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機関車の墓場と鏡のウユニ塩湖 - Uyuni Circuit, Bolivia

朝に宿を出てみると、道端で市がたっていた。

朝食はUyuni Toursでいただく。温かなミルクコーヒーにぎゅっと絞ったオレンジジュース、ハムとチーズにいり卵、それにパンとバターとマーマレードがそえられている。プロじゃないけれど、うちの料理なのよとふるまわれた。

やがて、2泊3日のツアーが始まる。コロナリオくんというドライバーに、4人のドイツ人とわたしたちが共にトヨタのランド・クルーザーに乗って、塩の湖であるウユニ湖周辺を、進んでいく。

まずはじめにCementerio de Trenesという、ウユニの街からわずか3kmのところにある、機関車の墓場へと向かう。鉄道は1888年から1892年にかけて造られ、ウユニ周辺から採掘された鉱石を太平洋まで運んでいたのだというが、1940年に鉱山が閉鎖され、鉄道も運行されなくなった。そして機関車がここに放置されている。

長く続く線路のわきに、錆びれた機関車がそのままにある。列車にはあちらこちらに落書きが施され、ある列車にはアインシュタインの計算式が書かれている。ぽつんと残された機関車の先頭は、まっすぐに雪山のほうを向いている。

そこから一度ウユニの街へ戻り、食料を積みこみ、ウユニ塩湖のそばにあるColchaniという村へと向かう。ここは塩の生産拠点となっており、倉庫や家が塩でできている建物もある。

この辺りはアドべで作った家が一般的なのであって、この辺りの塩で作った建物というのはまだ新しく観光業用に建てられたのだとコロナリオくんは少し笑う。小さな博物館まであり、塩でできた動物たちが立っている。

大きな倉庫には女性が一人座り、大量の塩の山を前に、ただひたすらに手作業で袋づめをしている。この村の家の門の上にも、2月のカルナバルの名残の飾りつけがかけられている。

それから、ウユニ塩湖へと向かっていく。リャマやビクーニャがあちらこちらに歩いている。はるか遠くに見える山々は、湖の上に浮かんでいるように見える。辺りには雪をかぶったChita山やJaruma山がそびえたっている。

やがてウユニ塩湖に到着する。ちょうど水の溜まった際に、2008年5月1日の事故の石碑がたてられ、日本人の5人の名前もきざまれている。その日、酒酔い運転をしていた車2台が衝突し、そのうち一台に乗っていたみなが亡くなったという。

そこからじゃぶじゃぶと水の中にランド・クルーザーは入っていく。塩をスコップで掘る男性がいて、あちらこちらに塩の山ができ、トラックが走っている。約20億トンの塩があるという湖の塩の採掘がここでは手作業で行われている。

雨期のウユニは、聞いていたとおりに、鏡のようだった。ピンクのフラミンゴが空中を列になって飛んでいく。Thunupa山をはじめとした山々や雲、鳥が湖にそのまま映し出されている。

湖の中ほどにあるIsla del Pescadoという島は、大量の水がたまっていて、1月に乗り込んだクルーザー2台が遭難し、ヘリコプターで救助されたという。そんなわけで、今は島へ行くことは禁止されている。

最初に建設された塩でできたホテル、Hotel Playa Blanca Uyuniに立ち寄る。このホテルは、テーブルも椅子もベッドも塩でできていて、塩でできた動物たちもいる。

昼食は、車に積んであった、キヌアのご飯にハンバーグ、きゅうりとトマトとピーマン、にんじんをプレートにのせてコーラとともにいただく。

夜はずいぶんと冷え込むというが、昼はずいぶんと暖かい。ビーチサンダルに履き替えて、ぱしゃりぱしゃりと塩湖の中に入っていく。そのうちに脚が塩まみれになる。

こうして塩湖を離れ、今夜泊まる、Villa Alotaへと向かっていく。真っ白だった塩湖は、やがて乾燥した土地へと変わる。砂道を走り続けること、1時間半ほど、車が停まった。コロナリオくんは「パンクはいつものことだ」と言って、手慣れたようすで15分ほどでタイヤを交換する。

コカの葉を噛みながら、時にリャマが道を横断するのを待ちながら、宿泊先へと向かう。

道のそばには、栄養価が高い穀物であるキヌアが植わり、赤く色をつけている。石で造られた教会のあるサン・クリストバルの小さな町を通り、さらに進む。リャマやビクーニャの群れや、淡い紫いろの水たまり、塩がうっすらとかかった大地、その向こうの雪山を眺めながら、やがて夕日の沈むころ、Villa Alotaにたどりつく。

Trimateのティーバックにコカの葉を加えたお茶を飲みながら、クラッカーをかじり、みなで夕飯の時間まで話をする。

夕食は最初に野菜スープとパン、続いてチキンにじゃがいも、トマトのスライスとバナナ揚げがテーブルに運ばれてくる。

同じ部屋になった女性は、Graceという、16歳からガイドをしているボリビア人、チリ在住の女性だった。彼女はボリビアの中でこの辺りの地域は政府によって忘れられ、警察もほとんどいない、と嘆いた。最後に、日本で芸者として働きたいと冗談めかして、言った。