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古都エスファハーン歩き – Esfahan, Iran

朝の5時半ころにはバスがエスファハーンに到着する。タクシーに乗って宿まで向かい、朝食に紅茶や棗、それにナンにクリームチーズやはちみつ、にんじんジャムをつけてほおばる。

近くの商店で、植物の黒い種がぶつぶつと浮かんだ飲み物トフメ・シャルバティーの瓶を買い求めてラマダンらしく遠慮がちにぐびぐびする。

ジャマール・オッディーン通りをてくてくと歩いていくと、左手にエスファハーン名物のギャズの老舗ブランド、Gaz Kermaniの店舗があったので、立ち寄る。ピスタチオやアーモンドの入ったギャズをつまむ。ねっとりと甘い。地元の人々がいくつも箱買いをしていく。

更に通りを歩いていくと、右手にエスファハーンで最も高いメナ―レ・マスジェデ・アリーが高くそびえたっているのが見える。このメナーレは、礼拝の呼びかけだけに使われたのではなく、かつては砂漠を旅する隊商にとって大切な道しるべになっていたという。

バザールに入り、細い道を歩いていく。石造りのアーチに、木製の格子がかかるようすは日本を想わせ、とうとうアジアに入っていることに改めて気づく。カラフルで艶やかなドレス、スーツを着させられたファンキーキャラクター、幾層にも色を重ねたスパイス、真っ黒なチャドルの仕立て屋を眺め、Kashkという名前のしょっぱいミルクでできたボールをつまみながら、マスジェデ・ジャーメにたどり着く。

門の前では初老の男性が、炭をおこしている。このマスジェドの創建は8世紀までさかのぼり、エスファハーンで最も古い。礼拝堂は、いくつものドームが連続して天井をつくりあげ、それをつなげるようにアーチからつらなる柱が林立している。

四方にエイヴァーンが構えられている中庭を歩いていると、現在17歳の高校生で数学専攻だという男の子に話しかけられる。イランが海外のメディアでどう伝えられているのかと尋ねられる。答えを知っていながら、質問をしているふうだ。

イランでは、大学に入らない男性は高校のあとすぐに入隊し、大学に入った人々は卒業後に軍隊に入る。17歳に見えないその風貌で、大学に行くのは当然だというようすだった。断食を実行しているようで、暑さを感じて喉がかわくときは、クーラーの前に立つ、という。

男女分かれて入る聖廟には、多くの人々がコーランを手に腰をかけ、あるいは聖廟に身を寄せている。ある女性に、ようこそ、ようこそ、とペルシア語で言われて、幾度も顔をなでられる。礼拝の時間が近づいてきているようで、中庭のあちらこちらに丸められていた絨毯が、先の尖った金属で一面に広げられる。

もうすぐ日の暮れようとしているバザールは商売どころではないようで、多くの店がそのシャッターを閉めている。そこに相当なスピードのバイクが走り去っていく。バイクのひったくりが多くなっているから気をつけなさい、と声をかけられる。

すっかりしんとしたバザールを30分ほど歩いて、ゲイサリーイェ門をくぐると、縦510m、横163mの巨大なエマーム広場が目の前に突然に広がる。

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラやマスジェデ・エマーム、アーリー・ガープー宮殿が広場を囲い、いくつものアーチがライトアップして照らされている。

家族連れが草むらに座り、あちらこちらに輪をつくって、コンロやグラスのコップにティーポットなどを持ち込んで、夏のラマダンの夜を楽しんでいる。マスジェデ・エマームからは、ちょうど日没をむかえて祈りを捧げ終えた人々が、水を片手に出てくる。

月は白く夜空に浮かび、噴水が暑かった一日の火照りを冷ましていく。

夕食は、エスファハーン名物だというベルヤーニーを食べに、ハーフェズ通りの食堂へ入る。ゴマのナンに、トマトのスライスや生たまねぎ、それに羊肉を敷いて丸めて食べる。レモン汁をぽとりぽとりと垂らせば、まるでハンバーガーのようだ。

アイスクリームも有名だというので、エマーム広場に面した老舗ふうスイーツ屋で、チョコレートとバニラのアイスクリームがコーンカップに入ったものを買い求める。

エスファハーンのラマダンの夜、人々の食欲は衰えない。

そこからヒッチハイクで宿まで戻る。乗せてくれた男性は、ウォッカだってウイスキーだって飲むよ。アルコール禁止だって、ムッラー(ここではアリ・ハメネイのこと)だって、必要ないよと手をはらった。