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漢族、回族、チベット族 – Lanzhou / Xiahe, China

時間調整のために長い時間どこかで停車したバスは、思い出したように再び出発して、朝の6時半頃に蘭州の東バスターミナルへと到着した。バスの中で寒くて幾度か目を覚ましたのと同じように、蘭州の朝は、涼しい風が吹いている。

今日の目的地、夏河までのバスは、南バスターミナルから出ているので、バスを乗り継いで向かう。蘭州は大きな街なものだから、この移動にゆうに40分ほどはかかった。

大きく「蘭州汽車南駅」と書かれた南バスターミナルで降りて、夏河行きのチケットを買う。中国で列車のチケットを手に入れるのはなかなか難しいが、バスのチケットは当日だって買える場所がある。月餅をかじる。

朝の8時半にはバスが出発する。蘭州までの平らな乾いた土地とは変わって、緑の山々が連なり、その合間には家がある。

臨夏あたりで、山間のあちらこちらに新しい白いミナレットや、中国ふうの寺ににょきりとイスラム教徒の月が立っているのが見えてくる。一つ通り過ぎればまた一つ、といった具合で途切れることがない。これは、中国のイスラム教徒、回族が、自身の領土を広げるために、どんどんと建てていったものだという。だからラブラン(中国語では夏河)のチベット族は、町の入口にストゥーパを建てることで、それ以上は入ってこないようにしているのだそう。

臨夏あたりはモスクのほかに、工事中の現場が盛んにある。それがチベット族の住むラブランに入れば、ぷつりとない。中国政府は、チベット族の住むエリアに工場を作る許可をほぼおろさないのだという。そうすることでチベット族を経済的に追い込み、救済を求めさせるという。

新疆ウイグル自治区に多いトルキスタンやカザフスタンからのイスラム教とウイグル族と、中国系イスラム教徒回族、そしてチベット系イスラム教徒サラ族は、中国政府からまた違った扱いを受けているのだった。

3時間半ほどして、夏河に到着する。この街を訪ねるのは、2005年以来ぶり。ここに住むチベット族の生活は変わったのだろうか。バスから降りると、紅い袈裟を着たチベット僧、細いみつあみをほどこした女性たちがあちらこちらを歩いている。

Tara Guest Houseに部屋をとり、近くの食堂に入る。まわりには、漢族とはまた違った風合いの、ほほを日焼けしているチベット族の女性と男性が食事をしている。女性は鮮やかな首飾りと大きな耳飾りを身につけている。隣ではチベット僧がテレビを眺めている。わたしたちが入ってきたのをみて、客は微笑む。バター茶に牛肉のモモを注文し、さきほどチベットパン屋で買ったパンを合わせる。

それから、ラプラン寺の周りをマニ車を回しながら、くるりとする。多くの人々が同じようにずらりと並ぶマニ車をまわしている。ある女性は子どもを背に、手には軍手をはめて、歩いていく。数珠をもつ人もいれば、マニ車をもつ人もいる。そばでは袈裟を着た男の子たちが遊んでいる。

それから、以前夏河を訪ねた際に友だちになったラムくんと再会する。

寺には、尼僧など200人ほどが住み、勉強をしている。
髪の毛を短く剃り、結婚をせず、シンプルな生活を送っている。

高校になるとみな2週間軍教育を受けるという。
丘の上からは、その軍服を着たチベット族が並んでいるのが見える。

寺には、ラブラン寺の創始者の写真が飾られ、ヤクバターのキャンドルの灯る香りがする。花を意味する白いスカーフが掛けられ、木を焚いた煙がもくもくとあがっている。

山には大きなタンカをかける場所があるものの、その前には中国らしい遊歩道が建設中だ。かつては西安がチベットと中国の境目だったとも聞くが、今ではここも漢族の世界が広がりつつある。

ラムくんのご自宅に呼ばれてお邪魔する。以前もお会いしたお母さまや、可愛らしい奥さまと娘さんが出迎えてくれる。娘さんは、既に少しハンバーガーを口にしたことがあって、それ以来、テレビでハンバーガーのCMが流れれば、口をぺろりとさせるのだという。娘さんの名前は「幸運を運ぶ」という意味のチベット語の名前で、チベットのラマに名付けてもらったのだそう。

この街では冬の寒い時期、ヤクの糞を燃料にして部屋を暖める。

2005年当時もラムくんはこのラブランで生活をしていた。でも、外国人とも付き合いのあるラムくんは常に行動を監視されているといって嘆き、いつか歩いてでも良いからインドに渡りたいと話しをしていた。その後、仕事の話しがあってラサへと渡り、ラサ出身のチベット族の素敵な女性と結婚をして、女の子の父親となって、幸せな生活をしている。

それでも近頃、チベットラサ地域に対して観光客を厳しく制限していることから、ほとんど観光業は成り立たなくなり、このラブランに2カ月ほど前に戻ってきたという。4年ほどラブランの土地を離れていたので、スパイをされることもない。そして溺愛する娘さんもできた。

この冬は、西寧でフランス語を2カ月みっちりと夫婦で習うのだという。フランス人観光客は英語も話せる人も多いが、できればフランス語のできるガイドを欲しがるためだ。今、旅行会社も質よりも、若くて安いガイドを雇う傾向にあるため、夫婦は英語以外の言語を習得することにしたのだった。

2007年からチベット族50人以上の焼身自殺があり、2カ月ほど前に起こったラサ、ジョカン寺前の二人の焼身自殺は、このアムド地方出身のチベット族が行ったものだったという。だからアムドのチベット族は今ラサに入ることすら難しい。一方、漢族は問題なくラサに入れることができる。それがラムさん家族がラブランに戻ってきたもう一つの理由だ。中国人がどっとラサに入ってきているのだと、漢族のことを指して言う。

ラブラン寺の近くに広場を今、作っているという。最近になって中国政府は新しいチベット寺を建設しているが、それはそれらを博物館として観光用に仕立て上げるためだという。そこに心はこもっていない。

2007年からチベット族50人以上の焼身自殺があり、2カ月ほど前に起こったラサ、ジョカン寺前の二人の焼身自殺はこのアムド地方出身のチベット族だったという。だからアムドのチベット族が今ラサに入ることすら難しい。一方、漢族は問題なくラサに入れることができる。

チベット族の焼身自殺が相次ぐのは、反政府の声をあげて捕まると一生牢獄での生活になる。それならば死んだほうが楽だと考えてのことだとも聞く。

今、チベットに入るには、同じ国から5人以上の団体としてでないと、入ることすらできない。完全にチベットをシャットダウンしないのは、国際的な批判を免れるためだが、そもそもチベット行きを希望する5人以上の団体を同じ国の人々で作るというのは、それほど簡単なことではない。完全にブロックしていないと表立ってはいいながらも、自由な旅行を妨げている。

今、ラサは漢族の人々が入り込み、新しい建物を建て、ビジネス地帯と化している。特に四川省の人々がどっさりと入ってきている。中国政府は漢族がチベットに入りビジネスをすることを奨励し、経済的な援助もしているという。

チベット族が歩いていれば、IDを求められ、チベット族が寺の周りを時計回りに巡礼しているところを、銃を持った軍人が反時計回りに歩くのだという。ジョカン寺の周りにしか、もうチベット族はいないようなものです、とラムくんは言う。自由がなくて、とても生活がしづらいから、まだこのラブランの方が良いと言った。

断食をすることがある。その日は食事もしないし、話しもしない。これはカルマに良いと考えられ、また話しをしないというのは、感情をもった動物がそれでもその感情を言葉にできない状態を感じ取るためだという。

中国は、今アラビア語を話すトルキスタンやモンゴル語を話すモンゴル、そしてチベット語を話すチベットに侵入していっている。

チベット語では日本のことをニホン、といい、数字を数えるのだって、とても似通っている。日本にぜひ遊びに来てください、と言えれば良いものだが、チベット族がパスポートを取得することはとても難しいのだから、なかなか簡単に口に出せない。

ラムくんは、経済は自然災害や事故などで簡単に崩れるものだから、それよりも大切なことは心だと何度も繰り返した。漢族も急激な経済成長の中で、仏教徒が増えているのだという。心の平安を宗教に求め出している。それは良いことだとラムさんは言った。

このラブランにも漢族の旅行者はやってくる。でも彼ら個人個人は起きている問題を理解していない。テレビはその問題を放映しないからだ。だから問題は政府にある、とラムさんは言った。

ご自宅では、フルーツやミルクやジュースをいただいていたのに加え、挙句の果てには
野菜のはいったヌードルやコーヒー、ヨーグルトまでいただく。

たくさんの話しをした後、別れを告げる。ずっと手を振ってくれている。

寺の周りは灯りがほとんどなく、月明かりを頼りに歩く。辺りにいるのはチベット僧ばかりで、そのほとんどが携帯を片手に誰かと話しをしている。一つの寺からお経が聞こえてくる。

夜は冷える。宿に帰り、温かなお茶を飲む。

こうしている毎日にも、西寧から成都までの線路は建設されていき、また新たな道ができていくのである。