajilloと、ポテトチップ、フリホーレスのスープとライスのセットを注文する。この場所は以前に中南米初のコカコーラ社があったようで、その名がつけられているという。
そのためかどうかビールが置いていなかったので、近くの商店でバルボアビールを買って飲むことにする。
魚はにんにくが効いている。バルボアビールは、軽い麦の味に苦味がある。レストランには、同じ宿で朝に言葉を交わしたイギリス人の男の子が来ていたので、同じテーブルで食事をいただくことにする。
日本に興味があって、以前に東京、京都、奈良、大阪、長崎にバスとホステルでの旅をしたことがあるという。到着初日にメトロの終電で浅草にたどり着き、そこからホステルを迷いながら探したこと、築地はメトロ駅に到着した途端に魚の匂いがしたこと、ハチ公像を見つけるのに1時間もかかったこと、京都はアジアでも他に例のない街であること。当時はお金がなくて食事の半分くらいがマクドナルドだったという。次回はお金をもって、もっと楽しみたい、と言った。
2月にイギリスに戻るまでにもっとスペイン語を上達させたいのだと言った。
2012/01/04 23:54 |
カテゴリー:Panama
うまくいかない時、結果が出ない時、やめたくなる。
でも、やめないで前に進もう。
逃げるのも、別の方向に進むのも手だ。
振り返ったっていいし、立ち止まってもいい。
大切なことは、前に進むことをやめないことだ。
人生は、何もしなくても前に進んでいく。
だったら、少しでも自分の意思を働かせて前に進んだ方がおもしろいと、僕は思う。
2012/01/04 22:37 |
カテゴリー:Panama
コスタリカの出国スタンプを押してもらったパスポートを手に、5分程歩いたところにあるパナマ側のイミグレーションへと向かう。
「パナマへようこそ」
赤い花のマークと共に、建物にそう書いてある。
黄色い肌の透けるブラウスを着た女性がやって来て、わたしたちのパスポートに1ドルのTAXだと言って、シールを貼る。1ドルを女性にお支払いする。
少しの列に並び、入国手続きの順番が来る。
イミグレーションの男性は「パナマから次の国へのチケットは。」とわたしたちに尋ねる。持っていません、と答えると、それではパナマへは入国できない、とその男性は言った。
そして、窓口に貼られている紙を指さす。
ユア・アテンション・プリーズ。
パナマ政府は「パナマからコスタリカまたはパナマから他国、コロンビアへの『出国チケット』」の提示を義務づけます。
窓口の男性は「決まりだから」と繰り返し、そのうちにあくびをして、冷房の温度を調整しに席を立つ。
しばらく途方にくれていると、その男性が、事務所に入りなさい、と言う。
言われるがままに事務所に入ると、男性の上司にあたる女性が、パスポートのコピーを要求して、1枚の書類に何やら書き始めた。
しばらくすると、事務所の他の男性が、わたしたちのパスポートを預かったまま、バンに乗りなさい、と指図する。「コスタリカのイミグレーションに行きます。」
また言われるがままにバンに乗り、男性の運転で、コスタリカのイミグレーションへと戻る。コスタリカのイミグレーションは、パナマのそれよりも事務所が整然として、冷房が効いている。
奥から出てきた女性が、パスポートを片手に、何やら書類を書いている。
返却されたパスポートには、先程押してもらった緑色のコスタリカ出国スタンプの上に、黒く大きな「無効」の印が押されていた。
コスタリカ出国が取り消されてしまったのだった。
こうして、わたしたちは再びコスタリカ出国の手続きから始めなければならなくなった。列は先程よりもずいぶんと長く伸び、一向に進む気配がない。
待っている間に、パナマ側から要求されている「パナマ出国チケット」である国際バスチケットを買うことにした。両国イミグレーションの間には、バスチケットの販売ブースがある。そして、パナマ入国のためだけに購入するべく最もお手頃な「ダビ(パナマ)-サン・ホセ(コスタリカ)」のチケットが、大きくはっきりと書かれて売られている。
使われることのないダビ―サン・ホセのバスチケットがここではよく売れるのだ。
こうして、無事にパナマ政府要求の「パナマ出国チケット」を手にしたわたしたちは、1時間程待ったうえで、再度コスタリカ出国を果たし、パナマ入国の際にも先程の窓口担当者が何事もなかったかのように、入国スタンプを押すのである。
余ったコスタリカの通貨でコーラの瓶をぐびぐびと飲み干し、パナマのダビへと向かう。昼過ぎにダビに到着できるかと思っていたら、既に国境からのバスが出発したのが17時半である。
キンキンに冷やされたバスがサーカス場を横目に、高速道路を突っ走る。
ダビへ着いたのは、すっかり日が暮れた19時前だった。
パナマ・シティまで今日の夜に到着できると思っていたが、この分だと夜行バスに乗ることになりそうだ。
長い列を再び待って辿り着いたパナマ・シティ行きバスチケット売り場では「一般バスのチケットは今日はもう無いので、特急バスの売り場へ行ってください」と淡々と言われる。
今日は、よく列に並ぶ日である。
無事に手にした特急バスのチケットは、夜中の24時のチケットであった。
ターミナルから歩いて直進したダビの町の中心に、灯りがついていたファーストフード店、PIO PIOがあった。
24時間オープンのその店で、チーズをはさんだクリスピーバーガーにポテトと炭酸オレンジジュースのセットをオーダーして、24時を待つことにする。
店内には拳銃をもった男性が、警備をしている。
夜中。ターミナルに待っていたのは、大きな2階だてのバスだった。
2012/01/03 23:20 |
カテゴリー:Panama
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