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2012年07月

仮面をつける街 – Bandar Abbas, Iran

朝の4時にバンダル・アッバースに着きバスを降りるとまだ日も出ていないというのにむわりと暑い。タクシーの客引きが集まり、わいわいがやがやとやる。そのうちの一人と目的地であるミナーブまでの値段交渉を終え、タクシーに乗り込んで向かう。

この辺りは、肌の色が濃い人々が多い。かつてイランがポルトガルに占領されていたときに奴隷として連れてこられたアフリカ系の子孫がいたりするのだという。そして暑い日射しのために、ただ肌の色が濃くなっているだけだという人もいる。

運転手は携帯を片手に眺めながら、眠気をふりはらうように120キロほどの高速で運転するので、おっかないこと甚だしい。それでも無事にミナーブに到着しお礼を言って車を出ると、交渉したときの10倍の価格を告げてきた。応じられないと言うと、ポケットから鍵を取り出しすごんできて、警察を呼ぶと言い、携帯で110にかける。10分ほどすると緑のラインの入ったパトカーに二人の警察官が乗ってやってきた。運転手がペルシャ語で事情を説明する。

警察官二人は英語ができないので、英語のできる人に電話をかけて通訳をしてもらう。パトカーに乗って警察署まで来てくださいというので、それに従う。冷房の効いた警察署に、穏やかそうな警察官が3人。椅子に腰かけた一般男性が2人いる。

運転手の身元確認が行われたあたりから、運転手がわたしたちにとにかく金を払えと更にいきりたってくる。3分ほど運転手の身元を確認した後で、警察官が合意した金額だけを支払えば良いです、とわたしたちにジェスチャーで告げた。運転手は拳をかざして顔の前に寄せてきて、それを警察官が止める。

朝からひともんちゃく。

パトカーで元の場所まで戻してもらったので、目的地であったミナーブの市場に向かうことにする。途中商店に立ち寄り、お気に入りのカナダ・ドライ、オレンジ味の大きなペットボトルを買い求めてぐびぐびと飲む。とにもかくにも暑い。スーダンと同じくらいに気温があがっていく。ただ砂埃が少ないのがまだ救いだ。

ミナーブの市場は米、野菜や果物、魚や服、動物の市場などに分かれている。木曜日に行われるこの市場には、仮面をつけた女性たちが集まってくる。棗やぶどう、さくらんぼにじゃがいもやトマトに魚が売られていく。

この仮面には、イスラム教として身を隠す意味と、暑い日射しから眼や顔を守るという意味があるのだという。赤やえんじ、金色といった布に刺繍が施されたマスクを目につけている。市場で販売している女性の多くが仮面を身につけ、買い物客の女性のほとんど仮面をしていないのは、販売者のほうが日光の下にいる時間が長いからだ。

いかにも神秘的な装いだが、実際に話してみると、おばちゃんふうの親しげな声が聞こえてきたりする。

動物市場を探していると、英語の先生だという男性に、ちょうど肉を買いに行くから車で連れて行きますと言ってもらった。市場には、山羊や羊、それに牛が売られている。

雌山羊は一頭180万リアル(18万トマーン、約90ドル)、雄山羊は一頭350万リアル(35万トマーン)。雌牛は200万リアル(20万トマーン)。雌牛は繁殖のため、そのミルクのため、それに物々交換のために売られていくのだという。そんなわけで、動物市場には、肉屋や農家、それにブリーダーや物々交換したい人々がやってくる。

肉が店で売られるときには、山羊や羊はキロあたり1万5千リアル(1500トマーン)、牛は1万2千リアル(1200トマーン)あたりで売られている。山羊や羊は値段が高いので、牛肉をより食べるのだという。

ラマダンについてはテヘランよりミナーブのほうが規則がゆるいそうで、確かに市場の片隅でわりと堂々と飲みものが飲まれている。それでもラマダン中は市場はいつもより人気が少なく、駐車スペースも見つけやすいほどだと言う。断食をする人々はこの暑い中に市場に来れば水を飲まざるをえないので、それを避けるために市場に出向かないのだという。

案内をしてもらった先生は、公立中学や高校、それに「才能ある男子のための学校」や家庭で英語を教えている。イランの学校は男女完全に分かれているといい、男の先生は男性の学校でしか教えられない。

公立学校では政府の厳しい目が特に光る。先生自身はオンラインで購入したアメリカ映画のDVDなども観て英語を勉強しているといい、ロストやGame of Thronesなどの米国シリーズなども熟知している。ただ、授業で使う映画は知っている映画のほんの一部で、恋愛ものではない無難なものを利用すると言った。

イランでは女性のコーラスグループはいるが、単独歌手は国内にはいないのだという。政府として、男性は女性の声を聴くべきではないというのがその理由だといい、先生はまた少し肩をすくめた。ただ、多くの人々は、国外に飛び出て歌うイラン女性シンガーの歌をダウンロードして聴いているのだも言った。

市場を一通り回った後、先生はご自宅にわたしたちを招いてくれた。先生は、英文学を学ぶ大学生の奥さんと、お母さんと3人で暮らしている。絨毯の敷かれた広いいくつかの部屋はきちんと整えられている。靴を脱いでお邪魔をする。

庭で採れたマンゴーと、奥さんの手作りのサーラード・オリヴィエをごちそうになる。イランではほとんど女性が台所にたち、男性が料理をするのはピクニックのときのバーベキューくらいだといった。サーラード・オリヴィエは、茹でた卵やじゃがいも、きゅうりや鶏肉、キャベツやにんじん、それにとうもろこしなどを入れたポテトサラダふう。それをレタスとともにタフトゥーンのパンに置いてライムを絞りくるりと巻いて口に放りこむ。とてもおいしい。

先生の家はラマダン、日の出から日没まで断食中だった。この1週間ほど親戚が家に集まっていて、奥さんは食事の準備で連日早朝まで忙しいのだという。午後8時の日没のアザーンがなると食べる食事をイフタール(朝食)と呼び、午前4時日の出前に食べる食事をスフールと呼ぶ。通常は朝のスフールの食事をするためにその30分ほど前に起きる。ここ最近は来客もあって、イフタールを食べて、お祈りをし、寝そべりながら朝までおしゃべりを楽しんだりしているという。

英語のBreakfastは、Fast(断食)をBreak(中断)するというところから来たのだと、英語の先生らしく、きれいな発音で教えてくれた。   

ラマダンは通常男の子は15歳、女の子は9歳から断食を始めるのだというが、それも個人に委ねられている。小さな村だとその開始時期をコミュニティが決めるところもあるといった。病気であれば、断食をする必要がない。宗教は個人的なものなのでラマダンをするもしないも自由だと先生は言った。断食はしなければいけないものではなく、するものだと言った。

こうして先生も奥さんも断食をしている。ただ、先生は今日日没前の夕方に歯医者に行く予定があり、血や唾を飲み込むことになる。それにもし飲み薬が出れば、水を飲まざるをえない。それは断食が断たれることを意味している。だから今日だけは断食を断つと言って、奥さんに先生の分の食器も出すように伝え、わたしたちと食事を始めた。

イランの伝統では、婚約前にデートをすることはほとんどない。もともといとこだっという奥さんとは、お互いの目の動きで恋に落ちたことを確認しあったという。先生は、デートもしないままに結婚を心に決めて、ある日突然に奥さんの家を訪ね、お母さんに、娘さんと話してよいですか、と承諾を得て結婚をしたのだそう。

公的な婚姻は役所でIDを見せて、ターバンを巻いた宗教的指導者により、手続きが行われる。結婚式は互いの家に親戚などを招いて食事をし、踊りが踊られる。アルコールは、出ない。

今は、イランでも子どもは1人か2人が一般的なのだそうで、先生たちもそれくらいの子どもがほしいと言った。

先生は、オシンやホンダケイスケ、それにパク・チソンを知っていた。現在スポーツ・マネジメントの方面に興味があるというが、サッカー・リーグのほとんどのチームのトップの人々は、たいていスポーツに興味がある人々ではなく、政治家なのだそう。それに、イランではどの分野でもそのトップになりたいのであれば、まずは政治家にならなければならないのだと苦い顔で言った。政治家になるにもアリ・ハメネイ師の嗜好が入る。

イスラム教の厳格なミナーブ付近では、服装の規定がテヘランよりも厳しいという。ただ、黒いチャドルを見ることの多いテヘランと比べると、淡い柄模様のチャドルを着る女性も少なくない。奥さんは、親戚の家に行くときやお祝いごとがあるとき、来客のあるときなどに着るというカラフルなチャドルを箪笥からひっぱってきて、着させてくれる。

そして、アザーンの「アッラーは偉大なり」「アリーがアッラーに続く方である事を私は誓います」といった句を聞かせてもらう。

先生の家ですっかりお世話になった後、暑いペルシア湾から離れ、今日はこのまま16時半発のIran Peyma社のバスに乗ってシーラーズへと向かう。
バンダル・アッバースは密輸港としても知られている。そんなこともあってか、バスが発車して3時間ほどすると、乗客一同バスから降りて荷物を緩やかにチェックされる。
いまだ熱風が身体にあたる。

そのうちに日没を意味するアザーンがなる。日の出、日没はテレビやラジオ、モスク、今ではSMSで知らせる方法もあるそうで、そのどれにもアクセスできない人々は特別なカレンダーを見て、時刻を知るのだという。

こうしてバスの中でもアザーンを聞き、するとバスは道端の棗などを売店に立ち寄り、添乗員たちが買い物に出向く。今まで飲み物を断っていた運転手もぐびぐびと飲み物を飲み始める。運転席付近はマンゴージュースにノンアルコールビール、それに水が注ぎまわされ、半ば宴会のようすだ。

わたしたちにもお茶を飲めと頻繁にチャイを勧められるので、スポンジケーキと合わせていただく。

夕食の休憩をとるころには22時半を過ぎていた。タレのついたひき肉のケバブ、チェロウ・キャバーベ・クービーデや焼きトマトやご飯のセットをオーダーする。それに野菜にライム、それに薄いパンがついてくる。

休憩時間が終わっても、バスが故障したようで修理が施されている。暑さはなかなかおさまらず、そのうちに強い風が吹き出した。

イランのバス会社おじさんのくねくねポーズ – Tehran / Bandar Abbas, Iran

まだ日のあがっていない4時半ころ、テヘランに着いたといわれ、眠けまなこのままにバスから降りる。今日これから向かうバンダル・アッバース行きバスは南バスターミナルから出発するので、到着した西ターミナルから移動しなければならない。         
                                
Meydan-e Azadi駅から地下鉄を乗り継いで7時半前には南ターミナルのあるTerminal-e Jonoob駅にたどり着く。既に日の出を迎えてしまっているラマダン中のカフェにも、工事中のようなビニールシートがかけられ、その中で人々が飲食を楽しんでいる。

予約をしていたバス発車までまだたっぷり時間があるものの、念のためカウンターに向かって、手ににぎったテヘラン10時半発のチケットを見せる。すると、バス会社の男性たちは10時半のバスはなくなった、8時半のバスしかない、とペルシア語でジェスチャーを交えながら言う。

予約をしたときには午前中1時間おきにバスが運行されていると聞いていた。それが今となっては8時半のバスを逃したら、明日までバスは無い、と言う。バス会社のモニターを見てみると、なるほど10時半発のバスにはわたしたち2席しか予約が埋まっていない。9時半のバスなどは、予約数がゼロとなっている。これではバスも運行されないはずだ。

バス会社の男性たちは、予約時と運行時間がぐちゃりと変更されているのを申し訳ないと思っているのか、あいまいにしか伝えないので、余計に事態が混乱する。そのうちに手を合わせて顔を傾け、身体をくねらせて、ごめんねえとポーズをとる。それは、まるで日本の課長さんポーズ。

バスターミナルでカフェにでも入ってゆっくりしようと思っていたものの、こうしてあたふたと出発することになった。ターミナルの商店で売られていたシュークリームと林檎ジュースを買い求め、バスに乗り込む。

すると座席には、凍ったパイナップルジュースと、ウエハースやチョコパイにビスケットなどの詰まったお菓子ボックスとがぽいと乱雑に置かれていた。

乾いた大地に山が連なり、あるときは大地が広がり、ぽつぽつと家が並ぶ。大きなモスクが現われ、いくつかの町を通り過ぎる。

イランのバスは休憩が少ないと聞いていた。13時半になってバスはArdestanという町で昼食休憩のためにはじめて一息つく。パンやパイナップルジュースをほおばっていると、食堂の店員の男性がどうぞとヨーグルトを差し出してくれた。

さらに乾いた大地を進んでいく。バスの中ではラマダンは存在しないかのように、皆お菓子やナッツをぼりぼり食べ、すいかの種を煎ったのや桃、果ては座席で大きなメロンを切り出して周りにふるまうほどだ。

ある女性がペルシア語で筆談をしてきた。「赤ちゃんはいますか。日本に行きたいけれど、行けません。」という意味らしい。

周りの人々とジェスチャーつきの会話を楽しんでいると、ふいにバスがざわざわとして、前列に席を移動していた女性はぴょんと元の席に戻り、添乗員が各自にシートベルトを着用するように告げる。なにかと思ったら警察の検問だった。どうにも規則の厳しい学校ふうだ。

その後も太陽に照らされたごつごつとした岩山が連なる道を大型トラックが幾台も走っていく。Yang Ming、 Hyundai、Evergreenと書かれたアジア勢の車も通り過ぎて行く。

日が暮れても、イランで人気の猿のパッケージのチーズ味のカールふうお菓子の袋をどっさりとふるまわれたり、ポテトチップスをもらったりする。みな、よく食べる。

そうこうしていると夕食の休憩場所に入る。レンズ豆を煮込みにフライドポテトをのせたホレシュテ・ゲイメ、それにサフランライスののったご飯を注文する。パンと、「コーラ味のソフトドリンク」と書かれたアゼルバイジャン製コーラがついてくる。併設されている部屋で祈りを捧げている人もいる。イラン人乗客はみな食べるのが早く、ぺろりと平らげ、短い休憩を済ませてバスは再び出発する。

すっかり暗いバスの車内でも、ペルシア語を理解しないわたしたちに、イラン人乗客たちが次から次へとペルシア語で流暢に話しかけてくる。理解できるのは、土地の名前とジャッキー・チェン、ブルース・リー、ツバサくらいなものだ。

屋根の上を歩く街 – Rasht / Masule, Iran

今日はラシュトから伝統的な家々の残るマース―レまで向かうことにする。朝の町のジューススタンドに、布が張られながらも、ぐるぐると機械の動いている店があった。早速その店に入りジュースをオーダーすると、地元の男性も入ってきて、オーダーしたジュースを店の奥で隠れながらごくりごくりとやっている。

近くのパン屋でクリームのはさまったパンやパウンドケーキを買い求めると、どうぞと揚げパンやらクッキーまでごちそうになる。

ショハダー広場の近くからバスに乗ってターミナルへ行き、そこからバスを乗り換えてパンを食べながら1時間ほど、経由のフーマンという町に到着する。

フーマンは、スパイスの効いたウォルナッツのペーストをはさんで、型を押し、オーブンで焼いたコルーチェというお菓子が有名だ。街のあちらこちらに、そのぽつぽつとぐるぐる巻きの型を押したパンの看板がぶらさがっている。アツアツに焼かれたその一つをほおばりながら、マース―レまでのバスのターミナルへと歩く。

ラマダンを感じさせないほど、フーマンの町の市場は活気に溢れている。ひん曲がった茄子が売られ、大きなすいかがごろりとして、いんげんが山積みになっている。オリーブや桃やすももに魚。牛が皮をはがされぶら下がり、鶏が脚をくくられぐったりとしあひるが車にひかれそうになりながら元気に歩きまわっている。人間は鶏やあひるを脚で蹴りながら、動かしていく。

ラシュトにいるときには日本から来たのか、とまず聞かれることが多く、日本に行ったことがある、と言う人もいたが、フーマンまで来ると、中国人か、チン・チャン・チョンと言われることが増える。

洋服やら香水、布などが売られる道をてくてくと歩き、ターミナルへと到着する。すっかり暑いので、バスに乗り込んだ人々もこそこそとアイスや食べもの、飲み物を口にしている。そして、食べ終えた空き缶や袋をぽいと窓の外に捨てていく。

田んぼの中をバスは進み、そのうちに山道をあがって、海抜1050メートルのマース―レへと向かう。

到着すると、店先で人々がラマダンらしからずに飲食をしていたので、わたしたちも一軒の店に入り、絨毯の上で、アゼルバイジャンのStarというコーヒー味のノンアルコールビールを飲む。ノンアルコールビールといっても、これも材料にあるモルトの味がしなくて、コーヒー味もなかなか悪くない。

この町は、家が山の斜面にはりつくように建てられていて、家の平らな屋根がそのまま人々の歩く道になっている。屋根づたいに人々が次の家の屋根へと歩いていき、人の家の屋根の上で洗濯をし、果物を干し、他人の家の屋根の上でのんびり山を望む。歩いていれば、洗濯をしていた上の階の水がぽとりと頭の上にしたたってくる。

モスクでは人々は祈りを捧げ、商店では緑茶や焼きたてのパン、Halva、土産物の人形などが売られている。

ある一人の男性が、弟がそこに家を建てるからそれを手伝っているのだと言いながら、鍬で地面を砕いていた。その男性は、ここ2年ほどイランに来る外国人観光客は減っていると言う。「ナイスな」政府のおかげでね、と皮肉めいて笑った。

民泊できるところも少なくないようで、窓から泊まっていかないかと声をかけられることもある。そのうちの一軒にお邪魔をする。靴を脱いで階段を上がると、絨毯の広がる部屋があり、キッチンやバストイレがついている。ベランダの窓の上にはコーランが彫られた木の板がはられている。

フーマンに戻ってきてラシュト行きのバスを探す。18時を過ぎた町からは、どこからともなくぷんとご飯の炊かれる匂いがする。

帰りは人の集まらないと出発しないバスになかなか乗客が集まらないので、ヒッチハイクをして帰ることにする。ヒッチハイクを試みてわずか1分ほど、ちょうどラシュトに帰るという男性が車に乗せてくれるという。ほとんど英語を話さないその男性も、ナカタ、とか、キャプテン翼の「ワカシズマ(たぶん若島津のこと)」とかぽつぽつと口に出す。

宿では21時をまわるころ、日没を知らせる合図が流れるときには、既にスタッフたちは夕食を囲む準備ができている。外に出てみると、さきほどまでとは違って、ジュース屋が堂々とジュースを見せ、人々がそこに群がっている。行き交う人々もどこか楽しげだ。

夜は昨日と同じ食堂に入り、じゃがいもと豆を香草とともに煮込んであるバーゲラー・ガートグ、それにきゅうりやバターライス、それにヨーグルトとパンをオーダーする。オーナーらしきおじさんは、いつもでっかいそろばんを前にどでんと座っている。

街からタクシーに乗ってテヘランへ戻るためのターミナルへ向かう。タクシードライバーはしょっぱなからずっと大声で笑いっぱなしだった。なにが可笑しいのか分からないけれど、いひひひ、がはははとずっと笑っている。イランでときどきこういったおじさんに遭遇するが、これでアルコールが入っていないというのだから、大したものだ。

23時半ころ、バスはテヘランに向けて出発した。

服を着て、スカーフを巻いて入るカスピ海 – Rasht / Ramsar, Iran

夜中の1時45分ごろにバスは一度停まって休憩をする。こんな時間だというのに、ラマダンで空腹の男性たちはパンやら肉やらを食べていく。

ラシュトに到着したのが4時半ころ、タクシーに乗って宿へと向かう。

日も上がった宿の近くのスイーツ屋に、甘いパンを見つけて買い求める。その店でもスイーツやパンは売るけれど、ジュースメーカーは機械に新聞紙が貼られている。トルコのイラン領事館でラマダンについて尋ねてみたときは、大きな街ではレストランは閉まっているけど、小さな町では大丈夫ですよとほほえみながら言われた。でも、地方に来ても、テヘランと状況は変わりない。

今日は、カスピ海まで泳ぎにラームサルという町に行く。ラームサル行きのバス乗り場を探していると、いろいろな人に話しかけられる。タンカーの船乗員だという男性は、2週間仕事で2週間はこうして休みをとっているのだという。彼はタクシーに乗ってわたしたちをバスターミナルまで送ってくれ、商店に入って冷えた水のボトルを買い、その後にラームサルまでのバスの代金を払うと言った。

バスに乗り込み、さきほど買った甘いふわふわのパンと白い砂糖のついたパンをどうにもこそこそと外を向いて食べる。旅行者はラマダン中に食べても良いと言われても、なんとも申し訳ない気分である。

ラシュトから2時間ほど走って到着したラームサルのバスターミナルからカスピ海まではまだ距離があったので、ヒッチハイクで向かう。二人のおじいさんがわたしたちを運んでくれた。でも、運んでくれた先のカスピ海の沿岸には、さびれた遊園地があり、はたまた日本の田舎にあるような、しんとした、ふぐの置物などを売る店が佇んでいる。その辺りは水が淀んでいて、モーターボート屋があり、釣りをしている人もいるが、泳ぐことはできないという。

そばにあった一軒のホテルの男性に聞くと、ビーチはこの先3キロほどいった、サヘール・タライにあるという。再びヒッチハイクを試みて、運んでもらうことにする。

ビーチには右手と左手に目張りがしてあり、それぞれ杭にビニールシートがかけられていた。右手が女性専用、左手が男性専用ビーチだという。船が浮かび、軍服を着た男性が砂浜を監視していて、どうにもビーチらしくない。

真ん中の共有の砂浜を経て女性専用ビーチに行くと、上下洋服に頭にはヒジャブをしたままの女性たちがカスピ海に浮かんでいる。人によっては靴のまま湖に入っていく。傍から見ても楽しげがない。

それでも海の中に入ってみると、一緒に泳ぎましょうと言いながらじゃぶじゃぶと手を回し始める、なにやらにこにこと元気活発な女性たちがそこにいた。

女性がイランで泳ぐときには着替えが厄介だ。それも全身真っ黒の女性たちが、手慣れたふうに着替えを手伝ってくれる。

左手の男性専用ビーチの海辺には、服を着た女性は入ることができる。あるとっぷりとした男性二人は海に腰掛け貝を拾い、ある男性たちはボール投げをして遊び、ある男性たちはじゃばじゃばと泳いでいく。男性は上半身裸の水着姿。女の子どもたちは服を着たままに男性専用ビーチに入っている。

カスピ海は、海水の3分の1ほどの塩分しかないので、しょっぱくなく、湖を出てもわりあいにさっぱりとしている。

そこから近くのラームサル温泉に浸かりに行くことにする。ビーチから温泉まで、今度はビーチで話しかけられた男性家族が車で連れて行ってくれるという。ラマダン中は地元の人々は海水浴はできないのだけれど、その家族のような旅行者は泳いで良いんです、と言った。35歳と31歳の夫婦に4歳の男の子と3か月の女の子がいる。   

こうして温泉にらくらくと到着する。敷地内に入ると硫黄の香りがして、源泉を湛えた石は緑色に変色している。浴室は入口から男女に分かれ、タイル張りの個室になっている。個室には一つ一つに湯船があり、温泉と水の蛇口があって浴槽にお湯を溜めていく。シャワーもなく、浴槽の淵に桶が二つ置かれている。

空気がこもると危ないので、扉は開けっぱなしにしておいてくださいね、と念を押される。そのうちに個室は、ほとんど無色の温泉が浴槽にひたひたとなり、硫黄の香りに包まれる。温泉を出たら、山に太陽が沈もうとしていた。

温泉からバスターミナルまでも行き方が分からずにいると、パトカーが停まって、途中まで乗っていきなさい、と言う。こうして大きな通りまで送ってくれ、近くにあった商店で、イラン製のトロピカルフルーツ味のノンアルコールのモルト飲料を買い求める。モルト飲料といっても、炭酸ジュースにほど近い。

そこから乗り合いタクシーを乗り継ぎ、ラシュト行きバスが通過すると周りの人々が口々に言う場所で降ろしてもらう。来るかどうか分からないバスを待つことわずかに15分ほどで、確かにラシュト行きバスがやってきた。

冷房ががんがんときいたバスで、水のサービスもある。

バスがラシュトのターミナルに到着すると、一緒にバスに乗っていた大学生の女の子が、迎えに来ていたお父さんの車で送りますといって、街の中心のショハダー広場まで送ってくれた。大学で林業を学んでいるという学生で、将来は学者になりたいのだという。英語が好きで独学で勉強しているというその言葉は発音もとてもきれいなものだった。

ラマダン中は断食をしているそうで、今日も夕ご飯はビスケットで軽くすませたのだといって、どうぞとビスケットをわたしたちに差し出す。

こうしてショハダー広場に到着すると、日の暮れたその場所には、屋台の焼き鳥屋が開かれ、男性たちが集まっていた。街のあちらこちらでこうした焼き鳥屋が繁盛し、昼間は閉まっていたアイスクリームやジューススタンド屋も煌々と明かりをつけて、店先にアイスクリームのコーンをにょきにょきとのばし、ジュースメーカーをぐるぐると回して、元気に営業中だった。

いくつかのレストランはやはりラマダン中は夜になっても扉を閉ざしたままであったものの、マリオの看板を灯したレストランが営業しているというので、早速に入ってみる。

カスピ海はキャビアが有名だというが、それは全て輸出されているというので、この街特有の食事は、地元のオリーブなどを活かしたものなのだそう。

そこで、郷土料理であるというミールザー・ガーセミーやバター・ライス、野菜の塩漬け、ウォルナッツペーストに包まれたオリーブ、舌がややぴりりとするチーズとヨーグルトの中間のようなものにきゅうりをオーダーする。生たまねぎやパンがついてくる。

どれも塩の味がつよかったり、辛かったりするものだからミルキーなバターののったライスやパンがよくすすむ。

12時半を回って外を出ると、さきほど出ていなかった焼き鳥屋台がここにも出現し、男性客で賑わっていた。

イランのテヘランでトルクメニスタンビザの申請をする – Tehran, Iran

金曜日、土曜日と閉まっていたトルクメニスタン大使館が今日ようやく開くので、ビザの申請しに行く。宿から最寄りのエマーム・ホメイニ駅はテヘラン街の中心にあり、メトロはラッシュアワーの真っただ中だった。乗り場も車内も仕切りがしてあり、いくにんかの女性は男性スペースに入り、パートナーの横でちょこりとしているが、男性が女性スペースに入ろうものなら、担当係から注意が入る。  

そんな具合なのに、プラットフォームの女性専用スペースのところに、電車の男性専用スペースへの入口が停車したりするものだから、混乱が増す。みな、ぎゃーぎゃーと騒ぎながら、電車に乗り込む。電車が郊外に進むにつれ、徐々に人が降りていき、カラフルな色の服を着た男性と、多くが黒や地味な色の服を着て頭にヒジャブをかぶった女性が、透明のしきりにきちりと分けられて座っている風景に変わっていく。時折、鼻の整形をした人々が鼻に白いテープを巻いて歩いているのを見かける。

パン屋で餡のはさまったパンを買い求めて、それを隠しながらかじって歩くことおよそ30分。大使館は金土曜日休みで日曜日は9時半から11時の開館。そんなわけで、今日の大使館のビザセクションは、休み明けの殺到が待っていた。建物の一角に設けられたビザセクションの窓口は限りなく小さく、そして到着したときにはその窓はかたく閉じられていた。

テヘランで宿泊している宿の周りには車の部品店ばかりが並び、食堂や商店などがとても少ない。そんな中でコピー屋を見つけることもできずに、トルクメニスタンのビザ申請に必要な書類のコピーができていなかった。

すると、イラン人の男性が一人、それならコピー屋を探しに車を出しますよ、という。その男性はカウンチサーフィンを使ってオランダ人カップルに寝床を提供している。

男性の車に乗り込み、コピー屋を探しに行く。その男性は運転をしながら、ラマダンは神と近づくから良い月です、でもラマダンの時期に断食をするかどうかは個々に決めればよいことなんですよと言った。ドイツやスイスを旅行したことがあり、来年には韓国や日本にも旅行を予定している。医者というと政府は信じてくれるので、ビザの申請も比較的楽なのだそう。

こうして無事にコピーを終えて、人々の殺到する小さな窓口の向こうにいる大使館職員に、ビザ申請のためのパスポートコピーとウズベキスタンビザのコピーを差し出し入れて、申請用紙も何も求められずに書いていないので、やや不安になりながらもとりあえず申請を終える。

近くの商店でサウジアラビア製レモン味のノンアルコールビールをぐびぐびとしていると、同じようにトルクメニスタンへのビザ申請を終えたイラン人の男性が店に入ってきた。これから米国に留学をする男性で、イランには米国大使館がないので、トルクメニスタンの米国大使館に行く必要があるといい、そのためのビザを申請したのだと言った。実際に渡航するときは、ドバイ経由で向かう。

メトロに乗って宿の近くまで戻り、パンをほおばり、ジューススタンドで隠れてメロンミルクシェークを飲む。日没までジュースを作らないジュース屋や、日没までアイスクリームをつくらないスイーツ屋がほとんどだが、時折蛍光黄色の暖簾の向こうで軽食を作っていたり、道から顔をそむけてちびちびとジュースを飲む人がいるものだ。

その後もバスのチケットを予約したり、両替をしたりとテヘランの街をあちらこちら歩いたり走ったりする。黒のヒジャブに黒のマーントーがどうにも暑い。こんな恰好で走る女性をこの街で見かけることはない。

日の長い夏の日の出から日没までを飲食なしでやり過ごすというのだから、身体を壊しても仕方のない気がするが、多くのイラン人はラマダンが身体に良いことだと信じている。科学的にも証明されているんです、と言う。そして、ラマダンはつらいけれど、神に近づける良い月だと肯定的に考える人も少なくない。

こうしてラマダン中に外出をしていると、とれる食事は売店で買い求められるお菓子かジュースといったところになる。何しろ外では隠れながら食べなければならないので、さくっと食べられるものに限るのだ。

そしてへろへろと宿に帰ってくる。すると、同じ宿に宿泊している韓国人親子が近くの魚屋で買ってきた海老や辛ラーメンの素などを使ってラーメンとスープを作っていて、勧められたので、いただく。宿の中でもロビーなどで食事をするのは咎められるが、部屋の中や人目につかないテラスでは許される。明るいうちにきちんとした食事がとれるというのは、うれしい。

今日はこれからバスに乗って、カスピ海近くの町、ラシュトまで向かう。ホメイニ師やアリ・ハメネイ師の肖像画のかかる地下鉄駅を抜け、Azadi駅からBRTバスに乗り換えてバスターミナルへ向かう。

黒いヒジャブをかぶって、黒いコートを着て大きな鞄をしょっているものだから、むきむきお兄さんが荷物を担ぎましょうかと声をかけてくれた。オーストラリアのメルボルンに6年前に移り住み、オーストラリアパスポートを取得したという。イランのパスポートは使い勝手もわるいし、捨ててしまったよ、と言う。

多くの女性はヒジャブを脱ぎ捨てたいと思っている。男性も髪を派手にたてたり、短パンをかぶったり、短い丈のTシャツはだめ。恋をうたうことや書くことは禁止されている。その男性はそう言った。

薄い月が浮かんでいて、アーザーディー・タワーが赤や水色、黄色と色を変えていく。

日の入りを迎えるころ、バスターミナルの職員たちは、一斉に食べものを片手に仕事をする。もぐもぐとして、飲み物をごくごくとし、時にはもう仕事は終わりにして奥のテーブルで男性職員のお茶会が開かれている。

テヘランではラマダン中21時からたいだいの食堂が開くので、移動が続くと食事を逃してしまう。買っておいたビスケットやパンをもぐもぐと食べるだけだ。

テヘランの都会の風景は途切れることなく続いていく。