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2012年04月

ちょっと滞在のウルグアイ – Colonia del Sacramento, Uruguay

Duty Freeの店舗も構えた船は、ほぼ満席だ。前方のスクリーンに、ペンギンやアシカなどの映像を流し、海らしさを演出している。

大きな船も停泊している港を横切り、チョコレートクッキーをかじりながら、1時間半ほどで川を渡り終え、コロニア・デル・サクラメントに到着する。

船を降りると、爽やかな風が吹いていて、ターミナルも白く真新しい。ここはアルゼンチンからの観光客も多く、アルゼンチン・ペソがおおよその場所で使えるので、両替も必要ない。

ゲートにはウルグアイの国旗とともに「ようこそ」と書かれている。川に沿って、フロリダ通りを歩く。道の途中にある洗練されたインフォメーション・センターに立ち寄る。

ウルグアイは小国なので、どこの国とも仲良くしないといけないんです、と女性は肩をすくめた。アルゼンチンとブラジルは仲が良くないんです、二つとも大きな国ですから、と続けた。

かつての鉄道の走っていた線路の上には草が生え、古い石造りのCOLONIAと書かれた看板が、プラットフォームの上にたたずんでいる。

木造の橋を渡り、石の城門をくぐる。この街は、かつてポルトガルの貿易港として発展し、その後1777年にスペインの植民地支配におかれた。

石畳の道を歩いていくと、Los Susupiros通りやポルトガル博物館、ナカレリョの家、タイル博物館、地域資料館、サクラメント大聖堂など、主に石を使ったポルトガル様式の建物や道が残されている。

そばには1795年に建設された後スペイン人によって改築された市立博物館がある。1880年に建てられた糊や石鹸などの工場もある。

道ばたには洒落たカフェやレストランも多く、テラスに腰をかけてビールやワインを片手に人々が食事を楽しんでいる。古びた石畳にクラシック・カーがひっそりと停まっている。

かつて軍事演習場として使用されていたMayor広場をさらに先に行くと、サン・フランシスコ修道院跡地に併設された灯台にたどり着く。白くそびえ立つ灯台は1845年から建設が開始された。

狭い緑の階段をてくてくと登りきると、灯台のてっぺんから街や川を眺めることができる。川は茶色く濁り、風に吹かれて波打っている。灯台には1938年当初の灯も残されている。

空は淡く水色に染まり、淡い茶色の川の色と、まっすぐな境界線を描いている。港には、釣りをする人々がいたり、のんびりと座っている人々がいたりする。

やがて空は徐々にピンクに色を変え、、白くて丸い月がぽっかりとまだ明るい空に浮かびはじめる。

夕食をとりに、メイン通りのFlores通りに面したレストラン、MERCOSURに入る。パンに、テンダーロインステーキとレタス、トマトにマヨネーズをはさみ、オリーブをさしたChivito al Panとフライドポテトをオーダーする。それに、ウルグアイのビール、ピルセンの生ジョッキと、レストランの自家製ワインを合わせる。ビールは、かすかに白ワインのようだ。

近くの商店でバニラと苺とチョコレートをはさんだアイスサンドを買って、それをかじりながら、ターミナルへと向かう。既に街は人気が少なく、ぽつりぽつりと灯がともっているばかりだ。

出国の時も、真新しいターミナルでチェックインを済ませ、イミグレーションでウルグアイの出国スタンプを押してもらった後、隣の担当者がアルゼンチンの入国スタンプを押すだけだ。その後に荷物検査を終えると、もう出国だ。

ブエノス・アイレスの対岸に、これほど静かで落ち着いた街があった。

アルゼンチンから午後ウルグアイに行き、日帰りで帰る。 – Buenos Aires, Argentina

ウルグアイのコロニア・デル・サクラメントという街は、ブエノス・アイレスからラ・プラタ川をはさんだ対岸にある。つまり、川を渡れば、ウルグアイ、である。ウルグアイについて聞いたことがあるのは「ウルグアイ・ラウンド」くらいしかなく、ブエノス・アイレスからこんなに近いことも知らなかった。

昨日まだ席のあった船は13時50分ブエノス・アイレス発の船、帰りは20時45分コロニア・デル・サクラメント発の船で、それで往復する。つまり、午後から出て、夜には戻ってこれる場所にある。

朝は宿でいつものフランスパンやらごまパン、甘いパンにミルクコーヒーを合わせてゆっくりといただく。

13時には船着き場であるTerminal Puerto Madero Surに来るようにということだった。洗練されたプエルト・マデーロ地区をぬけ、やや錆びれた倉庫のそばにあるターミナルへと向かう。

ターミナルは真新しく、入口でチェックインをすると、氏名、パスポート番号や生年月日、性別や国籍の印刷された紙がタタタと印字されて渡される。

その横にある通路を入るとすぐにX線の荷物検査がある。横には、ぼんやりとした茶色い麻薬犬が座っている。いかにも麻薬に興味がなさそうなその犬の鼻に、係の男性は次々と鞄を押しつけていく。犬は、あくびをする。背後にもう一匹の黒い犬がスタンバイをしているが、こちらも仰向けに寝ているばかりである。

イミグレーションは、そのすぐ脇にあり、アルゼンチンの出国スタンプを押したら、隣の担当がウルグアイの入国スタンプを押す、といった具合だ。わたしたちがパスポートを渡した際に、担当の女性が携帯電話を片手に誰かと話し始めて、何か問題でもあったのかと思ったが、結局何の問題もない。

楽ちんなこと極まりない。

こうして一度アルゼンチンを出国する。

身体に刻み込まれた国の歴史とリズム – Buenos Aires, Argentina

今日も朝は甘いパンやごまパン、フランスパンにミルクコーヒーを宿でいただく。

用事を済ませに、宿から近いConstitution駅まで歩いていく。駅近くには大衆食堂が並び、客のほとんどを占める男性たちが簡易椅子に座って、もくもくと肉やらサンドイッチを食べている。

駅から地下鉄に乗り、レティーロ駅まで行く。電車には、ぽんぽんとカラフルなボールを器用に投げる少年がいて、投げ終わると、車内に拍手がおきた。少年はその後筒を持ちながらぱぱっと座席を練り歩き、幾人かがその中にコインを入れていく。

レティーロ駅近くの国際中央郵便局に向かい、日本へ小包を郵送する手配をする。コルドバに続き、アルゼンチンから2度目の日本への郵便物。郵送物を段ボールにつめ、コルドバで買ったPapel maderoでくるむ。前回と同じ手配だ。

悪名高いブエノス・アイレスの郵便局から日本まで、中身が全て届くかは、分からない。それでも、連休の合間の平日である今日の郵便局は多くの人々で混雑している。

南アフリカ航空のカウンターなどに立ち寄った後、El Ateneo Grand Splendidの本屋までサンタ・フェ通りを歩く。イギリスのThe Guardianによって、世界の書店ベスト10で2番目にランクづけされた本屋である。

かつて劇場であったその本屋は、表に舞台があり、中は大きな吹き抜けになっていて、3階まである客席がそのままに残されている。人々はあちらこちらに備え付けられた椅子に腰をかけて本を読み、ドーム状の天井には淡い絵が描かれている。

日本や東京のガイドブック、浮世絵、歌川広重、名所江戸百景の書籍も置かれており、店頭には1Q84も平積みになっている。そして、マルビナス紛争に関する書籍も、ある。

ウルグアイのコロニアル・デ・サクラメントへ行くボートの手配をしにコルドバ通りのColonia express社のオフィスに立ち寄る。イースター連休の今週はどこも混んでいるようで、今週は明日に5席が空いているのみだというので、お願いをすることにする。

映画館通りであるラバージェ通りには金券ショップがあり、そこで20時から行われるというタンゴのチケットを購入する。

Galerias Pacificoのきらびやかなショッピングセンターをあがると、会場のCentro Cultural ;Borgesに到着する。

今日は「Concierto Tango」を題した、Alicia Orlando氏とClaudio Bameix氏のショーが行われる。舞台は3部に分かれ、Alicia氏が書いた物語にそって、3組のカップルを演じていく。タンゴの踊りの背景に、時折Claudio氏が制作した白黒のかつての映像が流れる。

最初にAliciaが一人踊りはじめる。年を重ねたぶん、最全盛だったころのような踊りのキレはないのかもしれない。身体もかつてよりも重くなっているのかもしれない。体型だって、変わったのかもしれない。それでも、彼女の身体には彼女の人生だけではなく、国の歴史やリズムが刻まれていた。

舞台が終わった後に、話を聞くと、タンゴがまだ流行る前の今から30年ほど前に、10組のカップルを集めてタンゴを踊りはじめたのだという。実際の夫婦である二人は、今ではタンゴを教えるクラスももち、家でも毎日踊っているという。

二人の人生は、踊っている。

ショーが終わってから、先日も行ったプエルト・マデーロ地区の「チョリパン通り」に再び行く。今日も、洗練された高層ビルの裏で、派手なイルミネーションにともされたチョリパンの屋台が並んでいる。その中でCorriendo La Vacaを選んで席につく。チョリパンと並んで勧められた、豚肉の炭火焼をパンにはさんだBondiolaを食べる。今回も、テーブルに並べられた野菜をたっぷりと肉のうえにのせて、かぶりつく。

マルビナス(フォークランド)紛争は、忘れられていない。 – Buenos Aires, Argentina

朝は宿で砂糖やジャムのかかった甘いパンを数種類、ごまパンにフランスパンを、ミルクコーヒーとともにいただく。広い居間に明るいボサ・ノバがかかっている。

バスに乗って、かつてアルゼンチン随一の港として栄え、船乗りや労働者で賑わったボカ地区に向かう。ここにヨーロッパからの船が集まり、男性たちは安い酒場やバーで酒を飲み、労働に励んでいた。タンゴもそうした暗いバーの片隅から生まれたという。

現在、ボカ出身の画家キンケラ・マルティンの提案で、カミニートと呼ばれる一角は、緑やピンク、黄色や水色と、色とりどりに塗られた家が立ち並ぶ。

アルゼンチンの老舗菓子店、Havannaの前では人々がそのカラフルな建物の前でタンゴの衣装を着た女性と写真を撮っていく。

絵画を売る画家、大道芸人があちらこちらにいて、レストランの軒先ではタンゴが踊られている。客はビールを片手にぶ厚い肉を食べながら、それを眺める。

このエリアには、サッカークラブ、ボカ・ジュニアーズのスタジアム、ラ・ボンボネーラもある。近くの「REPUBLICA LA BOCA」と壁に書かれたバスケットコートでも、男の子たちはサッカーボールを蹴っている。

スタジアム近くの商店、El Viejo Almacenに入り、店頭に貼り紙のあった「SUPER PANCHO」をオーダーする。長いホットドッグに、ケチャップとマヨネーズ、マスタードをたっぷりとかける。スタジアム周辺はやはり夜になると治安が良くないというが、やや殺伐としたその街の中にも、こうして明るい店があり、道ばたでは食事を楽しむ人々がいる。

いたるところの壁にマラドーナ選手の若いころの絵などが描かれ、サッカー選手の人形が置かれていたりする。

青と黄色に塗られた四角いスタジアム、ラ・ボンボネーラの壁には、叫ぶ労働者やバンドネオンを演奏する男性たちが描かれている。

スタジアム前にある「MAXIKIOSCO BOCA MANIA」と銘打った、いかにもなボカ・グッズを販売する名前の店では、雑貨類がボカ・グッズよりも目立ってごちゃごちゃと売られている。

少年たちがボールを蹴りながら駆け抜けていく。

ニコラス・アベジャネーダ橋や古びた倉庫を眺めながら、再びバスに乗って、政治、歴史的に中心的な役割をになうモンセラート地区に向かう。

かつてよりピンク色に塗られてきた、スペイン・ロココ調の大統領府がある5月広場でバスを降りる。1810年5月25日、5月広場に面したカビルドでは独立宣言が行われた。その広場には独立1周年を記念して建てられたモニュメントがたっている。

今日4月2日は、マルビナス(フォークランド)紛争における戦没者の日で祝日だ。広場には、戦没者のことを忘れてはならない、マルビナスはずっとアルゼンチンの領土であるといった垂れ幕がいっぱいにかけられ、カーキの軍服に赤いベレーをかぶった男性たちが集まっている。

近くに停車してあった一般の車にも、1982年戦争における戦没者と書かれたシールが貼られていたりするものだから、この紛争は今もまだ強く人々の心に生きている。

広場に面したカテドラルには、南米解放の父、ホセ・マルティン将軍の柩が安置され、復元された独立軍の軍服を身にまとった護衛兵が見守っている。

サン・イグナシオ教会、サン・フランシスコ教会と通り、1773年に建てられたサント・ドミンゴ教会に向かう。ここはイギリス軍が進撃してきたときの戦闘の場ともなった場所で、植民地政府が率いたクリオージョ軍が教会内に立てこもったイギリス軍を取り囲んだ当時の弾痕が、今でも残っている。門には、火が灯され続けている。

近くのブエノス・アイレス博物館で、かつて使われていた木製の扉や、レトロなフォントの鉄製の看板、食器などを見て、5月大通りをぐっと西へと歩いていく。1858年創立の市内最古のコンフィテリア、カフェ・トルトーニには、シャンデリアのつるされた趣のある店内に、客が溢れ、入口には列ができている。

夕食の食材を買いに、カルフールに入る。店内は、イースターに向けたイースターエッグがぎっしりと積まれている。

国会議事堂広場にある、考える人のレプリカや天使とコンドルの記念碑を抜けると、イタリア人ビクトール・メアノによってデザインされた国会議事堂にたどり着く。涼しい風の吹く夜の広場には、犬を連れた人々が集まっている。

7月9日大通りへと戻り、バスに乗って宿へと帰る。肉と砂糖の続く食事から、身体を浄化させるために、さきほどカルフールで買ってきたトマトやきゅうり、にんじんをそのままサラダにし、チーズとパンを添える。グラノーラに苺のヨーグルトもかけて合わせる。身体がすっきりとしていく。

食事をとっているうちに、宿の居間のスペースで、タンゴのレッスンが始まった。
教わってみる。
脚が、なかなかに、からまる。

骨董市と、ドラマなサッカー試合 – Buenos Aires / La Plata, Argentina

朝起きると、朝日にブエノス・アイレスの街が照らされはじめていた。朝食に、チョコレートにキャラメルのはさまったGuaymallenとコーヒーが配られる。

7時半過ぎにはターミナルに到着する。前回このターミナルの近くで「黒い鳩のふん」をかけられたので、用心しながら、ぐんぐんと歩く。

立派なシェラトン・ホテルも見えるその辺りでは、既にスポンジケーキやパン、コーヒーなどを売る屋台が並び、ごみもあちらこちらに積まれている。

ターミナル近くのレティーロ駅には人だかりができている。駅入口のゲートが開くのを待っているというので、8時までの5分ほど並び待ち、駅へと入る。

名古屋から譲渡された車両や、ドイツで製造された車両を使っているというC線に乗って、宿のあるSan Juan駅まで向かう。その黄色い車体は、より派手な緑やピンクといった色で、一面に落書きがほどこされている。

日曜日の朝であるブエノス・アイレスは、電車の中も街中も歩く人は少なく、静かなものだ。大きな7月9日大通りのビルには、波乱の人生を送り33歳で亡くなったエバ・ペロンが描かれている。

毎週日曜日に、サン・テルモ地区のドレーゴ広場で骨董品市、Feriaが開かれているので、のぞきに行く。静まり返った日曜の街を歩いていくと、ふいに人で溢れかえるドレーゴ広場に出る。

そこには、絵画や写真、そしてヨーロッパや中国、はたまた日本からはるばるやってきた古い皿やカトラリー、花瓶や時計、アクセサリー、かつて炭酸飲料を入れていたという、透き通る青や緑のガラスでできたサイフォン瓶が露店にところせましと並べられている。

マテ茶を飲むための、ひょうたんからできたグァンバと、ストローであるボンビージャを買い求める。その店は1983年からやっているという店で、白髪に帽子をちょこりとのせた男性が、一人切り盛りしている。

広場ではタンゴが踊られ、石畳のDefensa通りでは、手品師や、ぴたりと止まって動かない大道芸人、酔いつぶれた労働者の人形を糸で操る男性、強風に吹かれたふうの服を着た芸人、ギターを弾くミュージシャン、ふさふさのほうきを何本ももった男性たちや、道に店を広げる人々がいて、そのそばを多くの人々が行き交っている。

Defensa通り沿いのEl Desnivelという店に入り、昼食にMorcipanを買い求める。ひき肉や臓物、血などを混ぜて詰めた黒くもっちりとしたソーセージを、パンにはさむ。そしてボールに入った酢漬けの野菜やスパイスなどをのせてかぶりつく。

店では、ごつい肉の塊をおじさんがつかみ、それを大きな包丁でおおぶりに切った後、手慣れたふうに後ろの網にぼんと乗っけていく。どのステーキもぶ厚く、てっぷりと重みがある。それが次から次へとオーダーされ、人々に食べられていく。

今日は、ブエノス・アイレスから1時間ほど列車でいったところにあるラ・プラタで、そこをホームとするエストゥディアンテスと、ブエノス・アイレスを拠点とするボカ・ジュニアーズとのサッカーの試合があるというので、訪ねてみることにする。

大きなヨーロッパ風のConstitution駅から、ラ・プラタ駅行きの列車に乗ることにする。ホームで売られていた、シロップとカラフルなチョコをふりかけた揚げパンを買い求めて乗車する。列車には飲み物を売り歩く男性もいる。

定刻14時20分、ピーと音が鳴った後、ガタリと列車が動き出す。爽やかな風を窓から吹き込み、低い緑の木がところどころに生える大地をガタリゴトリと進むこと1時間20分、終点駅でもある、大きなラ・プラタ駅に到着する。

そこでスタジアムの位置を確認すると、1駅手前の駅、Tolosa駅が最寄りだ、と言う。その通りに、乗ってきた列車に再び乗り込み、一駅戻る。

その小さく静かなTolosa駅で降りたものの、改札も地図もない駅では、どちらにスタジアムがあるのかさっぱり分からない。近くでサッカーを練習していた人々に道を尋ね、バスに乗り、スタジアムへと向かう。

バスに乗っていると、やがてエストゥディアンテスのユニフォームが草むらの上で売られているのが見えてきて、ようやくEstadio Ciudad de La Plata、スタジアムにたどり着く。

15時から当日券が発売されるというが、到着したころにはもうすぐ17時になろうとしていた。非会員向けの当日券は既に完売し、会員向けのみ販売をしている状態だった。

諦めきれない非会員の人々が、窓口などで大きな声で抗議している。それをみなが興味深げにのぞいている。警察隊も、盾をもって、入り口付近に横並びになっている。

赤と白のストライプのユニフォームや、赤い旗とアルゼンチンの旗を身体に巻きつけた人々がチケットを購入すべく、列にならぶ。ダフ屋はほとんどおらず、1組いたダフ屋からも、手にしていた通常の2~4倍の価格のするチケットは、すぐに買われていった。

1時間半ほど窓口付近で待ってみたものの、チケットはやはり買えなかった。同じようにチケットが買えずにいた、エストゥディアンテスのユニフォームを着た女性に、ラ・プラタ市内のスポーツバー、La TorattoriaとLa Modeloを勧めてもらう。

付近は、スタジアムへと向かう人々で活気をみせていた。ユニフォームだけではなく、大きな赤い旗を売る女性も立っている。軒をつらねるハンバーガー屋の屋台からは、もくもくと煙があがっていた。

スタジアムから、市内中心に向かうバスに乗り、La Trattoriaに向かう。有名な店のようで、街の誰に聞いても、的確な返事が返ってくる。店に到着すると、この店を紹介してくれた女性も友だちを連れて、席についていた。

店は洗練されていて、初老の男女もワインを片手に、テレビに流れるサッカーを時折眺めている。

バジルの効いた野菜などを詰めたパスタ、カネロニに、チーズをたっぷりとかけ、Quilmes Cristalのビールを、冷えたジョッキに注いでいただく。食事用のパンが数種類、クロワッサンにブルーチーズ、それにピーナッツが添えられている。

19時半に始まった試合は、2時間ほどで、ボカ・ジュニアーズ対エストゥディアンテスが2対0という結果で終わった。21時半になった店は、テレビがテニスの試合へと切り替わっても、更に賑わいをみせていく。

店を出て、ブエノス・アイレス行き列車の出るラ・プラタ駅まで歩き、座席につく。明るく輝く月の下、やはり落書きが派手な列車に乗って発車を待つこと1時間ほど、突然に「サッカーの試合で警察が出払っているので、列車は運行できない」と言われる。

時間はもう23時半になろうとしていた。列車は走らないが、ブエノス・アイレスまでバスはまだあると言う。

やれやれと腰をあげて、数ブロック歩いたところにあるバスターミナルへと移動し、バスで帰ることにする。

24時にバスは出発した。

うとうとしていると、ふいにバスの明かりがつき、「落ち着け、落ち着け」という男性の声がする。そこには、服をところどころ濡らした女性が、目の奥に怒りをこめて、立っていた。そのうちに、男性に向かって、拳を振り上げ、そして脚をあげて蹴り上げた。

女性は、周りの人に制止されながら、次のバス停で降ろされた。バスに向かって言葉を吐き捨てながら、物を投げつける。

女性が降りたバスは安堵に包まれ、殴られた男性を中心に冗談が行き交う。

サッカー試合時、スタジアム周辺は、とても治安が悪くなるという。スタジアムの周りには、これからも試合の度にさまざまなドラマがおこっていくのだろう。