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2012年05月

エチオピアの、老舗コーヒー店と洗練イタリアン – Addis Ababa, Ethiopia

昨日と同じように、今朝もトモカ・コーヒーに足をむける。今日は、この店でも人気のマキアートをお願いする。

店舗の裏で挽かれた豆をCimbari製のエスプレッソ・マシーンにさしこみ、男性スタッフが手際よくぱぱっと作っていく。その無駄のない慣れた手つきは、エチオピアにとってコーヒーが生活の一部であることを感じさせる。

午前中、アフリカ最大級の市場、マルカートを訪ねる。チャットの葉から果物、携帯電話機器や、時計の部品、大型ゲーム機までなんでもそろう市場である。

ただ大きすぎて、場所を知らないとほしいものは探し出せないほど、大きい。そして、バスターミナルも近く、混沌をきわめている。

その活気の中を歩き回った後、一休みをしに、フルーツジュース屋に入る。アディスアベバでは、街のあちらこちらにフルーツをきれいに並べて、それをジュースにする店がある。よく飲まれているアボガド・ジュースをオーダーする。

アボガドに砂糖と水を加えた飲みものというが、これがクリーミーで甘い。ライムをかけたり、フルーツシロップであるVimtwoをかけると、まるでレモンケーキのように、甘みにほどよい酸味が加わる。

それから、アディスアベバの銀座とも呼ばれているピアッサ地区にある、名の知られたイタリアンレストラン、Castelliへ向かう。

エチオピアは一時期イタリアに占領された過去をもっているためか、イタリアふうの味つけが得意なようだ。

趣のある石造りに構えられた木にすりガラスの窓から、淡い橙色の灯りがこぼれている。

トマトとバジル、それにサフランのパスタをオーダーする。パンが添えられてきたので、追加でバターをお願いする。

一輪の花が白いテーブルクロスの上にのせられ、隣のテーブルでは裕福そうなてっぷりとした男性が女性を連れて食事に来ている。

海外の有名俳優なども訪ねてくるというこのレストラン。きちんとしたアルデンテに適切な味つけが施されている、洗練されたイタリアンだった。ぴりりとスパイシーなのに、なぜか安心できる味で、身体が浄化されていく気さえする。バターもナチュラルだ。

食事を終えて外に出ると、そこは再び喧騒のアディスアベバだった。

マルカートが広すぎて、結局買いたかったものの探しきれなかった鍵を、レストランの近くの店でいとも簡単に発見し、そこで鍵を購入してから、スーダン大使館に向かう。

スーダン大使館の職員は、今日も変わらずにウェルカムふう優しい対応をしてくれる。おかげで、無事にスーダンのビザがパスポートに貼られて返却された。

その後、対イタリア戦勝利を記念して、ハイレ・セラシエ皇帝により建てられた三位一体教会を訪ねる。近くには兵隊が数多くいて、女性もその例外ではない。隣の店でオレンジに先の白いキャンドルが売られ、お香が焚かれている。

今日は、夕方のミニバスで、バハルダールに向かうことにする。18時発、夜中の1時か2時に到着するとのこと。バスを手配をしてくれた男性も「ここはアフリカだから、融通のきくサービスは受けられないよ。」と言った。

そういえば、他のエチオピア人も、停電があったときに言っていた。
「ここはアフリカだから。」

車は新しいハイエース。そこに次から次へと重い塗料やら何やらを上に積んでいく。こんもり上に荷物が積まれたハイエースは、乗客がぎゅうぎゅうに詰め込まれて、足の置き場もない状態になる。

アディスアベバからバハルダールまでのミニバスは「夜中ものすごいスピードで運転して早く到着する」というキャッチフレーズをもっているものだから、どれほどかと思っていたら、少し走っては人をのせ、少し走っては荷物をのせ、といったふうにのんびりとしたものだった。

アディスアベバの、スーダンとエジプト – Addis Ababa, Ethiopia

今日は、エジプトビザを引き取り、スーダンビザを申請したい。

アディスアベバでスーダンビザを申請するにはエジプトビザが必要書類の一つであるものの、エジプトビザの引き取り時間が午後の15時から16時。スーダンビザの申請はいちおう午前中。

そこで、午前中に用意できる必要書類だけをもって、スーダン大使館を訪ねてみることにする。もしかしたら、その書類だけで、まずは手続きを進めてくれるかもしれない。午後に受け取るエジプトビザはあとからまたスーダン大使館に持っていけばよい。

繁華街のピアッサという地区にある写真店で、ビザ申請に必要な写真を撮る。

アディスアベバには、FujifilmやKodakといった看板を掲げた写真店が、数えきれないほどに存在する。

写真店の奥には、大層な撮影スペースがあり、白いカーテンがひかれ、素敵ソファと大きなライトセットが備え付けられている。そのソファに腰掛けると、若いお兄さんがデジカメを手にぱしゃぱしゃと2枚ほど写真を撮る。

それで10分ほど待てば、証明写真ができあがる仕組みである。
しかも、悪くない仕上がりなのである。

写真を待つ間、1963年創業で名の知られたトモカ・コーヒーでコーヒーを飲みにいく。古びた看板を掲げた店は、コーヒーの香りで満たされている。

スタンドで新聞を読みながらコーヒーを飲む地元男性客で混雑している。渋い顔をした人たちも、たいていたっぷりと砂糖を入れて飲む。

コーヒーをオーダーし、奥のコーヒーメーカーの前で待つ。初老の男性が、ライオンの絵が大きく描かれた壁の前で、コーヒーを淹れてくれる。苦くて濃いアラビカコーヒーに、周りをならってたっぷりと砂糖を入れて飲む。

店にはバルザックの「When you drink a cup of coffee, ideas come in marching like an army」という言葉が掲げられている。

乗り合いバスでメキシコ・スクエアに行き、スーダン大使館まで歩く。ビザ申請書類には、一般的な項目に加えて、宗教や、血液型を記入する欄がある。血液型はそれぞれの型がプラス、マイナスまで分けられている。

細かい記入事項があるわりに、くわしく確認されることもなく、書類は受け取られた。あとは、午後にまたエジプト・ビザとパスポートを持ってくればよい。

道ばたで売られていた揚げドーナツ、ボンボリーノをほおばりながら、再び乗り合いバスに乗る。そして、牛肉のたたき、クットフォーを食べに、専門店であるヨハネス・クットフォーまで行く。

このクットフォーは、エチオピア人でもその衛生状態を気にして、強いアルコールを飲みながら食べて消毒する、と言う人もいる。

でも、店で、生でも大丈夫でしょうかと尋ねると「新鮮なお肉を使っていますので、問題ありません。お勧めは生ですよ」と、答えが返ってくる。

にせバナナから作ったパン、コチョをかりっとトーストしたものと、トーストをしていないもっちりとしたコチョ、食パンやインジェラが並べられて運ばれる。

それからにせバナナの葉のうえに生肉、さらにカッテージ・チーズのアイブ、エチオピア・キャベツをゆでてみじん切りしたゴーマンとアイブ、それにゴーマンがのせられてくる。

店内にはお香の香りで満たされている。伝統的な家屋を模したレストランは洒落ていて、価格設定も高い。地元のレストランでは男性客ばかりを見るのがほとんどだが、この店には、女性客も食事に来ている。そしてみな一様にきれいな服を着ている。

皿にはスプーンが添えられていたが、インジェラを食べるときにはスプーンを使わずに手で肉とアイブやゴーマンをつかみとるのがエチオピア流の食べ方なんです、と隣の女性客が手本をみせる。スプーンは、そのほかのコチョやパンに肉などをのせるときに使うんです、と言った。

肉はジューシーで重みがあり、それにピリリとスパイシーだ。それをコチョやパン、トーストにのせて口にいれる。酒粕のようなアイブやゴーマンが、ほどよい口直しになる。

最後には、コーヒーにエチオピア・バターを混ぜたものを運んでくれる。最初、肉の辛さでその味さえ分からないものだったものの、じょじょに苦みのあるコーヒーにとろっとしたバターが風味を加えていることに気づいていく。

それにしても、最後にはとろりとしたコーヒーがカップの底につくほど、苦い。伝統の味だというそのコーヒーには、砂糖は添えられない。

食べきれないほどいただいた後、近くの売店で、エチオピアで飲まれている炭酸水Amboに林檎の風味を加えたボトルを買って、喉をうるおす。

そこから再び乗り合いバスを乗り継ぎ、エジプト大使館でビザを受け取りに行く。この大使館の女性も、柔らかい笑みを浮かべ、きちんとした仕事をする女性で、わたしたちのことを覚えていてくれる。

無事に受け取ったエジプトビザを手に、再びスーダン大使館に戻る。

アディスアベバのスーダン大使館の人たちは、見事に気さくで優しさにあふれている。エジプト大使館は、ビザの申請から受け取りまで細かく決まりがあるものの、スーダン大使館の場合は、なにやらよく決まっていないようなふんいきなのである。

表の看板にはビザの申請は、12時半までとあるが、こうして午後にもその門が開けられ、書類を受け取ってくれたりする。

ビザの受け取りも、明日の午前中にできあがるといった担当者もいれば、明日の午後15時以降にならないとできない、という担当者もいる。

とにかく、明日中には受け取れるようだ。

陽気なスーダン人の男性職員は、家族もエチオピアに連れてきているけれど、スーダンの全てが恋しいのだと言った。人も違う、食べものも、気候も違う。

スーダンについて話をするその男性はとてもうれしそうだ。そのうちに、周りの職員もわいわいと話に交じってスーダンの食事についても盛り上がり始める。

テレビからは、アラビア語の字幕が流れている。

こうして、今日はアディスアベバをあちらこちらと乗り合いバスに乗って移動する。

昼の暑い日差しの下、中央分離帯に寝そべる人々がいれば、顔がただれた男性や、手足の曲がった人、頭にかびを生やして地面に顔をこすりつける男性、汚れた服を着た若い女性などが物ごいをしている。

一方で、街のあちらこちらに工事中の建物があり、ヨハネス・クットフォーの周りでも、近代的な高層ビルにパソコン関連店が入り、サングラスをかけたマネキンがきれいな服を着ている。

街のあちらこちらに、エチオピア鉄道会社の看板がたてられ、アディスアベバの鉄道建設プロジェクトの路線図が描かれている。看板の左側には、エチオピア鉄道会社、そして、右側には、「中国中鉄」と大きくうたわれている。

小中学校からは、生徒たちが制服を着て下校をしてきて、友だちとおしゃべりに夢中になっている。地方で子どもたちが口を揃えて「ハロー・マニー」「ハロー・ワンブル(1 Birr)」と要求してきたような風景は、ここには、ない。

マスカル広場に面したスクエア・ガーデンで、オレンジとパイナップルのファンタを飲み、近くのHadiaスーパーマーケットで買いものをする。

髪のトリートメントを探し求めたものの、ある程度品ぞろえの揃っていたその店で、シャンプーとコンディショナーが2in1になっているものばかりだった。そこで、米国製だという天然のコンディショナーと書かれたボトルを買ってみる。

夜は、宿で買ってきたヨーグルトに大麦などを煎ったコロを混ぜていただく。エチオピアでは、朝にヨーグルトにスパイスをかけて食べたりするのだという。

コンディショナーは、なにやらオイリーに過ぎた。

山羊が立ち、銃を持つ軍人が座り、天井に頭をぶつける。 – Arba Minch / Addis Ababa, Ethiopia

今日も早朝5時のバスに乗って、アディスアベバに戻る。毎朝5時にバスに乗り込むために4時には目を覚ます生活も、だんだんと慣れてくるものだ。

バスの上には、乗客の荷物に加えて、山羊が一匹、立たされた。隣の座席には、銃を持った二人の迷彩服を着た軍人男性が乗り込むも、発車して早々に口を開け、白眼をむいて眠りこけた。

エチオピアのローカル・バスは朝が早く、そして大人はふつうに座れば膝があたるほど、座席が小さなものである。

アディスアベバの途中までの道のりは未舗装の悪路が続く。バスは川につっこみ、泥道を進んでいく。

今日も一番後部座席に座ることになり、どかんどかんと幾度も身体が宙に浮き、しまいには、飛び跳ねて天井に頭をぶつける始末である。

滑るバスの上で、山羊はさぞかし大変だろうと想像をする。

そんな道を通るものだから、10時にはパンクでバスは停車した。運行中一度は故障すること前提でバスを走らせているのか、修理する手際も良い。

数日前に同じ道を通ったときにあったトラクターは同じように道のそばで倒れていて、切れた電線もまた、同じようにきれたままだ。

藁ぶきの屋根、畑を耕す牛たちも、積まれた干し草も、変わらない。
ところどころの家には、花や格子模様、自然や人間の様子が描かれている。

先日も立ち寄ったHosanaaという町のBetelカフェ & レストランで、羊の肉をスパイシーに仕上げたものからあっさりと調理したものまで、さまざまな肉をちょこりちょこりとのせ、それに小さなゆで卵やライス、サラダ、じゃがいもやにんじんまでをのせたMahabrwyeというインジェラをオーダーしてほおばる。

再びアディスに向かうためにバスに乗り込むと、前回も同じ場所にいた、頭に穴が空いている物乞いの男性が、今日は子どもをおぶって、泣きながら車内で手を差し出す。

乗客の男性は、周りに大麦などを煎ったコロをふるまう。
エチオピアのポップから演歌調音楽までを流しながら、バスはつき進む。

やがて、レトロな看板を掲げたセブン・イレブンや、コカコーラのトラック、南のほうの人々は、値段が高くて飲めないと言っていたビールの看板、それにスターバックスに似たロゴのKaldi’s Coffeeなど洒落た店が見えてくると、アディスアベバに到着したということになる。

確実に、都会だ。

山羊も叫びながら、バスの上から無事に下ろされる。

夜は、Shum Aboバー&レストランで、Harar Sofiという甘いノンアルコールのモルト飲料を口にする。その後、St.Georgeビールを商店で買い求めて、先日も行ったレストラン、Wedubeポート・レストランに立ち寄り、クックルという、羊肉のスープとインジェラをオーダーする。とろりとしたスープにインジェラを浸してほおばる。

その店は、周辺にピンクや蛍光色の明かりに包まれてきらびやかな音楽が流れるレストランやバーがあふれながらも、今日も白衣を着たおじさんが佇み、あくまで渋い空気を流したままだ。

象の家に住み、にせバナナを食べる人々 – Arba Minch / Dorze Village, Ethiopia

今日は、アルバ・ミンチから30キロほど離れたチェンチャ山にあるドルゼ族の村を訪ねることにする。7800人ほどの人々が住んでいる。

乗り合いバスがいっぱいになるまでアルバ・ミンチで1時間ほど待って、山をぐんぐんとのぼる。マラリアのいる地域から、蚊のいない地域へと一気にあがっていく。

途中からぽつりぽつりとドルゼ族の特徴ある家が見えてくる。

ドルゼの村では、週に二度マーケットが開かれていて、今日もその日である。マーケットといえば、朝から始まり、午前中が最も盛り上がるといった具合のところが多かったけれど、ここは昼過ぎから始まるらしい。

なぜなら、男性も女性も売る品々をどっさりと担いでそれぞれの家を朝出発し、30kmほどの道のりをマーケットまで歩いて来るからだ。自宅からマーケットへの交通手段がないのである。

バスから降りると、話しかけてきた男性がいた。「ムコネ家」という、ドルゼ族の伝統的な家に連れて行きます、僕もそこの一員です、と言う。

ドルゼの「ムコネ家」という名前は、昨日コンソ村を訪ねたときに別の男性から聞いていた。相当のやり手だという話で、嫉妬も含まれているのかその成功ぶりが一部の人からは歓迎されていないようすだった。

それでも、少しばかりムコネさんの家を訪ねてみることにする。

ドルゼ族の家は、竹で編んだ枠組みに防水の役目を果たすニセバナナの葉をかぶせてつくる。そして、家の周りを竹のフェンスで囲う。

象を模してつくられ、確かにまんなかに長い鼻と、両わきに窓がつけられていて、それがあたかも象の目のように見えて、かわいらしいこと限りない。

最初は12メートルの家を建て、竹の根元が虫に食われてだめになると、その根元部分を切っていくものだから、屋根が低くなっていくらしい。象が小さくなっていくのである。

ニセバナナとはエンセーテのことで、見た目はバナナの植物であるものの、実際にはそこにバナナの実はならない。ドルゼの人々は、その葉を、家を覆うために使ったり、あるいは傘として、あるいは動物にやる餌としても使うのである。

ムコネさん家には、7人のヒトと、12頭の動物が暮らしている。

象の口にあたる入口は天井が低いため、かがんで入る。すると、右側に牛が飼われている。高地で寒いドルゼの村では、牛や羊、山羊といった動物と一つ屋根の下に暮らすことで暖をとる。

壁には瓢箪がぶらさげられ、象の目にあたる窓から差す光が、ぼんやりと室内を照らしている。

かつてムコネ家のおじいさんは30頭ものひょうを捕えたハンターだっというが、お父さんの時代になると狩りが法律で規制されてしまったという。

ニセバナナからできた平べったいキタというパンを作っていただく。炭にのせた鉄板にニセバナナの葉を置いて、そのうえにキタをはさみ、幾度かひっくり返す。

繊維質豊富なキタは、どこかバナナのような青さがあり、それをちぎって、添えられたはちみつや、にんにくや生姜、塩でできたスパイスにつけて食べる。

あわせて、とうもろこしやホップ、にんにくなどで作るアルコール、アレケを試してみる。アルコール度数が40~45度くらいだといい、とても強い。

ドルゼの人々は、にせバナナや小麦や大麦、じゃがいもやコーヒー、それに綿製品などで生計をたてているのだそう。綿製品は、女性が綿を紡いで糸にして、男性が織るという。

そのうちに、市がたち始める。いよいよ背中に荷物をしょった人々が、道を急いでいく。黒や赤、黄色の衣装や帽子を身につけた人々がいる。

黒は人々の肌の色を示し、赤は戦士やハンターが捕える獲物の血の色、そして黄色ははちみつで、明るい未来を指しているのだそう。

市場ではコーヒー豆やコーヒーの葉、それにシーシャ、整髪料としても使われる牛ミルクバター、スパイス、チリ、テナダムの葉、コットン、綿の布、陶器、大麦、にんにく、とうもろこし、じゃがいも、バナナやマンゴーといった果物に瓢箪などが地べたに広げられて売られている。

男性も女性もシーシャをふかし、はちみつ酒のタジ屋やアレケ屋もまた大賑わいだ。

近くの店で、チャイを頼み、そこにテナダムという薬草をのせてもらう。甘いチャイにすっきりとした香り高いテナダムがよく合う。店内では、男性たちがチャットをどっさりとテーブルに置いて、チャイとともに楽しんでいる。

この村にも、ハロー・ワンブル、ハロー・ブレッド、ハロー・ハイランドと呼んでくる子どもたちがいる。ハローがユーに変わることもある。

「ハイランド」とは、エチオピアの中でミネラルウォーターを指すらしく、どうやらほしいのは、わたしたちの持っているペットボトルらしい。学校に水を持っていくために使ったり、公共の水くみ場から水を運ぶのに使ったりするのだという。

アルバ・ミンチに帰るバスを待っていると、子どもから大人までいろいろな人が声をかけてきて、ひとだかりができる。ある子どもは流暢に英語を話し、ある子どもは、ワンブル、ワンブルとただ口癖のように繰り返す。

その中にPaulaちゃんとNaxanetちゃんという名の、11歳と8歳の姉妹がいた。母親は、マーケットで芋を売っていて、父親はいないという。お姉ちゃんは、流暢な英語を話す。そのうちに、髪を手に取って三つ編みに結ってくれる。

妹のほうは、目のまわりに蝿がたかっている。抱き上げると、ずっしりと重い。そのまま、ぎゅっとつかんで離さない。   

2時間ほどバスを待つと、ようやくぎゅうぎゅうづめのバスがやってきた。乗り込むと、すぐにどうぞどうぞと席をゆずられる。これがエチオピアの文化なんです、とその女性は言った。

バスは、山道をぐんぐんと下っていく。

夜は、アルバ・ミンチのセチャ地区にあるソマ・レストランという魚料理の有名なレストランに行く。町のバスは乗客でぎゅうぎゅうで、ほんのわずかなスペースに腰かける。

近くのチャモ湖で捕れたというテラピアやナイルパーチをほぐして、それをトマトやにんにくのソースとからめたもの、それにキャベツの茹でたものとトマト、そしてパンが添えられている。魚はやわらかく、にんにくが効いていて、再び見事なイタリアンふうである。

レストランを出てみると、既に最終バスはなくなっていたため、トゥクトゥクに乗って帰ることにする。

ホテルは、一時停電する。そして、蚊が飛んでいる。

子どものころから地ビールを飲む。 – Konso / Arba Minch, Ethiopia

今日も朝早くに起きて、5時にはバスターミナルに到着するように向かう。

アルバ・ミンチに戻る途中にある、コンソ族の人々が多く住むコンソへ立ち寄ることにする。バスで走れば3時間ほどで到着する。40もの村があり、5千名ほどが住んでいるという。山を切り開き、石垣で支えられた段々畑を造っている。ジンカからコンソへ近づくにつれ、段々畑と、特徴のある家が増えてくる。

家は、藁のとんがり屋根が二重構造になっていて、てっぺんには茶色い壺が、雨もり防止と、デコレーション用にちょこりと逆さまになって置かれている。

この二重構造は、かつてはお金持ちの家だけだったものが、徐々に他の人々にも広まっていったのだそう。牛や羊、山羊などに与える草が無くなったときには、その二重構造の屋根の外の部分を取り外して、藁を与えるのだという。

中でも大きな家は「コミュニティ・ハウス」として、12歳から結婚するまでの男性が、シフト制でその家に寝泊まりをして、地域を守っている。村で病人が出たら病院へ連れて行き、亡くなった人がいればその遺体を埋めるのである。

コンソの人々は、とうもろこしやソルガム、大豆、芋や小麦などを育て、料理用の陶器ポットをつくったり、綿製品を作って生計をたてている。

族長や、ライオンや象などの大型動物や敵を殺した「ヒーロー」は、亡くなったときに、アカシアなどの強い木で作ったワカと呼ばれる人形を墓におくのだそう。

コンソの人々は、ソルガムととうもろこしで作られたチャカという地ビールを朝、昼、晩と食べている。

チャカを作っている家の前には、木の棒の先に白いビニール袋をくしゃくしゃとくっつけた目印が立てられている。地元でも美味しくて有名だという、客で賑わう1軒の店にお邪魔する。

店には、多くの男性と数人の女性が、チャカを入れた茶色い瓢箪の容器を手にしている。わたしたちも交わり、チャカと大豆をいただくことにする。

チャカは、酸っぱさと、ほんのわずかな苦みをもった、ビールを薄めたような味だ。それに舌が多少ぴりぴりとする。ほぼ飲み終えた後、瓢箪に熱いお湯を入れて、薄まったチャカを飲み干す。

チャカにはアルコールが入っているものの、コンソの人々にとってはこれは食事であり、子どもたちも食べている、はずだが、ほんわかと酔ってくる。

そのうちに、炭火で焼いたとうもろこしをどうぞと手渡された。

コンソの人々は、エチオピアで広く食べられているインジェラを食べることはほとんどないのだという。

代わりに、チャカと同じソルガムやとうもろこしから団子を作り、それをモリンガという葉を煮たてた湯で茹でるクルクッファも食べられているという。

コンソ族の人々の伝統服はコットンでできており、青や白、緑や赤、オレンジなど、色鮮やかだ。

300もの病を治すというモリンガの葉のお茶をいただきに、勧められた別の店へと入る。オーナーがオバマ大統領に似ているから「オバマ・カフェ」というらしい。店内は、お香の煙がたちこめ、男性ばかりが座っている。

モリンガ・ティーにも普通は砂糖を入れるのだといいながら、スプーンたっぷりの砂糖をグラスに入れる。

その味はジンジャ―・ティーに似て、身体がぽかぽかと温まる。

客の男性たちは、お茶を片手に、たくさんのチャットの葉をわきに置いて、それを噛みながら、おしゃべりを楽しんでいる。女性は、たいてい家にいることが多いと聞く。

男女がこれほどきっちりと分かれて行動をしていれば、出会いの機会も少ないのではないかと想像するものの、「直接に好意を伝えられないときは、友だちに手伝ってもらったり、それから紹介をしてもらったりする」らしい。

エチオピアに入ってから、男女がデートをしているのを見かける機会はほとんどない。

村には、土の地面に草を散らし、屋根はトタンでできた質素な教会がある。日曜日の今日は、朝から白い布をかぶった人々が教会に向かっていった。資金がなくて、立派な教会は建てられないのですが、と言う。

ミサが終われば、村のお偉いさん男性の自宅の中庭で、男性たちは地ビールの入った瓢箪を片手に話に夢中になるのである。

子どもたちは大人たちにお構いなく、鼻水の垂れた子も、頭にカビの生えた子も、顔の周りにハエの飛ぶ子も元気に追いかけてくる。

まず、お決まりかのようにユー、ユーと話しかけてくる。ユーに続いて、ハローのこともあれば、マニーのこともあれば、ワンブル(1ブルBirr)のこともあり、そしてこの町では、キャラメル、のこともある。

このコンソは、昨年世界遺産に登録されたばかりの村だ。観光客も増えているらしい。

村の方針として、観光客が村を訪問する際には、登録されたガイドを雇い、料金を支払って訪問させよう、と動いているのに対して、自らガイドとして旅行者たちに直接営業をかける人々もいる。世界遺産となった村で、双方の静かな方針の食い違いが起きていた。

一人の女性が大声で泣き叫びながら、幾人かの人々に囲まれて坂道を下っていた。そのうちに、バイクに乗った男性や、警察官を後ろに乗せたバイクなどがその周りに集まり始める。悲しいできごとが、起きたのだ。

コンソからアルバ・ミンチまでは乗り合いバンに乗って帰ることにする。バンが満席になるまで、もらったチャットを噛みながら、あるいは時間をもてあましている地元の男性たちと話をしながら、2時間ほど待つ。そしてようやくバンは発車する。

鞄や荷物はバンの屋根の上に置かれるはずだが、それにのりきらない袋がだらりとリアウィンドウまで垂れ下がっている。よくこれで運転ができるものだ。

大きくて太い角をもった、たくさんの牛たちが、道の真ん中を通っていく。バンは時折停車をして牛をよけながら、進んでいく。

多くの人々が日曜日の午後を外に出て楽しみ、子どもたちが裸足で遊びまわっている。薬草を地面に置いて売る人々がいる。

18時にはアルバ・ミンチに戻ってくる。
地ビールが効いたのか体調がどうにも優れないので、雨の降るアルバ・ミンチでゆっくりと休むことにする。