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2012年05月

唇や耳たぶにお皿をはめる人たち – Arba Minch / Jinka, Ethiopia

最終目的地に向かうための2日目。今日も朝は早い。5時には集合し、荷物をバスの上にあげて(もらい)、出発となる。

8時前に、コンソ族が多く住むコンソという小さな町で休憩となる。小さな喫茶店に入り、チャイをオーダーする。これも甘い砂糖がたっぷりと入れられている。

更に先に進んだ、川を渡ってすぐのところに一部舗装されていない道がある。

そこに、過搭載をしていた大型トラックが瓦礫の坂道で立ち往生していた。トラックのわきにはわずかなスペースしかなく、このままではバスが進めない。

誰からともなく、乗客みなバスを降りていき、男性たちはどこからか手に入れてきた金属の棒でわきの岩を叩き始めた。

トラックが動き出すのを待たずに、岩を叩き壊して道をあけるのだ。汗をかきながら、順番に無言の助け合いが発生しながら、岩が叩かれていく。時には大きな石をもってきてコテの原理を使ったりしている。

外は太陽ががんがんと照り輝き、みなシャツが濡れていく。

UNやSave the Childrenと車体に書いた車が、通り過ぎていく。

川の向こうに住んでいるというコンソ族の人々が、それぞれ鶏や野菜を手にもち、あるいは背中の籠におさめて、隣町の市場に向かっていく。

1時間ほど大男たちが岩削りに励んだ結果、ようやくバスが通れるだけのスペースができた。ぶつかってもおかしくないすれすれの道を、男性たちが手招きをしながら、通っていく。

無事に通り過ぎたときには、拍手と歓声が起こった。それでも、またみなすぐに黙々とバスに戻り、各自の席につく。

その後も2度故障し、バスはしゅーっと音をたてる。乗客が一度降り、修理をして進むもまた故障するといった具合でも、みな文句ひとつ言わずにただ助け合っている。

Fiat社のバスらしい。もう20年も使っているというから、ガタがきていてもおかしくないのだ。

畑に並んで腰をかがめ、手で作業をしている人々を眺めながら、2日目の14時前にようやくジンカの町へと到着した。

ジンカの土曜マーケットには、オモ川流域の少数民族の人々が集まってきている。
植物油から、にんにくや野菜、バナナやマンゴーといった果物に芋、香辛料、料理用の壺やコーヒーポットなどが地面に並べられて売られている。

マーケットに来ている人々の多くはアリ族という。男性は髪をととのえ、短いスカートをはいていることもあり、手には小さな木のヘッドレストをもっていることもある。これは、寝たり、眠ったり、喧嘩をするときに使ったりするらしい。

女性も、鮮やかな緑や青に、腰にビーズのベルトを巻いたりしている。

ムルシ族という、女性は唇や耳たぶに土器や木器で作った皿をはめ込んでいる民族も、近くの村から訪ねてきている。えんじや水色などの格子の布を身体に巻いて、買い物にいそしんでいる。

穴を開け始めるのは、デコレーションであり、15歳ころから始めるという。ただ、唇に穴をあけるという習慣は、政府によって良くないものと教育されるようで、学校に通う生徒たちは穴をあけない子どももいるのだそう。ただ、政府の教育にムルシの人たちは耳を傾けたりはしないんだという話も聞いた。

スティック・ファイツといって、力の強い男性を決める戦いがあるらしい。勝った男性は好きな女性と付き合うことができるというのだから、大事な試合なのである。結婚には、牛を貢ぐこともあるらしい。

ムルシ族、外国人を見つけては遠くからもやって来て、写真を撮って、とポーズをとる。それで写真撮影代をもらう、ということである。

口には穴を開けずに、耳にだけ大きな穴を開ける人も少なくない。身体に点々と模様をつけた人も、腕や脚、首にアクセサリーをつけた人も、胸をあらわにして見せてポーズをとる女性もいる。

子どもたちも、ユー(You)、マニ―(Money)と言ってくる。あるいは、サッカーボールを買いたいから100ブルちょうだい、と口を揃える子どもが周りをぐるりと囲む。

この地域の子どもたちもほとんどが無料の高校に進学を果たすのだという。学校ではアムハラ語、英語、数学、生物学、公民、物理学、化学、歴史、地理を学ぶと言った。

そのうちに大雨が降ってくる。それぞれに雨宿りをしたり、案外に傘をさしたりする人々がちらほらいる。

小さなバーでは、地ビールやアレケというお酒などを飲む若い男女で溢れている。

雨があがっても、町の道は泥だらけでぬかるんでいる。

宿のそばの食堂で、Bedeleビールと、いり卵と牛肉と玉ねぎを炒めたそぼろのようなものにインジェラを合わせる。

こうして、賑やかマーケットの土曜日の夜も、更けていった。

エチオピアのバス旅 – Addis Ababa / Arba Minch, Ethiopia

今日もバスは朝早い。ジンカという町に向かうため、5時にはターミナルに到着するようにホテルを出る。まだ外は暗く、半分の月が白く輝いている。

薄暗いターミナルでは「ジンカ、アルバミンチ、ジンカ、アルバミンチ」と呪文のようにつぶやいて客を集める人々がいる。

バスの出発は、2012年5月11日、5時半。

チケットには、2004年9月3日、11時30分と数字が書かれている。
エチオピアカレンダーの日付とエチオピア時間だ。
文字はアムハラ語で書かれているので、読めない。

目的地のジンカまでは2日かかるため、どこかで一泊するらしい。夜に走らないエチオピアのバスは、1日目の夕方に一度解散し、みなそれぞれ宿泊先を探して一泊し、翌朝早くにまた集合して最終目的地へ向かうという、2日がかりの道のりが少なくない。

外が徐々に明るくなる5時半を過ぎても、同じ出発時刻だろうバスは一台も発車する気配がない。

エチオピアのバスの特徴の一つでもある「かばん持ち上げ人」が今日もいる。エチオピアのバスでは、高級バス以外天井の上に鞄を載せるのだが、どこからともなく現れた「かばん持ち上げ人」たちが、乗客の鞄をひょいひょいとバスの上にのせて、チップちょうだい、と言うのである。

時に、鞄をひったくるかの目つきと勢いで向かってくるかばん持ち上げ人たちもいる。

こうして、かばん持ち上げ人が鞄をバスの上に載せて、乗客の座席も定まり落ち着きを取り戻して、いよいよ発車するころには6時半を回っていた。

バスは、通路をはさんで2席と3席に分かれているつくりで、普通に座っても膝が前の座席にあたるほどのスペースをあてがわれる。

バスの走る窓からは、Child FundやWorld Vision、Mercy Corpsといった団体の看板が見える。

藁でできたとんがり帽子をかぶる、土の家が点々としている。山々には段々畑が広がり、木の棒をひいた牛や、くわをもった女の子が畑を耕している。

牛にひかせる木の棒をひょいひょいともった男性が歩いていき、おばあちゃんと女の子が並んでたくさんの木を背にしょって歩いていく。

ろばは木材や大きな袋をのせた荷台を黙々と運んでいく。

バスの中では、のりのりの音楽が、割れた爆音で繰り返し流れている。

川で洗濯をする女性たちがいれば、川にトラックをつっこんで洗う男性もいる。

途中、朝食休憩でみなが降りる。小さな町の小さな食堂にも、本格的なコーヒーメーカーがあるところがいかにもエチオピアらしい。

マキアートとコーヒーをオーダーすると、当たり前のように砂糖がたっぷりと入ったグラスが運ばれてくる。これが、なんとも美味しい。

隣の店では、みなが木の椅子に腰かけてテレビをみている。その先に入っていくと、コーヒーセレモニーのセットを前に、女性二人がコーヒーをすすっていた。

額に大きな穴が開いて中が見えている男性、腕を途中からなくした男性、膝から足がついている男性、いろいろな人がバスに集まり、物ごいをする。

休み時間を終えて、再びバスは動き出す。

外にチンパンジーが現れても、バスが泥道にはまっても、乗客は一様に興味を持って窓の外を眺める。

山羊が轢かれて死んでいる。バスは舗装道と未舗装道が繰り返される道を進んでいく。おしりは徐々に痛くなる。

そのうちにチャモ湖が見えてきて、15時半過ぎにはアルバ・ミンチに到着する。どうやら、この先のジンカまで今日は行かず、みなこのアルバ・ミンチに一泊して、明日の朝また集合してください、ということらしいことが、雰囲気で伝わってくる。バス会社から、何か説明があるわけでは、ない。

15時半過ぎということもあり、同じバスターミナルで「ジンカ・ジンカ」と客引きをするミニバンの男性たちもいるくらいだが、とにかくわたしたちのバスは今日の営業はおしまいなのである。

今日はアルバ・ミンチに泊まり、明日の朝にまた集合することにする。宿泊することにした宿は断水をしていた。それでも数時間後には復旧するという。街でも、敷地にタンクをもっているところは問題なく過ごせるが、そうでない場合は、水が使えなくなる。

断水にもみな動じず、敷地内に一つ設置された大型水タンクでは男性が身体を洗っている。

宿の前のKibiye Viewカフェ&レストランで夕食をとることにする。このレストランにも、コーヒーセレモニーセットが備え付けられている。2階に位置するレストランからは、向こうのほうにチャモ湖を望むことができる。目の前の道には、スーツを着た人々がなにやら嬉しそうに歩いていく。

エチオピアのカッテージ・チーズ、アイブとキャベツのみじん切り、ゴーマンを合わせたものと、ドライトマトを使ったインジェラ・フルフルをオーダーする。どちらもインジェラに巻いて食べるのだが、これがにんにくの効いたイタリアン風味でなんとも美味しいのである。St.Georgeビールが進む。

アディスアベバは標高2500m程度でマラリアの危険のある2000mを越えていたが、ここアルバ・ミンチは、標高1300m弱。宿には蚊帳がついている地域になった。

かえるが大きな音でぐわぐわとなく中、蚊帳の中で眠りにつく。

エチオピア最高級バスと停電の夜 – Harar / Addis Ababa, Ethiopia

アディスアベバへの帰りは、エチオピア最高級バス、スカイバス社に乗って帰ることにする。

出発は5時半、まだ夜のあけないハラールのモスクには、人々が集まって祈りを捧げている。

長いギリシャふう石柱をバスの荷台に積み込む乗客がいる。みな、荷物が多いことこの上ない。

そのうちに日が上がり、霧のかかった山が広がる。

Awashという町で一度みなバスを降りたので、それに続いて降りると「外国人は降りちゃいけない。密輸のことだから。戻りなさい。」と片言の英語でとぎれとぎれに、ややおっかない顔つきで言われる。

はい、と戻る。

今日も転覆したトラックを横目にバスは先を急ぎ、さるが走り、子どもたちがバスを追いかけてくる。

山に沿った舗装道をぐねりぐねりと進んでいく。段々畑に点々と藁が積まれている。土でできた家々には、トタン屋根が置かれている。

8時ころ、朝食のサービスがある。最高級バスらしく、ドリンクはジュースかお茶から選ぶことができる。スポンジケーキは昨日のSelamバス社のものより、一回りオオキイ。お茶は緑茶、それに砂糖が手渡される。

そのうえ「スカイバス社のために特別にボトルづめされています」と書かれた、ゆるゆるのラベルが貼られた水のペットボトルも配られる。

座席も革ふう、窓も大きく、座席のうしろにはテーブルがついていて、お手洗いつき、音楽もジャズやフュージョン、もしくはお正月のようなタンタカ静か系。

まさに、最高級。

ろばはぼんやりと佇み、山羊は男の人にひかれていく。

乗客は、バスの前方のテレビ画面に流されるドラマの笑わせどころで、揃って一斉に笑う。

昼食はマタラという小さな町でとる。Makhaay Adda Muslimと看板の書かれた店を入っていくと、奥には右手にござが敷かれ、左手には簡易のテーブルと椅子が置かれ、男性たちがインジェラを食べている。

羊肉とインジェラをオーダーする。大きな皿いっぱいに広げられたインジェラの上に、金属の器に盛った羊肉が乗せられてくる。それに店員が、エチオピアのスパイス、バルバリを少し振りかける。

バスはその後も牛などが道を遮るたびにクラクションを鳴らしながら、進んでいく。

バスの外に川、それにかけられた鉄道を歩く人々、掘り返された石の山が見られる。窓の外を眺め、テレビに夢中の乗客の笑い声を聞きながら、昨日市場で買っておいたエチオピア・ドーナツ、ボンボリーノをほおばる。

16時半にはアディスアベバに戻ってきた。

明日のジンカ行きのバスチケットを買いに、ミニバスに乗ってバスターミナルへと向かう。マルカートという治安が悪いといわれているエリアに近いバスターミナルは、混沌としている。ミニバスから降りれば、すぐにあちらこちらから「どこへ行くんだ」と声がかかる。

チケット売り場にたどり着くと、そこにはくねくねとしたアムハラ語がずらりと並んでいて、一体どの窓口へ行けばよいものやら検討もつかない。

だれかに尋ねても、みな答えが分からないまま、「はい」を意味する、息をひぃと吸う仕草をしてみせる。こちらも息を吸い込みそうだ。

ようやく辿り着いた売り場で英語もなかなか通じず、どうしたものかと思っていたら、隣から青年が助けに入ってくれた。

明日も朝が早いので、このままバスターミナルの近くに宿をとろうと歩く。あちらこちらから今度は「こっちの宿が良い、ついてきなさい」と声がかかる。

思いのほか、今日は満室のホテルが多いようだった。お手洗いもシャワーもない、ただベッドがぽんと置かれただけの酒場の裏のブンナベッドでさえ満室になっていた。

声をかけてきた幾人かが口にしていたOne Planetホテルというところに入ってみる。部屋の灯りがつかない。水もでない。そのうちに日がとっぷりと暮れ、室内は暗闇に沈んでいく。窓の外から見回しても、その辺り一帯が暗い。

町中が停電になっていた。

わたしたちがどうしたものかとうろうろとしていても、地元の人たちは落ち着きはらって手慣れたふうにろうそくを灯しだす。

外に出てみると、やはり街は暗く、人々だけが行き交う、どうにも物騒な雰囲気だ。

そのうちに電気は復旧した。地元の人々は停電にも動じず、同じように復旧にも動じない。
水は出ないままだけれど、電気があれば、良い。

夕食をとりに、外にでる。宿の近くには肉屋が数軒並んでいる。どうやらその奥がカフェ兼レストランになっていて、インジェラなどが食べられるらしい。

そのうちの一軒に入ってみる。牛肉とインジェラをオーダーする。すると、表にぶら下げてあった肉の塊から調理するぶんだけを器に盛り、裏のキッチンに持っていって、料理される。切りたて、焼きたての肉はミルキーで、添えられたからしとバルバリのスパイスが絶妙に合う。

One Planetホテルのレセプションには、赤い長棒を手に、布を顔に巻きつけた男性や、覚醒作用をもたらす葉、チャットを噛む男性、うつろな目をした女性などがとっかえひっかえに訪れる。物語のあるホテルだ。

そのホテルのレセプションを務める男の子が一人、電気を確認しに部屋へ来て、それから椅子に腰かけて話を始める。

アディスアベバ出身の男の子で、広島、長崎に原爆が投下され、長崎のそれはFat Manと呼ばれていること、伊藤博文についてまで知っている男の子だった。

彼も他のエチオピアの人たちと同じように、エチオピアがアフリカで長期植民地化されていない稀な国であることに誇りをもっていた。エチオピアの人たちは、他のアフリカの国の人たちと肌の色も違って、薄い茶色なんだ、と言う。

この国のインフラも整いつつあるが、政治家がだめだと口びるをたてる。独裁者で、武器を使って統制しているんだ、と言う。これは民主主義とはいえない、と加えた。

それでも、エチオピアは素晴らしい国だと言った。人も優しくて、勤勉で、寝る間も惜しんで働くんだ。日本と似ていると思う。ぼくも一日18時間働くよ。人々の間の絆が深いこともとても良いことだ。ただ、最近は、その絆が薄れてきている。

かつて友だちの紹介で、ドバイで1年ほどTシャツなどを売っていた。アラブ諸国に働きにいくエチオピア人は少なくない。女性も家政婦などで稼ぎに出かけている。ただ、アラブは石油に頼っているし、汚いんだ。お金も大切だけど、それは二の次で、一番大切なのは思いやりだと思う。だからドバイにはもう戻らないよ、と苦かった時間を思い出すかのようにつぶやいた。

彼のお父さんはイスラム教徒だというが、彼は自ら選んでキリスト教徒となった。アディスアベバには教会がいくつもあり、ときどき訪ねて行くのだといった。

復旧した電気は、途切れることなく部屋を照らし続けていた。

エチオピアでイスラム教徒の多い街、ハラール – Addis Ababa / Harar, Ethiopia

エチオピアのバスも早い。今日は6時発のバスで、ソマリアに近い、東のほうのハラールという町に向かう。雨の降るまだ暗く人も歩いていないアディスアベバをタクシーの窓の外に眺めながら、ターミナルに到着する。

町にはアザーンが響いている。

エチオピアのいくつかの町へは、高級バスが走っている。高級バスといっても、リクライニングしなかったり、布は破れていたりするけれど、とにもかくにも、座席は柔らかく、雨漏りもしない。ローカルバスには予約は不要だが、この高級バスは予約が必要となる。

2社の高級バス会社のうち、Selamバスを選んでみる。時計は、やはりエチオピア時間を指している。朝6時。 ― 時計は正確に0時をさしている。

出発してから2時間半ほど、バスが停まった。前には行列ができている。大きなトラックが転倒したのだった。こういうことはよく起きるんだ、とハラール出身の男性が言った。

車内には演歌ふうの音楽が穏やかに流れている。高級バスらしく、軽食のサービスがある。添乗員の男性がプラスチックのかごに入れたスポンジケーキを配る。続いてミックス・ジュースか水をどうぞと配っていく。

しばらくすると、倒れたトラックを横目に、バスはわきの砂利道を揺れながら進み、舗装道へと戻ってハラールへとまた急ぎ出す。

12時半ころ、Hirnaという小さな町に到着し、お昼休憩となる。馬が人をのせ、山羊が歩いていく。道行く男性も子どもたちも話しかけてくる。一軒の食堂に立ち寄り、他の客が食べていたインジェラを注文する。

じゃがいもとにんじん、それにスパイシーな豆とビーツののったインジェラだ。ここでも男性たちグループが数組やってきては、わたしたちに話しかけ、右手でインジェラを器用に包みこんで口に放り込み、あっという間にたいらげて、店を出ていく。

30分ほど休んだ後、バスはまた出発する。段々畑が広がり、人々は腰をかがめて作業をしている。ところどころ藁の積まれた丘があり、平地にいけば、牛を追う人々がいる。

草地でサッカーをしている男の子たちがいる。

到着近くなると、再び水の入ったペットボトルが配られる。
こうして16時過ぎにはハラールの街に到着した。バスを降りたところに女性たちが集まり、わきに水のタンクを置いて洗濯をしている。

ハラールは、1520年にダカールから遷都された街である。そして、数多くのモスクがある、イスラム教徒の多い街だ。

城壁に囲まれた旧市街と新市街に分かれていて、新市街は舗装された道が通り、近代的な建物が並んでいる。

初代アミールのAmir Nurの肖像が飾られたゲートをくぐり、旧市街へと入っていく。

中心にあるアドハネ・アレム教会の少し先に、おじいさんと少年がやっている、街角のコーヒー屋でコーヒーをいただくことにする。プラスチックの容器に入れた砂糖を3杯カップにすくって、ポットに入っていたコーヒーを注ぐ。

ハラールコーヒーも有名だ。真っ黒な色のコーヒーも、チョコレートのような味がして美味しい。

モスクの隣にはNure Roasted Harar Coffeeと看板のたつコーヒー工場がある。ふわりとコーヒーのアロマが漂う。

そこから石畳の細道へと入っていく。市場では、バルバリなどのスパイス、野菜や果物、土でできた平たい器に黒の上薬を塗った陶器などを女性たちが売っている。

あちらこちらで子どもたちが写真を撮って、といってポーズをとったり、あるいは「マニ」や「ペン」と請う。

ギリシャ商人の豪邸を改造し、フランス詩人でここに定住し貿易を営んでいたランボーの資料を展示したアルチュール・ランボー・ハウスにも子どもたちが連れて行ってくれる。

道ばたで売られている小さなサモサを口に入れながら、散歩をする。

ハラール式住居では、生活用品や民芸品などで壁を装飾するらしい。インジェラを置くための籠やホーローの洗面器が色鮮やかに壁にかけられ、真ん中には絨毯にクッションが置かれたスペースがある。

更に石畳の道を歩いていくと、チャイを提供している店があったので、薄暗い店内に入る。ほとんど暗くて見えない店の奥には、男性たちが寝そべって休んでいる。チャイは甘く、スパイスが効いていておいしい。

アザーンの鳴るモスクでは男性たちが祈りを捧げている。

Asmaddinゲート近くにたった市場には、暗くなってもまだ人々が大勢いる。女性たちはヘッドライトや懐中電灯を使って、売っているパンやドーナツなどを照らしだす。

一角では、豆のワットにパンをつける店が並んでいる。それぞれ女性が炭で火をおこし、そこで小さな鉄のボウルに油をひいてワットをつくる。その小さな鉄のボウルを鉄のトレイにのせて、あとはパンをのっけて提供される。パンはフランスパンのように外は硬く、中はもっちりとしている。

隣に座っていた少年が、煙草を吸いながら物乞いをする男性に、チャイとパンを買い与える。「僕は勉強をし、収入を得る方法を知った。貯金もある。でも、この人はその方法を知らない。だから、与えるんです。自分が歳をとったら、誰かに助けてもらうことになるだろうから。」

エチオピアによくある、喫茶店や酒屋の裏にある宿、ブンナベッドで眠りにつく。

エチオピア正教とエチオピア時間とインジェラとコーヒーセレモニー – Addis Ababa, Ethiopia

ケニアのナイロビから、エチオピアのアディスアベバまで、フライト時間はわずか2時間。テレビには、「ザ・シンプソンズ」が流れている。

その間に食事のサービスがある。オムレツにじゃがいも、トマト、それに苺ヨーグルト、フルーツの盛り合わせにコッペパンとクロワッサン。ビールはないので、パイナップル・ジュースをお願いする。追って、苦味のある濃いコーヒーが配られる。

やがて、灯りのつく街が見えてくる。アディスアベバである。

空港では男性スタッフの周りに人だかりができている。黄熱病カードを持っているか確認をしている。

ビザ発行オフィスに入ると、二人の男性がのんびりと仕事をしている。「金を払ってください」と支払いを急かされる。

表面が英語、裏面がアムハラ語で書かれた入国カードを記入し、イミグレーション・オフィスに進む。入国カードは見られることもなく、わきに置かれる。カメラが顔に焦点をあて、ぱちりと写真を撮る。担当者がそして、「ありがとうございました。」と言う。

こうして苦労したビザが、あっさりと貼られたパスポートをもって入国となる。

最後にもう一度荷物をX線にとおして、到着ゲートをくぐる。

アディスアベバの空港は、新しく明るい。Wi-fiさえあるという。案内所の男性は、もしよかったら、ここのパソコンを使ってください、とオフィスのパソコンを指さすほどだ。そして「今はまだ朝早くてミニバスで市内に行くのは危ないので、タクシーをお勧めします。」と言う。

空港にあるエチオピア・コマーシャル銀行のATMはひなびた様子で佇み、仰々しい映像と空港に鳴り響くプッシュ音とともに作動する。

雨が降っている。

正規登録されているという空港前のイエローキャブの客引きから一人にお願いすることにする。アディスアベバ出身の男性で夜も空港で客引きをしながら仕事をしているのだという。

宿に到着すると、南アフリカで会い、ザンビアで偶然再会し、その後タンザニアまでの列車で同じ部屋になった韓国の女の子と、再び遭遇する。でも女の子は泣いていた。「昨晩携帯電話が盗まれたんです。」という。携帯電話で友だちと話して、それから携帯電話をウェストポーチに入れたんです。ウェストポーチはずっと前につけていたのに。どこで盗られたのかも分かりません。昨日クラブにいったときに、とても混んでいたから、そこで盗られたのかもしれない。

朝からエジプトビザ取得に動く。エチオピアの北、スーダンのビザを申請するためにエジプトビザが要求されるからだ。

エジプト大使館近くまで行くミニバスが聖ギオルギス教会付近から出ているので、教会まで歩いていく。

道ばたには、靴底、ゴムや鉄の破片、トイレットペーパーの切れはしや草、それに果物などが売られている。靴磨きをする男性が多く、道にずらりと並び、客もまた同様にずらりと並んでいる。みな一様に新聞を広げて読み更けている一角もある。

物乞いも少なくない。目である部分にこぶがあり、やや離れたところに真っ赤な塊をもった男性、ぱんぱんに膨れ上がった足を雨に濡れた泥道に浸して物乞いをしている男性、子どもを連れて手を前に差し出す母親、足の不自由な人。子どもも上目遣いに顔をやや傾けて、手を差し出している。

広場には国旗と赤十字の旗が翻り、赤十字のゼッケンをつけた若者たちが歩いていく。

聖ギオルギス教会は、エチオピア正教の守護聖人、聖ギオルギスに捧げられた教会である。

その石の建物に人々が寄り添い、口や額をつけていく。聖書を読む人もいれば、教会から離れた場所からも教会の方向へ祈りを捧げている人がいる。

エジプト大使館にたどり着き、必要だというパスポート、写真2葉、それにエチオピア通貨Birrを引き出したATMのレシートを提出する。

すると、大使館の女性は、申し訳なさそうに、遠慮がちに言う。「お二人が結婚していることを証明する書類はお持ちですか。もしお持ちでない場合、Birrを引き出したときの各人レシートが一枚ずつ必要なんです。Birrをどのように手に入れたのか証明できないとだめなんです…。」

二人で一枚のレシートしかなかったため、最寄りのATMに行ってお金を引き出す必要が出てきた。最寄りのATMはミニバスに乗っていっていただかないといけないんです、と係の女性が再び遠慮がちに言う。

言われた通りにミニバスに乗り、アラット・キロへと向かう。エチオピア・コマーシャル銀行に立ち寄るもATMは故障している。「弊社の別のATMはここからミニバスで15分ほどいったところにあります。」

午前中までしか申請を受け付けていない大使館に戻る時間を考えれば、もう残された時間は、ない。

急いで近くのアワッシュ・インターナショナル銀行に行って、手持ちのUSドルをBirrに両替して、そのレシートを持ち込むことにする。

銀行の奥の部屋に通され、ぴしりとスーツを決めた男性が手際よく作業する。そのわきで、マスクをつけた人々がコインを丹念にカウントしている。

こうして再びミニバスに乗り、エジプト大使館に戻る、つもりが、間違ったバスに乗ったようで、あらぬ方向へとバスが進む。

それに気がついたときには、11時50分過ぎ、受付終了まであと10分もない。乗客がみな下車をしたバスの運転手は、それならエジプト大使館まで連れて行ってあげるよ、とわたしたちだけを乗せたバスをエジプト大使館前までつけてくれた。

こうして、12時ぎりぎりにオフィスに滑り込み、申請を終える。

やれやれと息をつき、またバスを乗り継ぎ、スーダン大使館へと向かう。ビザ申請について尋ねるためだ。

バスで隣に腰掛けた男性は、奨学金をとって、コンピューター・サイエンスを勉強しているという。バスを降りてからも、道を案内します、と言って、ついてきてくれる。

到着したスーダン大使館は、昼休みで閉まっていた。門番の男性は、9時(インターナショナル時間の15時)ごろにまた開きますとエチオピア時間を表示した携帯を見せて言う。

開館を待つ間、昼食をとりにスーダン大使館からほど近いレストランへ入る。

エチオピアには、コーヒーセレモニーなるものがあって、普通の食堂の片隅にセレモニー用セットが置かれている。

店内では数組の男性グループが、エチオピアで主食として食べられている酸味のあるクレープ状のインジェラをほおばっている。みなそれそれぞれに話かけてくる。

そのうちの一組に、一緒に食べましょうとすすめられ、同じテーブルにつき、インジェラをつまむ。羊の肉をインジェラに包んだり、干し肉とインジェラをちぎったクウォンタ・フルフルを食べたりする。

会計士とIT専門家と学生の3人組みだ。「3人共に兄弟のように親しい友だちなんだ。」と言った。仕事や学校の休み時間にわざわざ集まって昼食を食べたりするほどの仲なのだ、と確かにそう言った。

メニューが全てアムハラ語で書かれていて、全く何のインジェラなのか分からないので、読み解いてもらう。牛肉にインジェラをつぶしたフルフルがインジェラの上にのったものを追加でオーダーする。

エチオピアはここ最近インフラや交通機関も整い、大きく拡大成長しているという。経済はのびているというが、貧富の格差が広がっていることが問題だと男性たちは口を揃える。

友だちや家族の絆がとても強い国に、拝金主義や個人主義が入ってきて、その絆がゆるみつつあるのが残念だと言った。

イタリア統治の時代が5年あり、町にはイタリア建築の影響を受けた建物もある。でもエチオピアは、アフリカでとても稀な、長期植民地化のなかった国なんです、と誇らしげに言った。

食事が終わると、コーヒーセレモニーセットの前で記念撮影をしましょう、と誘われる。

三人のうち一人は仕事に戻ると言っていなくなり、もう一人はどこかにいなくなった後、真新しい車に乗って戻ってきた。「コーヒーを飲みにいきましょう、車に乗ってください。」という。

一人は車に乗り込んだままだ。そのうちにもう一人が車内にいる男性を指して、ひそひそとわたしたちに囁き始める。「本当は彼は友だちじゃないんだ。だから彼なしでコーヒーを飲みに行っても良い。とにかく、車に乗ってください。」

彼は時折何かを考えるかのように目をそらし、そして曇った顔を見せるようになった。この様子では、車には乗れない。

残念だが、コーヒーをご一緒することはお断りし、昼休みを終えただろうスーダン大使館に急ぐことにする。

ビザについて尋ねると、スーダンの次に行く国と国籍を聞かれる。

エジプトに行きます。国籍は日本です。

パスポートと写真2葉、それにエジプト・ビザと100ドルを出してもらえれば24時間でビザを発行しますよ、と、見た目にこわかったおじさんが、にこりと笑って言う。

そして、なんでも聞いてください、大丈夫です、心配いりませんよ、と言い加えて、がははと笑った。

スーダン大使館から出て、近くのカフェに寄っていくことにする。雨は一層強くなり、店の天井を覆う木の網目からは雨が漏っている。

ここにもコーヒーセレモニー用セットが片隅に置いてある。

小さなカップが並べられたテーブルのわきに乳香などから作られたお香と、炭が置かれている。お香の煙とコーヒーの香りが立ち込める。店の女性は、その煙の中で、ぱたぱたと炭を煽ぐ。客がくれば、炭の上に置いたポットからコーヒーを注いで差し出す。

濃い色をしたコーヒーに、薄っぺらなステンレスのスプーンで2杯砂糖を入れる。エチオピアのコーヒー・セレモニーといえども、日常に溶け込んだそのセレモニーは、ステンレス製の砂糖入れには中国語のラベルが貼られているといったぐあいに、あくまでカジュアルなものだ。

コーヒーは甘さと苦みをもつチョコレートのような味がする。

隣から話しかけてきた男性二人はコーヒーを飲み終えてすぐビールジョッキに突入していく。そして日本は強い国だ、と親指をたてた。

夕食は、宿から歩いてすぐのWedubeポート・レストランでいただく。船をモチーフにした食堂には、地元の男性たちが一人か二人、あるいは三人でインジェラを囲み、手でそれを器用に食べていく。こんなふうに、男性グループがさして時間をかけずにインジェラをたいらげ、去っていくのが多いようである。

豆とインジェラをオーダーする。店に置かれていなかったSt.Georgeビールを、店員の男性はわざわざ近くの店まで買いにいってくれた。