2012年03月
朝に宿を出てみると、道端で市がたっていた。
朝食はUyuni Toursでいただく。温かなミルクコーヒーにぎゅっと絞ったオレンジジュース、ハムとチーズにいり卵、それにパンとバターとマーマレードがそえられている。プロじゃないけれど、うちの料理なのよとふるまわれた。
やがて、2泊3日のツアーが始まる。コロナリオくんというドライバーに、4人のドイツ人とわたしたちが共にトヨタのランド・クルーザーに乗って、塩の湖であるウユニ湖周辺を、進んでいく。
まずはじめにCementerio de Trenesという、ウユニの街からわずか3kmのところにある、機関車の墓場へと向かう。鉄道は1888年から1892年にかけて造られ、ウユニ周辺から採掘された鉱石を太平洋まで運んでいたのだというが、1940年に鉱山が閉鎖され、鉄道も運行されなくなった。そして機関車がここに放置されている。
長く続く線路のわきに、錆びれた機関車がそのままにある。列車にはあちらこちらに落書きが施され、ある列車にはアインシュタインの計算式が書かれている。ぽつんと残された機関車の先頭は、まっすぐに雪山のほうを向いている。
そこから一度ウユニの街へ戻り、食料を積みこみ、ウユニ塩湖のそばにあるColchaniという村へと向かう。ここは塩の生産拠点となっており、倉庫や家が塩でできている建物もある。
この辺りはアドべで作った家が一般的なのであって、この辺りの塩で作った建物というのはまだ新しく観光業用に建てられたのだとコロナリオくんは少し笑う。小さな博物館まであり、塩でできた動物たちが立っている。
大きな倉庫には女性が一人座り、大量の塩の山を前に、ただひたすらに手作業で袋づめをしている。この村の家の門の上にも、2月のカルナバルの名残の飾りつけがかけられている。
それから、ウユニ塩湖へと向かっていく。リャマやビクーニャがあちらこちらに歩いている。はるか遠くに見える山々は、湖の上に浮かんでいるように見える。辺りには雪をかぶったChita山やJaruma山がそびえたっている。
やがてウユニ塩湖に到着する。ちょうど水の溜まった際に、2008年5月1日の事故の石碑がたてられ、日本人の5人の名前もきざまれている。その日、酒酔い運転をしていた車2台が衝突し、そのうち一台に乗っていたみなが亡くなったという。
そこからじゃぶじゃぶと水の中にランド・クルーザーは入っていく。塩をスコップで掘る男性がいて、あちらこちらに塩の山ができ、トラックが走っている。約20億トンの塩があるという湖の塩の採掘がここでは手作業で行われている。
雨期のウユニは、聞いていたとおりに、鏡のようだった。ピンクのフラミンゴが空中を列になって飛んでいく。Thunupa山をはじめとした山々や雲、鳥が湖にそのまま映し出されている。
湖の中ほどにあるIsla del Pescadoという島は、大量の水がたまっていて、1月に乗り込んだクルーザー2台が遭難し、ヘリコプターで救助されたという。そんなわけで、今は島へ行くことは禁止されている。
最初に建設された塩でできたホテル、Hotel Playa Blanca Uyuniに立ち寄る。このホテルは、テーブルも椅子もベッドも塩でできていて、塩でできた動物たちもいる。
昼食は、車に積んであった、キヌアのご飯にハンバーグ、きゅうりとトマトとピーマン、にんじんをプレートにのせてコーラとともにいただく。
夜はずいぶんと冷え込むというが、昼はずいぶんと暖かい。ビーチサンダルに履き替えて、ぱしゃりぱしゃりと塩湖の中に入っていく。そのうちに脚が塩まみれになる。
こうして塩湖を離れ、今夜泊まる、Villa Alotaへと向かっていく。真っ白だった塩湖は、やがて乾燥した土地へと変わる。砂道を走り続けること、1時間半ほど、車が停まった。コロナリオくんは「パンクはいつものことだ」と言って、手慣れたようすで15分ほどでタイヤを交換する。
コカの葉を噛みながら、時にリャマが道を横断するのを待ちながら、宿泊先へと向かう。
道のそばには、栄養価が高い穀物であるキヌアが植わり、赤く色をつけている。石で造られた教会のあるサン・クリストバルの小さな町を通り、さらに進む。リャマやビクーニャの群れや、淡い紫いろの水たまり、塩がうっすらとかかった大地、その向こうの雪山を眺めながら、やがて夕日の沈むころ、Villa Alotaにたどりつく。
Trimateのティーバックにコカの葉を加えたお茶を飲みながら、クラッカーをかじり、みなで夕飯の時間まで話をする。
夕食は最初に野菜スープとパン、続いてチキンにじゃがいも、トマトのスライスとバナナ揚げがテーブルに運ばれてくる。
同じ部屋になった女性は、Graceという、16歳からガイドをしているボリビア人、チリ在住の女性だった。彼女はボリビアの中でこの辺りの地域は政府によって忘れられ、警察もほとんどいない、と嘆いた。最後に、日本で芸者として働きたいと冗談めかして、言った。
2012/03/08 21:38 |
カテゴリー:Bolivia
朝起きると、夜中から朝方にかけて降っていた雨も止んだ。
朝食は宿で温かなコーヒーとオレンジジュース、バターや苺ジャムをぬったパンを急いでかきこみ、ウユニ行きバスターミナルへと向かう。
「A(あ)」のミニバスに乗り、ターミナルに向かうものの、運転手のおじさんは客集めのため、ゆっくりゆっくりと、世間話をわたしたちにしながら、進んでいく。
バスで隣に座った女性に「ウユニに行く」と伝えると、「ウユニ、サムイヨ」と教えてくれる。ウユニに向かうことをボリビア人に伝えると、たいてい、とっさに「寒いよ」と告げられる。
珍しく時間ぴったりにターミナルを発車するウユニ行きバスに、「急げ急げ」とTrans 6 de Octubre社のおじさんが誘導してくれ、ぎりぎり乗車する。
コカコーラのトラックの前方には黒字に黄色の「危」のマークが貼られ、「東名厚木健康センター」や「あおもりようちえん」のトラックが通り過ぎていく。日本の中古車は今日もせっせとスクレの町を走っている。
ここから標高4070mの町、ポトシを経由し、寒さでも知られたウユニまでの道を行く。サンタ・クルスで買い足しておいた(高山病の)薬を口に放りいれる。
ゆるやかな丘に煉瓦造りの家が点々としている。道端にはゴミが散乱し、それを狙った野良犬が徘徊している。
ポトシは鉱山の町であり、16世紀に銀やスズなどが鉱山がら発見されて繁栄を極め、ポトシ鉱山は”Cerro Rico(富の山)”と呼ばれるほどになった。一度銀鉱脈がつきて町は枯れ果てたが、再び地下資源が見直され、町は活気を取り戻しているという。
12時半頃、遠くのほうに赤茶けたポトシ鉱山が見えてくると、やがて町に到着する。20分ほどの休憩となったので、道端で売られていた、チーズ入りエンパナーダ・デ・ケソに、この地域の名物であるはちみつドーナツtawatawa、それに揚げパンを昼食用に買い求める。
先日まで高地にいたのがまだ身体の中に記憶されているのか、または先ほど飲んだ薬が効いているのか、想像していたよりも身体が楽だ。
再びバスが出発して、茶色い建物の並ぶポトシの町を一望し、町を離れてもしばらくポトシ鉱山が視界に入りながら、バスは進んでいく。
黄色や紫色の花が咲き、リャマやアルパカ、ロバなどが耳にリボンをつけて歩いているのを女性が追っている。ごつごつとした荒涼とした土地にサボテンがにょろにょろと生えている。
細い線路を時折通り過ぎ、岩山の舗装されていない道をくねくねと進んでいく。どんどんと標高を上げ、やがて4200m近くまでのぼり、雲や空がぐっと近づき、空の色が濃くなっていく。
ブルドーザーがいくつもあり、男性たちが働いている。赤い山、黒い山、茶色い山、緑が点々と生えた白い山。畑があれば、時折かかしが立っている。
やがて地平線のかなたに砂埃と光の中でぼんやりとウユニ塩湖らしい水の線と、浮かんでいるような島が見える。やがて乾いた土地に小さな町が見えてくる。予定されていた17時をわずかに1時間弱遅れただけで、簡易遊園地のあるウユニの町に到着した。想像していたよりも暖かかった。
ウユニから次はチリへと抜けていく予定だが、どうやらチリ行きのバスはflecha社とcentenario社から出ていて、いずれにしても月、水、木、日曜日の早朝にしか出ていないといい、スケジュールが合わない。そこでウユニ湖からチリのサン・ペドロ・デ・アタカマまで抜けるツアーに参加することにする。
数軒の旅行会社を回り、ウユニで一番はじめに開業したというUyuni Toursにお願いすることにする。温かなミルクコーヒーと飴をいただき、息をつく。
雨期のウユニ塩湖は日本人旅行者の間で人気のようで、今の時期にここをめがけてやってくる人々は多いのだという。今日は満月だというが、ウユニで星空を見るために新月まで待つ旅人や、晴天でウユニ塩湖を見るために幾度もツアーに参加したり車をチャーターしたりする人、それぞれにウユニ湖は特別な場所のようなのだ。
夕食は、名もないという小さな食堂でチキンスープをオーダーする。大きなチキンにじゃがいも、乾燥じゃがいものチューニョなどが入っていて、出汁がきいている。それにパンをひたして食べる。
教会のあるアルセ通りを中心とした小さな町には、夜にはもうほとんど人通りはない。
宿をとったHostal Sajamaではシャワーからキチンとテキセツな温度のお湯が出る。この辺りではお湯が出ると聞いていても、水に近いぬるま湯しか出なかったり、水しか出なかったり、熱湯しか出なかったり(熱湯しか出なくても結局きちんと浴びれないので寒い)することが多分にある。だから、お湯がきちんと出る、というのは感激に値する。
そして、今日のんだ薬が、買い求めた高山病の薬ではなく、友だちからもらった頭痛薬をのんでいたことに、はたと気がついた。でも、なぜか、高地でも平気でいる。
こうして、今のところ、想像していたよりもずっと快適なウユニ生活が始まった。
2012/03/07 23:37 |
カテゴリー:Bolivia
バスは順調に8時ころ、標高2790m、雨が降るスクレのターミナルに到着する。次の目的地ウユニまでの直行バスは、1日1便Trans 6 de Octubre社のみ運行しているというので、そこでチケットを購入する。
ウユニまでの経由地である標高4070mのポトシまでのバスは多数出ており、すぐにポトシへ向かい、そこで乗り換えてウユニへ行くこともできるが、一度サンタ・クルスの低地にくだってきた身としては、世界で最も高い位置にあるというポトシの町で動き回れる自信が、ない。だから、スクレで一泊することにする。
無事にウユニまでのチケットを購入したので、町の中心までミニバスに乗っていく。ターミナルのインフォメーションセンターには、ふんわりとパーマをかけた、かわいらしい女性が座っている。
ターミナルから中心地まで、どのミニバスに乗ればよいのか尋ねると、「あ」と言う。「あ、ですか」とぽかんとしていると、「『A』ですよ。」と言って、うふふと嬉しそうに笑った。スペイン語では「A」を「ア」と発音するのである。
道には「医療法人 道仁会 品川医院」や「やわたメディカルセンター」、「富士屋ホテル」のミニバス、「新潟計装株式会社」のタクシーなどが走っている。
サン・フランシスコ教会の前で降り、弁護士事務所の多い道を通りながら、Colon通りのAmigo Hostelに部屋をとり、街を歩くことにする。
世界遺産に登録されている、ボリビアの憲法上の首都スクレでは、家の壁を白く塗ることが条例で決められているのだという。
1795年に建てられ、修道院としても機能するサン・フェリペ教会を通り、Macという名のファストフード店のわきを歩いて、1580年から1633年にかけて建てられたカテドラルや県庁などに囲まれた5月25日広場へと出る。
広場には、自由の家も面している。広い中庭を通ると、螺旋階段のある図書室や1825年にスペインからの独立宣言文の調印が行われた独立の間がある。1900年代に政府の中枢機関がラ・パスに移されるまで、スクレはボリビアの政治の中心であったのだ。
近くの道に、有名な「Para ti」という名のチョコレート屋があるので、立ち寄る。洒落た店内は賑わっていて、ショーウィンドウに飾られたチョコレートの中で、アーモンドのチョコレートと、ココナッツの入ったミルクチョコレートを買い求める。
デザインされた透明のパッケージに入れられた、上品なアーモンドチョコレートや、甘さたっぷりのミルクチョコレートは、口の中でとろけていく。
そこから、サン・ミゲル教会、サンタ・モニカ教会を通って中央市場まで歩き、食事をとりにいく。大きなカボチャなどの野菜や果物、肉やスパイス、かごや花束などが売られている。
ケーキ屋では、ピンクや黄色やチョコレート色に彩られて傘がちょこりとのった、クリームたっぷりのホールケーキが並べて売られ、その後ろで女性たちがマニキュア塗りに専念している。
この市場では朝食、昼食、夕食を提供する食堂エリアが分かれている。朝食用は既に片づけられており、2階の昼食エリアへと向かう。
開業8年目という、客引きに熱心だった女性の食堂に座り、ピカンテ・デ・ポヨをオーダーする。チキンやじゃがいも、トマトとパスタの上にたっぷりと赤とうがらしのソースがかかっている。ソースは、スパイスの味がぎゅっとつまっていて、ぴりりとするが、辛すぎない。
食事をしている間に昼食エリアもそろそろ片づけの時間となる。
1階の果物売り場でチリモヤとザクロを買い求め、夕食エリアをのぞきに行く。18時頃、昼食エリアよりも夕食エリアが賑わいをみせ、サルチパパスやハンバーガー、ロミートといった軽食をとりに人々が集まっている。やはり、ボリビアでは昼食がメインで、夕食はスナックなどの軽食が食べられているようだ。
わたしたちも夕食のために、チーズの入った揚げパン、エンパナーダ・デ・ケソと、揚げドーナツのバニュエロを袋につめてもらう。同時にそこで売られているとうもろこしのジュース、Tojoriと紫とうもろこしを甘く煮たジュース、Apiをグラスに入れていただく。どちらも甘く、あたたかい。
そこから、金箔の祭壇のあるサン・フランシスコ教会や、サント・ドミンゴ教会、サンタ・クララ教会、サンタ・テレサ修道院、サン・ラサロ教会と眺めながら町中を歩く。
条例通り、どの教会も壁が白く塗られ、なかなかに混乱する。
ハロー・キティが大きくショーウィンドウに貼られ、ソーシャル・VIP・キティ・クラブをプロモーションに使う店もあり、洗練された家具屋もある。実質上の首都はラ・パスだが、憲法上の首都はスクレというから、思っていたよりもずっとファッショナブルなのである。
サン・ラサロ教会に着くころには遠くの空がうっすらと色を変えていく。坂をあがり、高台にあるラ・レコレータ修道院に着くころには、日が暮れていた。
おぼろ月に照らされた修道院のある広場には、広場に面したキリスト教の学校から出てきた学生たちがおしゃべりを楽しんでいる。
パティオの一辺にある回廊から、ぽつりぽつりと橙色の灯がかなたまで瞬くスクレの夜景を眺める。
夕食は宿で先ほど市場で買ってきた、森のアイスクリームともいわれるチリモヤの果実と、ザクロの実、エンパナーダ・デ・ケソ、バニュエロに、温かなカモミールティーを淹れていただく。
チリモヤのごつい緑の殻を割ってみると、中はクリーム色でとろりとして甘く、ザクロの実は赤と黄色の殻を割ってみると、中は真っ赤な種が詰まっていて、食べるたびに汁が飛んでなかなかに手ごわい。
夜中過ぎ、外では大きな雷音がなり、サイレンがなり始めた。
2012/03/06 23:04 |
カテゴリー:Bolivia
今回サンタ・クルスで宿泊している宿は創業60年といい、一見こわい白髪のおじさんが門番をしている。泊まりはじめてから何度も「あとでカメを見ないか」と、その外見には似合わず、フレンドリーに話しかけられていた。
今朝はカメが既に起きているようで、おじさんは「カメを見て行きなさい」と手招きする。宿の一室から大きなカメがのっそりと出てくる。15歳のカメの名前は「Juan Evo」といって、今の大統領の名前なんだ、とおじさんはがははと笑った。
子どもたちが街角で、鶏肉やじゃがいもの入った温かいエンパナーダを売っていたので、それを買い求めて、もそもそと食べながら、歩く。
今日もメルカド・オキナワの近くでは露店などが出ており、その中の1軒の靴屋でサンダルを買い求めたり、薬局屋で高山病の薬を買い足したりする。
喉がかわいたので、屋台で売られていた白トウモロコシをベースにしたSomo Chichaを1杯買い求め、ぐびぐびと飲み干す。少し甘くて、冷たい。
そこから宿へ戻るとき、さきほどの子どもたちがまだエンパナーダを売っていて、わたしたちを見て、挨拶をする。
今日は、JICAの海外青年協力隊として友だちであるともみちゃんが働いている特別支援学校を見せてもらうことにする。毎日2時から5時半まで授業があるというので、12時前にカテドラルで待ち合わせをして、再びLa Cuisine De Los Chefで昼食をいただく。
今日のメニューは、乾燥じゃがいものチューニョや肉や野菜を煮込んだスープ、チャイロ、メインには牛肉のチャルケが入った炊き込みご飯に刻んだトマトや目玉焼きののったマハディート、そしてバナナフライとユカ芋がついてくる。デザートにはフランカ・セロがついてきて、ドリンクには冷えたレモネードを注文する。
食事をしながら、再び仕事の話を聞く。ボリビアでは自国で研究するというよりも他国からの文献や研究資料を借りてくることが多いのだという。
そして、こちらの学校には備品を買うお金さえなくて困ることが少なくないのだという。たとえば、壊れた時計や棚を買うお金が政府からも出ずに、学校も支払えない。
学校には遠い場所からさまざまな家庭環境の子どもたちが登校をしてきているので、1年に1度は先生が家庭訪問をして、その家庭をみながら保護者と話をすることが大切なことだが、先生の交通費が出ない。
備品は1年のはじめに、紙やのりなどのリストを渡して保護者が各自用意するものの、その経済的負担もある。
間食の時間があり、これは政府から費用が出るものの、保護者がそれ以上の間食をもたせる生徒もいて、生徒間に、家庭の経済格差があらわれてしまう問題があるのだという。
また学校を休む生徒に対するフォローもまだまだなのだという。ここでは大雨が降ると道路が閉鎖して通えなくなる生徒たちもいるというが、無断欠席の生徒たちへのフォローがまだ足りないという。
先生たちも今までの慣習から何か変化を起こすということは大変なことであり、なかなかに提案が受け入れられることが難しい。
今日は月曜日で学校の全校朝礼があるというので、友だちも紺に白のストライプの入った制服を着てきている。
昼食を終えてから、タクシーで、特別支援学校Preefaに向かう。学校は中庭を囲んでぐるりと校舎が建っている。壁には「みんな平等だけど、みんな違う」といった言葉が掲げられている。
大勢の生徒や先生たちががやがやと学校に入っていく。友だちはあちらこちらで挨拶を交わしながら、ときに子どもたちに抱きつかれながら、学校に入っていく。校長先生は、若くて綺麗に髪を束ね、グレーのマニキュアをした女性で、ご挨拶をする。
校長秘書の女性が朝礼開始の合図を鐘でからんころんとならす。この鐘も、今は一つしかないため、対象者別に使い分けができず、また鐘を鳴らす担当が常にいなければならないという問題があるのだという。だから、近いうちにパソコンを使って制御できるチャイムに変えようと検討中なのだという。
朝礼が始まる。
ピアニカに合わせて歌を歌い、その後、子どもたちが国旗をもって国歌を斉唱する。それから校長先生の話があり、再びピアニカに合わせて歌を歌う。
学校には2階建てで、現在JICAも一部資金を出して増築中なのだという。8年生のクラスでは生徒が10人ほど、先生がギターを取り出して一人一人に向けて歌ったり、みなで教室の後ろのマリア様に祈りをささげたり、先週何をしたかを前で発表させる。
他校で受け入れを拒否されたという生徒に対しても先生はゆっくりと落ち着かせる。
他に職業訓練として27歳まで通える木工班、裁縫班、料理班などもある。そのほか体育のクラスや音楽のクラスもある。
木工班を見学させてもらう。障害の程度によって、作業の進む生徒となかなか進まない生徒がいる。27歳で学校を出てもなかなか就職先を見つけるのは難しいのだという。他の職業訓練の班を経験して、進路を変更して木工班に入っている生徒もいるのだそう。
隣ではパン工房班がチーズ入りエンパナーダを作っている。ルーラーを使いながら、器用にくるりと生地を切っていく。作ったパンは、3時過ぎに各クラスの先生たちに売りに行くのだというが、いずれ校外でも売れるようにしたいと友だちは言った。
特別に、そのエンパナーダをいただいた。揚げたてのエンパナーダはさくさくとして、中はもっちりとしたチーズが入っていて、どうにも旨い。
スクレ行きのバスの時間が近づいてきたので、タクシーに乗り、ターミナルへと向かう。友だちも忙しい中見送りに来てくれる。
30分ほど遅れてバスは出発する。ぴしりと紺色の制服を着たともみちゃんは、そのまま学校へと戻る。どんどんと、ともみちゃんの姿が小さくなっていく。
サンタ・クルス近郊では緑の中に、別荘がぽつりぽつりと建っている。さわやかな風が窓から入り込む。そのうちに日は暮れていき、暗闇の中に連なる山とぽっかりと浮かぶ月を眺める。
ただひたすらに、この地で頑張って働いているともみちゃんのことを、想う。
2012/03/05 23:39 |
カテゴリー:Bolivia
今日は、カテドラル前でともみちゃんと待ち合わせをする。晴れた日曜の昼、カテドラルには人々がびっしりと座り、ミサが行われている。
近くのJet-Setという店でサルテーニャを買い、タクシーに乗って、お家へお邪魔する。その家は、校長先生をしているという日系人の方がオーナーだといい、偶然お会いし、ご挨拶をする。
きれいに整えられた家でボリビア産のコーヒーと、買ってきたサルテーニャをつまむ。美味しく淹れられたコーヒーに、肉汁がたっぷり、皮はさくっとしたサルテーニャを、涼しい部屋でいただく。
そこからタクシーに乗って、お勧めだという中華料理店、Mandarinに連れて行ってもらう。多くのボリビア人で賑わう店内で、2階の席に座る。ワンタンスープに、魚と肉と野菜の炒め物や豆腐の炒め物を注文する。
たっぷりとソースのかかった中華料理はどれもご飯がすすむ味付けで、合わせてオーダーしたHuariビールもぐびぐびとすすんでしまう。
こちらの人々はビールもワインも、コカコーラをはじめとする炭酸飲料もよく飲むのだという。女性でぷっくりとした人が多いのはもしやすると美意識のせいではないかとも思ったものの、それは違うという。逆に糖尿病などの問題も出てきているのだという。
地元の人々は、昼食を多くとり、4時ごろにパンなどの間食をして、夜は簡単に済ませることが多いのだという。
バスに乗って、再びともみちゃんの家へと戻る。家にはインターネットもつながり、本棚には、専門である特別支援の本がずらりと並べられている。
じっくりと、海外青年協力隊としての仕事の話を聞く。
例えば、生徒たちに、他の子を叩くことは悪いことだと伝えるにはどうしたらよいのだろう。そう問いかける。すると答えが返ってくる。その子の好きなものを取って、叩いてはダメだと伝え続ける。
自閉症の子どもは、変化というものに強くないのだという。だから、先の予定をきちんと示すことが大切なのだそうだ。じっと我慢をすること、時にはパネルなどに絵を描いて示すことが重要だと、自閉症の子どもと日々接するプロは、言う。
ボリビアではまだ障害のある人々に対する保護制度が確立しておらず、これからなのだそう。障害者手帳をどうこれから活用させていくのか、という段階に、ある。
日本から遠く離れた国で、活動をしていくのは、簡単なことではない。きっと言葉にならない苦労もあっただろう。それでも、チャーミングな友だちは、いつだって変わらずに、真剣で、前向きだ。本人はいたって謙虚だが、JICAペルーの2012年のカレンダーにだって、写真が載ったのだ。
お家にずいぶん長いことお邪魔をして、かっぱえびせんまでいただいて、宿に戻ることにする。
おなかもいっぱい、あたまもいっぱい、空の晴れわたる一日だった。
2012/03/04 23:28 |
カテゴリー:Bolivia
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