2012年04月
冷房ががんがんと効いた船内は、最初快適だったものの、やがて寒さで目が覚めるようになっていく。時折波にのって大きく揺れる。
ダル・エス・サラームに「5時に必ず到着する」と聞いていたフェリーは、6時ころに港へと戻ってきた。そんなわけで、6時15分発モシ行きのバスチケットを予約していたものだから、タクシーをつかまえてターミナルへと向かう。
タクシー運転手のおじさんは、かつて東アフリカを中心に各国をトラックで走っていた。夜にトラックを走らせていれば、ワゴン車に乗った若者の男性が、銃でタイヤをパンクさせ、テレビなど積んであった貨物を半分ほど盗んでいったという。だから、おじさんは夜は極力走らないようにした。一番きれいな国は、ザンビアだった、と言う。ダル・エス・サラームに自分のタクシー会社を持って17年、おじさんは幸せそうだ。
バスの予約はMtei Express社で取ったものの、ターミナルに停車していたのはキリマンジャロ・エクスプレス社であった。Mtei社の職員が、「このバスでウブンゴ・バスターミナルに行っていただき、そこでバスを乗り換えていただければ良いので問題ありません」と言う。
朝の街は既に活気が出てきていた。「園児募集」と大きく日本語で赤くうたうバス、「米パラダイス」と書かれた車も走る。イスラム帽をかぶった人々や子どもたちがバスを待っている。
ターミナルまで約20分、到着すればMtei社の職員がまた言う。「弊社のバスは、今朝故障してしまったので、メトロ・エクスプレス社のバスに乗ってください。」
結局Mtei社で予約をしながら、一度もそのバスに乗ることはなかった。
メトロ社のバスは、しっかりとした座席にややクッションもあり、リクライニングもできる、中国製宇通客車のバスである。バスターミナルに停車しているバスもたいていこうした大型のバスだ。
窓を開けていれば、パイナップルや焼とうもろこし、クッキー、ナッツ、ペットボトル飲料、果ては木の櫛やしゃもじ、籠バック、椅子まで、手いっぱいに抱えた人々が窓の外からわいわいと寄せてくる。
田んぼや畑が広がり、人々が鍬でそれを耕している。頭に物を乗せて運んでいる人もいる。
警察がこちらのバスを撮影してくる。
オレンジを入れて長細くした網を、お決まりかのように男性たちが運んでくる。一面に、ぴんぴんとした葉を上に向けたパイナップル畑が広がり、やしの木がはえている。
窓の外から買った、牛肉に玉ねぎのつまったサモサや揚げパンをほおばりながら、進む。車内には、マイケル・ジャクソンはじめ、ノリノリ欧米音楽がかけられている。
木の棒をはりめぐらせ、土で固めてトタンか藁ぶきの屋根をかぶせた家々が点在している。
牛がのそのそと歩いている。炭が袋に詰められて、道ばたに置かれている。
コカコーラ社のラックに入った瓶を添乗員が運んでくる。好きなものを選んでください、無料です。ラックには、コカコーラやペプシ、Spar-lettaなどが入っている。Spar-lettaを選ぶ。コカコーラ社の看板はこの国でもあちらこちらに見られる。
途中停車したターミナルも真新しい。ガラスケースに入れられたハンバーガーと卵揚げを買い求める。ハンバーガーには、ひき肉にトマトやピーマン、玉ねぎがふんわりとしたパンにはさまれ、ケチャップのような優しい味のトマトソースとマヨネーズをかけている。卵揚げは、卵のまわりに肉を巻き、揚げられたものだ。
線路を越えながら、進んでいく。大雨期にあたる今、先ほどまで晴れていた空が急に曇り、雨が降りはじめたかと思えば、また雨が止む。
「小川の湯」のバンが通り過ぎる。青い制服の子どもたちがこちらに手をふる。傘をさしている人は、いない。
大きな木の下で、火を焚いて料理をしている女性たちがいる。
16時半ころ、キリマンジャロ山のふもとにある街、モシに到着する。バスターミナルにいた警察の制服を着た女性が、困ったことがあったら連絡をください、付近で声をかけてくる人には注意してください、鞄を渡してはいけません、と言って、電話番号とメールアドレスのメモをくれる。
この街からキリマンジャロに登る人も多く、街を歩けば、あちらこちらから声がかかる。
キリマンジャロ登山のツアー会社の経営者とそこに勤めるガイドが、ぴたりとついてくる。話をしながら、宿を探しに歩く。
キリマンジャロ登山は、政府が環境保護のために登山者の数を減らそうとして、3年ほど前に値上げをしたんだ。それで、登山料金パックが700ドルくらいから900ドルくらいまで値上がったんだよ。
長年ツアー会社をやってきて、亡くなったのはイタリア人一人、石が当たって転がり落ちて亡くなったという。高山病で亡くなった人は今まで一人もいないよ。登頂率は80%、無理だとガイドが判断した人は下山をしてもらうんだ。
ローシーズンだから、こうやって一緒に街を歩くことができるんだよ、と言いながら、わたしたちの宿探しを手伝ってくれる。
ここから、宿には必ず蚊帳がつくようになる。サイズがあっていなかったり、蚊帳に穴があいていることも少なくないので、蚊取り線香を同時に焚いたりする。
モシの街はとっぷりと日が暮れると、道を歩く人があまりない。宿の近くで勧められたThe Taj Mahalで夕食をいただくことにする。
ココナッツライスにエチオピアほうれん草の炒めもの、牛肉のトマト煮、にんじんとグリーンピースの煮込み、それに豆のマハラグウェが一つの皿にのっている。イスラム教の影響が強く、ここでもやはりアルコール飲料はないので、代わりにStoney Tangawizaをオーダーする。風合いのあるガラス瓶に入ったジンジャー飲料は、きりりとして良い。
2012/04/24 23:01 |
カテゴリー:Tanzania
タンザニアの正式名称は、タンザニア連合共和国。タンガニーカ共和国とザンジバル共和国が併合して誕生した。
今日は、そのザンジバル、に行ってみることにする。
朝は宿のレストランで食事をとる。バターの塗られたトーストに薄いオムレツ、チャイ、それにマンゴージュースがついている。レセプションには、タンザニアの他に、イギリス、中国、南アフリカ、ルワンダの時間を刻む時計が掛けられている。
街の目印にもなるクロックタワーをまわり、港へと向かう。目印となるクロックタワー、というから、大層なものかと思っていたら、Panasonicの電池の広告が描かれたそれは古びていて、時刻の針がとんちんかんな方向を指している。
「笑顔がいっぱい 太陽号」「なかよし号」と書かれたバスに、地元の人たちが真剣な顔をして乗っている。あちらこちらから、挨拶が向けられる。
30分ほど歩いたところで、港に到着する。Fast Ferries社の9時発のチケットを購入する。ひよこがぴよぴよと敷き詰められた段ボールがいくつも運び出され、鶏の入れられた籠とともに次々と船に載せられていく。
地元の人々を乗せた船が、こうして9時に出港する。高いビルがいくつか並ぶダル・エス・サラームの町を離れ、朝方はせりが開かれ、漁から戻ったダウ船から魚が運ばれるという魚市場を通り過ぎていく。市場は大勢の人でにぎわい、何艘もの船が停泊している。
大型貨物船から、小型の手漕ぎ舟まで、海に浮かんでいる。
子どもを抱えた母親が、机につっぷし、あるいは床に寝そべって、じっとザンジバル島に到着することを待っている。
2時間半ほど走ったところで、水色の海にMAERSK社やNedlloyd社のコンテナが積まれた大型船も停泊する港へと到着する。大量に積まれてきたひよこも、ここで下船する。
ザンジバルには独自の大統領、政府が存在する。そんなわけで、ザンジバルに降り立てば、入国カードを記入し、パスポートを提示する必要がある。
船着き場からほど近いフングニ魚市場に行く。魚の青い匂いがぷんと鼻をつくその市場には、裸足になった男性が一様に暇そうなようすで足を投げ出している。オレンジに水色の魚や半分に切られた魚がそれぞれの男性の前にちょこりと一切れ二切れ置かれているだけだ。
市場の近くには中華系の人々が多く住む地域がある。言葉を交わした女性は、この近くには中国系家族が7家族くらい住んでいるのだといった。そばで、タンビ麺を香港の男性が干している。ベンチにはペンキで「HONGKONG」と書かれている。そこに乗りつけているのは「日本貨物急送」と書かれたトラックだ。
「岡田工務店」や「前橋市634号」のトラックはこの島で、バス、ダラダラに姿を変え、その荷台にはホロがかけられ、両わきに長いすが取り付けられ、ぎゅうぎゅう人気バスになっている。「よりなれ静閑荘」や「めがねのクラモト」のミニワゴンにも続々と人々が入っていく。
同時に「中国江蘇省人民政府寄贈」と大きな赤字で書かれた真新しい白いバスも走っていく。
ピラウという名前のピラフが街角でテーブルを広げていたので、座っていただくことにする。3つあるプラスチックの筒をそれぞれに開けて、じゃがいもとご飯、牛肉、トマトベースのソースをかけていく。わきにはピリピリと呼ばれるピリ辛ソースが置かれている。男性たちが同じテーブルに座り、もぐもぐとピラウをほおばる。ボリュームたっぷりのご飯である。
タンザニアコーラ、「azam cola」や揚げパンを道ばたから買う。甘い食べものにハエがたかり、売り人はみなパタパタと手をふり、それをはらいのけようとしている。
そこから、ダラダラ乗って、街から一番近いというビーチ、Mtoniマリンに向かう。プールもついたホテルの前のビーチだ。ホテルは緑に囲まれ、マッサージサービスもあるビーチリゾートで、先ほどまでの街の混沌とした雰囲気とは別の世界である。
浅瀬の温かい海はさほど波がなく、遠くには貨物船が停まっている。海には、麻の袋を肩に下げた男性二人が歩いていく。砂浜には、水鳥や白いカニが歩いていく。空には、飛行機が飛んでいく。
リゾートだ。
しばらく泳いだ後、またダラダラに乗って、混沌とした街へと帰ってくる。
屋台の並ぶ中で、マサイ族の人々が煙草の粉を売っている。マサイ族の人は背格好や服を見てそうだと検討がつくので、地元の人たちもわたしたちに「あの人たちはマサイだよ」と度々ささやくのである。
サモサを買ってつまんでいると、さとうきびジュースや牛肉の串をどうぞ、あげますと差し出された。
この島は、ポルトガルやアラブ人、オマーンのスルタン、イギリスの支配下にあった歴史をもち、アフリカとアラブの雰囲気が混じりあい、独特の雰囲気を漂わせている。
そんなわけで、両替店には、USドルの次にSAUDIARAB RIALと来て、それからEURO、そしてU.A.E.DirhamやOman Riyal、Indian Rupees、Kuwait Dinarからの両替レートがずらりと書かれている。日本円は、リストにない。
かつてアラブの奴隷商人が、東アフリカ地域からアフリカ人をここザンジバルに運び、奴隷市場を造っていた。その後、歴史を塗り替えるべく、そこに1873年から80年に教会が建てられている。
道で小さなカップに淹れられ売られているコーヒーをすする。砂糖もミルクもないというそのコーヒーは渋くて苦い。
やや落ち着いた地域にあるスルタンのプライベート・バスから持ってきたマイル・ストーン、1908年に建てられた最高裁判所、かつて日本人娼婦が経営していたジャパニーズ・バーの建物、ロマネスク様式のローマ・カトリック教会を、細い道を歩きながら、見て回る。
それから、QueenのボーカルFreddie Mercuryのかつて住んでいた家、アラブ人が要塞地としてポルトガル教会やポルトガル人住居のあった場所に建てたオールド・アラブ砦、1883年にスルタンが式典用に建てた宮殿、驚嘆の家と散歩を続ける。
あちらこちらで「ジャンボ」「マンボ」「ポア」と合言葉のようにスワヒリ語で挨拶を交わす。町の住民の多くが宿の仲介人になっているようで、あちらこちらで、宿はあるか、どこに行くのか、タクシーはいるか、と聞かれる。
黒い布を頭からかぶり、目だけを出した女性がいて、頭にイスラム帽をのせた男性もまた歩いていく。モスクが街のあちこちに点在し、男性が祈りをしに入っていく。
夕暮れ時、海に面したフォルダニ公園には、地元の男の子が洋服のまま次々と飛び込み、涼んでいる。「アーメン」「ハレルヤ」と叫んでは、また飛び込んでいく。
夜は、フォロダニ公園に開きだした屋台で食べることにする。海老や蛸、イカや貝といった海鮮類や牛肉、鶏肉の串などがテーブルいっぱいに広げられた屋台がいくつも並んでいる。
蛸とイカを頼むと、裏の炭火まで持っていき、焼いてくれ、そこにライムを添えてくれる。
地元の人々が集まっているのは、値段の高い海鮮類は置いていない肉の串の店だ。そこで牛肉と鶏肉やココナッツパン、サラダののったフライドポテトを頼む。これもまた後ろの炭火で焼きなおしてくれる。
ザンジバル・ピザ、という名前の、オムレツとお好み焼きの中間のような食べものもある。牛肉のピザを注文する。生地をひいて、野菜をのせ、牛肉をのせて、卵を入れる。
テーブルの隣に座っている男性は、イスラム教徒だといい、携帯電話を片手に話をしている。ザンジバル出身だというその男性は、ダル・エス・サラームよりザンジバルは落ち着いていて良い、と言った。
ここではアルコールの販売が法律で禁じられていて、イスラム教の影響もあって、売られていない。代わりにさとうきびをぎゅっと絞ったできたてのサトウキビジュースが売られているので、それを買い求める。冷えたジュースが美味しい。
ザンジバルからダル・エス・サラームまではFlying Horse社の22時発の夜行船で帰ることにする。出国カードを再び書いて、イミグレーション・オフィスに手渡す。オフィスには、ザンジバル大統領の写真が額に入れられて飾られている。
係の男性は、ザンジバルは、国の中の国だ、と言った。タンザニアとザンジバルの大統領は同じ党出身なので、仲が良いのだと付け加える。タンザニア人でもあり、ザンジバル人でもあることを誇りに思うよと笑った。
Flying Horse社の船の隣には「東海汽船 シーガル」が停泊し、人々が乗り込んでいく。
船内は、1階と2階に分かれ、グレードが異なる。柔らかいソファがいくつも置かれた2階に腰をかける。冷房ががんがんと効いていた。
2012/04/23 23:08 |
カテゴリー:Tanzania
朝起きてみると、外は草が生い茂り、ヤシの木が生えている。窓を開け、木の棒で窓を留める。外からむわりとした空気が風とともに車内に入ってくる。コンパートメントにはオーダーされた朝食が運ばれてくる。朝食はパンとソーセージ、卵と紅茶2杯である。
電車は変わらずガタンガタンと上下に揺れ、時折故障したかのようにギギギと音を立てて、停車する。駅に停まれば、バナナやらドリンクやらを運んでくる人たちが窓の外にやってくる。
子どもたちがあちらこちらから走ってきて電車を追いかける様子も変わらない。
昼食は駅に停車したときに窓の外に売りに来たものをいただくことにする。バナナのフライにトマトをのせたものや、油で焼いたチャパティ、甘みのある揚げたマンダジ。それぞれ新聞紙に包まれて駅のホームや線路から手渡されたものを受け取る。
テレビからサッカーのアフリカカップの試合を何度も繰り返し流している。前回ザンビアが一位になり大いに盛り上がったのだと、隣に座ったザンビア人の男性が、嬉しそうにこぶしを振り上げて語る。だから、こうして何度も繰り返し、見るんだ、と付け加えた。ビールを飲むものもいれば、ペプシコーラを飲むものもいて、みながテレビに釘付けだ。
その男性はザンビアのテレ・コミュニケーション企業で働いていて、中国の天津に半年間勉強をしに行っていたのだという。今回はその滞在時の荷物をピックアップしに、ダル・エス・サラームに向かっている。
別の男性はザンビア政府で働いていて、JICAのことをよく知っていた。数学や理科を教える日本語教師のことや、環境衛生問題において支援を受けていることをゆったりと話す。
話をしているうちに、右手にセルー動物保護区が広がるエリアにさしかかる。キリンやインパラがのんびりとしていて、鳥が空を飛んでいく。そして、たくさんの牛がいた。
窓から草むらの中に動物たちを探していると、列車がガタリと停まった。たくさんの牛を轢いたのだ。列車のわきには、既にひっくり返って動かなくなっている牛、下半身がくだけ血にまみれた牛、不自由な足になりながら、必死に立とうとする牛がいる。
乗客が眉間に皺を寄せて、窓の外を眺める。ある人は線路に降り、牛をこつりとつつく。しばらくすると、また列車はがたりごとりと動き出した。
そのうちに食堂車はテレビで繰り返されるサッカー観戦に熱狂する男性たちで溢れ出す。
列車はこうして3日目の18時にはダル・エス・サラーム駅に到着した。駅を降りるとすぐにタクシーの客引きがある。そのうちの一人の男性に連れられて、ザンジバル島へのフェリー乗り場や次の目的地モシまでのバス会社を回った後、勧められたGold Plazaホテルに宿をとることにする。
この街で、シャワーに入っている最中に外からの侵入者に部屋に入られ物を盗まれたという話も聞いていたので、宿の中でもなにやら緊張である。
部屋の向こうからアザーンが聞こえてくる。今までキリスト教一色だったところが、ここでイスラム教の空気がどっと入ってくる。
夕食は宿の隣にあるイスラム教のレストランでとることにする。チキン胸肉に野菜やトマトスープ、それにライスやチャパティを合わせる。ビールは置いていないということで、かわりにMaltiを頼む。タンザニア製、ノンアルコール、モルツ薫るレモン&ライムテイスト、を選ぶ。ビールの味とは似ても似つかないが、それでもさっぱりとした飲み口でぐいぐいといく。
スパイスのよく効いたチキンは柔らかく、チャパティは店頭で焼かれ、ライスは風味がある。久しぶりのライスである。
2012/04/22 23:24 |
カテゴリー:Tanzania
しばらく列車はNakonde駅で停まった後、またがたりごとりと進み始める。国を越えて、時間が1時間早まる。
そのうちに入国カードが配られ、12時半を過ぎたころにタンザニア側イミグレーションの職員がどこからともなく現れた。
一人50ドルのビザ代を支払い、パスポートを渡す。乗客のパスポートを束ねて、どこかへと持っていく。20分ほどすれば、ビザの紙とともにパスポートが返される。
楽なことだ。
草が風にそよぎ、焼かれた畑からは煙があがる。今日も破れた服を着た子どもたちが線路わきからこちらに手を振り、列車とともに走り、あるいはじっとこちらを見つめている。手を合わせて上下に振る子ども、お金をちょうだいという子ども、頭に大きな荷物をのせて運ぶ女性。
ひまわり畑やとうもろこし畑が広がる。牛や山羊が草を食んでいる。家は、きまったように煉瓦造りにトタン屋根をのせている。真っ赤な土のうえで自転車に二人乗りをした男性が走っていく。
駅に停まれば、窓の外にアボガドやバナナを頭に乗せて、果ては生きたチキンを売りにやってくる。
同じコンパートメントのウェリントンさんと食堂車で話をする。彼は35人の従業員を率いる機械製造会社の社長である。
現在ザンビアの景気はとても良いという。銅の産出大国であるというのが大きい。2004年ころから中国企業が本格参入してきて、現在も銅やインフラの企業などを立ち上げ、がんがんとビルを建てているという。最近では日立などの日本企業も入ってきた。
ただ、ザンビアには海がない。電気製品や車などを輸入しようとなると、ダル・エス・サラーム港に寄せてそこから陸路となるので、その分費用が高くつく。
そこで、この鉄道に乗っているザンビア人でも、ダル・エス・サラームに買い付けにいったり、港に荷物を引き取りに行く人が多くいるということになる。
このTAZARA鉄道というのは、タンザニア政府とザンビア政府によって運行されている。タンザニアに向かうこの列車はタンザニアの予算で、ザンビアに向かう列車はザンビアの予算で運行され、両者の予算の違いもあって、列車の質が良くならないとウェリントンさんは言う。国営じゃなくて、私営だったら、この列車はこんな質じゃないはずだ、トイレだってひどいもんでしょう、と笑う。
子どもたちは、列車が停まればひょいひょいと列車に上がってきて、大人に怒られて、またひょいひょいと飛び降りていく。
昨日夜にテレビをじっと見ていた男性が、今日も同じ席で、変わらず、姿勢を正してテレビを見ている。
買ってきたトマトソースのBaked Beansや林檎やパンをかじる。そして、駅の窓の外から売られていたサモサとピーナッツを買い求めてつまむ。サモサには羊の肉がぎゅっとつまっていて、ピーナツにはキャラメルがかかっている。
トンネルをくぐるたびに真っ暗になる列車は、変わらずがたんごとんと進んでいく。日が暮れると途端にぐっと気温が下がる。
列車の夜のメニューの選択肢は4つ、チキンとご飯、ビーフとご飯、チキンとUgali(ザンビアではNshimaという)、ビーフとUgali。その中でビーフとUgaliのセットをオーダーする。
カレーのようなスパイスの効いたスープに、煮込まれたビーフの小さな塊が4つちょこんと入れられている。周りの乗客たちはそのUgaliを器用に手でまとめて口に放り込んでいる。食堂車の豪快な女性に勧められたタンザニアのビール、キリマンジャロを合わせる。少し甘くて軽い。
テレビでは「ホテル・ルワンダ」が流れた。
2012/04/21 23:25 |
カテゴリー:Tanzania
ザンビアのルサカから、タンザニアのダルエスサラームへ、TAZARA鉄道を使って行くルートです。
1.ルサカのTAZARA HOUSEにて、チケットを購入。
火曜・金曜 14時発。
1等、2等、3等の座席がある。1等はすぐ売り切れてしまうので、早めの予約が必要。
(※1等 ZKW205,900、2等ZKW189,000、SUPER SEATER ZKW172,800、3等ZKW169,000)
2.ルサカからKAPIRI MPOSI行きのバスに乗る。所要約3時間。ZKW 60,000.
3.バスはKAPIRI MPOSIの中心に到着。
(※水、パン、果物等はここで買えます。)
4.KAPIRI MPOSIの駅へ行く。
タクシーなら10分程で到着(ZKW 15,000)。徒歩30分。
(※人通りの少ない田舎道でした。そんなに危ないとは感じませんでした。)
5.駅の窓口で、予約した座席の確認。
6.乗車。
7.2日目(出発日の翌日)の午前中に国境付近に到着。
国境の係官が乗って来るので、
事前に配布された、ザンビアの出国カード・パスポートを提出。
個人の両替屋が乗り込んでくるので、両替。
8.事前に配布されたタンザニアの入国カード・パスポートを提出。
同時にビザも取得。US$50.00
9.3日目の夕方、ダルエスサラームへ到着。
◎両替
国境付近にて個人の両替屋が乗り込んでくるので、そこで両替ができる。
ZKW 22,000 = TSH 6,000
2012/04/21 12:29 |
カテゴリー:Tanzania, Zambia, ささやかな、旅のじょうほう
« Older Entries
Newer Entries »