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2012年05月

ナイロビという街。 – Nairobi, Kenya

ウガンダのイミグレーション・オフィスから歩けばすぐにケニアのイミグレーション・オフィスに到着する。イミグレーション・オフィス同士が近いと、身体に楽である。

ケニアのほうでも、入国のための書類とビザのための書類を記入する。オリジナルの用紙の表面だけをコピーしているものだから、必要な項目が書かれた裏面は抜けている。そんなものだ。

夜中1時の国境付近はどのようなものかと思っていたら、ケニアに入っても街が続いている。たいてい国境付近は、自然が広がり、少し行った先に小さな街があることが多いが、ここは違った。

街には青く光るクラブさえあり、大音量のりのり音楽に、人々が集まっている。まもなく、検問がある。

途中、Eldoretという町で停まると、まだ夜のあけないMubarakカフェというレストランは、お茶をすすり、揚げパンをほおばる人々で賑わっていた。

夜中、バスは停車し、がちゃがちゃと何か修理をしている。どこか故障しているらしい。

9時に到着すると聞いていたバスも、3時間ほど遅れていた。周りがどんどん都会風になるにつれ、ナイロビに入ったことを確認する。

ナイロビは、「ナイロバリー(ロバリーは強盗の意味)」と揶揄されてしまうほどの街である。ぴりりと緊張する。

洒落た服を着た女性もスーツを着た男性もたくさん歩いている。携帯電話を片手に話をしていれば、笑顔で話をしながら、街を歩いていく。

バスを降り立つと、数人のタクシー運転手から声がかかる。その中の人のよさそうな運転手にお願いをして、宿に向かってもらうことにする。

運転手の男性はナイロビ出身で、3人の子どものいるお父さんだという。子どもを学校に通わせるのはお金がかかるんだ、だから朝4時から夜の11時までこうして仕事をしているんだよ、と言った。お米は食べてもまたすぐにお腹が減ってしまうから、ウガリをよく食べている。

2年前にマラリアにかかったけれど、注射を打てば大丈夫だった。

ナイロビも新しいビルができるなど、変化を続けており、人々はそれに満足しているのだと言った。ナイロビの車は全部日本製だ、みな、日本が大好きだよ、と大口を開けて笑う。

夜は外出は勧めないけれど、昼間なら問題なく歩けるよ。

明日からマサイ・マラ国立保護区にサファリをしに行きたい、と言うと、その運転手は、サファリ会社に連れていくと言う。その会社がちょうど友人に勧められていた会社だったので、そのまま連れて行ってもらうことにする。

会社は、薄暗い裏道からビルの中に入った3階にオフィスがあった。口のうまい社長にタクシー運転手が合いの手を入れる。

2泊3日のサファリの内容を聞いていると、突然に全ての電気が消えた。停電だ。ナイロビではよく起きるのだと社長は言って、スタッフの女性が手慣れたようすでろうそくに火を灯し、机に置く。

隣の建物にある銀行に行くときもそのスタッフの女性はついてきてくれる。手厚いサービスだ。そしてこの辺りは、マフィアもいるのだと言った。

彼女は17時にその「マフィアもいる」というオフィスで仕事を終え、マタツというバスに乗り、オフィスから遠くはない自宅に帰宅する。

ほっそりとした身体にブラック・スーツを身にまとい、薄手の紺のマフラーをくるりと首にまき、つけ毛をつけ、耳には大きなピアスをつけている。洋服は、市内で買うのだと言った。

明日からのサファリをお願いすることにして、その間そわそわと口をはさんでいた運転手に再び宿へと向かってもらう。

車に乗り込むと、途端に大雨が降ってきた。そのうちに前が真っ白になり、見えないほどになる。

宿のすぐ隣に小さな売店があるので、そこでバナナを買い求める。そして、宿のバーでフルーティーで飲みやすいTuskerビールと、サモサを合わせてつまむ。バーには暖炉が焚かれていて、暖かい。ナイロビの夜は思いのほか冷えていて、思わず身体を暖炉に寄せてしまう。

ウガンダ-ケニア国境情報

ウガンダのジンジャから、ケニアのナイロビに抜けるルートです。

1.KAMPALA COACH又はAKAMBA社が直通のバスを運行しているので、チケットを購入。
  KAMOALA COACH UGX 55,000-

2.2時間程で国境に到着。
  ウガンダ側では、両手の指紋で認証をとる。パスポート提出。無料。

3.徒歩で200m程先のケニア側国境に到着。入国カードとビザ申請書を記載し、
  パスポートと共に提出。ビザ代の支払い。US$50.00

4.バスが待っててくれるので乗車。

◎両替
 双方とも、両替屋がうろうろしてます。
 UGX 1000 = KES 31.00

ぱくぱくウガンダ – Jinja / Border with Kenya, Uganda

宿のまわりには数軒チャパティを売る店が並んでいる。朝食は、「ブジャガリ・チャパティ・カンパニー」なる屋台で、卵にトマト、たまねぎ、キャベツを包んだチャパティをいただく。ウガンダ全土で食べられているというが、この辺りではそれを特別に15ドル、45分で作り方、教えます、という。

チャパティの店は、今日も朝の5時から夜の11時まで、その場所で間違いない美味しさを提供し続けている。

電線が連なりながらも緑豊かな湖に静かに進むボートを眺めながら、ブジャガリを発ち、ジンジャの町に近い宿へと戻る。

お昼を過ぎて、宿からジンジャの町の中心まで30分ほどかけて歩いていく。宿の周りはのんびりとした雰囲気で、牛が数頭歩いていく。

木でできた屋台で番をしていた男の子から揚げパン、プラスチックの容器を肩に抱えて歩いてる男性からKabalagalaというバナナのパンケーキを買ってほおばり、歩く。

道ばたでは炭火で山羊や牛の串を焼いている。山羊肉ができあがるまで、隣の屋台で売られているチャパティを作ってもらうことにする。

小麦粉を木の棒で延ばし、それをわきにある黒くて丸い鉄板に油を少しふってからのせて、油をときどきふりながら、ひっくり返す。時折手や道具を使ってそれを熱い鉄板におさえつける。2枚同時にくるくると見事な手さばきで作っていく。

もっちりとしたあつあつのチャパティと、香ばしくてジューシーな山羊の肉がよく合う。ほおばりながら歩いていると、地元の男性たちから、声がかかる。

BIASARAというこの町で比較的大きなスーパーマーケットには、思いのほかウガンダ産のものよりもインドやパキスタン、米国、イギリス、シンガポール、それにケニアなどからの輸入物があふれている。インドふうの客も少なくない。このジンジャで作られた食パンや、ウガンダの苺クッキーなどを買い求める。

町のアーケードにはミシンがずらりと並び、男性も女性もそこで服をつくっている。

帰りがけに道で売られていた食べものを夕食用に買い求める。キャッサバの芋やバナナやソーセージの炭火焼。売り手は女性であることもあれば、男性であることもあり、はたまた子どもであることもある。

コンテナを商店に仕立てた店で、アボガドやクッキーを買い足す。

宿のレストランでClubビールを注文する。ナイルよりもアルコールがきつくなく、良い。アボガドは大きくて甘く、キャッサバは味がほとんど無いものの、塩をぱらりとかけると、旨くなる。ソーセージはいかにも人工的な味がして、バナナはやや青い。

今夜はこれから22時発ケニア、ナイロビ行きKampala Coach社のバスに乗る。

この町には、バイクタクシーが大勢いる。3人ほどをバイク1台にのせてひょうひょうと運転するのだから、感心する。大きな鞄を抱えているので、大丈夫か心配だったものの「プロなんだから任せなさい」ということで、バイクに乗ってバスターミナルまで向かうことにする。

バイクの後部座席に乗り、運転手をぎゅっとつかむ。背中には大きな鞄をしょって、お腹の前にも鞄を抱えたままだ。

この辺りの道には、よくぽこっと突起部がある。スピードを落とすためなのかもしれないが、これが身体に応える。今夜ばかりはこの突起部が命にかかわるものだから、ひやひやとする。

それでも、バイクの運転手は聞いていたとおりプロだった。最近奥さんと離婚して寂しい、今となってはナイルビールが新しい奥さんなのだと、バイクを飛ばす。ラフティングのガイドもするといい、来年は請われてカナダに1年半ほど働きに行くのだと言った。

無事に10分ほどでターミナルへと到着する。オフィス前では、網の上に串焼きをのせて、バス会社のスタッフがなにやらのんびりとパタパタやっている。

なにかと思っていたら、ふいにチキンを串にさした炭火焼きと水のボトルをひょいと渡してくる。サービスです、と言う。

首都カンパラからやってくるというバスは、予定時刻の22時を30分ほど遅れてジンジャへと到着した。その間、バス会社のスタッフは、串をパタパタとしているだけで、特になにかを説明するわけでもない。

やがてカンパラから到着したバスの乗客に、またチキンの炭火焼きと水のボトルを一人ずつに手渡ししていく。なかなかに手の込んだサービスであり、時間のかかるサービスでもあり、バスに匂いのこもるサービスでもある。

ほとんど満席のバスは、発車をした。約2時間ほどでケニアとの国境に到着する。夜中の1時の国境でも、そこは人で溢れ、笑い声さえする和やかな雰囲気の場所だ。それでも指紋は、とられる。

周りにいる両替商もなにやらフレンドリーな趣である。この近くに住んで両替商をしているという男性も、わたしたちがこれから北に向かっていくのだと言うと、「エジプトはそんなに遠い国じゃないから、多分時差は15分くらいだと思う。」と流暢な英語で、力説した。

グレード5のラフティング – Jinja, Uganda

かつてアフリカを旅した友だちに、ジンジャのラフティングの激しさについてと、そこになにやら激うまのイタリアンがあるということは前から聞いていた。

今日は、ラフティングを楽しみに行く。Nile River Explorers社の提供する「グレード5ラフティング」という冠のついたラフティング。

朝食にはオムレツをチャパティに巻いたロレックス、すいか、大きなパイナップル、こちらによくある小ぶりで皮の薄いバナナが、プラスチック容器に入れられて配られる。

トラックの荷台に乗り込み、それらをかじりながら、ホワイトナイルの源流へと進む。いずれナイル川となる川だ。

茶色い煉瓦造りに藁ぶき屋根やトタン屋根といった家々の前を通る、舗装されていない道をトラックは走っていく。

その茶色い風景の中に、時折airtelと書かれて赤く塗られた家や、MTN Authorised Dealerと書かれた黄色い家が見える。もうおおよその人々が持つ携帯電話の会社たちだ。

40分ほど走ったところで、ラフティングの出発地点に到着する。同乗者5人、ヘルメットをかぶり、ライフジャケットを背負い、パドルの方法や転覆の練習、付き添いのレスキューカヤックのつかまり方を練習した後、こぎ出す。

大きなとかげが川岸に佇み、鷲が木の上にとまっている。辺りにはとうもろこし畑が広がり、ボートの上には、鳥の声がする。古びたボートに乗って、少年二人が波を逆流していく。

いくつか激しくなるところをさわぎながら越えて、流れがゆるやかになるとほっと一息、時折川に入って泳ぎ、時折同乗者たちと話をしながら、進む。

ラフティングを引率してくれたのはジンバブエの男性だった。今までアフリカ各国でラフティングやカヤックのガイドをしてきたという。国をまたいで生きていけば、一国の政治に左右されないから良い。世界中にガイドの友だちがいる。みなつながってるから、そうやって仕事も得られるんだ。ネパールにだって知り合いのガイドがいるんだよ、と言った。

ボートに乗ったスタッフが大きなパイナップルをざくりと切り分け、ビスケットとともに手渡される。

最後のイタンダ・フォールズでは、例にならって転覆した。目の前が真っ白になる。身体が浮かんだら、また大波がやってくる。それぞれごぼごぼとやっている間に、ガイドの男性は、みなが無事でいるかを確認する。

こうして、4時間のラフティングが終わる。船着き場には、バナナやバイク、それに男性たちをのせた、使い古された水色の木製のボートが乗りつける。男性たちはさとうきびをかじり、洋服を頭にすぽっとかけておどけて見せる。

ラフティングを終えて、豆、じゃがいも、いんげん、パスタに肉、パンにサラダ、トマトにペーストを盛っていただく。それに冷えたNile Specialビールが出される。
アルコールがすこし、きつい。

一息ついたところで、再びNile River Explorers社のトラックの荷台に乗り、今日の宿へと向かう。辺りの家には水道も電気もなく、人々は外に出てのんびりとし、子どもたちははしゃぎまわり、わたしたちのトラックを見ると、走ってきて手をふる。

水くみ場には黄色いタンクをもった大人や子どもが集まり、水を汲んでいく。そして、そのタンクを頭の上にのせてゆっくりと歩いていく。

そんな風景に突然ダムが現れたら、ジンジャの町へと入っていく。かつてブジャガリ滝という滝があったところが、今は新しくできたダムによって湖になってしまった、そのほとりにある宿へと走る。

宿の近くには、今でもひょろりと高い木の横に「ブジャガリ滝へようこそ」と書かれたブランコが設けられ、地元の男性が一人、二人とこいでいく。かつて、ここから滝が見えたという。今は、もうその風景は水の中に沈み、湖が広がっている。

こうしてできた大量の電力はケニアに輸出もしているという。地元の人たちは、この風景の移り変わるさまを、仕方のないことと諦めた人も多いと聞く。

日も沈み、湖は徐々に暗くなっていく。宿の周りでは、人々が水くみ場に集まり、女性が風呂敷を広げて野菜を売り、子どもはタイヤを回して遊び、Nile River Explorers社の支援で建設された孤児のためのプレスクールの看板がたてられている。

夕食は、宿のレストランで、激うまと聞いていた牛肉のラザニアを注文する。きゅうりやトマトサラダが添えられている。Nile Specialビールをごくごくといただく。

あわせて激うまと聞いていたカルボナーラは、注文する人が減って昨年メニューから取り下げたのだという。しっかりとした味の美味しいイタリアンだ。それがここでは珍しく、そしてとても貴重だ。

宿のゲートの中と外では、別の世界が広がっている。鳥や得体の知れぬ動物たちの声が辺りに響いていた。