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2012年03月

ボリビアの日本 – Santa Cruz, Bolivia

朝は、9月24日広場に面したカテドラルを訪れる。中では真っ白の壁に紫色の旗がかけられ、キャンドルのそばで祈りを捧げる人たちがいる。塔に上がれるというので、煉瓦の階段を上がりながら、上まで登る。

塔の一番上ではちょうど鐘を鳴らすためにおじさんがスタンバイをしていた。そのうちにがらんごろんと鐘が鳴り、鳴り終わると、儀式のように油を挿す。

塔の上からはサンタ・クルスの街並みが見える。ラ・パスに次ぐボリビア第二の都市であり、近年発展著しいという。ところどころにひょいと高い建物があり、明るく、開放的な雰囲気がみてとれる。ラ・パスの雰囲気とは、違う。

大型スーパーTIAに立ち寄り買い物をすませて、朝食を取りに行く。

昨日は、オキナワにある日本料理を提供するレストランが夕食準備中で閉まっていたので、今日の朝食はリトルトーキョーと言われている地域にあるスーパーおきなわに入り、沖縄そばだという「うどん」をオーダーする。

鶏肉、油揚げ、うどんに錦糸卵、紅しょうがと刻みネギが散らしてある。そして、もっちりとしたご飯とお漬物に割りばしがついている。それに近くの屋台で買ったチーズの入ったエンパナーダを合わせて食べる。

さきほどまでは閑散としていた店内が、昼に近づくにつれて、日本人、日系人だと思われる人々が続々と入ってくる。そしてときおり、店で働く日本人の女性と言葉を交わし、あるときには持っていってと手土産を手渡されている。お元気ですか。うちの娘がね。ここではおそらく毎日、こうした日本語での会話が繰り広げられている。

スーパーおきなわには、食堂の他にも日本のお菓子や海苔といったものを置く商店がある。
隣のMiura Shotenでも「いらっしゃいませ」と書かれた暖簾の下で、寿司や弁当が店先で日本語で売られ、店内にはご祝儀袋だって置いてある。

ボリビアという国の中で、かつて交通の便がよくなく孤立都市のイメージのあったサンタ・クルスへやって来た理由はたった一つで、JICAの青年海外協力隊員として特別支援学校で働いている友だち、ともみちゃんに会うためである。昨日みゆきさんにお会いしたときに話をしていたら、ともみちゃんのことをご存じだった。

ささやかな手土産に、オーガニックの店で、大きな桃の入ったジャムの瓶と茶葉を買っていく。

そして、カテドラルの前で、ともみちゃんに再会する。

昼食は、ともみちゃんお勧めのLa Cuisine De Los Chefで、セットをいただく。高い天井には大きなシャンデリアが吊るされ、店内には外の明るい日差しがたっぷりと入り込んでいる。

Frangolloのスープに、牛肉のオーブン焼き、じゃがいものグラタン、野菜に黒ご飯、そしてパンのセットをオーダーする。最後にはチョコレートのムースがついてくる。それに冷えたオレンジジュースを合わせる。

そこから、洒落たカフェやレストランの集まるモンセニョール・リベロ通りに行き、Aexander Coffeeに入る。外は晴れていて、店内は冷房が効いていて、心地よい。苺のミルクシェイクとパパイヤのシェイクをオーダーする。地元の若者がおしゃれをして、土曜の午後を楽しんでいる。

サンタ・クルスでは、日がさんさんと照り、空気は濃く、人々は開放的だ。インディヘナの人々は少なく、以前交通の便が悪く混血をしなかったという、スペイン系の人々をよく見かける。靴磨きの男性も、ラ・パスのように覆面をしていない。

友だち、ともみちゃんは一度デング熱にかかったものの、それでも精力的に活動を続けている。働いている特別支援学校は、パイロット校として選ばれているカトリックの学校で、自閉症やダウン症、知的障害(学習障害)の生徒が通っている。就業前のクラス、1年生から8年生、その後の職業訓練としてのタジェール、その間のプレ・タジェールのクラスがある。

現在は「時計プロジェクト」に力を入れているのだという。ここでは、学校に時計がなかったり、例えあったとしてもすぐに壊れてしまって、意味をなさない。1日を時間で区切り、その間に休憩を入れるというカリキュラムを導入することから始める。その前までは、同じ作業を延々と続けるなど、非効率的な授業も行われていたという。時計を購入する予算が出ないのであれば、学校の生徒がその時計のパーツをつくるよう、提案をしていく。

夜は、再びお勧めの、日系人のシェフによるフレンチレストラン、Dossierに連れて行ってもらう。シェフの具志フランクリンさんは、お母様方のおじいさま、おばあさまが沖縄の方だといい、今まで東京、神戸、フランス、イタリア、スペインなどで修行をし、この地サンタ・クルスで開業をしたのだという。

カリフラワーのガスパッチョから始まり、カロテのパスタ、牛肉のローストにポテト、豚肉とプルーンのロースト、そして炎のついたクリーム・ブリュレ。

素材の味がふわりと香る。味はあくまで繊細だ。「海のものは使いません。ボリビアに海はないですから」と、物腰やわらかな具志さんはそっと言って、そしてまたキッチンへと戻っていく。黒い石のプレートは、ボリビアの石だという。店内には洒落たジャズなどが流れている。

静かなサンタ・クルスの夜だ。

ボリビアのオキナワ – Santa Cruz / Colonia Okinawa, Bolivia

朝目をさましてみると既に標高450m程度まで下がってきて、ペットボトルがくしゃりと縮んでいる。リマからクスコまで持ち運んでいたペットボトルが膨張したのと反対で、外はむわりと暑く、空気は心なしか濃い。

昨晩宿の近くの道で売られていたフランスパンのようなパンとチーズののったパンをほうばる。8時半ころ、バスは警察に停められ、荷物検査を受けるものの、わたしたちの鞄は外から触れられただけだった。

茶色く大きく濁った川をいくつか渡り、むわりと緑が生い茂る平地をバスは進み続ける。牛は草を食み、あるインディヘアの女性は子どもをあやし、ある女性は口を開けたまま眠りこけ、ある子どもは泣き出し、わたしたちは高所で日に焼けていた顔をしている。

ブエナ・ビスタで休憩をとりつつ、バスは12時過ぎに暑いサンタ・クルスに到着する。ターミナル近くにもまた観覧車などの簡易遊園地が設けられている。ここには日本語「六甲バター株式会社」のタクシーが停まっている。

サンタ・クルス近郊にはいくつかの日本人移住地がある。その中で、第二次世界大戦後、荒廃した沖縄から移住してきた方々のいる場所、コロニア・オキナワに向かう。

サンタ・クルスから乗り合いタクシーであるトゥルフィーに乗りこみ、乗り換え地点のモンテーロまで1時間ほど、隣には段ボール箱につめた犬を大切そうに膝に抱える女性が座っている。

モンテーロで「運転上の注意」のもろもろが日本語で書かれたトヨタ、カローラ車に乗り換えて、コロニア・オキナワへ進む。平原には牛や馬がいる。この辺りは小麦やとうもろこし、大豆の栽培が有名なのだという。

50分ほど走ると、赤い文字で”Bienvenidos a OKINAWA”とスペイン語で書かれた下に「めんそ~れ オキナワへ」とある白い看板に出迎えられる。

たどり着いたオキナワに降り立ったところで、日本の方だと思われるお二人に声をかけられる。JICAに派遣されて青年海外協力隊として診療所で働いていらっしゃるみゆきさんたちだった。

わたしたちが大きな鞄を背負っているのを見て、声をかけてくれた。ここサンタクルスではJICAのボランティアの方は4名活動されているのだという。みゆきさんは、町ですれ違うさまざまな方と挨拶を交わしていく。車が走れば砂埃が舞い、歩いていれば蚊が集まってくる。この環境で、働き方の異なる地元の方々とともに働くというのは、どれだけの苦労があるのだろう。

アンティクーチョまでごちそうになってしまった。キトで食べたアンティクーチョは牛の心臓であったが、ここのものは金城さんが初めて作られ、その後他の店でも作られるようになったという、肉を衣でつつんで揚げた串である。

今では、オキナワ市に住む人のうち、9割がボリビア人で、残りの1割が日系人なのだそう。それでもオキナワ第1、第2、第3の3つの移住地のうち、ここ第1はまだ日系人が多いのだという。「オキナワ日本ボリビア協会」も「オキナワ第一地域開発振興会」も「オキナワ総合スポーツ公園」も「オキナワ診療所」も「マミーハウス」も、ある。

オキナワ日本ボリビア協会のゲートをくぐり、「文化会館」の日系人のご担当者にご挨拶をして、「オキナワボリビア歴史資料館」を見学しにいく。

敷地内には「オキナワ移住地慰霊塔」がたてられ、オキナワ第1、第2、第3、それぞれの移住地の死没者の方々の氏名、西語の読み方、年齢、亡くなった年月日がずらりと並べられている。

オキナワでは、風土病や水害などにより、当初の移住地から移転を重ねた。生活は厳しく、ペルーやアルゼンチン、ブラジルへ移転していく人々も多かったのだという。残った人々はその方たちの土地を安く買いうけ、今では大地主になっている方々も少なくない。

当時、琉球政府は米軍基地を作る必要があり、移民を奨励していたのだという。だから、展示のしてあった沖縄タイムスの1954年6月19日付けの新聞には「力強い抱負を抱いて ボリビア移民きょう発つ」と書かれ、7月18日の新聞には「”万才”叫んで壮途へ 三千の見送りで賑わう港」、1955年12月19日には「待ちに待ったボリビアへ “新天地に楽園を” 昨夜南米移民発つ」といった文字がおどっている。

移民の方々は素晴らしい場所なのかと思ってやってきたら、実際にはジャングルの中に住むようなもので、半ば騙されたと感じるほど、大変な生活だったのだと聞く。

館内には、第3移住地の農協で使われていた地球儀や日本語教育に使われていた本やノート、手で造ったというトウモロコシ用の脱穀機、豆腐造りのための臼、燃料が石油の冷蔵庫、食料入れとして使用した不発弾、唯一の交通手段だった馬の背に置いていた鞍、繰り返し聞いていたという日本のレコード、入植初期の土地配分図や当時の写真などが展示されている。

サンタ・クルスに戻るため、ターミナルへと向かう。茶色の大きな鳥居のそばに教会がある。とても暑いので、日系人の方のNakaditaという店で水のボトルを買い足し、トゥルフィーに乗り込む。

夕暮れに向かう中、「コロニア沖縄農牧総合協同組合」や「CAICO Harinas y Fideos Okinawa」の建物を通りながら進んでいくと、今度は「”Feliz Viaje” 良い旅を!行ってらっしゃい。」という看板で見送られる。

日は沈み、徐々に辺りは暗くなっていく。

モンテーロでトゥルフィーを乗り換え、サンタ・クルスに着くころにはとっぷりと暗くなっていた。宿をとり、近くに夕食を食べに行く。

鶏肉とじゃがいもがごろりと入り、野菜やご飯がスープに入ったオジヤ風のロクロを注文し、Pacenaビールをオーダーする。標高が低いことやすっかりと暑いこと、そして久しぶりのビールで、ごくりと飲んだ後は、しばらく目をつぶって味わう。

隣のテーブルのおじちゃんたちは、陽気に酔っ払い、さいころを振り続けている。

ぐるぐるのラ・パス – La Paz, Bolivia

ラ・パスのすり鉢状の町の底のほうは高層ビルや高級住宅街が広がり、上のほうにいくにつれて、貧しい人々の暮らすエリアが広がっている。その鉢の上のほうに位置するエル・アルトで木曜日と日曜日に開かれているという市を訪ねることにする。

コレクティーボの出るサン・フランシスコ教会前に行くと、教会の扉が開いていた。1549年、植民地化が始まってすぐに建てられたという教会には、黄金の祭壇の横に宗教画がかけられている。多くの人が集まる教会前から「Ceja」行きのバンに乗り、20分ほどかけてすり鉢を上がっていき、また大勢の人たちが下車をする16 de julioで降りる。

そこからほんの少し坂を歩いて行くと、ラ・パスの街並みを眺められる丘がある。ちょうど中ほどに高層ビルがあり、右手はぐっと上がり家々の立ち並ぶ丘になっている。遠く左のほうに目をやると、山がつらなり、家々は途中まで建つのみである。頂上がばっさりと平らな山の背後には、雪山がそびえたっている。

そこから、更に階段をあがり、市場にたどり着く。青いビニールを屋根に張った露店が立ち並ぶ。既に高度4000mを越えている。それでも既に高所に慣れてきた身体には若干の空気の薄さは感じるものの、体調は良い。

ニセドラえもんグッズや黒く汚れたバービー人形、リモコン、車のホイールやハンドル、ライトや座席、壊れているのであろう靴、鮮やかな布や大量の古着、海賊版DVDなどがわんさかと置かれている。インディヘナの女性たちがここでも元気に商売をしている。

さして愛想もない男性がポケットに手をつっこんだまま、「昆虫の折り紙」と題して、器用に折られたモデルを掲げて折り紙セットを販売している。それをまた男性たちが眺めている。

そしてまた、どこのパーツか分からない金属や電気製品の部品を、男性たちは真剣に吟味している。

市場のはしで売られていたサルテーニャを買い求め、つまみ歩く。さくっと揚げられた皮に、カレーのような味のチキンやじゃがいもや野菜がつまっている。ほくほくと美味しいサルテーニャをほおばりながら、市場を練り歩く。

昼食は、多くの客でごった返していた屋台で、揚げフライ、ペペレイを食べることにする。
ティティカカ湖で捕れたペペレイに、とうもろこしのモテ、茹でたじゃがいも。それに伝統的な保存食としてこの辺りでよく食べられているという黒く小さくなった乾燥じゃがいもチューニョや、青いまま柔らかくなったような味のバナナがついてくる。それにレモンや赤くぴり辛のソースを絞ってかける。じゃがいもやチューニョはおかわりし放題のようで、男性たちは何倍もお代わりをしていく。

雨がぽつりぽつりと降ってきたので、またバンに乗り、町中のサン・フランシスコ教会へと戻り、そこからムリリョ広場近くのAorianitaというカフェに入る。ガラスの扉にArroz con lecheと書かれた古びた建物はいかにも良い雰囲気で、中のテーブルには黄色と青色のテーブルクロスが敷かれ、黄色の花が花瓶にさしてある。

温かなミルクチョコレートと甘くシナモンのかかったArroz con leche – 米をミルクで甘く煮たもの – をオーダーする。一人の男性がサービスをしているその店内はひっそりとしていて、ミルクチョコレートは、薄い。

そこから植民地時代の建物が残っているハエン通りを歩く。クリーム色や深緑、水色や青、えんじといったカラフルな色の家が立ち並ぶその通りには黄金博物館やムリョリョの家といった博物館も立ち並ぶが、14時半という時間だからかどこも閉まっている。

近くのサント・クリント教会やサント・ドミンゴ教会もまた閉まっているものの、サント・ドミンゴ教会の近くでは多くの警官が集まっている。デモが行われるといい、車いすの人々が集まり、テントが何張りか張られている。教会には「我々には人権がある」といった張り紙や「法律に守られない人々は権力に痛めつけられている」といった紙が貼られている。

ボリビアでは長距離を行進したり、テントを張ったりするデモが時折各地で行われるのだという。

1775年に建てられたバロック様式の国立芸術博物館を通り、そばのカテドラルや大統領官邸、国会議事堂が囲むムリリョ広場へと向かう。広場を囲む道では、ちょうどインドやフランス、パナマといった大使たちが歩くということで、赤い絨毯が敷かれ、赤い制服を着た衛兵が音楽をならし、行進をして出迎える。

スーツを着て慌ただしそうにしている男性も、走り回るカメラマンも、音の出るたびに飛び立つ鳩もいる。衛兵はおおよそ若い男性で、立っている間にいかにも眠たそうにしている衛兵もいる。立ったままうとりとしかけ、ぼんやりと宙をながめていれば、手にした銃剣で顎をつきかねない。30分ほどかけて無事に大使たちが歩き、彼らの任務も終了する。

カテドラルは、賑やかな鼓笛隊の並ぶ中にあって、訪ねる人も少なく、ひっそりと静かだ。暗いカテドラルにはステンドグラスを通して光がさしこみ、小さな十字架にキリストがかけられている。

そこから、ラ・パスで最もおしゃれだというというソポカチ地区にバスで向かう。アバロア広場から学生広場まで歩く。洒落たレストランやカフェ、洋服屋やヘアサロン、図書館に映画館、バーガーキングなどが立ち並ぶ。インディヘナの人たちも携帯を持ち歩き、パソコンをさくさくと操ったりする。靴磨きの男性は一様に覆面をしている。

そこからバスに乗り、宿の近くへと戻る。今晩の夜行バスの中で食べる夕食にと、ステーキをパンにはさんだロミートをメインストリートのサガルナガ通りを初め、ぐるぐると探し回るものの、なかなかに見つからない。ようやくPollo Reyという店で見つけて買い求める。

そうして宿に荷物をとりにいき、バスターミナルへと向かう。ターミナルへ向かう途中、先ほど探し回ったロミート屋の屋台が何軒も店を構えているのを見つけるものの、めげずに急な坂道を上がり、無事にターミナルにたどり着く。

El Dorado社のカウンターで手続きをし、19時半、バスはがらがらのまま出発をする。

坂をぐるりと上がり、丘の上まで上りつめると、ラ・パスの橙色の灯りが眼下に広がる。家々のない山の部分は、暗く縁取られている

さきほど買っておいたロミートをほうばる。噛みづらい牛肉のステーキが目玉焼きやトマト、レタスとともにパンにはさまったもの、それにフライドポテトがついている。

エル・アルトのバスターミナルで一度バスが停まると、わさわさとたくさんの乗客が乗り込んでくる。貧困街と言われるその町にも、光り輝く簡易遊園地がある。

インディヘナの女性たちも多くいて、ふっくらとした身体をゆさゆさと揺らし、大きな荷物をいくつも抱え、がばりと席に放り投げる。こうして途端に満席となったバスは、アンデスの山を越えて、標高437mというサンタ・クルスへと向かうことになる。